1880年4月、国会開設の要望が高まったため、政府はそれを制限しようと 集会条例を定めた。 ・集会を開くとき、結社を作るときに届出、許可が必要。 ・届出に反する演説をしたときは、臨席の警官は中止または解散を銘ずることが出来ること。 ・学校関係者など、集会や結社に参加してはならない人の指定。 一方、国会期成同盟は第2回大会で意見がまとまらず、参会者の一部は1881年19月に 自由党を結成した。 たまたま1881年、北海道開拓使官有物払下事件が起きた。 当時は官有物の払い下げは政府がそれまで投資した額を回収しなければならなかった。 開拓使官有物は10年で2000万円投資していたが、 それを薩摩出身の黒田清隆が同郷の五代友厚らに 非常に有利で廉価な条件で売却しようとした。そのことが発覚したのだ。 このことが発覚すると、民権派が政府攻撃を始めたことと同時に、 大隈重信が政府を攻撃し。 これに対して、10月12日、伊藤博文らが大隈重信を追放し、払い下げも中止した。 これを明治十四年の政変という。 同日、国会開設の詔も発表された。その内容は、 明治23年に国会を開設すること、 それを政府に委ねること。 国会に必要な制度などは、天皇が直接制定すること(欽定憲法)である。 ・詔が発表されたことは、民権派の一応の勝利であった。 国会開設の要求が通ったからである。しかし、一方でそれは政府の政府の主導であった。 ・政府内は大隈(肥前)が追放されたことで薩長の権力が強まった。 この後長いこと薩長中心の政権が続くことになる。 ・民権派は急進派と漸進派にわかれた。 要求がとりあえず通ったことに対する評価の違いである。 政変を前後して政党ができた。 @自由党:総裁=板垣退助 フランス流自由主義思想。急進的 農民や地主、豪商が支持。(利害関係が多すぎでうまく運営できない) A立憲改進党(1882):総裁=大隈重信 イギリス流立憲主義。漸進的 王室の存在を認める 都市の知識人が支持 B立憲帝政党(1882):福地源一郎ら 国粋主義の御用政党。83年に潰れる。 また、私擬憲法も多く作られた。 福澤諭吉系の交詢社「私擬憲法案」 植木枝盛「日本国国憲桉」などが知られる。 また、武蔵五日市の農民の勉強会で作製されたいわゆる「五日市憲法」も 農村の知的水準を知らせるものとして重視される。
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