D新政府の課題 このようにして成立した新政府の目的は、 「政治、経済、文化などのあらゆる面で欧米に急速に追いつくこと」であった。すなわち、 植民地化を防ぐこと。 不平等条約を改正することが目的となった。 そのために、急速に近代化を行い、旗頭に天皇をおき、 天皇中心の中央集権国家を作る必要が出来た。 一方で、これが福澤諭吉の「脱亜論」に繋がることになる〔資料紹介〕。 脱亜論の発想は今でも強い。 さて、これに目標は成功したが、他国が同じような事をしても失敗して、植民地や半植民地に なったことからすると、なぜ成功したかという理由を求めなければならない。 これには国内的要因と国外的要因があった。 国内的要因 ・ある程度産業が発達していて、欧米の産業を受け入れる素地があったこと。 経済的な地盤だけでなく、知的な面においての水準が高かったこともある。 寺子屋など庶民に対する教育が広く行われていて、識字率が非常に高かった。 多くの国では、文字は官吏などのごく一部の層のものであったが、それとは大きく異なる。 ・民族統一の経験があった 律令時代の経験。 国外的要因 ・インド、中国の経験から武力外交政策をとらなかった。 市場を得るために、傭兵の乱、アヘン戦争を行ったが、かえって反発を呼び、 自国製品が思ったようは売れなかった。そこで、武力外交政策をとらなかった。 連合艦隊下関砲撃事件が下関だけで終わったことも同様の背景がある。 ・関心が清国に向いていたこと。 ・各国の国内事情。 東方問題、ナポレオン三世の動向とそれに対する対抗。ナポレオン三世の失脚。 1870年以降、英仏はアフリカ分割に目が向けられるようになる。 E新政府の政治の方向 1.古代天皇制の復活(神武創業之始ヲ源トシ(王政復古の大号令)) 明治初期、政府内には平田派の影響を受けた人が多く参加していた。 彼らにとっては「神国」が本来の姿であるから、その姿に純化しようとした。 そのために ・神祇官を太政官の上におく(1869) ・神道、神社制度の整備(天皇=神) 1868年閏四月、神仏分離令〔資料紹介〕 神仏の混淆を禁止する。 *本来の神道とは「祟る神」を、祟らないようにまつった。その基層文化の上に 仏教が入ってきて習合した(習合は仏教に限らない)。cf.本地垂迹説 1870年、大教宣布の詔 1871年、太政官による神社制度の整備〔図表参照〕と祝祭日、 紀元節(2月11日):日本書紀の記事から計算した上で、 「伝説上初代天皇である神武天皇が即位したとされる日」 天長節(11月3日):明治天皇誕生日 cf.明治天皇=近代化の象徴→文化の日 神仏分離の結果、信州など特に平田派の影響の強い地域を中心に廃仏毀釈が行われた。 (純粋に理想を語る思想は、革命が起きる。cf.フランス革命:ルソー) 廃仏毀釈とは、仏寺を廃止し、釈迦を捨てるという意味である。 これにより仏教寺院だけでなく、修験道などが大きな打撃を受けた。 それまでの文化の流れの中で断絶したものも多い。 一方で、仏教と神道が別のものと意識されるようになった。 古代天皇制復活のほかに 2.公議世論の尊重、 3.開国和親が上げられる(すでに授業で扱っているので、項目のみ)。 これらの内容は、公武合体派が主張していたことである。 明治維新は尊攘派が中心に行われたが、 政策は文久の改革でとられた路線を継承しているのである。 このように見ると、幕末から明治維新までの流れは 尊攘派と公武合体派の勢力争いだったと言うことも出来る。 国際環境が変わっていないから、政策の方向を変えることは出来ないのである。
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