小御所会議と公武合体派の動き 12月9日、王政復古の大号令が発表された夜、宮中で小御所会議が開かれた。 ここで、慶喜の処分が検討され、辞官・納地が決定された。 これに対して慶喜と公武合体派は反発し、京都から大坂に移り拠点とした。 そして、「政権は依然徳川にあり」と宣言していた。 ・現在のシリアもそうだが、国内に政府が複数出来る場合、 どの政府と交渉するかは他の国にとっては重要な問題になる場合がある。 この場合、公武合体側が政権能力があると宣言していることになる。
一方、江戸の会津、桑名を中心とする幕臣もこの処分に怒りを高めていた。 西郷隆盛は江戸の薩摩藩邸(三田)に浪士を集め、彼らに焼き討ちなどをさせて 旧幕府側を挑発していた。 これに対して、1867年12月25日、庄内藩士らが薩摩藩邸を焼き討ちした。 焼き討ちの場から逃れた薩摩藩士は、東海道を下り、品川、馬場付近の民家に火をつけた。 この情報を大坂で聞いた慶喜は、周囲の勧めもあり、薩摩(新政府)征討を決意した。 1月2日のことである。新政府側から見れば、この瞬間に朝敵になったといえる。 戊辰戦争 @鳥羽伏見の戦い 1868年1月3日。朝廷は慶喜を征討することに決めた。旧幕府軍は大坂から京都に向かったが、 鳥羽と伏見で薩摩軍と衝突した(鳥羽伏見の戦い)。薩摩は1月4日に「錦の御旗」を手に入れ、 士気が上がっていた。 錦の御旗とは、赤い糸で錦織りした地に、金糸で月、星、菊を刺繍した旗で、 承久の乱のときに初めて使われたという。これを持っている方が正統であり、 持っていない方が「朝敵」を意味する旗である。 (岩倉や薩摩は事前に旗を作って準備していた) 新政府側4000人、旧幕府軍15000人で、 新政府軍の方が人数ははるかに少なかったが、 兵器の違いや士気の違いによって、旧幕府軍が敗退した。 これにより、様子を見ていた近畿以西の諸藩が新政府に協力するようになった。 諸外国は、新政府と幕府のどちらも支援しない中立の姿勢を示すようになった。 (新政府を国際法上の交戦団体と認めたことになる) 敗退した旧幕府軍は大坂に戻るが、 慶喜は1月6日、密かに兵庫から船に乗り、江戸に脱出する。 新政府からすれば、徳川を倒す口実が出来たことになる。 A江戸城開場 新政府は2月に江戸への進軍を決め、有栖川宮熾仁親王を大将に東征を開始した。 東山道、東海道、北陸道の三隊に別れ東進した。 このとき、錦の御旗を掲げ「宮さん、宮さん」を歌いながら東征した。 こうして、彼らは、江戸に近づいていった。
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