1. 岩倉使節団(1871〜1873) 岩倉ほか、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら(西郷等が留守政府を構成) 目的 a.条約改正交渉(準備交渉) 日米修好通商条約第13条で1872年から条約が改正できるとあるため。 b.欧米の制度、文物の視察 改正交渉は失敗に終わったが、視察はその後の日本に大きな影響を与えた。 当時の記録 イギリス 1800年代になってから発展。現在のようになったのはたかだか40年 →日本も大急ぎで近代化できる。 フランス 政変が多いし、なかにはコミューンの様な過激なものもある。 →安定した政府を作る必要 ドイツ 英仏より学ぶ所が多い。 ドイツ(1871年統一):普仏戦争の結果。 フランスに対抗するために皇帝中心に急速な近代化が必要。 =日本に似ている →これ以降、日本はドイツの制度に従うようになる。 同時に法体系を西欧法体系に変えた。 江戸時代は武家法だったが、明治維新で律令を採用した。 しかし、それでは欧米に対抗できないことに気がついたから。 結果的に欧米並みの法が作れ、運用できると欧米に認められることに繋がり、 条約改正へと進んだ。 2. 日清修好条規(1871) 岩倉使節団が出発する前に締結。 それまで、清国との間に条約はなかった。 清国人は長崎の唐人屋敷にいたが、基本的には自由な立場であった。 だが、安政の五カ国条約以来、彼らの立場は不安定になった。 これらの条約では、開港場、居留地、開市場などがきていされたが、 清国人についてはそれがなかったからである。だから、清国人は形式上、 欧米人の会社に雇われるか、個人の家政婦の様な形で居留地に住むしかなかった。 この条約は日本初の対等条約。 相互に開港場、領事裁判権が認められる。 理由 清国を西欧式国際体制に編入し、それによって欧米に対抗し、かつ条約改正につなげる。 (ア)清国を西欧国際体制に編入 清国を中心とした東アジアの国際体制=冊封体制 中国皇帝が、各国の王を「王」として認めること(封じる)。 皇帝=天命 --------------- ↓↑ ↓↑ ↓↑(朝貢) 琉球 朝鮮 越南 王 王 王 中国は漢民族が国家を作ることが多いが、つねに異民族の脅威にさらされている。 そこで異民族から中国皇帝を守るために考え出された。 お互いの関係を作れば、脅威にさらされることはない。
各国の王も、お墨付きをもらうことになるので、 国民の信頼が得られるし、同時に安心して政権を運営することが出来る。 また、1592年の豊臣秀吉の朝鮮侵攻の時のような場合、 中国は冊封した朝鮮を支援して軍隊を送った。 朝鮮を助けることと、明を守る国がなくなってしまわないようにするためであった。 王は一年に一度、皇帝に朝貢した。その見返りに多くの品物を与えた(一種の貿易)。 中国は英仏との貿易も同じような観点で見ようとしていた。 また、日本は冊封体制の外にある(海の存在は大きい… だから西欧的な体制に簡単に転換できたとも言える)。 このような体制だから、保護国とか従属国とは違う。 冊封関係は皇帝と王の関係であって、国の関係でない。 だから、王は各国で独自の政策を行えたし、中国は内政干渉をしなかった(19世紀までは)。 保護国、従属国は内政に干渉される。(誤解している人が多いが…) また、皇帝はひとりだけである。 天に命ぜられた人が皇帝となって、天の代わりに地上を収めるからである。 冊封体制を理解しておかないと、この頃の日清、日琉、日朝の関係は理解出来ない。 さらに、現在中国政府が主張しようとしていることも、 冊封体制をイメージしていることが多いため、この関係を理解する必要は大きい。 西欧式国際関係 国と国は対等。対等な国同士が条約を通じて契約をする(キリスト教が背景)。 東アジア的な皇帝による恩恵での国の存在ではなく、一切を契約で決めていく。 キリスト教的思想が背景になっているから、 キリスト教的な場を持っていないと対等とされなかった。 (イ)欧米に対抗 当時文明国とされた欧米に対して、 日中のある東アジアもヨーロッパと対等のことが出来ると主張できる。 (ウ)条約改正に繋げる 欧米と同じことが、欧米と同じように出来れば、 国のあり方が(非キリスト教圏であっても)欧米と対等と言うことになるから、 対等な国として扱われるようになる。すなわち、不平等条約を改正することが出来る。 このようなもくろみで締結された条約が日清修好条規であった。 次回は、琉球、朝鮮と明治六年の政変、ロシア。早いクラスは西南戦争まで。
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