政局の転換 この時期は政局が大きく変わる時期であった。 (1)将軍継嗣問題 13代将軍家定には子供がいなかった。そこで早いうちに後継者を定め、幕政を 安定させようとした。しかし、後継者候補をめぐり2派閥が対立した。 ・一橋派(一橋慶喜):慶喜の識見で幕政を改めようとする =島津斉彬、松平慶永ら(幕府の独裁を嫌う) ・南紀派(徳川慶福):吉宗以来の血統を重視、家定の従兄。ただし、幼かった。 =井伊直弼 ↳井伊直弼:開国以外は超保守:血縁でなく賢愚で人を選ぶのは西洋の悪習。 幕府内では一橋派が強かった。 (2)安政の大獄 1858年4月 井伊直弼:大老就任 6月 日米修好通商条約締結 将軍の跡継ぎを徳川慶福(14代家茂)とする=一橋派を押し切る。 強引な手法:反発。特に一橋派、尊王攘夷の志士〔特に京都〕の反発 孝明天皇の怒り(違勅問題):朝廷の権威をないがしろにする →幕府への不満を水戸藩に下す(内勅)。 これに対して、井伊直弼は幕府に不満を持つ公家、大名を抑え、家臣を処刑した〔安政の大獄〕 ・徳川斉昭:謹慎、蟄居 ・松平慶永:隠居、謹慎 ・一橋慶喜:登城停止 ・吉田松陰、橋本左内:死刑 これにより井伊直弼は幕府の独裁を強化しようとした: 政治は天皇から委任されているのだから、危機に応ずることが当然と考えた。 しかし、かえって、水戸、薩摩、松下村塾の弟子の中から反幕の志士が生まれた。 …井伊直弼にはブレインがいなかったため、独裁に歯止め、ブレーキを かけることが出来なかった(ブレインの有無はどの時代でも共通のこと)。 (3)桜田門外の変 1860年3月3日(新暦3月24日) 雪の中、江戸城に登城しようと自宅を出たところで水戸藩浪士(脱藩)によって殺害。 cf.14世紀から19世紀後半は小氷期。 (井伊邸は現在の憲政記念公園の場所。門と桜田門は目と鼻の先) このころ水戸藩内では、「内勅」をめぐって返納を主張する上級武士と、 返納に反対する下級武士が対立していた。その一部の藩士が脱藩して (藩に迷惑をかけないように)事件に臨んだ。 浪士は「除奸」のつもりで井伊を斬った。倒幕のつもりはなかった。だが、本人の思うように 歴史が動くわけではない。これがきっかけに大きく政局が転換した。というのも、幕藩体制は 井伊直弼の個性によって保たれていたからで、井伊直弼に変わる人がいない以上、 そのような大勢は破綻し、崩壊に向かうことになったのだ。その結果… ・一橋派や朝廷と妥協する方向に政治が進むこととなった(公武合体) また、事件が外国に知られた。すなわち ・幕府の不安定さが広く世界に知られた。 それゆえ、各国が幕府に対する態度を決めることになった。すなわち、 a) 幕府を改革させ、自国の勢力を伸ばそうとしたフランス b) 幕府に見切りを付けて、新たに日本を支配するであろう勢力を支援して、そこで 自国の勢力を伸ばそうとしたイギリスのような国々が現れることになった。 (歴史の中でイギリスとフランスは常に対抗状態であることに注意) 次回は(4)公武合体から
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