1.いわゆる「鎖国」:キリシタンを抑えることと幕府による貿易統制策として 貿易港を平戸から長崎に絞り、出島に絞っていく。 1616 貿易港を平戸、長崎に(中国船以外) 1624 スペイン船の来航禁止。 1633 奉書船以外の日本人の渡航禁止(35年日本人の海外渡航、帰国禁止)。 (1637 島原の乱。〔島原側は壊滅状態となり、小豆島から人を移す=島原素麺〕) 1639 ポルトガル船来航禁止 1641 オランダ人を出島に移す。 平戸は東シナ海からのルートで最初に現れるところ、 長崎は湾奥が深く、天然の良港。そこを埋め立てて出島を作る(現在復元)。 イギリスは拠点がゴアだったため、遠すぎて来なくなった。結果的にオランダが残る。 結果的に「いわゆる鎖国」となった(「鎖国」はケンペル『日本誌』の翻訳(1801)で初出)。 2. 外国への窓口 (1)長崎、 a)オランダ:出島オランダ商館長はオランダ風説書を幕府に提出。漂流民も多く、幕府は海外事情をよく知っていた。 b)明清(殷周秦漢…、もしもし亀よで覚えられる。王系が変わると国号も変わる)。 最初は日本人と混住していたが、のちに唐人屋敷に移される (今も道教寺院がある、おくんち、チャンポン) (2)対馬(宗氏)。地形の関係から農業に向かない(3日間走ったが、山道とイカ釣り舟ばかり)。 九州からは200キロ近くあるが、朝鮮からは60キロほど。 直視できるし(釜山の花火大会は対馬北端で見学できる)、韓国の携帯使える。 それだけ近いから朝鮮から米を輸入した。 対馬は南北は100キロ、東西は数キロの幅で最も狭いところで50m)。 豊臣秀吉の朝鮮侵攻で関係が耐えていたが、 己酉条約で釜山に和館〔韓国側は倭館〕を作ることで交易再開。 (十干十二支について説明(だから甲子園))。 朝鮮からは将軍の交代のときに通信使(信=よしみ〔≒好〕)が来た。 オランダ、中国と異なり国交関係。 薩摩:琉球を服属させて交易。 ただし、中国との関係などから、琉球王国(尚氏)を残し両属させる。 当時、日本以外の東アジアの国々は中国皇帝のお墨付きがないと支配できなかった。 琉球は中国との間接貿易もできるし、 地理的関係から中継貿易の国(その点では米軍基地がある現在と国際条件は同じ)。 琉球からは謝恩使、慶賀使が来るので国交関係(琉球成立の歴史も触れる)。 松前藩:アイヌとの交易。海獣など。シベリア方面を通じて明清とも交易できる。
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