四民平等 学制、徴兵を行うための前提としては、身分が平等である必要がある。つまり、これらの内政改革の背後で士農工商などの身分制度が崩れていなければならななった。一方で、フランス革命を見るまでもなく、近代国家として成立させるためには、身分制を無くすのは世界的趨勢でもあった。 69年の版籍奉還により、藩主は行政官としての知藩事となる。それゆえ、藩主と藩士の主従関係は断裂した。ここから明治政府は身分制の再編成を始めた。 華族:公家、大名 士族:幕臣 (卒族:足軽以下 〜72年) 平民:農工商 70年 平民の苗字使用許可。 これは公的に使用できるようになったと言うことである。神社や寺に残されている江戸時代の寄進者名を見ると、多くのものに苗字が刻まれている。苗字そのものは明治になってから出来たと言うよりも、その前からあったが、名乗れなかっただけのことが多かった(とくに関東は)。 71年 散髪(断髪令:それまでは身分、職業によって細かく髪型=髷が決められていた)、 廃刀(このときには廃刀するかは自由であった。廃刀令は76年)、 身分を越えた通婚許可(実際は家の格などが意識され続けた〔少なくとも太平洋戦争終了前後まで)。 エタ、非人という身分を廃止し、平民とする。 72年 壬申戸籍(72年壬申年に実施、法の制定は71年) それまでの「戸籍管理」は寺院が行っていた。すなわち、寺請制が取られていて、各人はいずれかの寺の檀家とならなければならなかった。切支丹対策のためである。そこで宗門改めが行われ、人別帳に記載された。これに基づいて通行手形は発行される。個人が寺と強く結びつくことになるから、死亡した場合その寺で葬式をあげてもらう。また、寺に墓地を作るようになり、急速にいわゆる「葬式仏教化」した(寺は本来は修行の場)。 壬申戸籍によって国が戸籍管理をするようになった。壬申戸籍の特徴は ・身分別記載方式の廃止(四民平等ということ) ・住居地主義を取ったこと(住民票の役割も) ・檀那寺である寺院名、氏神 戸籍法は大きく4回(壬申戸籍、明治19年、大正3年、昭和22年)変わっているが、明治戸籍までは住居地主義。本人に関係するものは過去まで遡れるが、住居地主義の関係で壬申戸籍は閉鎖されて見ることが出来ない。江戸時代以来の差別が残っているための処置である。現在は本籍地で戸籍を管理している。本籍地は日本国内ならどこに定めてもよく、千代田区1-1(皇居)に定めている人もいる。 これによって四民平等となったが、実際は特権の無くなった武士(特に下級武士)が教員、巡査、官吏になったため、平民は官吏などになりにくかったことや、大名に家禄、士族に小禄が渡されていたために、格差は残った。したがって、明治政府としては経済的特権を無くす必要も感じていた。 秩禄処分 明治の初期政府にとって最も大きな事業は、江戸時代以来の封建的な制度であった秩禄を無くすことであった。明治初期の歳出の中で最大のものが秩禄であったことも廃止しようとした理由であった。 本来藩主と藩士の関係は、藩士が藩主に仕えることに対して、藩主が藩士に俸禄を与える関係で主従関係が成立していた。しかし、版籍奉還、廃藩置県によって両者の主従関係は終了してしまった。本来なら俸禄(秩禄)も入らなくなるはずである。 だが、それでは、貧困者が続出することになるし、明治維新の功労者にも報いる必要がある。そこで明治政府は藩主に代わって秩禄を渡し続けた。だが、収入の少ない明治政府にとって、これは大変な重荷であった。そこで、廃藩置県と共に知藩事の俸禄を10分の1に減らすなど、秩禄に対する対策を取り始めた。 73年 秩禄奉還の法 秩禄の返納を認める。その場合数年分の秩禄を一時支給する(効果はあまりない) 76年 金禄公債詔書発行(条例) 秩禄、家禄の廃止。 公債として5年から14年分の金額を記載した証書を渡し、 5年据え置き(その間に財源を確保し)、30年償還とした(1906年終了)。 これにより、武士の特権は完全に無くなった。これ以降平民と士族の差は完全になくなった。士族と言っても、名前だけ、過去の名誉という扱いになった(士族という名称まで無くしてしまったら、収まりが付かなくなる)。一方で華族は特権階級として第二次世界大戦が終了するまで特別な扱いをされるようになる。 生活のため、商売を始めた士族もいたが、うまく行かないことが多かった。これを「士族の商法」という。また、政府も士族授産を行った。静岡の茶もその一つだし、北海道の開拓なども行った。また、藩士、幕臣の多くが帰郷した東京都心では空き地が広がり、桑畑が作られたりもした。だが、このような士族授産政策も概してうまくは行かなかった。 このようにして、特権を廃止した後、すべての国民から平等に徴税する制度を整えることとなった。そのために地租改正が行われることになる。
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