Dパルメニデス(ca.BC540〜?) 「あるものはある。ないものはない」…禅問答ではない。 準備:He is a student. is(Be)は「存在する」の意味。 上記の文章は、本来「彼は一人の生徒として『存在する』」という意味である。 『存在する』=「〜である」である。 では、「Be(〜である)」とは何なのか。 たとえば、彼は「生徒である」。「詩人である」という状況を考える。 これは、時間が経てば状況が変わる。生徒は、予備校生、学生、院生、会社員など変わっていく。このような変化するものを対象としても、真実は追究できない。 感覚によって捉えられる運動や事象は「変化する」から、追究の対象とはならない。感覚を越えた「見えない世界」に真実はある。したがって、真実の追究、真実「それ自体」は永遠不変のものでなければならない。 では、変わらない「存在」とは?
@男である 女である(対称となるものがある) | A 人である 犬物である(同様) | B 動物である 植物である(同様) | C 生物である 無である(生物で無いものは、そもそも存在しないもの)
結局「である(Be)」のみが残る。その「Be(ドイツ語でSein(ザイン)そのもの」を追究する必要がある。存在しないものはそもそも存在しないのであって、追究することはできない。ピュタゴラスは見えない世界にあるものを「数の関係」であるとしたが、「数そのもの」についてまでは扱っていない。 このような考え方、見えない所に真実を追究するとらえ方は、後のプラトンの「イデア、中世の「神」、近世以降の「理性」の追究に繋がるものである。また、学問として真理を追究するかの態度を示すものとして重要である。 Eヘラクレイトス(ca.BC540〜ca.BC475)…「暗き人」 「万物は流転する(バンタ・レイ)」 川の流れはどんどん変わっていく。しかし流れの様子は一定していて変わらないように見える。日本でも鴨長明の方丈記が「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の見ずにあらず」というように川の流れが変わっていくことを扱っているものは多い。ただし、これとヘラクレイトスの言うことは違う。方丈記は仏教の影響を受けていて「無常観」を扱うのに対して、ヘラクレイトスは一定の流れを作り出すもの、「背後に存在する真理」を扱っている。 Fエンペドクレス(ca.BC490〜BC430)…社会事業。神になるといってエトナ山火口に飛び込む。 「万物は土、水、風、火の4元素の結合、分離からなり、それらを離合させるものは愛、憎である」。 アルケーを一つに求める必要はないこと。これを多元説という。一元説か多元説かもつねに対立する事項である。 Gデモクリトス(ca.BC460〜BC370)…笑う人 「万物は原子である」 ものは分けていくとそれ以上分けることが出来ないもの(atomon(atom) a:否定、tomon:分離)である原子になる。その原子が結合して事物は出来上がる。この考えは16,17世紀に再評価され、現在の理系の基礎となる。 まとめ このように、自然哲学者がアルケーを追究した態度を「テオリア(Theoria:観想≒洞察)」という。本来の意味は、演劇の背後にある主題を洞察することである。演劇にしても、ドラマにしても、様々なエピソードから出来ている。しかし、その背後には結論に向かって様々な伏線が張り巡らされていて、それらを統合する軸がある。そこを洞察することがこの意味である。 自然哲学においては、千変万化する自然現象の背後にある不変のものを追究する態度がテオリアということになる。そのテオリアをまとめて体系化したものが「Theory(理論)」である。 ギリシア人は実際の生活とは関係ないところで、知ること「そのもの」を楽しむ傾向が強かった。知ることを愛した、すなわちそれがPhilen=Sophiaあのである。
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