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2014年5月30日 |
日本史授業 20140530 尊王攘夷運動と八月十八日の政変 |
F尊王攘夷運動 1862年7月に始まった文久の改革は、島津、慶喜の思想面の違いと、 京都の事情でうまく行かなかった。 攘夷派が集まっていた京都では、京都警備役の島津久光が京都を去り、 1862年後半、譲位派、特に長州の力が強くなった。 長州藩では松下村塾出身者が政権を握り、攘夷が藩是となった。 また、土佐でも土佐勤王党が力を持つ。 そして、長州藩主毛利敬親、土佐前藩主山内豊信が上洛した。 これによって、京都の主導権は攘夷派が握ることになった。 彼らは「天誅」を合い言葉に京都に集まってきた。 一方、幕府側は、これに対抗して 京都守護職会津松平容保傘下の近藤勇(調布近郊の生まれ)に新選組を作らせて、 京都を警護させる (好きな人は、ずっと語っていてもらいたいだろうなと思いつつ、さらっと流す)。 このような状況を背景に孝明天皇は、攘夷の命令を下しに、急進的攘夷派の公家、 三条実美を江戸に派遣する。 さて、三条実美の江戸訪問を受けて、1863年3月家茂は京都に上がる。 天皇は和宮の兄であるとともに、攘夷を約した相手だった。 家茂は3000の兵を連れて二条城に入った。 将軍に指導力があることを示し、朝廷を牽制するためであった。 ちなみに、将軍が京都に行くのは家光以来、229年ぶりのことであった。 しかし、家茂は天皇の意向を抑えることが出来ず、 5月10日攘夷決行を約束してしまった。 これを受けて1863年5月10日、長州は下関で英仏蘭の船を攻撃した。 G八月十八日の政変 このように攘夷派の力が強くなったことを良く思わなかった会津、薩摩などと 公武合体派の公家は、8月18日、攘夷派を抑えるためにクーデターを行った。 すでに攘夷派と結んで親政をめざした孝明天皇は 藤原家の神社、春日大社と神武天皇陵を参拝しており、 親政後には天照大神を祀った伊勢神宮に参拝する予定まで立てていた。 しかし、公武合体派に宮中を抑えられ、 長州藩士や三条実美ら七卿は変化記できずに都落ちをした(七卿落ち)。 京都は公武合体派が実権を握った。 孝明天皇も「自分の意思は8月18日以降の動きである」と宣言した。 攘夷派はハシゴを外されてしまった。 そして、長州は再起をかけて新たな動きを起こすこととなる。 そのきっかけは64年6月の池田屋事件であった。 再び京に参集し始めた長州藩士は池田屋に集まってクーデターについて 相談していた。大風に乗じて京都に火をつけ、そのすきに孝明天皇を 長州に連れ出すと言うことであった。しかし、藩士の一人が新選組につかまり、 ばれてしまった。その結果、会津、桑名などの兵が囲む中、池田屋が襲撃され、 死者6人などの惨事になって仕舞った。 これを受けて、長州は三条実美らの名誉回復を求めて1500の兵で京都に向かった。 しかし、7月、皇居近くで薩摩、会津、桑名と戦い敗退した。 これを蛤御門の変、禁門の変という。このとき砲弾一発が宮中に落ち、 それによって後の明治天皇が失神したという逸話が残っている。 長州はこの戦いで負け、朝敵とされてしまった。 というのも、 孝明天皇が(本心とは別として)公武合体派を支持していたのであって、 長州はそういう天皇の立場に反して、天皇のいる皇居を襲撃したからである。 |
Posted by hajimet at 21:50
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