地租改正 新政府は財政基盤が脆弱であった。 旧幕領(新政府)=年貢による貢納⇒財政基盤が弱い 旧藩=江戸時代以来の税制:廃藩で廃止 旧幕領の範囲が限られていて税をとれる範囲が限られていることと、年貢は豊凶によって収量が変化するので安定した財源とはなり得ない。そこで、新政府は商人から借金をして財政を支えていた。 新政府は安定した財政を行う為に、歳入を安定化させることが急務となった。そのために、全国一元化と金納に制度を変えることとした。 1871年 田畑の勝手作を許可。 江戸時代は年貢を取るために、田畑では穀物を作ることが基本であった。しかし、それ以外に、タバコ、桑、綿などを作る農家が増えた。商業作物で収入になるからである。これに対して、幕府は勝手作を禁止していた(実際は守られなかった)。それが自由化されたのである。これにより、税金を金納できる準備をした。 1872年 田畑永代売買禁止を解除(近代的土地所有権の導入) 土地を商品として売買できるようになった。売買した土地については地券を発行した。 近代の私法の特徴は、土地などを財産価値のあるものとして捉えるところにある。土地を売買するということも、土地の財産価値を元にしながら売買することになる。そのために、土地の所有者、土地の面積、土地の種類、土地の価値(地価)などを確定する必要がある。現在、土地を持っている人は権利証を持っている場合が多いが、公的な書類は、法務局で不動産登記を行う、不動産登記である。それまでの「先祖代々の土地」の観念に対して、近代的土地所有権を導入したことは、大きな価値観の転換を示すことになる。 1873年7月 地租改正条例(資料を読む) ・収穫高⇒地価 ・税率 100分の3 物納⇒金納(歳入の安定化、豊凶による歳入差はない) ・耕作者⇒地券所有者 地租改正のための調査が終わり次第、地権を発行して「地租」に切り替える(〜81年)。 地租=土地の収穫高−必要経費(種籾代、肥料代外)=収益。収益を元に算定。 基本的には年貢時代と変わらないように計算されたが、 実際は年貢時代よりも多額の税金を納めなければならない事例があった。 結果 政府=豊凶にかかわらず安定した収入=財政の安定 地主に利益⇒寄生地主制の進展 ※地主と小作人の関係は、地租改正によっても変化がなかった。小作人が地主に 米などを納めて(多くの所で収穫の4割=6割)、地主はそれを換金して生活した。 地租が一定だから、収量が増えれば、その分だけ地主の利益となる。それゆえ 地主は小作人の小作料に寄生して生活できるようになった。このような地主を 寄生地主という。 入会地(村などの共同管理地、草刈り場、茅場など)⇒所有者が確定できない場合、 国有地化された。そのため、農民が入会地に入れなくなり、肥料がえられなくなったりもした。 農民に不満。地租改正一揆が頻発。cf. 伊勢一揆 政府:1877年に税率を2.5%に下げて対応。
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