ペリーは琉球へと去ったが、ペリーがいるときは江戸は混乱状態であった。 4隻で来た黒船が品川では10隻に増え、江戸には90隻で来たと伝わってきた。 江戸周り航路が停まったため、江戸に米が入らなくなった。 「泰平の眠り覚ます上喜船 たった四杯で夜も眠れず」 「アメリカの米よりくはぬ国なれど 日本人は粟をふくなり」 6)ロシア ペリーが一度去った後、1953年7月、ロシアのプチャーチンが長崎に来航した。 要求事項:国交、国境線の画定 1953年はクリミア戦争(ロシア×イギリス)が始まった年。本来はそちらに集中する時期であるが、米国がイギリスの潜在的友好国であるため、英国を牽制するために条約締結を要求した。イギリス船もロシア船を追いかけ長崎に来るが、英国は日本との通商、国交にそれほど関心が無かった。 7)日米和親条約(神奈川条約):1854年3月3日 条約文を読む→解説→板書の順で ・国交 ・捕鯨船の難破船の救助、保護 ・米清航路の薪炭食糧補給のための寄港 ・(そのために)下田、箱館開港。領事派遣、自由移動地域(27里:1里≒4Km、1町は≒400m) ・片面的(片務的)最恵国待遇(条文に則して内容を説明) ※通商については日米和親条約では扱われていない。 米国側は箱館、神奈川、浦賀、鹿児島の開口を求めたが、神奈川、浦賀については下田を、江戸湾の入り口にある良好として紹介して、そちらにした。函館はアメリカ側からの要求。 領事(大使、公使との違いは説明済み)の来日については、日米で条文の解釈に違いがあって、のちに問題となる。 8)他の国とも同様の和親条約。 オランダ(54)、ロシア(54)、イギリス(55) ロシア:ウルップ島以南を日本領(北方領土問題の日本側の根拠)。樺太は共同管理。 イギリスは日本に対する関心が弱いため1年遅れた。 9)幕府の対応 老中の阿部正弘(秀才、温厚、人望あり)は「鎖国は祖法」を転換すると言うことでなく、日本の一大事と考えた。そのために日本中まきこんで、危機意識を煽ろうとした。そのため ・朝廷に事態を報告=朝廷は形式的に将軍に征夷大将軍の位を与える立場であるが、 それ以上のことはしなかった。京都で勉強に励む人という程度の位置づけであった。 ・大名から足軽、町人に至るまでペリーにどう対応するか意見を募集 これまでに無かったこと、 しかし、結果として朝廷の権威が上がり、大名に幕府に対する発言の機会を与えることになり、阿部正弘の思惑とは異なる方向に行くことになった。さらに ・安政の改革 徳川斉昭(元水戸藩主)幕政に△ 松平慶永(越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)と協力 いずれも譲位派。攘夷派を幕政に組み込むことで攘夷論を抑えることと、 急進的改革派を抑えようとした。 国防強化 台場、大船建造の禁を解く。講武所(江戸)、海軍伝習所(長崎:勝海舟、榎本武揚) 開国とその影 1)ハリス 1856年7月 ハリス下田に来る。日本側は双方の交渉の上来ると考えていたので、驚く(条文の解釈の違い)。ハリスは通商を要求するために大統領の親書を携えて将軍に謁見(1857年10月)。 これに老中堀田正睦は条約調印の勅許を求めて京都に行った。攘夷派から勅許がなければ条約締結は認められないと言われたためで、勅許は降りないだろうと考えていた。というのも孝明天皇をはじめとして公家は開国に反対の雰囲気が強かったから。案の定、勅許は得られなかった。1858年4月、井伊直弼が大老に就任すると、勅許なしに日米修好通商条約に調印した。この勅許なしに行ったことは、この後しばらくの間、大きな問題となる。 (条約を読みながら板書) 神奈川、長崎、新潟、兵庫を開港 (神奈川は実際は少し離れた横浜(今の桜木町付近)。防衛のため。兵庫も似た条件。新潟は信濃川の河口で、上流からの砂と、季節風の砂で浅くなりやすい海)。 開港場に居留地:事実上租界(日本の警察権は及ばない) 江戸、大坂の開市、そのための居留地(逗留地:警察権は及ぶ) …次回再び日米修好通商条約から。
|