« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2014年11月20日
日本史授業 20141117 日露戦争後の影響、韓国併合と南満州問題(1)

(1)日露戦争後の影響

a.国際情勢の変化
日露戦争でロシアが敗北したことで、極東におけるイギリスの敵はいなくなった。
これによって国際関係は変わった。すでにアフリカにおける衝突を回避するために、
英仏は1904年に英仏協商を締結した。また、極東進出が挫折したロシアは、
もはやイギリスの敵ではなかった。むしろ、近東に進出するドイツを英露で牽制する必要
出てきた(3B政策と3C政策)。そのため1907年英露協商が締結され、さらに日本とフランスも
1907年日仏協商を締結した。これによって、イギリス側とドイツ側が対立する第一次世界大戦
の枠組みが出来上がった

b.極東における非ヨーロッパ人の勝利
日露戦争は近代史上初めて非白人が白人に勝利した戦争であった。このことがアジアの民族
運動に刺激を与えた。トルコ、インド、フィンランド(アジア系民族、フィンランディア)、中国など。

c.植民地獲得
日本が植民地を獲得して、本格的に帝国主義の道を取り始めた。すなわち勢力拡大を図った。
その方向は満州と台湾以南の地域である。しかし、フィリピンは米国が植民地としていたし、
満州はアメリカの門戸開放の目的地である。そのため日米が対立することとなり、
太平洋戦争へと繋がった。

(2)韓国併合


a.日露戦争中
韓国は日露戦争の始まる直前の1904年1月21日に局外中立を宣言した。しかし、すでに部
隊を駐屯させている日本はこれをみとめず、日露戦争開始後の2月に日韓議定書を締結した。
これは日韓の軍事同盟であって、日本側が戦争遂行に必要な施設を韓国から接収できる
というものであった。これによって、韓ロ間の条約は廃止された。この条約によって、日本は
韓国の通信網と航海権を接収し、軍事輸送用に京釜線、京義線を敷設した。
 
さらに7月に第1次日韓協約。これにより顧問政治が行われ、財政、外交に顧問が就くように
なった。外交顧問が外国人だが、日本政府が推薦するため日本の利益に適った人が就任する
ことになる。また、財務は国の運営に関わる費用を出す部門だから、純粋に財務だけでなく
関係するかなり広い範囲まで財務顧問が助言することとなった。なお、竹島の領有宣言は
1905年2月である。ロシアが島を測量したことも背景にあり(測量は軍事目的、当時の日本は
陸軍陸地測量部が測量していた)、日露戦争の帰趨がはっきりした時期でもあった。

b.日露戦争後
ポーツマス条約の会談を行っている最中の1905年7月29日、桂タフト協定(秘密協定)が
締結される。日露戦争後日本がフィリピンに進出することを恐れていたアメリカと、勢力圏を
調整したものであった。その内容は、日本が米国のフィリピン領有を認めるとともに、米国は日本の韓国に対する優越権を認めるというものであった。続く8月12日に第二次日英同盟
締結。第一次日英同盟はロシアに対抗するものであるから、ロシアが敗北すれば最早存在
意味を失う。そのために新たな内容とした。それは、日本がインド防衛を肩代わりする
代わりにイギリスは日本の韓国における特殊利益を認めるというものであった。
さらに9月5日にポーツマス条約。これによって、清国、ロシア、英国、米国の勢力が韓国から
排除された

これを受けて1905年11月 第2次日韓協約。この条約は、日韓併合時代についてどのような
立場から論ずるにしても、避けて通ることの出来ない条約である。条約締結時の伊藤博文の
行動や皇帝の印がないことをどのように評価するのか。日本側は国際法を遵守しているし、
印の不要な形式の条約だとする一方、現在の韓国側は国際法違反で、印がないため無効と
している。もし無効なら、その後の植民地支配は違法と言うことになるから、この条約を
どのように見るかは非常に重要な意味を持つことになる。
 
この条約によって韓国は外交権を喪失して、日本の外務省が韓国の外交を行うこととなった。
また天皇直属の統監を京城(ソウルの日本側の呼称。韓国側は漢城、皇城と呼んでいた)に
置き、韓国の政治を援助することとなった。このように外交権を失った国のことを(国際法上)
保護国」という。「保護国」はこの時期だけ存在した国家形態で、いきなり植民地支配を
するのは適切でないという風潮が出てきたために考え出された形態である。
フランスがチュニジアを保護国にしたのが、保護国の最初である。

Posted by hajimet at 21:50 | Comments (0)

Comments


Post a comment