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2014年9月6日
日本史 初期外交(2) 琉球、朝鮮、北方、小笠原 20140905

3.琉球
琉球は尚巴志が三山を統一して以来、明清の冊封下に入っていた。
一方、17世紀(1609)、薩摩藩が琉球王国を平定して以来、薩摩にも属する両属状態であった。
冊封体制は両属は珍しいことではない。これによって、自国を安定させるからである。
 
明治維新に入り近代国家の体裁をとることになった日本は、領域確定も必要となった。
そこで1872年留守政府は、沖縄に琉球藩を設置し、国王尚泰を琉球藩王とした。
外交権も外務省が接収した。
 
これに清国は反発したが、1874年、日本は1871年におきた
台湾高山族による琉球漂流殺害事件を口実に台湾に出兵した。
 
清国は、琉球は日本のものではないが、
台湾原住民は中国の法の適用外であるとしたからである。
これにより、台湾を無主の地と言うことになり、「琉球の民の保護」という名目で出兵した。
この出兵は、英米が反対し、その意を受けた日本政府も取りやめる方向で考えていた。
しかし、西郷従道が強硬に出兵したものである。
 
出兵の結果、イギリスの仲介により日清で和議が行われた。
清国は日本軍出兵の正当性を認め、日本側に賠償金を払った。
これには、清国が沖縄が日本に属することを事実上認めたことを意味する。
 
1879年、沖縄県が設置されたが、旧習を温存したため、沖縄の近代化は遅れた。
 
なお、琉球は冊封体制下で明、清国が尚氏支配に対して認めた国号である。
したがって、尚氏が統治しなくなった以上は、この名称は使えないことになる。
 
4.朝鮮
朝鮮は江戸時代、対馬藩宗氏と釜山の倭館(和館)を通じて朝鮮と交易していた。
また、通信使が朝鮮から来る国交のある国でもあった。
 
明治政府になり、朝鮮側と国交関係の樹立を図ろうとしたが、朝鮮側が拒否をした。
理由は大きく2つである。
 
 (ア)外務省が交渉に来たこと。
朝鮮は対馬との交易をしていた。形式上朝鮮側は宗氏を朝鮮官吏として封じていた。
(宗氏が受け入れたかは別の話)。冊封下の貿易は基本的に中国との間だけだからである。
形式上日朝両属状態の宗氏を通じて、交易をしたのである。
外務省都の交渉ではこの前提が崩れる。
 
 (イ)天皇の文字が入っていること。
朝鮮にとっては、こちらの方が大問題であった。
朝鮮は明、清国皇帝から冊封されているのであって、
「皇」の字が使えるのは中国皇帝に対してだけであった(諱についても話す)。
 
もし、この称号を認めてしまうと、二人の皇帝から封じられているということになり、
朝鮮側としては飲むことが出来ない。
 
このような事情から拒んでいたのであるが、日本側は開国を望んでいた。
1973年、留守政府は西郷隆盛、板垣退助等を中心に征韓論が高まり、
8月、西郷隆盛が自ら大使として朝鮮に行き、条約を締結しなければ軍事力を使うと
圧力をかけようとした。このような動きを岩倉使節団が知ると、
彼らは9月に急遽帰国した。
本来留守政府は、国政の大きな変更は出来ないことになっていたからである。
同時にこのままでは留守政府に権力を奪われてしまうことになる。
 
使節団側と留守政府はいわゆる征韓論争を行った。
そして、10月、朝鮮行きを無期延期する勅令を得た。
国力充実、内治優先であるべきて、「征韓」は時期尚早だというのである。
 
征韓論争に敗れた西郷、板垣、後藤象二郎、江藤新平等は下野をした。
かれらは、その後、政府に対抗する立場で行動するようになる(明治六年の政変)。
一方、政府は大久保利通が実権を握るようになった。
これによって、明治維新以来の政策の流れがある程度安定するようになった。
 
だが、征韓が時期尚早(権力闘争の面も大きかったが)と言っても、
現実に朝鮮を開国させる必要は大きかった。
それゆえ、74年、75年に雲揚号が朝鮮沖で示威を行った。
75年の時は、そのまま仁川沖まで行き、現在仁川空港となってい永宗島付近で
挑発して朝鮮側に攻撃させるよう仕向けた。その攻撃をきっかけに江華島を占領した。
(今でも、痕跡は残っている)
 
江華島はソウル(漢城)を流れる漢江(ハンガン)の河口にある島で、
ソウル防衛のために重要な島である。本土とは800mほどの海峡で隔てられているが、
海流が早いため、防禦に優れている。
 
また、江華島から臨津江を遡れば、北朝鮮方面。漢江上流は峠を隔てて洛東江に通じるから、
韓国南部を押さえることが出来る。さらにソウルから元山まで構造谷が続いているため、
朝鮮半島北部も押さえることが出来る。
ソウルだけでなく、朝鮮半島全体の防禦に関わる島である。
 
ここの占領をきっかけにして、1876年1月、日朝修好条規(江華条約)が締結された。
その第一条は「朝鮮は自主の邦」「日本と同等」と書かれている。日本側からすれば、
冊封関係で清の下にある朝鮮(あえて冊封体制を西洋法体系で理解しようとしている)を
対等にすることで、清との関係を切ることを意図していた
 
さらに、開港場を2カ所決め(釜山、元山)、自由貿易とした。
当時の朝鮮の経済は殆ど発展しなかったから、日本に一方的に有利であった、
欧米から購入した製品を朝鮮に売る「中継ぎ貿易」を企図したのである。
 
そのために、日本側の領事裁判権が認められ、関税自主権が認められないという、
日米修好通商条約の日本版(不平等条約)であった。
 
一方、朝鮮側の理解は異なる。
まずは、従来の修好関係を回復しただけである。
冊封下と言っても内政不干渉であったのだから、元々自主の邦であるからである。
 
ただ、条約を結べるようになった政治的背景があった。
70年代前半までは高宗の父親、大院君(李昰応)が実権を握っていた。
高宗が幼くして王になったからである。
大院君とは、国王の経験のない、国王の父親という意味である。
 
欧米の侵攻に対して大院君は鎖国で対処しようとした。
明治維新は、ちょうど鎖国政策を強化した時期に当たる。
しかし、高宗も大きくなり、大院君から実権を奪い、開化政策をとるようになった
日朝修好条規は、まさにそのようなときに締結されたのであった。
 
5.北方
日露和親条約で北方の国境は、国後島以南の千島ときめ樺太は共有状態であった。
しかし、北海道開拓に重点を置いていた政府にとっては樺太にまで力が及ばなかった。
そこで、1875年樺太、千島交換条約を結び、樺太はロシアに、占守島以南の北千島は
日本が領有することにした。これにより、北方の領土が確定した。
 
6.小笠原
島の帰属は、発見、先占、継続、実効支配の要件で成り立つ。
小笠原は16世紀信濃深志城主小笠原貞頼によって発見されたとされる(伝承)。
幕府は小笠原を開発しようとしたが断念した。
 
その後、
1823年、米国船が母島に立ち寄り、コッフィン島と名付ける。
1827年、イギリス船が父島により領有宣言。
1853年、米国が父島に貯炭場を作ろうとして、英米間に領有問題が発生。
1861年、幕府が領有宣言
1876年、各国に領有を通達。米英の反対がなかったため日本のものとして確定
1880年、内務省所管から東京府に移管された。
 

Posted by hajimet at 20:06 | Comments (0)

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