4)アメリカ。 アメリカは領土的野心がなかった。 アメリカは日本に米清貿易の寄港地、捕鯨遭難者の救済と寄港地を求めた これは日本にとって幸運だった。このようなアメリカが最初に開国させたから、他の国もそれを基準として条約を結ぶことになったからである。 当時のアメリカは捕鯨大国で年間1万トンの鯨を捕っていた。油を取ることが目的であって、それ以外を利用しようとしなかった。クジラを大西洋で取り尽くしたため、太平洋側で陵をするようになったが、漁場は日本近海であった。そのために遭難者の救助や、薪炭供給が必要だった。 一方アメリカのフロンティアは19世紀半ばに太平洋岸に達した(これが太平洋上を進み続け、太平洋戦争に繋がる)。1848年にはゴールドラッシュが始まったこともある。そうなれば、喜望峰まわりで中国に行くよりも、太平洋を横断する方が早い。これらが重なった。 1846年、東インド艦隊司令官のビットルが浦賀に来る。しかし、「アメリカ的フランクさ」で接しようとしたので、日本側に受け入れられなかった。 5)ペリー来航 次いで、1853年旧6月、ペリーの率いる黒船が来航した。1年以上かけて来た。朝の浦賀では、霧の中、突然大きな船影が現れた。余りの大きさに大島が動いたと思った漁民がいたほど。船の名前はサスケハナ号。川の名前と原住民の部族名から付けられた。 木造船で黒く塗られていた。動力は3本の帆と蒸気水車。全長78.3m、幅13.7m、喫水6.25m、最大速度10ノット。対する千石船は1本の帆、甲板無し。全長29m、幅7.5m、深さ2.4m、速度7ノット前後。黒船の方が、縦横ともに千石船の2倍以上。当時、世界でも最大級の軍艦だった。 ペリーは日本のことを、シーボルト『日本』、ゴローニン『日本幽囚記』通じて勉強していた(勉強せずにきたビットルは違う)。その結果、日本人は、仕事をよくし、仕事が早く、世界有数の教育国で、細かい手工芸や細工が得意(だから日本人の手は細いという誤解)と認識していた。 このような評価をしたペリーは、開国させるためには虚礼を守るか、高飛車になるかしかないと考え、結果的に後者を選択した。 でもなぜアメリカが開国に動けたのか。ロシアでも、イギリスでも、フランスでもない。
ヨーロッパではフランス二月革命の混乱が続いていた。また、ロシアのクリミア半島進出に対して、イギリスと対立した「東方問題」が起きていた。そのため、アジアに力を注ぐ余地がなかった。だからアメリカが最初に開国させることが出来た(その後、アメリカも南北戦争が起きる)。 アメリカ大統領の天皇宛の親書では(以下史料を読み解く)(1)捕鯨難民の救助、(2)貿易船の薪炭提供、(3)自由貿易を要求していた。この要求を老中阿部正弘は一年後の回答を条件に受け取った。国内の調整が必要だったから。各藩の利害関係の調整も必要であるし、天皇との関係も潜在的に調整が必要となるからである。(次回は阿部正弘の動きと日米和親条約)
|