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2014年6月7日
日本史 20140605(1) 倒幕への動き
倒幕への動き
このようにイギリスと薩摩、フランスと幕府という接近構造が出来た段階で
新たな動きが長州で出てきた。

長州は第1次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件に敗北したことで、
攘夷が不可能だと言うことを悟っていた。一方、幕府は長州に対して、
貿易を禁じる処置を執った。

長州藩は保守派が権力を握り、幕府に恭順の意を示していた。
これに反発して高杉晋作は北九州に亡命して、桂小五郎と奇兵隊を組織した。

高杉晋作は松下村塾四天王と呼ばれた人物である。
松下村塾は長州の私塾で、吉田松陰が教鞭をとったこともある。
攘夷派や明治初期に活躍することを多く排出したことで知られる。

高杉は幕府の派遣で上海に行ったことがある。この頃の上海は太平天国の乱の
混乱と、英仏人が「我が物顔」に闊歩している時代だった。それを見た高杉は、
将来の日本も同じことになると「危機感」を感じていた。奇兵隊を作ったのも、
このような危機感が背景にある。

奇兵隊は64年12月馬関で挙兵し、長州の実権を握った。
この時、伊藤博文も一緒に活動している。

長州は急進派の支配するところとなった。
開国は避けられず、皇国を作ろうというもので、
そのために、藩政改革、身分制度廃止、西洋式軍隊の導入などが図られ、
イギリスに接近した。

だが、この時点ではまだ貿易が認められていない。
しかし、武器を入手する必要がある。

ところで、このとき薩摩はイギリスと接近して近代化の道を歩んでいた。
ただ、幕府を支える立場で、長州とは敵対していた。
しかし、イギリスと結んでいること、開国の必要性を感じていることなど、
幕府よりは、むしろ長州との理解関係の方が共通点が多かった。

そこで、土佐の仲介で両者が同盟を結ぶこととなった。薩長同盟である。
66年1月、薩摩から西郷、大久保。長州から木戸孝允、高杉が出席し、
それを土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介した。

その結果、幕府が長州を攻撃しても、薩摩は長州を支援すること
武器は薩摩の名義で購入し、長州に回すことを決めた。

もちろん、公式には薩摩は幕府側であるから、密約である。

武器は「死の商人」グラバーの活躍が大きかった。
 cf.1 グラバー園、蝶々夫人
 cf.2 薩摩の兵制改革:吹奏楽、最初の君が代。

ところで、幕府は第一次長州征討の結果として、長州の領地割譲を要求した。
しかし、長州はその要求に従わなかった。

そこで、66年6月、第二次長州征討を指示した。
しかし、薩摩はじめ諸藩の不服従で幕府は劣勢に陥った。
結局66年7月、大坂に滞在していた家茂の死去を奇貨として、服喪、休戦となった。

幕府の敗因は旧式兵備と寄せ集めと言うことにあった。
長州は新式欧米的兵備と早い時期からの訓練、郷土愛による士気の高さがあった。
Posted by hajimet at 10:05 | Comments (0)

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