Bお蔭参り 幕末の社会のエネルギーは、世直し一揆をお蔭参りに変えた。 もともと、旅行が自由に出来なかった江戸時代、 「寺社参り」と「抜け参り」は大目に見られていた。江戸庶民の一大娯楽であった。 彼らをガイドする本も出され、十返舎一九『東海道中膝栗毛』は代表的なものである。
cf.五右衛門風呂、弥次喜多道中。
87年、突然伊勢神宮のお札が降り、それがきっかけに一斉に人びとが踊り狂った。 「ええじゃないか、よいじゃないか…」 cf.外宮、内宮。 この狂乱状態は江戸から安芸国まで太平洋側に広がった。 背景は、社会不安と民衆エネルギーの合わさったもので、 末世の後の理想郷の出現を願ったもの。
五穀豊穣と幸福を願う→伊勢信仰 弥勒の下生を願う。
・倒幕 さて、66年7月家茂が死亡し、慶喜が十五代将軍となる。 一方、66年12月25日に孝明天皇が急死する。 討幕派による毒殺説も出るほどの急な死に方であった。
孝明天皇は親政、倒幕を希望していたが、 実際はそれまでの皇室の伝統を守ることと、和宮が江戸にいることで、 急激な革命には消極的であった。それゆえ、公武合体派が利用しやすかった。
孝明天皇の死去で、公武合体派は凋落してしまった。
新しい将軍に就任した徳川慶喜は幕権の伸張を図ろうとした。 フランスの後ろ盾を考えていた。だが、フランスはナポレオン三世後期に入り、 積極的な対外進出が困難な状況になっていた。 しかも、まもなくロッシュも帰任する。
一方、1867年1月1日即位した明治天皇は、 追放された公卿らを赦免した。彼らは京都に戻ったが、ここに岩倉具視や 討幕派の公家が参集した。
これに影響を受けた薩摩と長州は、薩長同盟を薩長攻守同盟に切り替えた。 西郷、大久保、岩倉らは明治天皇に武力による倒幕を上奏した。 1867年10月14日、ついに討幕の密勅が出された(原文読む)。 だが、これはうまく行かなかった。
というのも、同日、幕府側も「大政奉還」を申し入れたからである。 そのバックは、公武合体派であった土佐であった。 すでに坂本竜馬、後藤象二郎は「船中八策(資料を読む)」で、 五カ条のご誓文の原形に当たる案を発表していた。 この中には「万機宜シク公議ニ決スベキ事」という言葉がある。 これを受けて、藩主山内容堂は慶喜に大政奉還を建白していた。
これで行くときは、政治は朝廷の戻すが、万機議会で扱うことになり、 慶喜も政界に残ることが出来ると判断したからである。 そして、事前に情報の入っていた宮中の動きに合わせて、 10月14日に大政奉還を申し入れた(原文読む)。
ここにも「従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ」として、 「同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ…」として公武合体で行くことを申し出た。
これによって薩摩、長州は名目がなくなってしまったが、彼らは幕府を無くすことでなく、 幕府の権力一切を無くすことを考えた。そこで、幕府側を挑発することとした。
1867年12月9日(新暦1868年1月3日)、王政復古の大号令が出された(原文読む)。 薩摩、土佐、芸州、尾張、備前によるクーデターであった。 これにより実権は岩倉具視が握った。 その内容は、慶喜の大政返上と将軍辞退と認め、「至当之公議ヲ竭シ」とした。 すなわち、それまで公武合体派が主張した内容が、討幕側に移ったと言える。
これによって、摂政、関白、幕府は廃止された。 すなわち、公家政治、武家政治は終わりを告げたのである。 そして、臨時政府として総裁(皇族)、議定(公家、諸侯)、参与(藩士、庶人)が 置かれた。 参与には大久保、西郷らが入り、各藩士による雄藩連合が成立した。 これも、文久政変以来、公武合体派が取ろうとした形態が、新政府側に取り込まれたと言える。
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