2007年3月19日
武州渡来人紀行(3)

昨日の後半から、武蔵国を回っているので、上州から武州に名前を変える。
前日狭山茶を眺めながら飯能に泊まる。通勤圏なので、泊まることは珍しい町であるが、泊まったホテルも「今時?」というホテルだった。昔懐かしいというか何というか。インターネットは使えない。その上持って行った携帯とつなぐUSBコードをなぜかPCは認識しない。
 
翌日8時30分出発。高麗川の高麗家住宅へ。藁葺きの家で、様式は江戸時代前期以前のもの。昭和30年代まで使われたとのこと。あたりは梅の花が咲き乱れる。なぜか茶褐色のバッタが蜜を吸っていた(写真の真ん中・枝に着いている枯れ草みたいなもの)。
 
続いて高麗神社へ行く。この地域は高句麗系移民が開拓したところであるが、その辺の話を宮司から伺う。先代が昨冬に急逝されたとのことであるが、話はうまい。ここに高麗神社ができるまでの話と、それ以降の高麗氏の略歴、神社の効能?を端的に話していた。
 
先代には2001年にお目にかかった事がある。もうすでに体がかなり弱っていたようであったが、そのときに現職ともお目にかかっていたようである。そのときに系図を見せてもらいカメラに収めたが、本物と聞いていたが…今日、複製と判明。
 
続けて聖徳院に行く。山号が高麗山というように、本来は高麗神社と一緒だったものが、神仏分離令で別々になった。脇にこの辺の開拓の中心人物、高麗王若光の墓と言われるものがある。朝鮮式の三層石塔というがそれらしいと言われればそうだが、違うと言われれば違う。屋根の笠に当たる部分が風化していてなくなっているので、判断が付かないのだ、
 
山門をくぐり本堂へ。ここから入場料がいる。以前はそんなことはなかったのにと思いつつ、石段を登っていくと…。そこにはそれまでここで見たこともない立派な本堂が。さらに鐘突堂がある。その目の前に石像が。よく見ると「高麗王若光」となっている。その向かって左手、遠くには山越に富士山がよく見えていた。
 
境内の奥には無縁韓国人供養碑がある。在日韓国人のある人が中心となって寄進したとのことで、中央に石塔が建ち、その後ろに十二支像の彫り物がある。韓国の古墳の周りに彫られるものと違い、板に刻まれた「絵」である。その左手には東屋が。3.1独立宣言を発表したタプゴル公園の東屋を模したものと事である。入り口には石像が数体立つ。無名のもの(広開土王か壇君)、武烈王、鄭夢周などの像である。説明板には、高麗王若光が日本の中心で、風水のよいところであるここを開拓の土地と定めたという趣旨の説明があるが、これはおかしい。風水が入ってくるのは、若光が入植してからかなり後のことであるし、自発的にではなく、この地に政府によって住まわせられているからである。飯能駅で別れ、レッドアローで帰宅。池袋まで50分ほどの距離であった。

Posted by hajimet at 20:07 | Comments (0)

2007年3月18日
上州渡来人紀行(2)

第2日目。8時20分宿舎発。宿舎は東横イン高崎駅前。LANでインターネットには接続し放題。朝はおにぎり、味噌汁、スープ、パンのサービス。夜はカレーライスのサービスのあるホテルだった。カレーライスの魅力的な匂いは、14階のエレベーターホールまで充満していた。おなかのすいていた身でこれから飲み会の立場からは「何とかして〜」であった。それ以外は居心地はよい。
 
まず綿貫観音山古墳へ。しかし上州は大きな前方後円墳の多いところだ。ここもそうだ。石室を開けてもらい入る。榛名山の噴石を側面に、多胡石と同じ砂岩を天井石にしていて、崩壊していたものを復元したそうだ。入り口は西南を向いていて、その方向は百済だと言うが、この方向は太平洋である。あえて百済と考えるとすれば、遺体の頭の向きが北西を向いていれば、(つまり入り口の通路に直角方向)そちらが百済になる。なぜ、百済かというと、この古墳から百済公州武寧王から出てきた鏡と同じ型から鋳出した鏡が出ているからである。ここからは「泣き女」3人が一つにされた埴輪が出ている。まわりは妙義、浅間、榛名。妙高、穂高などの山が囲んでいる。その山からの出口で、しかも利根川などの大河が流れるのだから、いかに豊かな土地か想像できる。
 
その埴輪などを見に群馬県立歴史博物館へ行く。特別展で雛人形をやっていて、御殿雛に関心を持つ。旧石器時代の話、縄文期の海進の時の群馬、縄文、弥生の説明を受け改めて上野国の勢力の大きさを感じさせられる。また古墳や仏教伝来時の3国からの影響なども見られる。ちなみに昨日見た多胡碑をはじめとする上毛三碑は碑石を作る習慣のほとんどない日本では珍しいことで、文字の使い方などに新羅の影響が見られるとのことであった。ついでに多賀城碑のレプリカも今回何カ所かで見たが、これも渡来人の影響があるとのことだ。なぜか靺鞨という文字もあるのだが、これはのちの靺鞨と同じか分かっていないとのこと。庭にでる。馬のモニュメントがある。渡来系の「牧」の事かと思ったが、そうではなく、現代彫刻の「巨馬(おおうま)」であった。
 
群馬を後にして17号線を南下。行田行く。約1時間であるが、それにしても関東平野は広いと改めて思う。まわりはただ平野だけ。埼玉古墳群につく。5世紀に突然大古墳が出現するので有名で、武蔵の南部の政権との勢力争いの結果、上州と結んだ南武蔵が負け、大和政権と結んだ埼玉の勢力が勝ったためと言われる。雄略天皇の名前の入った鉄剣が出たことでも有名。これは埼玉の資料館に本物が展示される。丸山古墳に登った後、鉄剣の出た稲荷山に登るが「何だか変」だ。ここは3回目であるが、記憶の古墳と違う。後で分かった。2回目に来たときにトレンチを掘っていたのだが、それをもとに前方部を復元したのだった。将軍塚は日本ではわずかにしかない馬具が出たことで知られる。馬具は直感的に加羅を連想するのだが。資料館では稲荷山古墳の出土物と、横穴古墳の特別展をやっていた。
 
吉見百穴へ行く。いつ行っても異様な風景だ。旧軍時代の地下軍事工場もここにあって、途中までは行くことができる。古墳はいくつかの形に分けられるようだが、蒼ケが付き、棺台がある。上は粘土、下はグリーンタフの凝灰岩でいずれも掘りやすい土質である。だからこれだけ掘られたのだろう。渡来系との関係を想定することもあるが、たしかに須恵器は出てくるが、いかんせん横穴古墳はそもそも副葬品が少なすぎる。遠くからは訓練であろう。銃声が聞こえてくる。さらにバスで一時間。飯能に就く。地名については韓国語の「ハンナラ」(偉大な国)との関係を指摘する人もいる。ここで1泊。東京への通勤圏の中なので、こんな機会でもなければ泊まれないところである。

Posted by hajimet at 21:20 | Comments (0)

2007年3月16日
久々に・上州渡来人紀行(1)

久々の更新。あまり出かけていなかったもので。

高句麗紀行へ行った名古屋のメンバーと一緒に、上州から高麗川へ抜ける渡来人紀行にきている。やっと初雪の降った東京を9時半に出発。
 
親戚が新潟・佐渡にいる関係で群馬県はしょっちゅう通過するが、降りるのはほとんどない。高崎で降りたのは2回目。1回目は平成8年。父が亡くなった後、終戦直後に疎開した新潟五泉で父がお世話になった人に挨拶に行った帰りだった。新潟では油田を案内してもらった。その帰りに高崎で降りて多胡碑を見に行ったのだった。畑で採ってきたばかりのネギをロッカーに預けて(ロッカーの臭ったこと匂ったこと)。それからも高崎はしょっちゅう通過はしている…。
 
高崎駅でだるま弁当を買う。出かけるときからきめていた。東京のチキンライス、新潟の、ます寿司、横川の釜飯と同じくらい定番だ、普段の赤いプラスティックの入れ物に入ったものではなく、「復古だるま」。普通のが900円に対して1300円。素焼きの入れ物に入る。中身も素朴で。お品書きには牛肉のしぐれ煮(おいしい)、地鶏の付け焼き(そんなものかな?)、マイタケ委の含ませ煮、花豆のふっくら煮(食べであり)、マイタケのわさび和え(珍味)等々であった。
 
上信電鉄に乗り吉井へ。ワンマン運転。駅間距離が長いのと、レールが貧弱でよく揺れる。一部高規格のレールだがここだけは揺れない。以前乗ったときは西武の旧型車で、「弱め界磁」が自動的にできずに、手動スイッチで「弱め界磁」に切り替えていたのが印象的であったが、今回はさすがにそれはなかった。西武から来た車両には違いないが…。線路はしばらく河岸段丘と谷底平野の間を走るが、吉井の手前からは段丘面に乗る。
 
吉井駅で町歩きのパンフレットを探したが…なかった…やむを得ず持参したラフな地図で徒歩で辛科神社へ。駅前から国道254号線に出る。本当は古墳などを見ながら行きたかったが、名古屋のメンバーが「順調に」ついたとのことで神社へ直行。それでも少しコースを外れれば神保古墳群があるということで、そちらへ向かったが見つからなかった。
 
辛科神社も上神保という集落にあるが、河岸段丘の上にある。途中で畑越しに眺めた妙義、浅間は絶品。もともと韓郷と呼ばれていて、かなり早い時期から渡来人が生活していた。12時半に到着。「だるま弁当」を食べながら到着を待つ。神社は大宝年間に創建した神社で、この地域に古くから住んでいる渡来人が作ったと伝えられる。祭神はスサノオの命とその子、イソタケルの尊。ただし変遷があるようだが、いずれも渡来系の神であることはわかる。周りには神保氏が戦国時代に作った館跡の空堀が残る。
 
なお、神社が所有している古墳もあるが、そのようなところからは渡来人そのものの明確な遺物は出ない。そうとう土着化した渡来人がいたのだろうという。カラは加羅の事だとすれば、かなり早い時期の渡来人である。神社の入り口には「狛犬」らしきものが置かれている。少し雰囲気が違うが…実は「神獣」である。宮司さんの話によると、もともと仁王像があったが、神仏分離で別の寺に移されたとのこと。その後空いている場所に、先代が中国で買い求めたものだそうだ。由緒は…ない!
 
続いて多胡碑をみる。周りの風景は依然とずいぶん変わり、記念館ができていた。以前は碑の周りに回廊状に展示物があったが、それはなくなっていた。多胡碑は普段は覆堂の外から見るが、この日は特別に開けてもらい、間近でみることができた。但し碑にさわってはいけないとのこと。カビが出るそうだ。なぜここに碑があるかというと、ここに国衙があったからだとされるが、まだ発掘はされていないとのこと。記念館では文字の解析、付近から発掘されたもの、朝鮮、中国に渡った多胡碑の文字の話などが展示されていた。…しかし、胡が多いとは。ここに郡が作られた時期なら、そうとう土着した「胡」だったはずなのに。
 
続けてバスで30分ほどで保渡田古墳群へ行く。王家クラスの古墳で、石葺きの大前方後円墳が3つある。規模も大きいもので、一時期に3代分作られたことが分かっている。このうち八万塚古墳は作られた当時の姿に復元されている。関東にはほとんどない舟型石棺も出てきている。また、埴輪がすごい。群馬の古墳は堀に中島があったり、埴輪が多いのが特徴だが、墳丘に6千あったという。現在は3千復元されている。中には狩をする人と、その矢に射られて血が流れるイノシシが対になっているものもあった。近くから館あとや、渡来系の積石塚が見つかっている。2段の方墳で上段は完全な石積。埴輪も出ていて両方が混じっていることが分かる。ここからは「飾履」など渡来毛糸のものが出ている。
 
水田跡などもあるが、古墳時代の榛名山の噴火で一瞬にして埋まってしまったとのことである。そのため耕作したばかりの足跡も残っていた。たしかに目の前に榛名、赤城、妙義、その後ろに浅間が見えていて、火山災害の多いことが伺われる。たしか日本のポンペイといわれた遺跡もこの辺だっけ。そういえば、新幹線から眺めた土、熊谷あたりまでは白い砂であるが、高崎に近づくにつれて赤い火山灰の色が混じっていた。
 
…赤城おろしのひどい一日だった。あしたは埼玉方面へ。

Posted by hajimet at 18:02 | Comments (0)

2006年11月25日
昭島、羽村紀行
土曜日、天気がよいので昭島まで行った。東京で唯一の積石塚があると言うことなので見に行ったのだ。多摩地区から埼玉にかけては狛江、調布、志木、新座、狛江など渡来系の関係が以外と多い。大和朝廷が新羅、高句麗の渡来人を関東に配したこともあるのだろうが、古墳となると時代は少しさかのぼる。

立川から青梅線、拝島から五日市線に入る。青梅線はカメラを持った集団が先頭を占領していた。ディーゼル機関車が旧型客舎を牽いて走るとのことで、それがお目当てだそうだ(途中でそれ違ったが、プッシュプルで運転していた)。

東秋留駅で降りてまず二宮考古館へ。ここで発掘品を見たり、資料を集めて昭島に向けて歩き始めた。五日市街道のケヤキが見事に紅葉している中をひたすら西へ歩く。五日市街道のあるところは台地の上だが、秋川はじめ両岸を流れる川の向こうは急流が広がる。その向こうに関東山地が見え、富士山や大山まで見える。道の先にも山が立ちはだかり関東平野の末端であることを感じさせる。何となく韓国慶州の風景を思い出させる光景だ。左手に大山古墳を見る。円形だが、よく見ると墳丘全体が角張っている。方墳らしい。墳丘の上からは台地全体から丘陵一帯が見渡せる。都立秋留高校の標識を見ながら、昭島駅に到着。約25分ほど。

昭島駅から積石塚の瀬戸丘古墳群までは徒歩15分くらい。民家の中に石室があらわれる。その後古墳が密集しているという栗畑へ行く。落ち葉がおちてよく分からないが、一か所だけ石室らしき石組みが見えた。詳しくはこちらを

駅に戻ると1時半。近くで食事をとり、福生行きのバスに乗る。15分ほどで福生駅だ。地図で見ると十分歩ける距離なのだが、少々疲れたのだ。福生駅から青梅線で一駅。羽村駅だ。駅前に神社があり、そこに「まいまいず井戸」がある。ずっと話に聴いていたのだが、一度見てみたかった。地面を10メートルくらいくぼめ、螺旋状に井戸に下りていく。上から見るとカタツムリ(マイマイ)の様に見えるのだ。下りてみる。おりきったあたりがローム層の下端で、そこから礫層になる。井戸はさらに10メートルくらい深いところにあった。ところで、どこにも説明がなかったが、井戸わきに「隼人墓(塚)?」というのがあった。こりゃいったいなんだ?(疑問を残しつつ)

駅の反対に抜ける。まっすぐ坂を下りていく。途中馬の水飲み場跡を眺めながらどんどん下りていくと、そこは多摩川である。羽村は玉川上水の取水口がある。そこを見に行ったのだ。江戸時代に多摩川兄弟が作った堰とほぼ同じ場所に堰が作られ、多摩川の水の多くが一旦上水側に引き込まれる。そのうち余剰分を多摩川に戻すようになっている。堰の真ん中には筏用の門も残されている。多摩川兄弟の像を見る。これを見つけて嬉しそうに喜んでいたカップルもいた。そして玉川上水を下ってみたが、水の豊富なのは500メートルほど。そこで水は羽村浄水場へ引き込まれてしまい、その下流は少しの水が流れているだけであった。

ここで3時半になった。薄暗くなったので帰宅した。この日の東京の日の入りは4時29分なのだ。
Posted by hajimet at 22:27 | Comments (0)

2006年11月22日
N響コンサート
久しぶりにN響を聴いた。N響自体はテレビでも聴くがそのことではない。生だ。
11月13日、オペラシティーでだ。ノリントンの振る演奏にしてはいやに安いと思いつつ、行ってみたらNTT東日本の冠コンサートだった。

1曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ソロは庄司紗矢香。弦楽器は対向配置でピリオド奏法だ。1楽章の序奏部はこんなに連綿たる曲かと思うくらいゆっくり演奏が始まった。ソロが入って多少テンポを取り戻したものの、全体としてとてもゆっくりだった。2楽章は今度は速いテンポで、ベートーヴェン交響曲第6番の2楽章を思わせるような明るい曲に仕上がっていた。3楽章はまた落ち着いたテンポだ。

ピリオド奏法のせいか、ノリントンの解釈のせいか、4拍連打するときに、1拍目を強く、後を弱くしているのだが、かなり気になった。

2曲目はヴォーン・ウィリアムズ「交響曲第5番」。はじめて聴く曲だ。というよりもヴォーン・ウィリアムス自体がほぼ始めてだ。「スリーンスリーヴスによる幻想曲」くらいしか知らない。

D-durのはずが、Cから始まる不思議な曲だ。ドミナントはCisだから、普通Cは使わない。ホルンの牧歌的なメロディーと弦楽器の民謡風のメロディーが対話のように繰り返されるとプログラム通りに曲が進む。しかし、金官は苦労していたな。

2楽章になると、プログラム通りに曲が進行しなくなった。不思議だ。3拍目にアクセントをつけた3拍子で書かれた曲というが、指揮は4拍子を示している。8分の12かとも思ったが、どうも違うようだ。その内に変拍子の嵐に。管が強くなっている中での変拍子だから、ブラスでも面白そう。でも、3拍子はどこへ?

4楽章はもっと不思議。後半はフーガになり、最後はニ長調の手話音が明るく鳴り響き渡って曲が終わると書いてあるのだが、曲はどんどん静かになり、クラリネットのD-durのスケールが聞こえてきて、静かに消え入るように終わってしまった。マーラーの6番の終わりのように、最後にD-durでの壮麗な響きがあるように想像したのだがそうではない。ちょうどメンデルスゾンの交響曲第3番をうっかりクレンペラー版で聴いてしまったような、虚無を思わせるのだ。しかし、記述と演奏の違いは何なのだろう。

あとでCDとスコアを買って検討しなければならない。
Posted by hajimet at 19:55 | Comments (0)

2006年11月20日
広島
ここのところ、HPのUPの関係でブログはお休みだった。その間にも韓国、コンサートなど行っているので、改めて書くことにしよう。

まずは広島訪問。韓国語の教員研修のためで、17日から19日まで。往復飛行機。割引を使ったので、ほぼ新幹線と同じ金額だ。広合間訪問は91年以来2回目。あの時は駆け足だったが、今度は時間があることはある。

17日、授業が終わってから羽田空港へ。18時30分広島着。しかし、広島から先が悪かった。山陽道が事故渋滞で空港から市内まで2時間かかった。結局新幹線の方が早い。夜先に来ているメンバーと合流して韓国風料理を食べ、そのまま寝る。宿所は法華クラブ広島。

18日、6時半起床。朝食はバイキング。ヤマイモ、メカブ、広島漬けなどこの手のものにしては充実した内容だ。研修は午後からなので、午前中は宮島へ行くこととする。紙屋町東から広島電鉄で宮島へ。途中線路幅と道幅がそれほど違わないところを通りながら列車は進む。分岐点などは専用信号があるが、基本的には交通信号で走る、広電西広島からは専用軌道で鉄道用の信号で走る。隣は山陽線が併走する。

途中から忽然と戦前の建物が現れ始めた。広島市内は当然原子爆弾のためその様な建物はないので、突然何軒も固まって目の前に現れたのには驚き、改めて原爆の威力を知った。

宮島駅で降りる。道の向かいに船乗り場があるが、宮島行き船乗り場の看板が2つあり、入り口も二つ。JR連絡船と広電系の二社が競合しているのだ。まるで箱根の伊豆箱根鉄道と箱根登山鉄道の戦いみたい。あちらはバス停留場も船着き場も完全に会社ごとに別れているが、こちらはJRも広電もほぼ同じ場所に停留所がある。波止場も一緒で、対岸もならんでいる。駅の位置や列車本数から行けば広電に歩があるが、広電はJRに比べ時間がかかる。船は大鳥居のそばまで行けるJRに歩があるが、その分時間がかかる。実際行きは15分かかるが、帰りは鳥居によらないので10分だ。

厳島神社は多くの観光客でにぎわっていた。近くのガイドの話を聞いていると、やたら台風で崩壊したことを強調している。大鳥居を眺め、紅葉谷へ。名前の通り一面紅葉で、「旬は旬に楽しまなきゃ」という事を思い知らされた。それと一緒に、今年は中国、韓国、広島と紅葉前線に沿って旅行したので、なんと恵まれているのだろうと思い感慨にふける。秀吉が作らせ、途中で終わった千畳閣などを眺め、JRで西広島駅まで。昔の己斐駅だ。そこから広電で原爆ドーム前まで戻り、ドームと平和記念公園を見学する。

18日。雨(一時土砂降り)。
7時半起床。研修会が9時30分に始まるので、その前に広島城へ行く。1キロほどで歩いて15分ほどだ。目的は旧大本営址を見ること。広島城内にあるが、土台だけ残っていた。原爆で建物は吹き飛ばされてしまい、入り口に上がる階段までしか残されていない。原爆ドームは爆風がほぼ真上から来たため、建物の駆体は残ったが、こちらは横風だったのだろう。新羅の寺院跡とか、藤原京の旧薬師寺跡を見ているような不思議な気分だ。これが4秒程度の出来事だなんて。

午後、終了後、平和通りを歩いて比治山へ向かう。約2キロ。歩いて30分はかからなかった。途中被爆した石塔のある寺などを眺めながら陸軍墓地をめざす。予備知識なしで行ったが、入り口に「木口小平」の写真が。戦前の修身の教科書に「死んでもラッパを放しませんでした」といった人物だ。墓地の中に日清戦争でなくなった広島陸軍の合同墓があり、そこに名前が刻まれていた。朝鮮成歓で死亡。ソウル南方100キロの天安の少し北だ。戦前は天安駅前に銅像が立っていた。しかし、死亡場所を眺めていると、この戦争が朝鮮を舞台に行われたことが改めて分かる。墓地には北進事変で死亡した外人墓地もあった。墓地からは陸軍広島被服支敞あとから宇品港まで見渡せる。要するに陸軍の要地そのものだ。

その後広電で宇品港に向かう。似島や江田島へ行く船もあったが、時間の関係であきらめる。さらに広電で平和記念館へ向かい、資料を集める。高校の修学旅行生と一緒になったが、見学を進めるにつれての反応の変化が興味深かった。

18時30分発の飛行機で帰宅。飛行機はまず日本海へ飛び、それから東京へ向かった。関西にある低気圧を避けたのだと思ったが、それとともに直前に大阪上空で乱気流に巻き込まれ、けが人が発生したことが、あとになってわかった。実際飛行機は大揺れで、突然突き上げるように上昇したり、スッと下降したりで客室乗務員が思わずしゃがみ込むくらいであった。こちらの読んでいた本は一瞬にぐちゃっとなってしまった。機長も2回も放送を入れる位ひどい揺れだったのだ。
Posted by hajimet at 21:07 | Comments (0)

2006年10月7日
中国東北紀行その6(最終)
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。

中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。

ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。

風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。

駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。

東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。

Posted by hajimet at 09:41 | Comments (0)

2006年10月6日
中国東北紀行その5
9月30日。朝5時起床。早めの朝食を済ませ、瀋陽北駅へ。駅はホテル(瀋陽グロリアプラザホテル)の目の前である。このホテルはPCをインターネットに接続できるので、溜まっていたメールを整理することが出来た。雑踏の中待合室に入る。軟座となっているので、ようするにグリーン車の待合室だ。30分ほど、時刻表を買ったりして時間を潰し、改札時間にホームへ移動する。列車は2階建て編成の2階。時間になると音もなく出発するが、一方で車内には音楽が流れ少々うるさい(しばらくすると静かになるが、大連手前で再開)。

ここから大連までは4時間かかる。かつては7時間かかったそうなので、そうとうのスピードアップだ。レールの継ぎ目音はほとんど聞こえず、乗り心地も良い。車内の隅にはポットがおかれ、自由にお湯がつげるようになっている。車内はキレイで静かだ。よくうるさくて汚れているという話が出てくるが、硬座を含めてそれは感じられない。車内の人々の服装もかなりなもので、地方とは経済状況が随分違うKと尾を改めて感ずる。出発してすぐ張作霖爆殺現場を通過する。その後、瀋陽、鉄鋼の街鞍山を通過して大連市内に入る。

大連では餃子店に食べに行く。蒸し餃子、水餃子、焼き餃子、その他の中華料理と出てくる。これまで入った店でもお茶がなくなると、すぐに継ぎ足しに来たが、ここは少し趣が違った。クコ、菊、茶葉、ライチなどが入ったカップに少年が長い注ぎ口のある薬缶を勢いつけて注ぐ。時にはカップを手に持って背中に薬缶を回してついだりして、まるでドラゴンボールの世界だ。やはりお茶がなくなった頃次に来る。しかもカメラ目線。撮影され馴れている。餃子はこの地域では主食代わりで、水餃子が中心である。どれも美味しかったが、焼き餃子に食べ慣れているせいか、焼き餃子が一番美味しく感じた。

食後、旅順に向けて出発。バスで30分位の距離だ。旅順は外国人に対して完全には解放されておらず、限定されたところにしかいけない。まずは東鶏冠山。日本軍との激戦があったところで、外からはなだらかな山であるが、一歩中にはいると露西亜軍の要塞が築かれていたという。日本軍の爆撃跡が生々しく残り、頂上には記念碑も残る。近くには「銘記歴史、勿忘国恥」という看板があった。日本は旅順の激戦地に多くの記念碑を建てたと言うが、注意してみると他の山にも記念碑らしきものが残されている。

続いて水師営の会談場あと。もう少しひなびたところと思っていたが、住宅街の中で、イメージとは随分異なる。もともと民家を借り上げて会談場としたと言うことだから、それでもよいのかもしれない。当時の建物が復元されている。戦前日本側が建てた記念碑がそのまま保存され、見ることが出来る。建物の中は当時の様子が復元され、机などが当時のままおかれていた。入り口のそばにはスッテッセルと乃木希典が記念写真をとり、ステッセルの白馬を乃木希典に渡すためにつないでおいたナツメの木の三代目が植えられている。実がたわわに?なっていた。

そして203高地。頂上の爾霊山と書かれた弾丸型の記念碑や、乃木希典の次男、乃木保典が殺された場所の記念碑が残る。露西亜側の塹壕も縦横に走っている。ここから旅順港には大砲をうっても弾は届かなかったが、状況を一望できたので、司令所としての意味があったと言われる。山は今でこそ木が茂っているが、もともとははげ山である。そこで日本軍兵士が多く殺された。もちろん露西亜兵も。両国が協力して一時停戦して遺体をかたづけたという話もきいている。しかし今は唯一の桜の名所として花見をするところになっているとか、篭屋がいて観光地化しているとかでかなり複雑な気持ちになった。

旅順は日本人が主に訪ねる街とのことである。戦跡としてそうなのかなとも思う。おかげで道路がキレイになったといわれたが、かなり複雑な気持ちだった。日露戦争だけでなく、日清戦争の時もここで大きな戦闘が行われ、中国人が多く殺されているので、地元の人にも厳しい感情があると聞いた。一方でロシア人でここを訪れる人は多くないとも聴いた。大連に来るロシア人は漁船員か、長期休暇で海水浴に来るリゾート型の人が多いとのことである。考えたら、ロシアで海水浴できる地域はほとんどない。

夕食は海鮮料理。大連は鮮魚が上がるため、海鮮料理が食べられる。まずはカレイの刺身。醤油は日本のものだった。続いてトコブシ、海老、海鼠、牡蠣の揚げ物(フライよりも天ぷらに近い)、蟹などが出てきて、最後にカレイのフライが出てきた。此までも桓仁の川魚、通化の鯉のあんかけなどのように魚が出るには出たが、海の鮮魚を食べられたことで、何となくほっとする。夕食後大連の町へ繰り出した。9時ころ勝利百貨店へいったが、9時が閉店時間のようだった。どの店も閉店準備に入り、9時の案内とともに、シャッターを下ろしたりバサッと売り場の台に布をかけてしまうところが多かった。見事であった。屋台で乾燥ライチを買った。11時30分就寝。
Posted by hajimet at 20:19 | Comments (0)

2006年10月5日
中国東北紀行その4
9月29日。4日目になる。さすがに疲れが出てきて、肩や背中が張ってきた。考えてみたら、2日目の移動距離が500q。東京−大阪を見学を取り入れながら一気に走り抜けたようなものだ。昨日は移動距離こそ200qだが、内容は濃密だった。確かにガイドさんが言うように中国では短距離なのだろうが、絶対的な距離は相当である。しかしながら、「点と線」であることには違いない。数字の感覚は日本と中国でかなり違うようだ。人口にしても少ない街(郷、鎮クラス)で数万という数字が語られる。日本なら2万を超えたら市くらすだ。

朝食後、バスで桓任へ向かう。通化市内は太平洋戦争末期、ソ連軍の侵攻によって関東軍司令部を移した街である。今でもそのときの建物が残っている。軍事関係の施設なので撮影禁止だが、上から見ると航空機の形をしている。町中は市場が人でごった返していた。通化市を抜け出て、20分ほどで通化県の中心地に入る。通化市のベッドタウンとして発達していて、市内よりも活気がある。

さて、ここからが大変であった。バスは高級バスでエアサスが効いている。一方で道は狭く悪い。まるで気流がものすごく悪い中を行く飛行機のような感覚だ。こんな中を1時間以上進む。途中ですれ違う市内バスも100q以上進むような長距離のものだ。その道で中国の教育事情を聴いた。農村など貧しい所の人がよく勉強して、良い大学に入ること、大学を出れば職業も保障され、そうすれば農民の戸籍から都市の戸籍に変更できることなどが話のメインだった。また、通化からのガイドは文化大革命のときに日本語を学んだため、諺などが中心の勉強で、日本人と話しただけでも批判の対象になったと言うことを聴いた。中国の友人もいるのだが、文革の時の話を具体的に聞いたのはこのとき初めてであった。バスは農村を進む。

9時すぎ、桓仁についた。ここからバスを乗り換えて山を登る。高句麗の最初の山城、五女山城へ行くためだ。ここも世界遺産に指定されているが、交通が不便なため日本人は余り行かない。この旅行社が扱ったのも今年2例目で、しかも20名を越える大人数を扱ったのはおそらく初めてであろうとのことだ。集安を含めて大人数で訪問したケースはほとんど無いという。下から見ると山の上の方が崖で切り立っている。その崖の麓まで行くのだ。かなり急な上り坂を10分ほどで到着。しかし、中国の車はよく警笛を鳴らす。注意!、邪魔!のほかに、お礼など日本ならハザードかパッシングで表示することも警笛で表現しているようなのだ。

麓から階段を上がる。最初「段数は99段です。かなり険しいです。99段とはホンコンの返還を記念したものです。」という説明だった。ホンコンの租借期間99年をイメージしたものと思ったが、それにしては入り口にカゴ屋がいるし(最初の言い値は100元。それがどんどん下がる)、99段には見えない。慌てて「999段の言い違いでした」。ということは租借期間でなく、返還年である1999年のことだ。ともかく脇道なども上手く利用しながら登る。直りきっていない右足が痛み始めた。中には倉庫跡、泉あと、住居跡がある。住居跡はオンドルの煙道の痕跡が残されていて、今の朝鮮民族の文化に影響を与えたことがわかる。

城跡は平坦だが、すぐ脇は足下がすくわれるほどの大絶壁である。200b近くある。下を流れている川ダム湖となっていたが、そこには「遼寧第一の景色」と書かれた石碑が建てられている。湖は広々としていて、対馬の浅芽湾を眺めたときの感じを思い出した。この辺のカエデはすでに赤くなるが、階段を下りていった山下はまだであった。しかし…階段を下りてから「高所恐怖症、心臓病、高血圧、老齢者、弱者は登るな」という看板があっても…。絶壁を降りたところに南門跡があり、山上に向けて城壁が築かれていた。

城をあとにして市内に入る。食事は今までの中で一番脂っこい。というより油の中に食べ物があるような感じだ。今までもそうだが、食事は五月雨しきに出てきて、いつが終わりかはっきりしない。それどころかデザートの果物が先に出たりする。この辺は感覚の違いだろう。桓仁は満族自治区である。満族はの家は高床式であるというが、残念ながら気づかなかった。

バスで30分ほど、桓仁の郊外へ行く。10キロほど離れた米倉溝というところだ。桓仁は満族自治区であるが、米倉号はそのなかの朝鮮族の自治郷である。道にはヤギが群れを成し、馬車や牛車、ロバが動き回る。その間を鳥がかけずり回る。村にはいると子豚が追いかけっこをしている。その中を川端で女性が洗い物をし、家々はトウモロコシが干してあり、焚き付けようの藁束が積まれている。足下には肥料にする牛糞がおちていて、畑には大根、豆、黍などが植えられていた。その中を将軍墓へと進む。土を盛った貴族の墓であるが、高句麗初代王の朱蒙の陵だという伝説もある。古墳の時代と合わないが、そう考えても面白い。なお、後からわかったことだが、この村は満州帝国時代、関東軍によって焼き討ちされている。パルチザンとの接触を断ち、集団部落に移住させるためである。

再び桓仁に戻り、瀋陽へ。一般道を120qで快走??!する。途中から吉林と瀋陽を結ぶ高速道路に入った。直前まで快適だった道路が、なぜか入口直前の取り付け部分で未整備となった。高速道はその入り口から瀋陽側しか開通していないが、運転手もガイドもその道を知らなかった。路面はキレイで縁石はまだ揃っていない。ガードレールは光っている。道の脇をスコップを持った一団が歩いていく。それもそのはず、この日の10時に開通したのだ。中国では急速にインフラ整備が行われていて、今回の旅行中、同じようなことが何回かあった。日本人ではじめてかも知れない。などと思っているうちに日が落ちてきた。赤い夕焼けに向けて、バスは瀋陽へ向かう。ちなみに瀋陽は、中国の簡体字では「沈よう(こざとへん+日)」となる。ということは「沈陽で洛陽をみた?」。

トイレ休憩にサービスエリアに入るが、まだ未開業だった。トイレだけ借りる。ここも工事がほぼ終わったばかり…とういうことは…。途中通過した撫順は炭鉱の露天掘りで知られる。炭鉱こそ見えなかったが、燃料に石炭を使っているのだろう。黒い煙がでていて街は煤煙の底に沈んでいた。撫順の入り口には火力発電所があるが、これも石炭で発電しているとのことだった。

瀋陽で通化からのガイドと別れ、瀋陽のガイドに変わる。通化のガイドとバスはそのまま通化にもどるとのことで、ここから再び桓仁を通るルートしかないとのことだった。ということは6時間近くかかる計算だ。瀋陽は川の北にあるから、陰陽で「陽」の自我宛てられた等との説明を聞きつつ夕食会場へ。

夕食を食べた後、世界第2位の規模のコリアタウンへ行く。ちょっと危険な所もあるので、ガイドもついてくる。街はハングルが溢れている。その中でピョンヤン館へ行く。北朝鮮の直営店だ。中にいるウェートレスはとてもキレイだった。ショーの女性も。記念に北朝鮮の国旗をかたどったバッジを買った。ピョンヤン焼酎の4合瓶が80元なのに対し、このバッジも80元…。ちなみに朝鮮の焼酎は25度である。普段少しきついと思って飲むのだが、中国の白酒が50度近くあるので、やたら薄く感じた。瀋陽は清国皇帝が即位し、第2代皇帝まで生活した街である。世界遺産の宮殿跡と王陵跡がある。都が北京に移ってから満州時代までは奉天と呼ばれ、様々な見所があるが、次回の楽しみにとっておくこととする。
Posted by hajimet at 22:13 | Comments (0)

2006年10月4日
中国東北紀行 その3

9月28日。5時半起床。グループの起床時間までまだ1時間あるので、身繕いをした後市内散策へ出かける。街には新聞を配る人、体操をするグループ、太極拳をするグループなど多くの人々が出ている。この町も自転車は少ないが、オートバイを改造したタクシーを結構目にする。その間をロバが荷車を引いて優雅に進んでいった。中心街の道を一歩小道に入ると、そこは朝鮮族の街で、「宝来朝族焼烤(=焼肉)」等という看板がハングルと一緒に書かれている。後で気がついたが、ここから国内城、中朝国境までは数百mの距離だった。行っておけばよかった。

食事は相変わらず脂っこいが、饅頭類やお粥はとても美味しかった。さすが中国東北地方は小麦などの産地だ。一方コーヒーは人によっては、戦前の「代用コーヒー」に似ていると言うくらい濃く、その上インスタントコーヒーを煮詰めたのではないかというような粉っぽさであった。ホテルの売店でガイドブックや地図の他に北朝鮮の紙幣も入手する。この後この町の多くの売店で共和国紙幣を売っていることを知る。

まずバスで集安博物館へ行く。乗車時間30秒。博物館の題字は郭抹若のもの。中は高句麗関係のものを展示していて、中央に好太王碑拓本、左右に遺物が展示される。ただし、いつの時代の物かははっきり書かれていない、実は高句麗の歴史については韓国と中国でどちらの歴史と見るか、政治問題となっている。どちらの歴史でもあるとも言えるし、独自の高句麗史や北アジア史というアプローチもできると思うが、ともかく両国で争いとなっている。この博物館では高句麗の説明は、「三国志」などの中国の歴史書をひいていて、韓国側の「三国史記」「三国遺事」は引かないことでさりげなくその立場を表している。

博物館見学後丸都山城へ行く。途中の集落は日本的な要素を持った家が目に入った。この町にも日本人はいたのだろう。丸都山城は非常時の山城で平地とは5-6mの崖で隔てられている。比較的広い平らな地の後ろは急峻な山に3方を囲まれる。ここには門、望楼が残っている。ガイドから王宮跡もあるが、少し離れているのでやめましょうと言われるが、道があるようなので行ってみた。回りは葡萄畑で、途中の作業小屋ではひまわりの花を干して種を取っていた。その先に白い礎石が点々とおかれていて、高句麗時代と思われる赤瓦がときおり目にはいる。入り口には川が流れているが、そこで女性が一人選択をしていた。

城門の下は高句麗の古墳群である。高句麗古墳の初期のものは積石塚で、4世紀くらいから土を盛った石室墳にかわる。そして食後に見に行くような壁画が描かれるようになる。ここのものは洞溝古墳群と言われ、前期の古墳が累々とならぶ。貴族の古墳と言われ、山城が使われなくなってから造られようになったと説明される。このような古墳が集安には1万基以上あるとのことだ。昔からの積石のままのものと、近年修復したように見えるものがある。古墳の上にはススキが穂を出し、光に輝き、足下の草村にはイヌタデが赤い花を咲かしていた。近くには土砂崩れのあとが方々に見える。今年の夏に大量に雨が降ったためという。この雨は、日本付近の梅雨前線が北上して、この辺が雨期に入ったためのものだ。

そこから山城にたいする平城の国内城を見る。城壁が残っている。足下には「緑草青青、足下留情」という標語が書かれた石盤がある。これを見てから、鴨緑江まで移動。比較的流れは速いが、100m程の向こうは北朝鮮満浦市である。中国側は川それ自体は中国のものと主張しているため、対岸間近まで行くことが出来る(時間の都合で行かず)。中国側の整備された護岸に対して朝鮮側は自然護岸である。その朝鮮側の川中島にはトウモロコシが植わっていたが、本土側は農業がうまくいっているようには見えない。山も山火事があったと言うが、それだけでなく頂上まで開墾した形跡が見えるのに、作物らしきものは何も無く、荒れはてている。麓の集落には人の気配がほとんど感じられない。収穫期のはずなのに。車も一台通り過ぎて行っただけだ。近くには銅の精錬工場があり、足尾銅山のように、その周辺の木は枯れていたがそれも小規模で、精錬所からもほとんど煙が出ていなかった。集安も豊かな集落とはいえないが、それでも青々とした木々が茂り、作物も実り、人が多く行き交っている。まったく別世界が広がっているのだが、朝鮮側からは中国の様子をどのように見ているのだろうか。

昼は朝鮮族の店で料理を食べる。辛味を控えてもらったようだが、漢族の料理に比べて脂っ気は少ない。それでも大分漢化しているようで、トラジのあえ物に、香草が使われたりもした。スンデは朝鮮風(×韓国風)に餅米が詰められたものだが、醤油の味が違う(ただし、朝鮮北部の味かも知れない)。餅菓子はでたが、キムチはなかった。また、中華料理と同じで机の真ん中には回転台があって、韓国の料理店の雰囲気とはかなり異なる。
 
店には朝鮮語の分かる人がほとんどいない。唯一人青年がいたが、中国語の方が得意のようだった。発音「r」が中国的な音に代わっていたし、話の最後に「了」がつく場面もあった。また、朝鮮語はごく親しい関係でしか使わないのであろう。訪問者の多くが60歳以上であったにもかかわらず、一切パンマルで話していた。店の一階には健康酒が。中を見たら…イモリ、タガメ、クコなどが一緒に…。店の前は朝鮮人参を売る商人が集まっていた。中国語で語りかけてきたり、韓国語でアンニョンハシムニカと言ってきたりだ。

五かい(灰かんむり+皿)墳5号墳で壁画を見た。以前はビデオなどでしか見られなかった、直接は入れるようになったのだ。高松塚と違い直接石室に描いたからかもしれないが、いずれにしても本物はすばらしい。周囲の古墳(4号墳、舞踊塚、角觝塚など)にも壁画があるが、いずれも非公開である。この付近の店は朝鮮族の土産物屋が多く、いずれも韓国語が通じた。そして、好太王(広開土王)碑へ。現在は覆堂がつくられ碑文は直接見られない…はずが、中に入れた。碑文は6センチ角の大きな文字で、読めなくなったものも多い。しかし「百残新羅旧之属民」の文字は目の高さより少し低いところにあってはっきりと読み取ることが出来た。倭が戦争に関係した部分は上の方になるので残念がら見えなかった。

近くの大王陵(広開土王陵と言われる)に行き、屋根型の石室をみたのち、将軍塚へ移る。石をピラミッド型に積み上げ、崩壊防止(といわれる)のために大きな石を各面に3つづつ立てかけてあるものだ。この陵は長寿王のものといわれる。長寿王は北朝鮮の平壌に都を移し、百済を一度滅ぼした王として知られる。90過ぎまで生きたとされ、それにあやかり春に漢族が長寿を祈りこの陵にお参りに来る習慣があるとのことである。ここも墓室に入れる。大王陵と違い一枚板の天井だ。屍床台にはなぜか札や硬貨がおかれていた。ほとんどが中国の人民元だが、なかには韓国の1000ウォン札もあった。

紅葉の中、通化にもどる。途中日本時代のトーチカを見る。集安は北朝鮮へ渡る鉄道のあるところだ。中朝国境で鉄道で渡れる場所は3か所しかない。そのため鉄道の要所として警備されていたのだ。夕食は通化の北京ダックの「店」。いっこうに出てこないなと思ったら、店であってそのものは出ないとのご宣託。しかし後になって出てきました。ただし皮だけでなく肉付き。皮を巻くものはかなり油こく、食べた後は手がテカテカ光った。味は絶品。
 
夜、超市(スーパーマーケット)に見学へ行く。酒類はワインか、焼酎の類がほとんどで、紹興酒はない。近くの店でスケトーダラの干物を焼いてもらった。韓国のものほど、カチンカチンにはなっていない。しかし、焼き方を見て驚いた。焼いている最中に上から油をかけているのだ。やはり油がベースになる国なのだ。

Posted by hajimet at 20:14 | Comments (0)

2006年10月3日
中国東北紀行その2

2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。

バスが出る前に駅前の地下街へ散策に出かける。土産物売り場や食堂、長距離電話がかけられる電話局などがあり、そのすきまを埋めるように本屋の棚が続く。地下街入り口ではドラム缶を改造した焼き芋売りが焼き芋を売っていた。バスで市内見物に出発。長春は文化の街、緑の街など4つの特徴を持っている。映画も盛んで、満州時代から撮影されていたという。ため息が出るほど満州時代のものが残る。泊まったところがヤマトホテルであったのもそうだが、その前には旧満鉄新京支店のビルがある。市内に進むと、旧デパート後や住宅が延々と続く。その中に新しいマンションも建つ。今長春は空前のマンションブームだそうだ。

中でも驚いたのは、旧関東軍司令部である。現在は共産党吉林省委員会が使っているが、その建物が日本の天守閣そのものなのである。日本の中で天守閣を見ても、当然不思議ではないのだが、異国の地でこの建物をみると非常に違和感がある。そのうえに日本と戦った共産党の委員会が入っているというと、象徴的なものが別の象徴的なものになったと言うことで、さらに違和感を感じるのだ。韓国では早いうちから立て替えられたものも多いのだが、おそらく感覚が違うのだろう。民族の興亡の歴史もあり、一か所をつねに同じ民族が支配したというわけでないこともあるのかも知れない。もちろん、当時の歴史の中での意図は否定しない。

さらに満州国皇帝溥儀がいた宮廷跡へ行く。溥儀が使った馬場後から始まり、当時の設備がそのまま公開されている。第1婦人の部屋もあったが、アヘン中毒になってしまい、中心の建物は第3婦人が主に使っていた。その寝室や、和室、ビリヤード部屋、会議室などが残されている。溥儀自身は盗聴を恐れて一度も使わなかったそうだ。中には先祖を祭った部屋もあり、清国を立てた最初の王、ヌルハチの位牌がおかれていた。その隣にはヌルハチを助けたとされる人の人形も飾られていた。一回に降りると、溥儀が使用した自動車がある。これは今でも走れるそうだ。

はなれの建物は実際に溥儀が使った。入り口には江沢民の筆で「918(満州事変)忽不忘」という銘板が入っている。こちらは執務室や日満議定書調印の部屋などがあり、宴会場も残されている。この裏に楽団が演奏したとされる部屋があるが、コントラバス、スーザホーン、トロンボーン、木管楽器、ワグナーテューバ、小太鼓がおかれていた。一体、何を演奏したのだろう。さらに溥儀の使ったトイレや、理髪室もそのまま残されている。溥儀はここでホルモン治療などを受けていたとのことだ。また溥儀の写真や第5婦人までの写真が飾られていて、その生涯が分かるようになっている。どの人との間にも溥儀の子供は生まれなかったとのことだが、婦人が再婚などをした先では子供が生まれている。

お茶の店で、お茶の入れ方を見てもらいお土産を買う。新茶のウーロン茶。茶色でなく緑の葉であった。そして「のした山査子」。この袋の日本語がすごい。「正しじべね滋味のすだぜへ体現友人享受すへ」…解読に挑戦してみて一部は原文の想像がついたが、徒労に終わった。昼食に出たビールは少し薄めの味だった。おそらく中国人から見るとこのように見えるのだろう。韓国でも「る」「ろ」などは混乱しているし、「スラックス」が「ズうつクス」などとなっていることを見たことがある。手書きで少し崩してあったらそう見えなくはないだろう。いずれにせよ違った言語の文字を見ても、その言語を使っている人の文字を見る感覚とまったく異なるという証明のようなものだ。

昼食後バスで集安へ向かう。道は比較的良い。途中の通化まで400Km、4時間ほどであるが、前半は見渡す限りのトウモロコシ畑、または水田の平原だった。土地は肥えているようには見えない。こんなところでも、日本から持っていった携帯のアンテナが普通に立っている。その間に農家が見える。切り妻の家が漢族の家、入母屋の家が朝鮮族の家だ。朝鮮族は稲作が得意と言うことだ。そういえば、一面稲を刈っているところと、稲穂の上の部分をいくつか束ねて稲穂だけを刈り取っているところがある。後者は韓国でも見る刈り方だ。
 
しかし、このような平原がずっと奥まで続いているわけで、そのような土地で突然終戦を迎え、ソ連軍の侵攻をうけたら、途方に暮れたというよりも「取り残された」という感覚を持つのではないか。そしてどうやって帰国するかと考えても答えは出なかったかもしれない。少なくとも、王道楽土、五族協和を夢見て渡った人たちなのだ。おそらく、朝鮮で終戦を迎えた人とはかなり違った意識を持ったのではないかと、両国を見ている経験から想像した。そんなことを想っているうち、長安を出発して1時間半ほどで伊通を通化する。地図で伊通火山帯という表記が見て、何だろうと想っていたが、たしかに溶岩地形と単発の小火山がほぼ同じ間隔でいくつか並んでいる。

後半2時間は山の中に入り徐々に高度を上げる。すでに紅葉が始まっている。この辺から地形が朝鮮半島と共通の地形になるのだ。犯罪事件が起きたということで検問を受けて、通化の街に入った。ここで夕食を食べた。通化のビールは少し苦みのあるビールで、滞在中飲んだものの中では一番口にあった。

通化はアイスワインが名産だという。満州時代から作っているそうだが、自然の状態で凍った葡萄をつけ込んでいると言うことだ。かなり甘く、ファンタグレープの炭酸を抜いてアルコールを加えたような味であった。男性陣には不評な一方、女性陣には好評であった。

さらに集安まで行く。60キロほどだが、道が余り良くないので、バスで2時間かかる。片道一車線の狭いカーブの多い山道であるが、そこをバスは平気で左側を走り、前方の車を抜いていく。ちなみに中国は右側通行である。もう目の前に対向車が迫っているのにである。怖い。

集安は鴨緑江沿いの街で、目の前は北朝鮮である。しかし、泊まった集安賓館では北朝鮮ではなく、韓国のテレビが見える。北朝鮮の放送が入るかと思ってラジオのスイッチを入れたが、AM,FMとも北朝鮮の地元局は入らない。海州の局は聞こえているから、近辺100キロ前後の場所に放送局はないと言うことだろう。その代わり韓国の放送や日本の放送はよく聞こえていた。よく聴いている韓国KBSの日本語放送もキレイに入っていて、何だか不思議な感覚に襲われた。ホテルの入り口には韓国語表記もあるが、韓国語は通じなかった。英語も日本語も、夜12時就寝。

Posted by hajimet at 22:08 | Comments (0)

2006年10月2日
中国東北紀行その1
9月26日から10月1日まで中国東北地方をめぐった。目的は旧満州帝国の遺産と高句麗の遺跡を訪ねるというものだ。

高句麗は中国側で起こった民族で、それが朝鮮半島に拠点を移すため、最初の頃の遺跡は中国側に残されている。行きにくい場所であるが、今回機会に恵まれた。

9月26日、羽田6時50分発関空行きに乗り、関空から大連行きに乗る。発達した低気圧の影響で飛行機は揺れ気味。大連行きは途中まで機内サービスが行えない状態だった。釜山上空からななめに韓国を横切り、黄海を大回りして大連に着陸…のはずが、着陸態勢に入ってから一向に降りない。大連が強い雨で、しかも霧がでているため、旋回して待っていることだった。

空港は日本便、韓国便が多いのだが、どちらの言語もほとんど通じない。しかし簡体字とはいえ、普段使っている漢字表記なので(大分違うには違うが)、文字が自然に目に飛び込んでくる。空港はこぢんまりとした印象を受ける。市内見学に出かける。一番最初に目に飛び込んできたのは、朝鮮料理の店だった。表記からすると朝鮮族だろう。自転車は目にしない。坂が多く使いづらいという説明であった。車は、かなり自由に走り怖い。人もあちらこちらで渡ってくる。

まず大連港へ向かう。眼下に数本埠頭が広がり、ロシアの作った埠頭、日本の作った埠頭がならぶ。満鉄時代の設備も残っている。韓国の仁川への航路もこの埠頭からでる。その後市内中心地へ。中心地は最終日にゆっくり見るので、そこで説明したい。関東州時代の建物の多くが文化財に指定されたりして大事に使われているという印象を受けた。満鉄関係者が住んでいた自宅も残っているが、非常に豊かな生活をしていたことが伺われる。もちろん、あちらこちらに最新の高層ビルも建っている。

食事で青島ビールが出る。日本のビールより少し薄い感じがした。この後、各地で地元のビールが出て、味を楽しむ。

食後大連空港より長春空港へ向かう。手続き場では
  説普通話、迎四方賓客
  用文明話、送一片真心
という標語が電光掲示板に表示されていた。搭乗口待合所の売店ではお酒の他、干海老や干海鼠などを売っている。飛行機もどことなく干物系の臭いが漂う。

飛行時間は1時間。途中気流が悪く、ベルト着用サインが出たにもかかわらず、機内サービスは続く。コーヒーを注いでもらった途端、強い揺れが来て、こぼれてしまった。そういえば、戦前飛行士だった人が、この辺はかならず揺れる気流の悪い場所があって、操縦がイヤだったということを言っていたが、そこを通ったのだろう。長春で泊まった長春春誼賓館は満州時代の大和ホテル。ホテルの前はロータリー越しに長春駅である。23時半就寝。1時間の時差のため、体感時間と実時間がずれて、何だか変だ。
Posted by hajimet at 10:20 | Comments (0)

2006年8月29日
千葉ハングル石塔紀行
8月28日、知人の車で千葉にあるハングルで書かれている石塔を見に行く。まずは館山へ。ちょうど一年前にもここに行っているが、そのときはとても暑かった。今年は涼しい…というよりも夏らしい暑さはあまり感じない夏だった。暑いときは湿気もすごく、からっとした感じはなかった。首都高で湾岸、館山道と入り、終点君津から一般道に入る。海沿いでもよいのだが、山道を利用する。実は南房総方面は山道の方が早いのだ。ただしルートを間違え、国道465号から県道88号に入る路を選んでしまった。88号は未整備で多くの場所が片道一車線。しかも路肩が弱いとか、落石注意なんていうところばかり。実際に法面が崩壊して片側交互通交なんて言うところもあった。道も細かいカーブが多く、自分が運転しているつもりで路面を見ていないと、確実に酔う。運転手が目が回ると言ったほどだ。

館山に出る。目指すは大巌寺。127号線でJRをこえた付近にある。この付近は館山地溝帯の崖面にあたる。16世紀後半の僧侶、雄誉上人が里見氏の依頼で開山した浄土宗の寺で、そこにある四面石塔を見に行った。雄誉上人の時代に建てられたもので、「南無阿弥陀仏」の名号が四面に彫られているのだ。それも日本の漢字、中国の篆書、梵字、ハングルの4つの書体だ。ハングルは今使われているものでなく、15世紀に発表された形式で、漢字音をハングルで表そうとしたものである。だから今の者とはかなり違う。この書き方で彫られた石碑は、実は韓国には存在しない。かなり早い時期にその書き方は消えてしまったからだ。

寺で探し出すのは大変だと思ったら、なんと山門から本堂へ行く途中にしっかりと建っていた。脇には顕彰碑もある。こちらは今の書き方で「南無阿弥陀仏」と彫られている。

寺を出た後、那古観音を見る。日露戦争記念碑、県内に二つしかない多宝塔などを見たのち、観音堂に入る。観音堂自身は修築工事中で解体補修中であった。そのため、参道は仮に造られ、プレハブで覆われた建物に入る。韓国の弥勒寺の石塔の修復現場でも同じことを感じたが、まるで工事現場のお稲荷さんか神棚に手を合わせている気分になる。観音堂裏の展望台に上がる。なぜか和泉式部の供養費があるが、それが向かっている先は館山湾である。湾の反対から自衛隊のヘリコプターが上がってくる。遠くには伊豆大島や伊豆半島がうっすら見えている。大島はこの夏に行こうと思っていたが、時間(+資金)的に断念。神津まで足を伸ばしておたあジュリア関係の遺跡を見て回ろうと思っていたのだ。寺あとにして、千葉方面に向かう。今度は海沿いに走る。すぐに崖観音が目にはいる。崖ップチに建てられていて、背後の崖はあたかも仏像の光背のようになっている。崖は砂の地層の重なり具合がよく分かる。

1時間ほど北上して竹岡に入る。ここの松翁院を訪ねる。場所を調べようと竹岡の駅に行ったが、無人駅で何もない。道路地図をよく見てみると、竹岡の駅の近くの集落は竹岡でなく、千葉よりの半島一つこえたところが竹岡だった。むしろ上総湊の方が近い。地元のお店に聴き寺を訪ねる。本堂の手前に墓地があるが、見晴らしがよい。すぐ目の前に三浦半島の横須賀が見えている。幅が10キロほどしかないので、まるで大きな川のようだ。そういえば道路地図も竹岡付近と横浜の金沢八景付近が同じ図面に表されている。奥の方には横浜ランドマークタワーが見え、海ホタルの人口島も見える。手前には富津岬が長く横たわって見える。ともかく見晴らしがよいのだ。

この墓地の中にもよく似た四面石塔がある。大巌寺の約50年後に建てられたもので、ハングルもよく似ている。ただハングルをパーツの組み合わせで出来ている文字という意識は内容で、ほとんどデザインと捉えているように思われる。この塔の由来は火災で焼けてしまい、よく分かっていないようだ。ただ、竹岡は会津藩と白河藩に江戸守備のための砲台を作らせたため、この寺も会津藩とのつながりも強い。また、東京芝の増上寺との関係も強く、この塔が立てられたのは徳川家との関係の強い時期とのこと。大巌寺も松翁寺と同じく浄土宗の寺で、しかも徳川家と関係の強い僧侶であった。そのようなことから何か糸口が出てくるかも知れない。このことは近いうちにHPに公開する予定である。
Posted by hajimet at 20:25 | Comments (0)

2006年8月19日
小谷村・仮面舞踏会(二題)
表題は互いに関係ない。帰省後小谷村の融通念仏供養碑について調査を続けている。結果はホームページで公開しているが(写真)(説明)、そこでも出てくる大町北高校の太田先生から多くの示唆を受けた。それを確認するために、資料収集で国会図書館に通っている。これまでに小谷村誌、小谷の石造物を見ることが出来たし、ITでも関連サイトを探すことが出来た。喜平治の雨飾山登山の記録は原文がHPで読むことが出来る。

また、文字の原典を確認するために、倭漢節用無双嚢も見た。これは復刻の影陰版であるが、これがまた面白い。要するに辞書兼事典なのだ。魚の並べ方(川魚と海の魚で違う)とか、大名のこととか、地図とか…。読んでいて飽きない。ただし、変体仮名のため、斜めに眺めている。丁寧に読もうと思えば相当の覚悟が必要。文字も「中華文字之始」、「古文字」、「八体(大篆、小篆など)」、六書、真字と草書のときの筆の持ち方の違い、和字(国字)の起こり、いろはと来る。

それに続いて、天竺国の文字(サンスクリット)が五十音で、ダッタン国の文字(満州文字・数単語)、オランダ文字(筆記体で崩れていて、読めない)、朝鮮国の文字と続く。朝鮮国の文字は明らかにハングルなのであるが、なぜ、それがこういう字体にかわっちゃの?というくらい変型している。由来を調べてみても面白いかもしれない。

閑話休題

今、ハチャトゥリアンの仮面舞踏会に関係している。つい先日、NHKFMでこの曲を紹介していて、かなり珍しい曲との位置づけだった。大学の時に一度やったことがあるのだが、そのときはどんな背景かよく分からなかったし、それにしては暗いな位しか思っていなかった。

その後出版されたスコアにも曲の説明が出ているのだが、なんだか分かったような分からない様な説明しか書かれていない。この夏は是非原作を読もうと思ったのだが、
残念ながら邦訳が少ない事に気がついた。そこで昨日、国会図書館に行ったついでに請求して読むことにした。普段は資料収集に走り回るので、資料を見ても、斜めに見ながら関係のありそうな處をコピーしてくることがほとんどだ。以前よりスピーディーになったとはいえ、閉架の図書館で、本が出るまでに20分以上、コピーも請求してから製品が出来るまで20分以上かかるから、効率よく動き回ることが必要だからだ。

仮面舞踏会は戯曲で、中味は悲劇だった。仮面舞踏会に参加した伯爵夫人が、ニーナという人妻の落とした腕輪を公爵に差し上げる。公爵はその腕輪をくれた仮面の女を気に入るが、それがニーナの腕輪と気付く。ニーナの亭主もニーナが仮面舞踏会へ行き、腕輪を無くしたことに気付く。そして、公爵とのことも。

嫉妬に狂い、もともと人に対して冷たかった亭主はニーナと公爵を殺す機会をねらう。公爵を好きだった伯爵夫人は、自分が仮面をかぶって腕輪を渡したことを公爵に白状した。また、ニーナの亭主にも告白しようとしたが、時すでに遅し。すれ違いで告白は出来なかった。亭主は公爵を殺そうと呼び出すが、それはできず、ニーナはそこで亭主に毒の入ったアイスクリームを食べさせられ、無実を叫びながら死んでいく。

亭主がニーナの無実を知ったのは、ニーナの葬式の時、公爵と「見知らぬ男」からであった。そこで発狂し倒れていく。という話だ。仮面舞踏会の曲、特にロマンスが暗いのも、そういったニーナのロマンスを歌っていたからだ(原曲は歌だったようだ)。曲の背景を知ることも大切なのだが、しかし、良い演奏になかなかお目にかかれないのも玉に瑕。もう少しCD漁りをしなければならないように思う。
Posted by hajimet at 13:35 | Comments (0)

旧盆の一日
8月13日、新潟へ行く。東京駅で新幹線を1本待って、無事に座れた。本当は、春に行けなかった佐渡へのリベンジ旅行も考えたが、あきらめる。実際行こうと思っていた12日は、越佐海峡は大雨だった。たしか、一年前も船に乗っている最中に大雨になり、ジェットフォイルが着水してしまい、ただのゆれる漁船になった記憶がある。

13日、夜親戚が集まり墓参りに。どこの家も線香一束を持ってくるが、この辺は東京と違うようだ。その後宴会。丼一杯の枝豆が何杯でも出てくる。

翌日、別の親戚の家に行き、その家にある古い物を写真に撮る。江戸時代後期の当主の肖像画、藩札、御城米船の旗(廻船問屋もやっていた)、鑑札、剣道の免許皆伝の書、梧竹の書などなど。その後車で外出。行き先は乙宝寺。日本で一番交通量の多い(でも何故かほとんど渋滞のない)国道7号線のバイパスに乗る。道の駅豊栄、新潟競馬場、新潟東港のクレーンを眺めながら聖籠のインターで、村上方面への一般道に入る。

海岸沿いの砂丘の間を道は進んでいく。途中、米子、築地などの地名を目にする。読み方は、「よねこ」、「ついじ」だ。この辺はつい先日まで中条市だったが、平成の大合併で胎内市となった。胎内川にそっているからであろうが、今まで胎内という地名は山の中の地名だったので、なんだかぴんと来ない。川も加治川、胎内川を渡り、逆水川、乙大日(きのとだいにち)川など面白い名前のついた小河川を目にしながら進んだ。あたりの家は、切り妻に多くの桟を入れる作りをしている。また、砂丘の上は工業団地として開拓されていて、アデランスの工場などもあった。

約40分で乙宝寺につく。地名は乙(きのと)。越後随一の古刹で、行基が創建したと言われる寺である。それが本当かは別として、今昔物語にも登場し、そこから猿供養寺と言われたりもする。また、芭蕉も奥の細道を歩いたときに、ここに寄ったようだ。

入り口の石橋を渡ると両方に池が広がる。池の中には弁天道が建つ。池を過ぎると山門。中の仁王像は右側の像の頭の一部が残念ながら欠けていた。左手に三重の塔が見える。国指定の重要文化財になっていて、武骨ながらも味わいのある塔である。その手前、手水鉢には「わき水」がわいている。「どっこん水」というそうだ。これは「独鈷水」が訛ったもので、弘法大師がこの寺にやってきて独鈷をさしたところ、水がこんこんとわき出したという伝説に因んでいる。実際この水は、胎内川の伏流水で、味はよい。…なぜか伏流水が湧くところや、川が伏流水になるところに弘法大師の伝説が多いのだが、不思議なことである。あちらこちらで見聞きするのだ。

山門横には、風流な懸板がある。「浮世散桜会 うきよのちりや」…トイレであった。この寺はこれで3回目か、4回目の訪問になる。お盆の帰省シーズンのせいか、これまでにない人出であった。寺の前には「きのとまんじゅう」という名物の饅頭がある。餡の甘みが抑えられ、皮がもっちりした饅頭である。大抵、お昼過ぎには売り切れ、2時頃夕方の分が蒸し上がるのだが、この日は11時過ぎでもう売り切れていた。寺を後にして、超遠縁の人の実家の仏壇をお参りして帰京した。

新潟駅では特に待たずに座ることが出来た。実は一本後の列車のホームへ行ったのだが、よく見たらその前の列車に空席があったのだ。慌てて階段をおりて隣のホームへ。列車に乗ったときは発車2分前だった。
Posted by hajimet at 12:54 | Comments (0)