2007年3月19日 |
武州渡来人紀行(3) |
昨日の後半から、武蔵国を回っているので、上州から武州に名前を変える。 |
Posted by hajimet at 20:07
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2007年3月18日 |
上州渡来人紀行(2) |
第2日目。8時20分宿舎発。宿舎は東横イン高崎駅前。LANでインターネットには接続し放題。朝はおにぎり、味噌汁、スープ、パンのサービス。夜はカレーライスのサービスのあるホテルだった。カレーライスの魅力的な匂いは、14階のエレベーターホールまで充満していた。おなかのすいていた身でこれから飲み会の立場からは「何とかして〜」であった。それ以外は居心地はよい。 |
Posted by hajimet at 21:20
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2007年3月16日 |
久々に・上州渡来人紀行(1) |
久々の更新。あまり出かけていなかったもので。 |
Posted by hajimet at 18:02
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2006年11月25日 |
昭島、羽村紀行 |
土曜日、天気がよいので昭島まで行った。東京で唯一の積石塚があると言うことなので見に行ったのだ。多摩地区から埼玉にかけては狛江、調布、志木、新座、狛江など渡来系の関係が以外と多い。大和朝廷が新羅、高句麗の渡来人を関東に配したこともあるのだろうが、古墳となると時代は少しさかのぼる。 立川から青梅線、拝島から五日市線に入る。青梅線はカメラを持った集団が先頭を占領していた。ディーゼル機関車が旧型客舎を牽いて走るとのことで、それがお目当てだそうだ(途中でそれ違ったが、プッシュプルで運転していた)。 ![]() 昭島駅から積石塚の瀬戸丘古墳群までは徒歩15分くらい。民家の中に石室があらわれる。その後古墳が密集しているという栗畑へ行く。落ち葉がおちてよく分からないが、一か所だけ石室らしき石組みが見えた。詳しくはこちらを。 ![]() ![]() ここで3時半になった。薄暗くなったので帰宅した。この日の東京の日の入りは4時29分なのだ。 |
Posted by hajimet at 22:27
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2006年11月22日 |
N響コンサート |
久しぶりにN響を聴いた。N響自体はテレビでも聴くがそのことではない。生だ。 11月13日、オペラシティーでだ。ノリントンの振る演奏にしてはいやに安いと思いつつ、行ってみたらNTT東日本の冠コンサートだった。 1曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ソロは庄司紗矢香。弦楽器は対向配置でピリオド奏法だ。1楽章の序奏部はこんなに連綿たる曲かと思うくらいゆっくり演奏が始まった。ソロが入って多少テンポを取り戻したものの、全体としてとてもゆっくりだった。2楽章は今度は速いテンポで、ベートーヴェン交響曲第6番の2楽章を思わせるような明るい曲に仕上がっていた。3楽章はまた落ち着いたテンポだ。 ピリオド奏法のせいか、ノリントンの解釈のせいか、4拍連打するときに、1拍目を強く、後を弱くしているのだが、かなり気になった。 2曲目はヴォーン・ウィリアムズ「交響曲第5番」。はじめて聴く曲だ。というよりもヴォーン・ウィリアムス自体がほぼ始めてだ。「スリーンスリーヴスによる幻想曲」くらいしか知らない。 D-durのはずが、Cから始まる不思議な曲だ。ドミナントはCisだから、普通Cは使わない。ホルンの牧歌的なメロディーと弦楽器の民謡風のメロディーが対話のように繰り返されるとプログラム通りに曲が進む。しかし、金官は苦労していたな。 2楽章になると、プログラム通りに曲が進行しなくなった。不思議だ。3拍目にアクセントをつけた3拍子で書かれた曲というが、指揮は4拍子を示している。8分の12かとも思ったが、どうも違うようだ。その内に変拍子の嵐に。管が強くなっている中での変拍子だから、ブラスでも面白そう。でも、3拍子はどこへ? 4楽章はもっと不思議。後半はフーガになり、最後はニ長調の手話音が明るく鳴り響き渡って曲が終わると書いてあるのだが、曲はどんどん静かになり、クラリネットのD-durのスケールが聞こえてきて、静かに消え入るように終わってしまった。マーラーの6番の終わりのように、最後にD-durでの壮麗な響きがあるように想像したのだがそうではない。ちょうどメンデルスゾンの交響曲第3番をうっかりクレンペラー版で聴いてしまったような、虚無を思わせるのだ。しかし、記述と演奏の違いは何なのだろう。 あとでCDとスコアを買って検討しなければならない。 |
Posted by hajimet at 19:55
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2006年11月20日 |
広島 |
ここのところ、HPのUPの関係でブログはお休みだった。その間にも韓国、コンサートなど行っているので、改めて書くことにしよう。 まずは広島訪問。韓国語の教員研修のためで、17日から19日まで。往復飛行機。割引を使ったので、ほぼ新幹線と同じ金額だ。広合間訪問は91年以来2回目。あの時は駆け足だったが、今度は時間があることはある。 17日、授業が終わってから羽田空港へ。18時30分広島着。しかし、広島から先が悪かった。山陽道が事故渋滞で空港から市内まで2時間かかった。結局新幹線の方が早い。夜先に来ているメンバーと合流して韓国風料理を食べ、そのまま寝る。宿所は法華クラブ広島。 18日、6時半起床。朝食はバイキング。ヤマイモ、メカブ、広島漬けなどこの手のものにしては充実した内容だ。研修は午後からなので、午前中は宮島へ行くこととする。紙屋町東から広島電鉄で宮島へ。途中線路幅と道幅がそれほど違わないところを通りながら列車は進む。分岐点などは専用信号があるが、基本的には交通信号で走る、広電西広島からは専用軌道で鉄道用の信号で走る。隣は山陽線が併走する。 途中から忽然と戦前の建物が現れ始めた。広島市内は当然原子爆弾のためその様な建物はないので、突然何軒も固まって目の前に現れたのには驚き、改めて原爆の威力を知った。 ![]() ![]() 18日。雨(一時土砂降り)。 ![]() ![]() その後広電で宇品港に向かう。似島や江田島へ行く船もあったが、時間の関係であきらめる。さらに広電で平和記念館へ向かい、資料を集める。高校の修学旅行生と一緒になったが、見学を進めるにつれての反応の変化が興味深かった。 18時30分発の飛行機で帰宅。飛行機はまず日本海へ飛び、それから東京へ向かった。関西にある低気圧を避けたのだと思ったが、それとともに直前に大阪上空で乱気流に巻き込まれ、けが人が発生したことが、あとになってわかった。実際飛行機は大揺れで、突然突き上げるように上昇したり、スッと下降したりで客室乗務員が思わずしゃがみ込むくらいであった。こちらの読んでいた本は一瞬にぐちゃっとなってしまった。機長も2回も放送を入れる位ひどい揺れだったのだ。 |
Posted by hajimet at 21:07
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2006年10月7日 |
中国東北紀行その6(最終) |
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。![]() ![]() ![]() ![]() 東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。 |
Posted by hajimet at 09:41
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2006年10月6日 |
中国東北紀行その5 |
![]() ![]() ![]() ![]() 旅順は日本人が主に訪ねる街とのことである。戦跡としてそうなのかなとも思う。おかげで道路がキレイになったといわれたが、かなり複雑な気持ちだった。日露戦争だけでなく、日清戦争の時もここで大きな戦闘が行われ、中国人が多く殺されているので、地元の人にも厳しい感情があると聞いた。一方でロシア人でここを訪れる人は多くないとも聴いた。大連に来るロシア人は漁船員か、長期休暇で海水浴に来るリゾート型の人が多いとのことである。考えたら、ロシアで海水浴できる地域はほとんどない。 ![]() |
Posted by hajimet at 20:19
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2006年10月5日 |
中国東北紀行その4 |
9月29日。4日目になる。さすがに疲れが出てきて、肩や背中が張ってきた。考えてみたら、2日目の移動距離が500q。東京−大阪を見学を取り入れながら一気に走り抜けたようなものだ。昨日は移動距離こそ200qだが、内容は濃密だった。確かにガイドさんが言うように中国では短距離なのだろうが、絶対的な距離は相当である。しかしながら、「点と線」であることには違いない。数字の感覚は日本と中国でかなり違うようだ。人口にしても少ない街(郷、鎮クラス)で数万という数字が語られる。日本なら2万を超えたら市くらすだ。 朝食後、バスで桓任へ向かう。通化市内は太平洋戦争末期、ソ連軍の侵攻によって関東軍司令部を移した街である。今でもそのときの建物が残っている。軍事関係の施設なので撮影禁止だが、上から見ると航空機の形をしている。町中は市場が人でごった返していた。通化市を抜け出て、20分ほどで通化県の中心地に入る。通化市のベッドタウンとして発達していて、市内よりも活気がある。 ![]() ![]() ![]() ![]() 城をあとにして市内に入る。食事は今までの中で一番脂っこい。というより油の中に食べ物があるような感じだ。今までもそうだが、食事は五月雨しきに出てきて、いつが終わりかはっきりしない。それどころかデザートの果物が先に出たりする。この辺は感覚の違いだろう。桓仁は満族自治区である。満族はの家は高床式であるというが、残念ながら気づかなかった。 ![]() ![]() トイレ休憩にサービスエリアに入るが、まだ未開業だった。トイレだけ借りる。ここも工事がほぼ終わったばかり…とういうことは…。途中通過した撫順は炭鉱の露天掘りで知られる。炭鉱こそ見えなかったが、燃料に石炭を使っているのだろう。黒い煙がでていて街は煤煙の底に沈んでいた。撫順の入り口には火力発電所があるが、これも石炭で発電しているとのことだった。 ![]() 夕食を食べた後、世界第2位の規模のコリアタウンへ行く。ちょっと危険な所もあるので、ガイドもついてくる。街はハングルが溢れている。その中でピョンヤン館へ行く。北朝鮮の直営店だ。中にいるウェートレスはとてもキレイだった。ショーの女性も。記念に北朝鮮の国旗をかたどったバッジを買った。ピョンヤン焼酎の4合瓶が80元なのに対し、このバッジも80元…。ちなみに朝鮮の焼酎は25度である。普段少しきついと思って飲むのだが、中国の白酒が50度近くあるので、やたら薄く感じた。瀋陽は清国皇帝が即位し、第2代皇帝まで生活した街である。世界遺産の宮殿跡と王陵跡がある。都が北京に移ってから満州時代までは奉天と呼ばれ、様々な見所があるが、次回の楽しみにとっておくこととする。 |
Posted by hajimet at 22:13
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2006年10月4日 |
中国東北紀行 その3 |
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Posted by hajimet at 20:14
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2006年10月3日 |
中国東北紀行その2 |
2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。 |
Posted by hajimet at 22:08
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2006年10月2日 |
中国東北紀行その1 |
9月26日から10月1日まで中国東北地方をめぐった。目的は旧満州帝国の遺産と高句麗の遺跡を訪ねるというものだ。 高句麗は中国側で起こった民族で、それが朝鮮半島に拠点を移すため、最初の頃の遺跡は中国側に残されている。行きにくい場所であるが、今回機会に恵まれた。 ![]() ![]() ![]() 食事で青島ビールが出る。日本のビールより少し薄い感じがした。この後、各地で地元のビールが出て、味を楽しむ。 食後大連空港より長春空港へ向かう。手続き場では 説普通話、迎四方賓客 用文明話、送一片真心 という標語が電光掲示板に表示されていた。搭乗口待合所の売店ではお酒の他、干海老や干海鼠などを売っている。飛行機もどことなく干物系の臭いが漂う。 ![]() |
Posted by hajimet at 10:20
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2006年8月29日 |
千葉ハングル石塔紀行 |
8月28日、知人の車で千葉にあるハングルで書かれている石塔を見に行く。まずは館山へ。ちょうど一年前にもここに行っているが、そのときはとても暑かった。今年は涼しい…というよりも夏らしい暑さはあまり感じない夏だった。暑いときは湿気もすごく、からっとした感じはなかった。首都高で湾岸、館山道と入り、終点君津から一般道に入る。海沿いでもよいのだが、山道を利用する。実は南房総方面は山道の方が早いのだ。ただしルートを間違え、国道465号から県道88号に入る路を選んでしまった。88号は未整備で多くの場所が片道一車線。しかも路肩が弱いとか、落石注意なんていうところばかり。実際に法面が崩壊して片側交互通交なんて言うところもあった。道も細かいカーブが多く、自分が運転しているつもりで路面を見ていないと、確実に酔う。運転手が目が回ると言ったほどだ。![]() 寺で探し出すのは大変だと思ったら、なんと山門から本堂へ行く途中にしっかりと建っていた。脇には顕彰碑もある。こちらは今の書き方で「南無阿弥陀仏」と彫られている。 寺を出た後、那古観音を見る。日露戦争記念碑、県内に二つしかない多宝塔などを見たのち、観音堂に入る。観音堂自身は修築工事中で解体補修中であった。そのため、参道は仮に造られ、 ![]() ![]() ![]() |
Posted by hajimet at 20:25
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2006年8月19日 |
小谷村・仮面舞踏会(二題) |
表題は互いに関係ない。帰省後小谷村の融通念仏供養碑について調査を続けている。結果はホームページで公開しているが(写真)(説明)、そこでも出てくる大町北高校の太田先生から多くの示唆を受けた。それを確認するために、資料収集で国会図書館に通っている。これまでに小谷村誌、小谷の石造物を見ることが出来たし、ITでも関連サイトを探すことが出来た。喜平治の雨飾山登山の記録は原文がHPで読むことが出来る。 また、文字の原典を確認するために、倭漢節用無双嚢も見た。これは復刻の影陰版であるが、これがまた面白い。要するに辞書兼事典なのだ。魚の並べ方(川魚と海の魚で違う)とか、大名のこととか、地図とか…。読んでいて飽きない。ただし、変体仮名のため、斜めに眺めている。丁寧に読もうと思えば相当の覚悟が必要。文字も「中華文字之始」、「古文字」、「八体(大篆、小篆など)」、六書、真字と草書のときの筆の持ち方の違い、和字(国字)の起こり、いろはと来る。 それに続いて、天竺国の文字(サンスクリット)が五十音で、ダッタン国の文字(満州文字・数単語)、オランダ文字(筆記体で崩れていて、読めない)、朝鮮国の文字と続く。朝鮮国の文字は明らかにハングルなのであるが、なぜ、それがこういう字体にかわっちゃの?というくらい変型している。由来を調べてみても面白いかもしれない。 閑話休題 今、ハチャトゥリアンの仮面舞踏会に関係している。つい先日、NHKFMでこの曲を紹介していて、かなり珍しい曲との位置づけだった。大学の時に一度やったことがあるのだが、そのときはどんな背景かよく分からなかったし、それにしては暗いな位しか思っていなかった。 その後出版されたスコアにも曲の説明が出ているのだが、なんだか分かったような分からない様な説明しか書かれていない。この夏は是非原作を読もうと思ったのだが、 残念ながら邦訳が少ない事に気がついた。そこで昨日、国会図書館に行ったついでに請求して読むことにした。普段は資料収集に走り回るので、資料を見ても、斜めに見ながら関係のありそうな處をコピーしてくることがほとんどだ。以前よりスピーディーになったとはいえ、閉架の図書館で、本が出るまでに20分以上、コピーも請求してから製品が出来るまで20分以上かかるから、効率よく動き回ることが必要だからだ。 仮面舞踏会は戯曲で、中味は悲劇だった。仮面舞踏会に参加した伯爵夫人が、ニーナという人妻の落とした腕輪を公爵に差し上げる。公爵はその腕輪をくれた仮面の女を気に入るが、それがニーナの腕輪と気付く。ニーナの亭主もニーナが仮面舞踏会へ行き、腕輪を無くしたことに気付く。そして、公爵とのことも。 嫉妬に狂い、もともと人に対して冷たかった亭主はニーナと公爵を殺す機会をねらう。公爵を好きだった伯爵夫人は、自分が仮面をかぶって腕輪を渡したことを公爵に白状した。また、ニーナの亭主にも告白しようとしたが、時すでに遅し。すれ違いで告白は出来なかった。亭主は公爵を殺そうと呼び出すが、それはできず、ニーナはそこで亭主に毒の入ったアイスクリームを食べさせられ、無実を叫びながら死んでいく。 亭主がニーナの無実を知ったのは、ニーナの葬式の時、公爵と「見知らぬ男」からであった。そこで発狂し倒れていく。という話だ。仮面舞踏会の曲、特にロマンスが暗いのも、そういったニーナのロマンスを歌っていたからだ(原曲は歌だったようだ)。曲の背景を知ることも大切なのだが、しかし、良い演奏になかなかお目にかかれないのも玉に瑕。もう少しCD漁りをしなければならないように思う。 |
Posted by hajimet at 13:35
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旧盆の一日 |
8月13日、新潟へ行く。東京駅で新幹線を1本待って、無事に座れた。本当は、春に行けなかった佐渡へのリベンジ旅行も考えたが、あきらめる。実際行こうと思っていた12日は、越佐海峡は大雨だった。たしか、一年前も船に乗っている最中に大雨になり、ジェットフォイルが着水してしまい、ただのゆれる漁船になった記憶がある。 13日、夜親戚が集まり墓参りに。どこの家も線香一束を持ってくるが、この辺は東京と違うようだ。その後宴会。丼一杯の枝豆が何杯でも出てくる。 ![]() 海岸沿いの砂丘の間を道は進んでいく。途中、米子、築地などの地名を目にする。読み方は、「よねこ」、「ついじ」だ。この辺はつい先日まで中条市だったが、平成の大合併で胎内市となった。胎内川にそっているからであろうが、今まで胎内という地名は山の中の地名だったので、なんだかぴんと来ない。川も加治川、胎内川を渡り、逆水川、乙大日(きのとだいにち)川など面白い名前のついた小河川を目にしながら進んだ。あたりの家は、切り妻に多くの桟を入れる作りをしている。また、砂丘の上は工業団地として開拓されていて、アデランスの工場などもあった。 ![]() 入り口の石橋を渡ると両方に池が広がる。池の中には弁天道が建つ。池を過ぎると山門。中の仁王像は右側の像の頭の一部が残念ながら欠けていた。左手に三重の塔が見える。国指定の重要文化財になっていて、武骨ながらも味わいのある塔である。その手前、手水鉢には「わき水」がわいている。「どっこん水」というそうだ。これは「独鈷水」が訛ったもので、弘法大師がこの寺にやってきて独鈷をさしたところ、水がこんこんとわき出したという伝説に因んでいる。実際この水は、胎内川の伏流水で、味はよい。…なぜか伏流水が湧くところや、川が伏流水になるところに弘法大師の伝説が多いのだが、不思議なことである。あちらこちらで見聞きするのだ。 ![]() 新潟駅では特に待たずに座ることが出来た。実は一本後の列車のホームへ行ったのだが、よく見たらその前の列車に空席があったのだ。慌てて階段をおりて隣のホームへ。列車に乗ったときは発車2分前だった。 |
Posted by hajimet at 12:54
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