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韓の国「仏が来た道」紀行(2)の1 |
2日目 晴 【法聖浦−仏甲寺(霊光)−弥勒寺(益山)−灌蜀寺(論山)−扶余】
2日目の朝。8時にバスは法聖浦(ポプソンホ)へ向かった。東晋から来たマーラナンダが上陸したという伝説のあるところだ。港まで15分ほど。港そばの店はどこも紐につるされたイシモチを売っていた。全国からこれを買いに人が集まるそうだ。もともとこの海の先でイシモチが大量にとれたことに由来するが、仮に輸入されても、ここで霊光クルビ(いしもち)の名前で売り出されるとのことである??? 法聖浦はさらに湾を5分ほど回り込んだところ。今は聖地化事業が行われ、観光地化開発が行われていた。近々大石仏がたつ予定で、そこへ行く山門には釈迦がサトリを開いたときを表したガンダーラ仏のレプリカなどが置かれていた。海はちょうど干潮で、干潟に水は何もない。おそらく5b近くはあるだろう。遠くから潮が満ちてきたと思ったら、海の入り口は有ったいう間に水で満たされていた。あたりは芝を張ったばかりで、ここも「鶏糞」の香りが漂っていた。
次に藤原惺窩 (1561-1619)の思想に影響を与えた姜(カンハン)を祭った書堂(ソダン)を見に行く。風水的に優れたところにあるのだが、それ以上に感心したのは米のほし方であった。ちょうど稲刈りシーズンで、田には手で稲を刈る者や、機械で刈る者がいたのだが、どこにもハサで干している様子が見えなかったのだ。結局、道ばたにシートをおき、そこにモミを広げて天日干ししていたのだ。ときどき混ぜるのか、京都の竜安寺の石庭のように米の表面には筋が付いていた。国中のそこここにその様な風景が広がっていた。 続いていった仏光寺(プルガップサ)。ここはマーラナンダが最初に開いた寺と言うことだ。僧侶がお茶を丁寧に点てて(中国茶だった)から、寺の由来を説明してくれる。それが長い。通訳を入れているからもあるが、マーラナンダが生まれたガンダーラから話が起こり、アレクサンドロス大王の影響で仏像が出来たこと、ここは大乗仏教の故郷であることから話が始まり、なかなか韓国へ到着しないのだ。結局途中ではしょり、寺の見所の話になった。床にはオンドルがきき、健やかな寝息もきこえてくる事態に。 時間が30分以上オーバーしてしまい、希望を出しておいた高敞の支石墓(世界文化遺産)にはよらず、バスは西海高速道路から一般道経由で湖南高速道路に入る。益山で降りるはずが、そこを通過した。???と思ったところ、食事のために次のドライブインまで行ってしまった。そこで昼食。早くできると思ってラーメンを頼んだのが間違いだった。まず、食券を買う。そこから注文書が厨房へ行く。厨房には3つの鍋があって、その脇の大釜に湯が煮立っている。注文があるたびに湯を鍋に移し、ラーメンの袋を破き、麺を入れる。生麺ではなく、インスタントだ。注文によって辛ラーメンか、オジンオラーメンか使い分ける。出来るとそれを丼に移す。書いているだけでも効率悪いが、見ていると尚悪い。ラーメンのまわりだけ人が群がっている。5分待っても自分の番は来なかった。後で頼んだ山菜ピビンパップはものの30秒で出てきた。 食べ終わったら出発の時間。バスは一路論山へ向かった(益山へは戻れないため)。つづく
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Posted by hajimet at 21:23
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韓の国「仏が来た道」紀行(1) |
10月14日から3泊で「日韓市民ネットワーク名古屋」のメンバーと一緒に韓国へ行ってきた。現地解説のためである。といっても、行ったことのないところも多いので事前勉強が大変だった。百済に仏教が上陸したと言われるところから、遺跡をめぐるものである。 第1日目 【空港−瑞山磨崖仏−修徳寺−霊岩(泊)】 飛行機は朝8時15分羽田発金浦行き。10時40分には金浦空港に着き即座に仁川空港へ移動する。そこで名古屋、京都のメンバーと合流するためだ。30分ほど待機して、合流。即座にバスに乗 り西海高速道路を南下する。西海は後悔の韓国名である。 ほぼ1時間で韓国最長の西海大橋を渡る、7qほどの吊り橋だ。途中の島でトイレ休憩。立派なサービスエリアをくぐりぬけ、トイレへ行くと、なんと、「ここはどこなんだ?」状態。トイレの中に立派な盆栽があるのだ。便器は?盆栽の向こうに隠れるようにならんでいた。写真では左手奥になる。入り口から見えないようになっているのはよいが、ちょっと慌てる。 バスの中ではガイドさんの韓国事情講義も延々と続く。 西海大橋を渡り、唐津(タンジン)に到着。この辺一体の百済に於ける位置づけを説明した後、瑞山(ソサン)へ行く。600年頃に造られた磨崖仏がある。百済の磨崖仏は3つしか確認されていないが、みな唐津、瑞山のあるこの泰安(テアン)半島にある。 磨崖仏を見たのち、近くの修徳寺(スドクサ)へ。尼寺で、韓国で3番目に古い木造建築(14世紀)が残り、高麗壁画、大懸仏があるところである。大雄殿(本堂)でそこにいる尼さんからお話を伺 う。寺は山を背にしているが、その前に広がっていく谷は、広がりを感じさせるすがすがしい景色だった。 途中の参道には多くの門前市が出ていた。特に松の葉の粉、ドングリの粉、漢方の材料(オミジャ、トングルレ、ナツメ、葛根等々)売る店が列をなす。それと、山菜、焼き栗、焼きぎんなん(この辺は定番)の店も多い。紅葉にはちょっとだけ早かったものの、やはり秋だ。シイタケも多くの店に置かれた。韓国で見たシイタケは立派なドンコが多い。 修徳寺を出発して、再び西海高速道路を南下。途中論山のサービスエリアで休憩する。降りた途端に、「かぐわしいにほひ」が。田舎の臭い。しかも豚小屋の近くのような。芝などに肥料をやるた めに鶏糞をまいたらしいのだ。そんなこともありつつ、西海に沈む夕日を眺め(この日東京は天気はよくなかった)、さらに南下する。 バスの到着した全羅南道の霊光(ヨングヮン)はイシモチの干物(クルビ)で有名なところだ。韓国では好まれ、贈答品としても使われる。夜はイシモチをメインにした御飯。不味くはないが…。泊まったホテルは、3級のホテルであったが、荘級旅館と大差のない設備だった。翌日はこの霊光から出発である。
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Posted by hajimet at 22:48
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佐原 |
10月9日、千葉の佐原まで行った。品川から臨時特急「佐原秋祭号」に乗る。形式は183-3。房総特急用に昭和47年に作られたもので、かなり老朽化している。車内の形式板がなくなっていて、マジックで書いてあるところがもの悲しさを感じさせる。 佐原には調査したいことがあり、それをお祭りにぶつけて見に行った。 佐原は利根川の河口から40q。近隣の物の集散地として発展した。列車に乗っているときも、潮来の人が子供の時、一番大きな都会である佐原で買い物をしたということを話しているのが聞こえてきた。かなり早い時期に三菱銀行がここに支店をだしていたそうで、今でも明治時代のレンガ造りの建物が残されている。
現在は、水運は衰えていて町の勢いはかつてほどではない。戦災に遭っていないため、江戸時代からの蔵等が多く残っている。中心を流れている川沿いには、船下りが出来るようになり、そのまわりに伊能忠敬の家や蔵、昔の旅館などが整備されていた。戦前の文化住宅も綺麗に整備されていて、瀟洒な感じが出ていた。 そういう町中を山車が巡航する。それぞれの町ごとに山車をだすが、ほとんどが明治になる前後の物だ。山車の上には大きな人形を置く。素戔嗚尊、仁徳天皇、小野道風、浦島太郎、神武天皇などのテーマで創られ(之も明治期の物のようだ)、それが巡行する。山車の中に人が鈴なりに座り、囃子を吹いていくのだが、威勢がよいというよりは、のんびりしたテンポで演奏をしている。
その山車を引っ張るとともに、後ろから押すのだが、押す人は後ろを向いて背中で山車を押していた。さらにその後ろに踊りが続く。訪れた日は最終日で、山車が自由にコースを選んで回る日になっていた。そのためあちらこちらで山車どうしが鉢合わせをしたり、みていて飽きなかった。 帰りに酒蔵を覗く。そこで出しているミリンは雑誌などでも紹介されているのだが(そこのミリンで創る梅酒は絶品だとのこと)、その樽を見てきた。酒と違い、常に炭火で45度くらいに温めて醸造するということであった。 帰りも臨時特急で帰る。車両は行きと同じ。指定席3両、自由席3両であるが、指定席はぎっしりと込んでいた。反対に自由席はがらがら。おそらく旅行社のツアーのような形で席がおさえられていたのであろう。
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Posted by hajimet at 11:17
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