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2005年10月27日
韓の国「仏が来た道」紀行(3)

(扶蘇山城−クドゥレナル−定林寺−陵山里古墳群−昼食−渓流山甲寺−東鶴寺)
朝、とても深い霧の中を扶蘇山を登りはじめる。
百済の王宮の裏手にあたり、山城になっている山である。高さは100メートルほど。だらだらした坂を上り、戦前、扶余神宮を作ろうとしていたところにある、三忠祠を左に見ながら進む。ところどころ土塁や石垣のあとが見られる。百済時代、日の出を楽しんだという迎日楼まで来るが、やはり霧が深く、遠くは見えない。
 
さらに西腹寺、軍倉あと、送月楼跡を見ながら登る。軍倉あとは、百済の軍米が置かれていたところで、今でも炭化した米が出てくる。15分も歩いたであろうか。いよいよ落花岩だ。三国遺事では堕死岩と書かれているのだが、百済が亡びるときにここから宮女が落下して死亡したという。
 
 伝説では300人近い人数と言うことになっている。その宮女達のスカートが風邪で花びらつぼみのように広がりながら落ちていく様子をみて落花岩(ナックヮアム)と名付けたという。
 
 普段白馬江の見晴らしもよいし、足下の水面までのきりたった崖煮立つと、吸い込まれるように川面が見えるところだが、何せ川霧がすごく、下は真っ白で何も見えない。うっかり足を滑らせたら、とんでもないことになるような恐怖を感じた。まるで地獄のそこに落ちていくように感ずる。
 
しばらく、そこで百済に思いをはせた後、白馬江下りへコラン寺まで降りていく。寺の後ろに泉があり、それを飲むと若返るという。この辺まで来ると、陽も射してきて川霧が晴はじめた。徐々に川の対岸が見え始め、川の全貌が見える。いつもよりも水が満々とたたえられた白馬江が見え始めた。
 
船に乗る。先ほどの落花岩を下から見ながら船は進む。遠くに飛鳥三山ならぬ扶余三山の一つ、浮山(プサン)を見ながら船は進む。慶州は奈良に似ているが、扶余は飛鳥に似ている。残っているものが少なくて「心の眼」で見るところまでだ。日本語で案内が流れ続けるが、ちょっとうるさい。30分の船旅と言うが、10分でクドゥレナルへ到着した。
 
ここから定林寺(チョンリムサ)へ移動する。多くの子供や観光客が来ている。百済時代の石塔、高麗時代の石仏が残っている寺だ。昼食まで少しあるので、急遽陵山里古墳群まで行く。百済王家の古墳で装飾古墳が残されている。そばに扶余を囲む羅城があり、都邑地を出たことが分かる。装飾古墳の本物は見ることが出来ず、模造で見ることが出来る。
 
あたりは秋の始まりを思わせる景色で、僅かにハゼなどが赤くなり、ススキの穂が銀色に輝いていた。古墳を建学している最中に、食堂から電話がかかってきた。「食事、もう出来ているんですけど…」。お昼は石焼きピビンバップ。人数分石焼きの中に入って、配膳されているということだ。
 
店に着き、席に着いたときは石は冷え、お焦げは固くなり、上に乗っていた生卵は半半熟に近い状態になっていた。食後バスに乗り鶏竜山(ケリョンサン)へ行く。竜の上に鶏冠が乗ったような形をしているので、このような名前になったという。歴史的にも重要な山で、古代以来韓国史の中では何回も登場している。まずは甲寺。「春麻谷、秋甲寺」というほどよく知られた寺で、新羅以来の様々な遺物がある。
 
しかし、それよりも何よりも人が多い。入り口は門前市をなしていて、どの店も「KBS」で紹介されたと出ている。本当に一見ずつ紹介されたのであろうか。寺まで見て、新羅時代の鉄製幢竿支柱を見て、東鶴寺へ。
 
ここはもっと人がすごかった。渋谷センター街も真っ青な混み方である。門前市ももっとすごい。寺そのものは朝鮮戦争で焼けてしまい、建物そのものは新しい。古いものといえば、高麗時代の石塔があるくらいだが、途中の渓谷はきれいであった。
 
山は上が岩山、下は紅葉が始まりはじめて色が変わりはじめた青。水辺では家族がビニールシートを広げて宴会をしている。ただし、寺まで遠い。ゆるやかな上り坂を15分以上かけて登っていかなければならない。さすが、韓国の山寺である。
 
バスはソウルへ向かう。専用レーンが出来ているので、渋滞の斜線を尻目にソウルへ入った。ホテルはソウル観光ホテル。今までの中で一番よいホテルであった。竹筒御飯を食べて就寝。
 
 

Posted by hajimet at 21:42 | Comments (0)


2005年10月19日
韓の国「仏が来た道」紀行(2)の2

長くなったので第2弾。
 
バスは論山(ノンサン)のインターで降りる。論山を見るのは後回しにして、益山(イクサン)の弥勒寺(ミルクサ)へ向かう。論山は軍隊の訓練所があるところで、その近くの横断幕には「愛国の精神で生まれ変わろう」「生まれ変わった気持ちで、お母さんにあいさつを」というようなことが書かれていた。ここで半年訓練を受けたのち、1年半持ち場に配属されるそうである。
 
弥勒寺は百済最大の寺で、石塔がある。地盤が軟弱なため東西の石塔とも崩壊した。西塔はかなり崩壊していながらも、コンクリートで補強してかろうじて残っていたのだが、近年解体補修工事を始めていた。西塔の周囲には飛鳥の欽明天皇陵下にある猿石にそっくりな石があるが、石塔の屋根をひっくり返した者の上に置かれたことがわかり、百済のものかは怪しくなっている。東塔は最近復元されたものだ。博物館にいる日本人女性が通訳に回る。
 
ここから論山へ戻る。あたりは柿の実がたわわに実っていた。灌蜀寺(クヮンチョクサ)は韓国で最大の石仏のあるところである。バズは道に迷いなら寺へ向かう。車内ではキムチの付け方をガイドさんが話していた。
 
参道はここでも稲の乾し場に使われていて、その周囲にマッコルリや焼き栗、蚕のさなぎを売る店があった。子供の時にこれを醤油味で食べたと懐かしそうにつまんでいる人もいた。
 
寺への階段を登る。山寺が多いが、ここもそうだ。寺に般若心経が流されるが、なぜかトイレにも流れている。上がってすぐ左手に消防車が止まっていた。自警団のようなものが置いているのようだが、そこに書かれていた文字は「甘露水」。たしかにそうなのだが、きっと、仏のご加護も多いことであろう。弥勒殿の中には仏像がなく、ガラス越しに石塔と弥勒仏が見られる。ただし、弥勒仏と言うが、観音であるといわれる。
 
石仏は頭の上に細長い帽子をかぶり、その上に早稲田大学の角冒のようなものを二段に重ねてかぶっている。拝礼するためには靴をぬいで、仏像の前に行かなければならない。そこにはろうそくと、米が備えられていた。
 
仏像から出る光が中国まで届いて、僧侶がわざわざ参拝に来たとか、なにかと伝説の多い仏像である。その右手に持っている紫の蓮は、弥勒殿脇の水槽に綺麗に開いていた。
 
寺の入り口では、お土産用の扇子を1000ウォンで売っていた。ソウルで買うと安くても5000ウォンはするものがである。バス停の前には、一休みが出来るように水やジュース、アルコールが売られていた。その中にお土産用の塩辛を売っている店もあった。いろいろなものがあったが、中にイシモチの子供の塩水付けも売っていた。
 
バスは扶余へ向かう。30分ほどの距離をうとうとしながら一般国道を進む。扶余の入り口、陵山里古墳群、香炉、羅城の話をしながら、市内へ。こじんまりとした町で、歩いて回ることも出来るところだ。
 
バスは宮南池(クンナムジ)へ行く。以前行ったときは水田の中にぽつんとある池であったが、まわりは一面蓮畑と沼になり、ノルティギ(ブランコ)などが置かれ子供が楽しんでいた。その上池には帆船が一隻浮かび、遠くには階白(ケベク)将軍の逸話を描いた大石碑が置かれている。改めて見に行く必要をかんじるほど、整備されていた。
 
夕食は錦江を渡ったところでウナギを食べた。ぶつ切りを焼いたもので、一人前2匹。これをサンチュなどに包んで食べる。かなり油っこい。宿泊は扶余三井ユースホステル。一人部屋は電源コンセント以外なにもない。テレビも電話もなく、風呂もトイレにシャワーだけついているものだった。オンドルも効かない。場所によってはコンセントにガムがつまっている。どうも学生が泊まる部屋が割り当てられたようなのだ。
 
他の部屋は設備がそろっていて、オンドルも効いていたので、フロントに文句を言いに行ったら、一言「ガイドさんから説明はなかったのですか?変更できる部屋はありません…」。けんもほろろであった。広々としているから、まあ、いいっか…!。12時過ぎに就寝。
 
でも情報がないと寂しいから、こういう時用に日本から持ってきた短波ラジオでNHKの国際放送を聴く。ラジオ第1放送と同時放送だから、重宝だ。しかも東京の放送が流れるので、違和感もない。
 

Posted by hajimet at 21:54 | Comments (0)


韓の国「仏が来た道」紀行(2)の1

2日目 晴 【法聖浦−仏甲寺(霊光)−弥勒寺(益山)−灌蜀寺(論山)−扶余】
 
2日目の朝。8時にバスは法聖浦(ポプソンホ)へ向かった。東晋から来たマーラナンダが上陸したという伝説のあるところだ。港まで15分ほど。港そばの店はどこも紐につるされたイシモチを売っていた。全国からこれを買いに人が集まるそうだ。もともとこの海の先でイシモチが大量にとれたことに由来するが、仮に輸入されても、ここで霊光クルビ(いしもち)の名前で売り出されるとのことである???
 
法聖浦はさらに湾を5分ほど回り込んだところ。今は聖地化事業が行われ、観光地化開発が行われていた。近々大石仏がたつ予定で、そこへ行く山門には釈迦がサトリを開いたときを表したガンダーラ仏のレプリカなどが置かれていた。海はちょうど干潮で、干潟に水は何もない。おそらく5b近くはあるだろう。遠くから潮が満ちてきたと思ったら、海の入り口は有ったいう間に水で満たされていた。あたりは芝を張ったばかりで、ここも「鶏糞」の香りが漂っていた。
 
次に藤原惺窩 (1561-1619)の思想に影響を与えた姜(カンハン)を祭った書堂(ソダン)を見に行く。風水的に優れたところにあるのだが、それ以上に感心したのは米のほし方であった。ちょうど稲刈りシーズンで、田には手で稲を刈る者や、機械で刈る者がいたのだが、どこにもハサで干している様子が見えなかったのだ。結局、道ばたにシートをおき、そこにモミを広げて天日干ししていたのだ。ときどき混ぜるのか、京都の竜安寺の石庭のように米の表面には筋が付いていた。国中のそこここにその様な風景が広がっていた。
 
続いていった仏光寺(プルガップサ)。ここはマーラナンダが最初に開いた寺と言うことだ。僧侶がお茶を丁寧に点てて(中国茶だった)から、寺の由来を説明してくれる。それが長い。通訳を入れているからもあるが、マーラナンダが生まれたガンダーラから話が起こり、アレクサンドロス大王の影響で仏像が出来たこと、ここは大乗仏教の故郷であることから話が始まり、なかなか韓国へ到着しないのだ。結局途中ではしょり、寺の見所の話になった。床にはオンドルがきき、健やかな寝息もきこえてくる事態に。
 
時間が30分以上オーバーしてしまい、希望を出しておいた高敞の支石墓(世界文化遺産)にはよらず、バスは西海高速道路から一般道経由で湖南高速道路に入る。益山で降りるはずが、そこを通過した。???と思ったところ、食事のために次のドライブインまで行ってしまった。そこで昼食。早くできると思ってラーメンを頼んだのが間違いだった。まず、食券を買う。そこから注文書が厨房へ行く。厨房には3つの鍋があって、その脇の大釜に湯が煮立っている。注文があるたびに湯を鍋に移し、ラーメンの袋を破き、麺を入れる。生麺ではなく、インスタントだ。注文によって辛ラーメンか、オジンオラーメンか使い分ける。出来るとそれを丼に移す。書いているだけでも効率悪いが、見ていると尚悪い。ラーメンのまわりだけ人が群がっている。5分待っても自分の番は来なかった。後で頼んだ山菜ピビンパップはものの30秒で出てきた。
 
食べ終わったら出発の時間。バスは一路論山へ向かった(益山へは戻れないため)。つづく

Posted by hajimet at 21:23 | Comments (0)


2005年10月18日
韓の国「仏が来た道」紀行(1)

10月14日から3泊で「日韓市民ネットワーク名古屋」のメンバーと一緒に韓国へ行ってきた。現地解説のためである。といっても、行ったことのないところも多いので事前勉強が大変だった。百済に仏教が上陸したと言われるところから、遺跡をめぐるものである。
 
第1日目
【空港−瑞山磨崖仏−修徳寺−霊岩(泊)】
 
飛行機は朝8時15分羽田発金浦行き。10時40分には金浦空港に着き即座に仁川空港へ移動する。そこで名古屋、京都のメンバーと合流するためだ。30分ほど待機して、合流。即座にバスに乗り西海高速道路を南下する。西海は後悔の韓国名である。
 
ほぼ1時間で韓国最長の西海大橋を渡る、7qほどの吊り橋だ。途中の島でトイレ休憩。立派なサービスエリアをくぐりぬけ、トイレへ行くと、なんと、「ここはどこなんだ?」状態。トイレの中に立派な盆栽があるのだ。便器は?盆栽の向こうに隠れるようにならんでいた。写真では左手奥になる。入り口から見えないようになっているのはよいが、ちょっと慌てる。
 
バスの中ではガイドさんの韓国事情講義も延々と続く。
 
西海大橋を渡り、唐津(タンジン)に到着。この辺一体の百済に於ける位置づけを説明した後、瑞山(ソサン)へ行く。600年頃に造られた磨崖仏がある。百済の磨崖仏は3つしか確認されていないが、みな唐津、瑞山のあるこの泰安(テアン)半島にある。
 
磨崖仏を見たのち、近くの修徳寺(スドクサ)へ。尼寺で、韓国で3番目に古い木造建築(14世紀)が残り、高麗壁画、大懸仏があるところである。大雄殿(本堂)でそこにいる尼さんからお話を伺う。寺は山を背にしているが、その前に広がっていく谷は、広がりを感じさせるすがすがしい景色だった。
 
途中の参道には多くの門前市が出ていた。特に松の葉の粉、ドングリの粉、漢方の材料(オミジャ、トングルレ、ナツメ、葛根等々)売る店が列をなす。それと、山菜、焼き栗、焼きぎんなん(この辺は定番)の店も多い。紅葉にはちょっとだけ早かったものの、やはり秋だ。シイタケも多くの店に置かれた。韓国で見たシイタケは立派なドンコが多い。
 
修徳寺を出発して、再び西海高速道路を南下。途中論山のサービスエリアで休憩する。降りた途端に、「かぐわしいにほひ」が。田舎の臭い。しかも豚小屋の近くのような。芝などに肥料をやるために鶏糞をまいたらしいのだ。そんなこともありつつ、西海に沈む夕日を眺め(この日東京は天気はよくなかった)、さらに南下する。
 
バスの到着した全羅南道の霊光(ヨングヮン)はイシモチの干物(クルビ)で有名なところだ。韓国では好まれ、贈答品としても使われる。夜はイシモチをメインにした御飯。不味くはないが…。泊まったホテルは、3級のホテルであったが、荘級旅館と大差のない設備だった。翌日はこの霊光から出発である。
 

Posted by hajimet at 22:48 | Comments (0)


2005年10月10日
佐原

10月9日、千葉の佐原まで行った。品川から臨時特急「佐原秋祭号」に乗る。形式は183-3。房総特急用に昭和47年に作られたもので、かなり老朽化している。車内の形式板がなくなっていて、マジックで書いてあるところがもの悲しさを感じさせる。
 
佐原には調査したいことがあり、それをお祭りにぶつけて見に行った。
 
佐原は利根川の河口から40q。近隣の物の集散地として発展した。列車に乗っているときも、潮来の人が子供の時、一番大きな都会である佐原で買い物をしたということを話しているのが聞こえてきた。かなり早い時期に三菱銀行がここに支店をだしていたそうで、今でも明治時代のレンガ造りの建物が残されている。
 
現在は、水運は衰えていて町の勢いはかつてほどではない。戦災に遭っていないため、江戸時代からの蔵等が多く残っている。中心を流れている川沿いには、船下りが出来るようになり、そのまわりに伊能忠敬の家や蔵、昔の旅館などが整備されていた。戦前の文化住宅も綺麗に整備されていて、瀟洒な感じが出ていた。
 
そういう町中を山車が巡航する。それぞれの町ごとに山車をだすが、ほとんどが明治になる前後の物だ。山車の上には大きな人形を置く。素戔嗚尊、仁徳天皇、小野道風、浦島太郎、神武天皇などのテーマで創られ(之も明治期の物のようだ)、それが巡行する。山車の中に人が鈴なりに座り、囃子を吹いていくのだが、威勢がよいというよりは、のんびりしたテンポで演奏をしている。
 
その山車を引っ張るとともに、後ろから押すのだが、押す人は後ろを向いて背中で山車を押していた。さらにその後ろに踊りが続く。訪れた日は最終日で、山車が自由にコースを選んで回る日になっていた。そのためあちらこちらで山車どうしが鉢合わせをしたり、みていて飽きなかった。
 
帰りに酒蔵を覗く。そこで出しているミリンは雑誌などでも紹介されているのだが(そこのミリンで創る梅酒は絶品だとのこと)、その樽を見てきた。酒と違い、常に炭火で45度くらいに温めて醸造するということであった。
 
帰りも臨時特急で帰る。車両は行きと同じ。指定席3両、自由席3両であるが、指定席はぎっしりと込んでいた。反対に自由席はがらがら。おそらく旅行社のツアーのような形で席がおさえられていたのであろう。

Posted by hajimet at 11:17 | Comments (3)