| 2005年8月30日 |
| コウモリとカールベーム |
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コウモリはオペラ・オペレッタの中でも好きな作品だ。序曲が良くできていて、曲の見せ場をうまく組み合わせているので、序曲を聴くたびに作品の中を思い出して、それだけでも楽しくなる。 |
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Posted by hajimet at 21:57
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| 2005年8月29日 |
| ソウル(3)舎堂から市内へ |
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Posted by hajimet at 23:58
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| 2005年8月28日 |
| ソウル(2)新村 |
夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。 ポソクチョンは本来、鮑石亭と書き新羅の古都慶州(キョンジュ)にある(リンク)。しかし、この店の「ポ」は「鮑」ではなくて「泡」である。慶州の鮑石亭のほうは鮑の形の石の溝があって、そこで曲水の宴を行った。それを模したのであろう。店の真ん中に大きな机があり、そこに似たような形の彫り込みがあり、マッコルリ(韓国風どぶろく)が流れているのである。 粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。実際はアクリル板が溝の上に乗っていて、汚れが入らないようになっている。くみ取るところに穴が開いていてそこから手を入れるのだ。普段は穴の上にどんぶりが載っていて、ぴったり塞いである。 マッコルリの味は変わりやすい。瓶に入れておくと、どんどん酸化していくことがわかる。しかし、ここのものは酸味はほとんどなくて呑みやすかった。ついでに滝があると、と思ったが、けっこう臭いが強いから無理だろう。酸化もするし…。 帰り際KANSAIという日本ラーメン屋によった。関西ラーメン当というものを食べたが、コンソメの味が効いた豚骨風ラーメンで、日本風韓国ラーメンであった。麺を煮込む文化だからであろう。だいぶべとべとしていた。 |
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Posted by hajimet at 09:35
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| 2005年8月27日 |
| ソウル1(仙遊島) |
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朝8時15分、羽田発のJALでソウル金浦空港へ向かった。1時間50分の飛行。11時にはもう市内にいる。一服した後、漢江中州の仙遊島(ソンニュード)へいった。もともと浄水場だったところで、それが公園として解放されたのだ。以前は入れなかった。ソウル日本人会の俳句会の吟行にご一緒させてもらったのだ。 |
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Posted by hajimet at 16:23
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| 2005年8月22日 |
| 館山 |
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再び青春18切符で館山まで行く。内房線だが、単線のため待ち合わせが多い。あっちこっちで5分程度の接続時間あって、意外と時間がかかる。君津を過ぎて上総湊のあたりまで来ると、右手に東京湾が見えてくる。いつもは三浦半島が見えるのだが、この日は少しガスがかかっていて、そこまでは見えなかった。 |
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Posted by hajimet at 10:18
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| 2005年8月20日 |
| 勝浦 |
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青春18切符を使って外房線の勝浦まで言ってきた。学校の歴史を調べていたら、明治の校長であった、勝浦校長が勝浦で勉強合宿をやって、そのとき泊まったところが勝浦館というところだったという記録があって、どんな町か見に行こうと思ったからである。 |
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Posted by hajimet at 09:32
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| 2005年8月16日 |
| 佐渡 |
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約10年ぶりに佐渡へ日帰りで行ってきた。新潟から両津までジェットフォイルで1時間。お盆は初めてだ。墓の上に蓮の葉をかぶせていたり、仏壇の上に草で屋根をかける様子など、はじめて見る習慣もあった。墓については多くのところでそうだったが、蓮の葉が被さっているところと、そうでないものが同じ墓地の中にあって、何かかぶせ方に意味があるのかも知れない。集落ごとにも習慣が違うのだろう。ある集落では、玄関の前に仏画の描かれた灯籠の建っているところもあった。 |
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Posted by hajimet at 10:07
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| 2005年8月12日 |
| 妙義山 |
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Posted by hajimet at 13:21
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| 小諸(3)北国街道 |
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Posted by hajimet at 12:05
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| 小諸(2)千曲川 |
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Posted by hajimet at 11:35
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| 小諸(1)懐古園 |
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Posted by hajimet at 11:24
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| 2005年8月9日 |
| 御代田散策 |
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近くの浅間縄文ミュージアムでは常設展の他に皇女和宮降下の特別展をやっていた。縄文文化は、国宝となっているこの地域にしかない焼町土器が目をひいた。 半日御代田の町を散策した。出だしは真楽寺。用明天皇のときに創建された寺と伝えられる。浅間山の噴火をおさえることを祈願した寺だとのことだ。同様の寺は浅間山の反対・群馬県側にもあったが、江戸時代の大噴火の時に泥流の下になってしまった。 境内には厄除観音の他に三重の塔が建つ。他に古木や、芭蕉の句碑「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」の句碑が建っていた。 かんかん照りの暑い中、普賢寺まで行った。途中、栗やカリンの木が多い。黄檗宗の寺で、1677年に開基された。こちらも浅間山の噴火をおさえることを祈願したということだ。古い建物は門以外残されていない。火災で焼失したとのことだった。 大雄殿の入り口には、中国風に魔除けの桃を描いた扉がつけられ、屋根にも黄檗宗独自の物が置かれていた。天上には竜画が描かれている。また、奥には、日本ではじめて刷られた八万大蔵経の経蔵があった。 |
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Posted by hajimet at 23:26
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| 久しぶりの志賀高原 |
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8月1日から4日まで、志賀高原へ行った。場所は発哺温泉。お湯がポッポとわき出るので、この名前がついたという。周囲にはほんのりと硫黄のにおいが立ちこめていた。山からは急傾斜で谷に下る所だが、これは火山のカルデラの縁にあたるためである。
建物物の中に入り、声をかけてから眼下に広がる景色を眺めて帰ってきた。当時の記憶では途中小さな沢に木の橋がかかっていた。それは、新しくできた道路の下に残されていた。ちょっとしたタイムトリップであった。 |
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Posted by hajimet at 23:04
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夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。
粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。
入り口を入ると、あちらこちらに浄水場だった施設が見える。沈殿池のあとは水生植物園や植物園になっている。そのようなところに睡蓮などの水生植物をうえた水生植物園、ガマや芹などが植わる水質浄化園、白樺などがうえられた生態の森等が作られている。なんでも、浄水場の建築構造物を再活用した国内最初の環境再生生態公園、すなわち「水公園」なのだそうだ。
館山の駅から館山城あとへ向かう。バスで五分ほど。途中、赤とんぼが乱舞している中を歩いていく。そこに市立博物館がある。常設展では館山の歴史を紹介していたが、三浦半島と近いため意外と共通点が多い。中世の墓である「やぐら」もこの地域だけあるとのことだ。
山の上に天守閣が復元されているが、ここも砲台にするために削平されていた。天守閣は博物館の分館で、里見八犬伝の資料を展示していた。館山城は里見氏の本拠地で、城内には南総里見八犬伝の元となったと伝えられる八賢士の墓もある。天守台の高さは海抜70b。波が静かなことから鏡浦と言われる館山湾、旧軍の軍事施設などが一望できた。
勝浦の町はそれほど大きくはない。3方が山に囲まれているからだ。駅前から5分も歩くと勝浦漁港へ行く。駅から漁港へ行く道が緩やかにカーブを描いていて、道の右手から海があらわれる。太陽の位置などから、感覚的に外房の海岸と逆の方向から海があらわれるのだ。一瞬内房にいるような気分になる。地図を見てみると、勝浦は湾になっていて、太平洋は岬の向こう側になる。町の発展している方向は太平洋と半島の反対側なのである。つまり、ミニ房総半島状態なので、感覚は正しいことになる。
公園は江戸時代の勝浦城のあったところで、徳川光圀のお祖母さんの生まれたところだ。城跡の片側には勝浦湾が広がり、湾の入り口の岩礁に立つ鳥居の脇を船が頻繁に通り過ぎていく。南には房総半島から伊豆大島まで見える。北側は太平洋への断崖絶壁に灯台が建ち、多くの船が列をなして勝浦に向かってくる。足下は海水浴やダイビングの服装をした人が…。改めて水平線が丸いことを感じた。
とから付けられた名前である。安政の開国の時には新潟港の補助港となり税関もあった。二つの砂州の背後には加茂湖という湖がある。それまで淡水湖だったが、明治時代に海への水路を広げたことで汽水湖となった。今は牡蠣の養殖で知られる。
で、遠目に檻の中でトキの舞っている様子を見ることが出来た。この森の出口には白山神社がある。
佐渡にも渡来人の関係を示す物が多いようだ。近くの畑野は秦氏との関係が指摘され、そこの賀茂神社も新羅との関係を指摘するものがある。先ほどの長安寺も渡来人との関係があるのではないかとも言われている。そんなところを見ながら、両津港にもどった。港の脇には五泉から村松まで走っていた蒲原鉄道のものとおもわれる廃車体がおかれていた。(佐渡に鉄道はない)。
1週間の志賀高原、御代田での仕事も終わりバスで帰路についた。長野自動車道である。長野県側は比較的平坦な高原状の所を走るのに、群馬県側に入ったとたんに複雑怪奇な形をした山沿いの景色に変わる。妙義山である。
るが、もともとは700万年から550万年前の火山活動で出来た榛名山くらいの山が元となっているとのことだ。その山が激しい地殻変動で陥没し、のちの風化、浸食の影響で今のような形になったとのことだ。この奇岩が多いことで大正12年に名勝に指定されている。
覚える景色をしている。行きは靄がかかっていてその様な山容を見ることが出来なかったが、帰りははっきり見ることが出来た。
懐古園をあとにして、北国街道を歩く。善光寺を通って行くことから、善光寺街道とも呼ばれた。加賀百万石の参勤交代のルートであり、佐渡の金山の金を江戸に運ぶ道でもあった。もともとここは小諸城の城下町、宿場町であった。今でも大手門が残されているし(現在修復工事中)、本陣の立派な建物が残されている。
さらに歩くと、柳茂(柳田茂十郎)商店があらわれる。明治の建物で、屋根の上に望楼が乗っている事が特徴的である。小諸の大商人が造った建物である。この望楼と玄関先の看板建築があわないのだが、道路の拡張の際に道路側が切り取られたためにこのような形になったとのこと。
柳茂商店の向かい側には山崎長兵衛商店がある。こちらは明治初期の建物である。かんざしや櫛、降水などを売る店で助成にとても人気があったという。
そばの嶋田屋も古い。江戸時代の御用商人だった呉服商が、明治のデフレで没落し、その家を買い取ったという物である。伝統的な小諸の豪商の屋敷が前を残していると言われる。今はそこで縄や農機具、下駄などを扱っている。
小諸といえば、「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/」で始まる、島崎藤村の「千曲川旅情」の歌が有名だ。もちろん懐古園の中に詩碑が建てられていて、観光スポットになっている。多くの人がこの句碑の前に来ては写真をとっている。
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翌日小諸へ行く。
小諸駅から懐古園へ行く。駅のすぐそばで歩いて5分かからない。ここは江戸時代の小諸城の跡であるが、他の城と異なり、周囲より低いところにある「穴城」である。城下町の方が高いところにあるのだ。入り口である三の門も線路よりかなり低いところにある。.jpg)
記念館などがある。これらを眺めたうえで駅前に戻った。園内には動物園もあるのだが、そちらへは足を伸ばさなかった。駅の近くには、15年ほど前に小諸へ行ったときに、なぜか印象に残った建物が今でも残っていたので、写真に納めた。 .jpg)
当時の道を思い出して行ってみた。少し広がっているみたいだが、砂防ダムやロープーウェー、見覚えのある景色が広がっていた。ここでこんなことをして…などと思い出しながら歩いていったら、目の前に三角屋根の当時のままのホテルがあらわれた。