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2005年8月30日
コウモリとカールベーム

コウモリはオペラ・オペレッタの中でも好きな作品だ。序曲が良くできていて、曲の見せ場をうまく組み合わせているので、序曲を聴くたびに作品の中を思い出して、それだけでも楽しくなる。

映像ではカルロス・クライバーのもの(最初LD,先日韓国でDVD購入)、ヴラディミル・ユロフスキーをもっていて、CDはボスコフスキーのものがある。クライバーは軽快な演奏で、とても楽しめる。ユロフスキーは演出が相性にあわない。ボスコフスキーはフォルクスオーパーの演奏で、非常に上品である。ここにカールベーム、ウィーンフィルハーモニーの映像が加わった。

カールベームは1981年に没した指揮者で、晩年何回か日本に来て、とても人気があった。70年代頃からの演奏はテンポが落ちてきて、特にロンドンフィルといれたチャイコフスキーの5番4楽章のコーダなどは止まるのではないかと思うくらい遅くなるものもあった。一方50年代から60年代にかけてのベルリンフィルとの演奏はとても快活なものが多い。ブラームスの交響曲第1番、シューベルトの交響曲第9番などが印象的だ。

晩年でもテンポが快活なものもあり、ドレスデンと入れたシューベルトの交響曲第9番は荒れているのではないかと思うほどの演奏であるし、ウィーンフィルとのシューマンの交響曲第4番はコーダで驚くようなアッチェレランドがある。

全体としては、武骨と言ってもよいほどの非常にまじめな演奏をする指揮者で曲によってはタダまじめなだけというものもあるが、一方で低音楽器を中心とした拍動感と推進力、歌わせ方の優れた指揮者でもあった。ウィーンといれたベートーヴェンの交響曲第6番などがその代表であろう。テンポはそれほど速くないが、音楽がどんどん前に進んでいくのだ。

コウモリは1972年の録音で、序曲からしてまじめで、遅めのテンポであるが推進力をかんじる。序曲でカールベームの指揮がずっと見られるのも嬉しい。

第1幕からの演出はカルロスクライバーと同じオットー・シェンクのものであるが、テンポの設定や配役の違いから、ライブと映画の違いか、クライバーのものよりももう少し古い時代の設定のように見える(実際は1874年(明治7年)に42日間で作曲されたといわれる)。なお、主人公のアイゼンシュタインは両方ともヴェヒターである。

テンポは遅いが出演者が楽しみながら歌っている様子がよくわかる。ともかく全編どこを見ても楽しそうなのだ。

序曲でいう中間部、4分の3になる旋律(メロドラマ風の所)で構成されている「8日間も貴方なしで1人ですごすなんて」では、クライバーが、いかにも楽しみを思い浮かべてうきうきという雰囲気が前面に出るのだが、ベーム版は悲しみをこらえる風な顔をしながら、でもこらえきれずにうきうきするという微妙な雰囲気を良く出している。

第2幕、オルロフスキーはクライバー版はアルトのファスベンダーが歌っていて若々しい感じを出しているが、ベーム版はテナーのヴィントガッセンが歌っている。こちらはすでに60才近く、貫禄のあるオルロフスキーだ。当然若々しいテンポの速い語り、動きではなく、重厚である。

「高貴な振る舞い、しなやかな物腰」の時計の音を数えているうちに、時計をロザリンデに奪われてしまうところのテンポ感はベームらしい。

第2幕後半のワルツは序曲よりもテンポ感も良く、良く聴くと3拍目が少し遅れるウィーン風のリズムになっている。ワルツの旋律がおわり、鐘が6つなる直前のクレッシェンドはとても効果的に聞こえる。

第3幕の「どうしたらよいだろう」は途中から序曲の序奏部(6つの鐘のあと)になる。弁護士に化けたアイゼンシュタインが切れるところで、この曲全体のクライマックスになり、さらにコーダ直前の部分へと飛ぶが、アイゼンシュタインが切れた雰囲気の違いが良く出ている。

フィナーレでは再び鐘の後の旋律が出てくるが、ここはかなりはやめのテンポで進んでいく。

ただ、いずれにせよ遅めで、まじめなテンポと解釈であるが、見れば見るほど(聴けば聴くほど)飽きない演奏のように思う。

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2005年8月29日
ソウル(3)舎堂から市内へ

2日目。朝土砂降りで、遠出の予定を変更する。少し早いお昼を食べたが、珍しく不味い。チェーン点の鉄板クイでパイナップルとトマトも一緒に炒めているために変な味になるのだ。食べた場所は地下鉄2号線新林洞(シンニムドン)駅そば。それから2号線にのり、舎堂(サダン)駅で降りた。ソウル市立美術館南ソウル別館へ行く。駅から100b。画家による「自然の記録展」をやっていた(チラシでは7月31日までだったか)。キムスンヨンのNight Landscapeという作品は、写真をもとにしてコンテ風にしたものであったが、ずっと韓国のものだと思ってみていたら、最後1枚、銀座の風景が混ぜてあった。
 
この建物はかなり古風だ。レンガ造りでコロニアルスタイルのベランダがある。実は大韓帝国時代に建てられたベルギー領事館の建物で、のちにここに移築したとのことだ。続いて、4号線で景福宮(キョンボククン)まで行き、朝鮮時代に国の安泰を願って祭祀が行われた、社稷壇(サジクダン)、国の始祖、壇君廟などを見て、仁寺洞まで歩く。かなりの人出で町が沸き返ってきた。日本語、中国語も聞こえてくるし、南アジアの服装をした人も多い。もちろん、日本語通じる店も多いし、日本語の看板もあるのだが、中には?と思うような日本語もある。
 
寺洞麺屋の場合「サドンミョノク」になるのだが、「ン」が「メ」に、「ョ」が「ヨ」に、「ク」が「ワ」になっている。以前「スラックス」が「ズうツクス」になっているものを見たことがあるが、おそらく混同しやすいのであろう。きっと、日本にある韓国語の表記も似たようなものが結構あるのだろう。韓国語の方が一見記号にしか見えないから、そういうことが多いかも知れない。
 
仁寺洞の出口が鍾路である。そのも一本向こうが清渓川である。ここは朝鮮時代に首都漢城をつくるときに、整備された川で、もともと下水用の川で、朝鮮時代に川をさらって清流を流すか、下水のままにするか議論があった川であった。
 
朴政権のときに汚れの激しさから暗渠化工事をして上を清渓路とした。場所によっては高架道路もかけた。
 
しかし、実際川はそのまま残り朝鮮時代の石橋までそのまま道路の下にある状態であった。さたに、川からでるリュか水素で鉄筋が腐敗して、構造上もあぶなくなっていた。米軍がこの道の通行を避けていたと言うことすら聴いたことがある。
 
そこで、川を覆っていた道路をはずして、あらたに清流を流すことにしたのである。光化門交差点のそばに水のわき出し口を作って流すように工事をしたわけである。昨年は道路を空けただけで単なるガラ場だった。この正月は川道が整理されていたが、水は流れていなかった。今回は水が滔々と流れ、まわりには水草や花が植えられていた。
 
また、朝鮮時代に川の水位を測った、広通橋(クヮントンギョ またの名を広橋:クヮンギョ)が復元され、水位をはかる石標も、他の場所に保管されていたがを元に場所に戻して復元された。ソウルの変化はある意味ドラスティックである。突然高層マンションが出来たり、町の雰囲気が変わることもある。今回一番びっくりしたのは、南大門のロータリーが廃止されて一面の芝生となり、ソウル駅方面から門の真ん前まで直接行けるようになったことである。脇には城壁の一部も復元されていた。
 
南大門へ行ったのは3日目のことだった。昼間は知り合いの事務所に行っていたので(ついでに足裏マッサージも)、夕方4時になった。そして、ホテルに引き返し(5時)、金浦空港までタクシーを飛ばし(5時20分、1万5000ウォン)、飛行機が出発(7時15分)、雲の上辺を飛んでいるといることで結構揺さぶられながら羽田着(9時15分)。席が羽根のそばだったので、結構ローリングをかんじる。対地速度は900キロを超えていたから、なるべく揺れない航路を選んだのだろう。このスピードだと通常ならもう少し早くつくからだ。入国審査、税関検査を終え(9時40分)、家に到着(10時)。やはり近い…。

Posted by hajimet at 23:58 | Comments (3)


2005年8月28日
ソウル(2)新村
夜は新村(シンチョン)へ行く。延世(ヨンセ)大学のそばにあり、学生の街だ。その一角に日本料理の多い地域がある。居酒屋、おでん(「おでんBAR」と書いてあったが)、ラーメンや等々である。その一角にあるポソクチョンという店に行ってきた(韓国料理である)。 

ポソクチョンは本来、鮑石亭と書き新羅の古都慶州(キョンジュ)にある(リンク)。しかし、この店の「ポ」は「鮑」ではなくて「泡」である。慶州の鮑石亭のほうは鮑の形の石の溝があって、そこで曲水の宴を行った。それを模したのであろう。店の真ん中に大きな机があり、そこに似たような形の彫り込みがあり、マッコルリ(韓国風どぶろく)が流れているのである。

粘性の高い物だからさらさら流れている感じにはならないが、ゆっくりと流れ、途中でよどみもある。よどみのあるところは深く掘られていてそこにヒョンタン型のひしゃくを入れてくみ取れるようになっている(汲み放題である)。

実際はアクリル板が溝の上に乗っていて、汚れが入らないようになっている。くみ取るところに穴が開いていてそこから手を入れるのだ。普段は穴の上にどんぶりが載っていて、ぴったり塞いである。

マッコルリの味は変わりやすい。瓶に入れておくと、どんどん酸化していくことがわかる。しかし、ここのものは酸味はほとんどなくて呑みやすかった。ついでに滝があると、と思ったが、けっこう臭いが強いから無理だろう。酸化もするし…。

帰り際KANSAIという日本ラーメン屋によった。関西ラーメン当というものを食べたが、コンソメの味が効いた豚骨風ラーメンで、日本風韓国ラーメンであった。麺を煮込む文化だからであろう。だいぶべとべとしていた。
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2005年8月27日
ソウル1(仙遊島)

朝8時15分、羽田発のJALでソウル金浦空港へ向かった。1時間50分の飛行。11時にはもう市内にいる。一服した後、漢江中州の仙遊島(ソンニュード)へいった。もともと浄水場だったところで、それが公園として解放されたのだ。以前は入れなかった。ソウル日本人会の俳句会の吟行にご一緒させてもらったのだ。
 
地下鉄2号線堂山(タンサン)駅から車で行く。歩いても15分くらいの感じである。公園は漢江を渡りはめてすぐの所にあるが、車線の関係で一端橋の反対側までいってからUターンして戻ってくる。地下鉄2号線の合井駅(ハプチョン)からタクシーに乗った方が良かった。
 
さすが公園は川の中州である。かなり蒸し暑い日であったが、川を渡る風は涼しい。また、いくら暑いと言っても日差しはもう柔らかく秋の日差しになっていた。その中を赤とんぼが舞っている。漢江では観光船が走り、そのそばを水上スキーの若者が楽しんでいた。
 
入り口を入ると、あちらこちらに浄水場だった施設が見える。沈殿池のあとは水生植物園や植物園になっている。そのようなところに睡蓮などの水生植物をうえた水生植物園、ガマや芹などが植わる水質浄化園、白樺などがうえられた生態の森等が作られている。なんでも、浄水場の建築構造物を再活用した国内最初の環境再生生態公園、すなわち「水公園」なのだそうだ。
 
沈殿池の跡は周りの影響か、とてもひんやりしていて、家族連れなどがビニルシートを広げて休んでいた。11万4千平方キロもある公園の最下流へ行くと、堂山側から半月型の橋が架かり、川の向こうには噴水が上がっていた。その向こうにワールドカップ競技場がちらりと見えていた。
そんな情景だった。
 
投句:木の陰で/家族よりそい/戻り夏
    木道を/歩き一息/夏残る
    つたの葉が/ひとひら赤し/秋入る
 
ともかく暑かったのだ。

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2005年8月22日
館山

再び青春18切符で館山まで行く。内房線だが、単線のため待ち合わせが多い。あっちこっちで5分程度の接続時間あって、意外と時間がかかる。君津を過ぎて上総湊のあたりまで来ると、右手に東京湾が見えてくる。いつもは三浦半島が見えるのだが、この日は少しガスがかかっていて、そこまでは見えなかった。
 
館山の駅から館山城あとへ向かう。バスで五分ほど。途中、赤とんぼが乱舞している中を歩いていく。そこに市立博物館がある。常設展では館山の歴史を紹介していたが、三浦半島と近いため意外と共通点が多い。中世の墓である「やぐら」もこの地域だけあるとのことだ。
 
特別展ではちょうど戦争遺跡の展示をしていた。館山は東京湾の入り口で三浦半島と対峙する位置にあるために、首都防衛のための施設が多く作られていた。それらの紹介だった。それで気がついた。房総半島でも他の町を歩いているときに、比較的古い建物を目にするのだが、ここでは一軒も目にしなかったのだ。激しい空襲でやられたのだった。
 
山の上に天守閣が復元されているが、ここも砲台にするために削平されていた。天守閣は博物館の分館で、里見八犬伝の資料を展示していた。館山城は里見氏の本拠地で、城内には南総里見八犬伝の元となったと伝えられる八賢士の墓もある。天守台の高さは海抜70b。波が静かなことから鏡浦と言われる館山湾、旧軍の軍事施設などが一望できた。
 
山を下りて、鏡浦を散策して帰宅。この地域は大地震のために隆起するところで、1703年の元禄地震のときには5メートル以上も隆起したとのことだ。館山駅付近もそのときに陸となったという。

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2005年8月20日
勝浦

青春18切符を使って外房線の勝浦まで言ってきた。学校の歴史を調べていたら、明治の校長であった、勝浦校長が勝浦で勉強合宿をやって、そのとき泊まったところが勝浦館というところだったという記録があって、どんな町か見に行こうと思ったからである。
 
外房線に乗って茂原、上総一ノ宮と乗り継いで勝浦まで行った。特に時刻は調べなかった。接続に時間があたら、町歩きでもしようと思っていたからである。上総一ノ宮で40分近い待ち合わせ。ここは横須賀線からの快速列車の終着駅なのだが、駅前は…何もなかった。おみやげ屋さんと駅前食堂くらい。あとは海水浴場までの汽船乗り場の幟が目立つくらい。きっと繁華街は駅から離れているのだろう。駅前の観光案内所の前では細長い色のほとんどついていないナスを売っていた。
 
勝浦の町はそれほど大きくはない。3方が山に囲まれているからだ。駅前から5分も歩くと勝浦漁港へ行く。駅から漁港へ行く道が緩やかにカーブを描いていて、道の右手から海があらわれる。太陽の位置などから、感覚的に外房の海岸と逆の方向から海があらわれるのだ。一瞬内房にいるような気分になる。地図を見てみると、勝浦は湾になっていて、太平洋は岬の向こう側になる。町の発展している方向は太平洋と半島の反対側なのである。つまり、ミニ房総半島状態なので、感覚は正しいことになる。
 
勝浦館あとは事前に調べてあったので、そこを見たのち、図書館へ行く。市史でもないかと思ったからだ。しかし、市史は編纂中で、図書館の二階にあった市史編纂室の担当の人からお話を伺った。明治の末に勝山は保養地として売り出していたとのことだった。銚子より塩分濃度が高い。銚子よりも海水浴の効果があるということだった。そういえば、海水浴はレジャーではなくて、温泉などと同じ湯治のような位置づけだったことを思い出した。
 
図書館の裏山の見晴らしの良いところへ行こうとしたが、こちらはスズメバチがいるとのことで止められた。代わりに一つ隣山の遠見岬神社へ上る。名前の通り見晴らしの良い神社で、勝浦湾が一望できた。海沿いにホテル三日月の大きな建物も。三日月って、勝浦湾の別名だそうで、たしかに海岸線の形は緩やかな三日月型だ。
 
山を下りて海岸づたいに南へ行く。海沿いを10分ほど歩き100bほどの長さのトンネルをくぐり、八幡岬公園へ行く。トンネルは二本に分岐していて、片側は峠越え、片側は海岸沿いの道である。峠越えの道は途中の眺めはよいが、暑いときはきつかった。一方、海岸通りのトンネルは一部照明のないところがあって、そこを歩くときはスリリングだった。そういうときに限って車が入ってくるのだ。
 
公園は江戸時代の勝浦城のあったところで、徳川光圀のお祖母さんの生まれたところだ。城跡の片側には勝浦湾が広がり、湾の入り口の岩礁に立つ鳥居の脇を船が頻繁に通り過ぎていく。南には房総半島から伊豆大島まで見える。北側は太平洋への断崖絶壁に灯台が建ち、多くの船が列をなして勝浦に向かってくる。足下は海水浴やダイビングの服装をした人が…。改めて水平線が丸いことを感じた。
 
町へ戻り帰宅した。海岸沿いにはあちらこちらに乾物を作る工場があって、においが漂ってくる。

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2005年8月16日
佐渡
約10年ぶりに佐渡へ日帰りで行ってきた。新潟から両津までジェットフォイルで1時間。お盆は初めてだ。墓の上に蓮の葉をかぶせていたり、仏壇の上に草で屋根をかける様子など、はじめて見る習慣もあった。墓については多くのところでそうだったが、蓮の葉が被さっているところと、そうでないものが同じ墓地の中にあって、何かかぶせ方に意味があるのかも知れない。集落ごとにも習慣が違うのだろう。ある集落では、玄関の前に仏画の描かれた灯籠の建っているところもあった。
 
2時間ほど時間が余ったので、島内巡りに行く。もちろん、周囲が200キロ以上有る大きな島なので、ごく一部しか見られない。出発点の両津は砂州に発達した町で、夷と湊の二つの港が有ることから付けられた名前である。安政の開国の時には新潟港の補助港となり税関もあった。二つの砂州の背後には加茂湖という湖がある。それまで淡水湖だったが、明治時代に海への水路を広げたことで汽水湖となった。今は牡蠣の養殖で知られる。
 
久知にある長安寺へ向かう。この付近は中世の佐渡の政治の中心地で寺も栄えたが、上杉景勝に地頭が滅ぼされて、寺も衰退した。朝鮮鐘のある寺で知られる(詳しくはHPで紹介)。近くの川は暴れ川でも知られていた。今は蛍の川でもある。さらに内陸に入る。
 
山下清の母親の生家跡(記念碑あり)を通り過ぎて、清水寺(せいすいじ)へ向かう。京都の清水寺を模した寺で、808年に建立されたという。入り口から階段を上ると、山の斜面に清水の舞台がある。京都のものより小降りであるが、仏像の配置や舞台の作りなどとてもよく似ている。このように京都や奈良を模した寺も多くあり、今回は行けなかったが奈良の長谷寺を模した長谷寺(ちょうこくじ)などもある。
 
続けて、佐渡に流された日蓮が半年滞在した塚原山根本寺を見る。佐渡金山を開拓した人の墓も残されている。ここを出た後、トキの森公園を見る。現在トキが80羽ほど育てられているとのことで、遠目に檻の中でトキの舞っている様子を見ることが出来た。この森の出口には白山神社がある。
 
トキの森と海岸段丘を挟んで挟んだ反対側には牛尾神社がある。安産の杉、能舞台などとともに(佐渡は民間芸能として能が盛んである)、拝殿の彫刻群が知られる。横に渡されているはりに彫られているが、向かって右側には鯉の透かし彫りが彫られ、正面に来ると、それが竜になっていく。その流が拝殿手前の階段にそって、拝殿に上っていくように彫られる。まさに、「登竜門」伝説そのものの姿である。ちなみに拝殿向かって右側は玄亀が彫られている。
 
ところで、この神社の名前はもともと「八王子牛頭天王社」といった。この神社の場所が近江日枝神社領新穂荘の鬼門にあたるという指摘もある。牛頭天王の額は大阪枚方の百済王神社にもあるが、素戔嗚尊が韓国のソシモリに降りてきたという伝説(ソ=牛、モリ=頭)に関係あるといわれる。牛尾神社も素戔嗚尊が祭神の一つとして祭られている。
 
佐渡にも渡来人の関係を示す物が多いようだ。近くの畑野は秦氏との関係が指摘され、そこの賀茂神社も新羅との関係を指摘するものがある。先ほどの長安寺も渡来人との関係があるのではないかとも言われている。そんなところを見ながら、両津港にもどった。港の脇には五泉から村松まで走っていた蒲原鉄道のものとおもわれる廃車体がおかれていた。(佐渡に鉄道はない)。
 
帰りのジェットフォイルは、途中の大雨による視界不良のために一時ジェットでの運航をやめていた。もともと小型船で水中翼を使って、飛行機のように水面から船体を浮上させて時速80qで滑空する船だから、ジェット運転をやめれば…ただの波に揺られる船である。スピードも15qがやっとだった。

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2005年8月12日
妙義山

1週間の志賀高原、御代田での仕事も終わりバスで帰路についた。長野自動車道である。長野県側は比較的平坦な高原状の所を走るのに、群馬県側に入ったとたんに複雑怪奇な形をした山沿いの景色に変わる。妙義山である。
 
上毛三山(赤城山、榛名山)の一つで、奇怪な山の形をしていることで知られる。その奇妙な山の形は、上越新幹線からも遠く眺めることが出来る。
 
山の稜線の上に、岩が地下から突きだしているような形であるが、もともとは700万年から550万年前の火山活動で出来た榛名山くらいの山が元となっているとのことだ。その山が激しい地殻変動で陥没し、のちの風化、浸食の影響で今のような形になったとのことだ。この奇岩が多いことで大正12年に名勝に指定されている。
 
この山の様子を長野自動車道から如実に眺めることが出来る。特に横川のサービスエリアからの眺めはよい。この辺はこのような山が多い。手前の高井山は山の上に奇岩が二つ飛び出している。道はその下をトンネルでくぐるが、威圧感を覚える景色をしている。行きは靄がかかっていてその様な山容を見ることが出来なかったが、帰りははっきり見ることが出来た。
 
これに対して、軽井沢側が比較的平坦なのは、浅間山の噴出物や火砕流などで出来た湖に、土砂が溜まってで来た地形のためである。
 

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小諸(3)北国街道

懐古園をあとにして、北国街道を歩く。善光寺を通って行くことから、善光寺街道とも呼ばれた。加賀百万石の参勤交代のルートであり、佐渡の金山の金を江戸に運ぶ道でもあった。もともとここは小諸城の城下町、宿場町であった。今でも大手門が残されているし(現在修復工事中)、本陣の立派な建物が残されている。
 
現在は道筋も改修されているが、もともとは直進できないように枡形に道が築かれていた。この道沿いに町が広がっていた。
その様な町に、信越本線が開通して、城の門前に駅ができたために、商業の町として発展しはじめた。そのために、この道沿いには江戸時代末期から戦前に至る建物が多く残されている。まずは、明治初期の土蔵をそば屋とした丁字屋、元郵便局跡(当時のポストが復元されている)、土蔵作りの小諸銀行跡などを見て歩く。
 
さらに歩くと、柳茂(柳田茂十郎)商店があらわれる。明治の建物で、屋根の上に望楼が乗っている事が特徴的である。小諸の大商人が造った建物である。この望楼と玄関先の看板建築があわないのだが、道路の拡張の際に道路側が切り取られたためにこのような形になったとのこと。
 
この付近は、通りに対して直角に店の名前を書いた白木の看板があちらこちらに出されている。
 
近くにある信州味噌(山吹味噌)、酢久商店は「御味噌」と書いた看板を高いところに掲げている。小諸藩の御用商人で武士に近い待遇を与えられていた。明治に入り鉄道敷設など小諸の町の発展に寄与したという。道路沿いに安政年間の蔵が残されている。
 
柳茂商店の向かい側には山崎長兵衛商店がある。こちらは明治初期の建物である。かんざしや櫛、降水などを売る店で助成にとても人気があったという。
 
明治初期の建物というが、建物はセセッション風とよばれる洋風の外観である。この付近(荒町銀座会)にはその様な建物が多く残されているのだ。実は、大正から昭和の初期にかけて店の正面を洋風にすることが流行ったのだそうだ。その名残だそうである。
 
そばの嶋田屋も古い。江戸時代の御用商人だった呉服商が、明治のデフレで没落し、その家を買い取ったという物である。伝統的な小諸の豪商の屋敷が前を残していると言われる。今はそこで縄や農機具、下駄などを扱っている。
 
この辺の道は緩やかにカーブを繰り返しながら次第に高度を上げいてる。荒町の商店街を抜けたところには高浜虚子記念館がある。虚子は戦争中小諸に疎開していたのだ。
 
小諸の町は江戸時代から、戦前まで、建物の移り変わり、近代建築の様々な要素が取り入れられた町であった(小諸では城下町めぐりのスタンプラリーを行っている。1時間強でポイントをまわることができる)。

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小諸(2)千曲川

小諸といえば、「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ/」で始まる、島崎藤村の「千曲川旅情」の歌が有名だ。もちろん懐古園の中に詩碑が建てられていて、観光スポットになっている。多くの人がこの句碑の前に来ては写真をとっている。
 
さて、その千曲川であるが、懐古園の反対側にある。小諸の町は千曲川の河岸段丘にもなっていて、千曲川へ向かって断崖絶壁となっているのだ。その中で千曲川が見えるのは、富士見台と藤村の詩碑のそばにある水の手展望台である。
 
富士見台は空気が澄んだときに文字通り富士山が見えるそうだ。一方、水の手展望台は足下に東京電力のダムと蛇行した川の流れが広がり、とても見晴らしがよい。さすがに夏の水の多いときだけあって、川の水の流れにも勢いがあった。
 
…昭和61年正月にここを訪れたときは、寂寞とした景色が目の前に広がっていた。雪こそなかったものの、気温が低く、目の前のダムには一面氷が張っていたのだ。川も水が流れずに凍り付いていた。

 
その中を布引観音まで歩いたのだ。断崖沿いに(今でも残っているそうだが)懐古園から川まで降りる細い道があった。途中には獣の足跡があるような道だった。10分くらいかけて降りたように思う。
 
布引観音は清水寺のように断崖絶壁に作られた堂宇をもつ寺である。ここの観音が牛に化けて、信心の薄いおばあさんを善光寺まで連れて行ったという「牛に引かれて善光寺参り」伝説のある寺だ。
 
布引観音へは昭和の初めに私鉄が通っていた。不況の中で電気代が払えず、送電を止められるなどの辛酸をなめ、遂に廃止された鉄道であるが、昭和61年頃はまだ線路の跡が残っていたのだ。それを見たいと思ったのだ。千曲川の中に倒れた橋脚があり、途中の交換駅のあとがあった。
 
いよいよついた布引観音は上るのが大変であった。その少し前に降った雪で階段が凍り付き、足をおく場所がほとんどなかったからだ。そんなことを思い出しながら千曲川を眺めていた。

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小諸(1)懐古園

翌日小諸へ行く。
御代田駅から信濃鉄道で10分ほど。15年ぶり、4回目の訪問だ。最初は昭和61年、真冬だった。その次は、青春18切符で上野から信越本線(数少ない横軽越えの各駅停車に乗りたかった)に乗り、小海線に乗り換える1時間ほどの時間に懐古園によった。もう一度夏によった記憶がある。

御代田駅はかなり勾配がきつい駅である。汽車時代はスイッチバックだったそうだ。今でもその後が残っているそうだが、残念ながら見つけられなかった。列車は浅間山の「箱地形」と呼ばれる中を走っていく。小諸ではまず懐古園を見る。
 
小諸駅から懐古園へ行く。駅のすぐそばで歩いて5分かからない。ここは江戸時代の小諸城の跡であるが、他の城と異なり、周囲より低いところにある「穴城」である。城下町の方が高いところにあるのだ。入り口である三の門も線路よりかなり低いところにある。

この辺は浅間山の火山灰でできているために、土がもろい。崩れやすいために城の周囲の断崖が天然の要塞になるからである。

もちろん、中には空堀などがあり、地獄谷と呼ばれる掘はかなり深い。上を渡る酔月橋は橋の途中に高さを調整するための階段がついているくらいだ。

三の門から天守台方面へ歩いていくと黒門橋があらわれる。その手前には牧野氏が勧請した稲荷、寛文の洪水の時に作られたという城内唯一の井戸である荒神井戸などがある。本丸あとは懐古神社となっている。小諸領と他の領との境界石標や、明治14年に懐古園が作られたときの記念碑である「懐古園の碑」がある。これは勝海舟の筆だそうだ。
その脇に天守台があるが、それほど高くはない。しかしその石垣は野面積で全国でも珍しい。天守閣そのものは寛永三年の落雷で焼失して、その後は再建されなかった。
 
園内には多くの歌碑が建てられている。懐古園の周囲には藤村記念館、郷土博物館、小山敬三美術館、寅さん記念館などがある。これらを眺めたうえで駅前に戻った。園内には動物園もあるのだが、そちらへは足を伸ばさなかった。駅の近くには、15年ほど前に小諸へ行ったときに、なぜか印象に残った建物が今でも残っていたので、写真に納めた。

Posted by hajimet at 11:24 | Comments (0)


2005年8月9日
御代田散策
志賀高原に続いて、8月4日から7日まで長野県御代田へ移った。こちらも仕事だ(ということはまる一週間家に帰れないというわけで…)。浅間山の麓に広がる町で、中山道と北国街道の分岐点でもある。浅間山は時折白煙を上げていた。宿舎の付近は粗く赤く変色した砂と岩があちらこちらに見えた。火砕流のあとである。
 
近くの浅間縄文ミュージアムでは常設展の他に皇女和宮降下の特別展をやっていた。縄文文化は、国宝となっているこの地域にしかない焼町土器が目をひいた。
 
半日御代田の町を散策した。出だしは真楽寺。用明天皇のときに創建された寺と伝えられる。浅間山の噴火をおさえることを祈願した寺だとのことだ。同様の寺は浅間山の反対・群馬県側にもあったが、江戸時代の大噴火の時に泥流の下になってしまった。
 
寺の下には浅間山の伏流水の湧口がある。この付近にはそのような湧水口が多くある。そこからは冷たい水がこんこんとわき出していて、池になっている。そこにオオヤンマが悠然と飛んでいた。水の味は若干硬さを感じた(資料によると若干酸性の傾向が強い)。
 
境内には厄除観音の他に三重の塔が建つ。他に古木や、芭蕉の句碑「むすぶよりはや歯にしみる清水かな」の句碑が建っていた。
 
真っ赤に塗られた仁王像が建つ門を出てぶらぶら散策する。同行者は水田をはじめて間近に見たと感激していた。考えたら、都会で間近で水田を見ることはなかなかない(ついでに虫も)。まわりにはカボチャ、スイカ、トウモロコシ、アスパラガス、ブロッコリーの他に高原野菜としてのレタス畑も広がっていた。途中多くの石仏、道祖神、石碑が広がり、集落には藁葺きの家が多く見られた。まだ半鐘も残っており、のぼり口には半鐘の鐘の叩き方の標が置かれていた。
 
かんかん照りの暑い中、普賢寺まで行った。途中、栗やカリンの木が多い。黄檗宗の寺で、1677年に開基された。こちらも浅間山の噴火をおさえることを祈願したということだ。古い建物は門以外残されていない。火災で焼失したとのことだった。
 
大雄殿の入り口には、中国風に魔除けの桃を描いた扉がつけられ、屋根にも黄檗宗独自の物が置かれていた。天上には竜画が描かれている。また、奥には、日本ではじめて刷られた八万大蔵経の経蔵があった。
 
大雄殿裏には石庭らしきものがある。大きな岩が建っているだけのもので、不思議な雰囲気であるが、釈迦の十代弟子をかたどったものだそうである。火山の焼け石を使ったものであるが、焼け石は通常「鬼」を象徴する。あたかも「渋柿転じて甘柿になる」ように「鬼」が転じて「仏」になることを象徴しているそうだ。翌日は、小諸まで足を伸ばした。
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久しぶりの志賀高原

8月1日から4日まで、志賀高原へ行った。場所は発哺温泉。お湯がポッポとわき出るので、この名前がついたという。周囲にはほんのりと硫黄のにおいが立ちこめていた。山からは急傾斜で谷に下る所だが、これは火山のカルデラの縁にあたるためである。


学校の仕事で行ったのだが、もう一つ懐かしさを持っていった場所でもある。志賀高原自体は大学の時にも行っているのだが、発哺温泉は中学校の林間学校、スキー教室以来なのだ。

そのとき泊まったホテルは西発哺温泉ホテル。今回泊まったサンシャイン・志賀からは目と鼻
の先である。発哺温泉からホテルへ行くときに、分岐して行く下り坂があった。行ってみたいと思っていた所だったが、そこがサンシャイン志賀である。ものすごい急傾斜を降りていく。

当時の道を思い出して行ってみた。少し広がっているみたいだが、砂防ダムやロープーウェー、見覚えのある景色が広がっていた。ここでこんなことをして…などと思い出しながら歩いていったら、目の前に三角屋根の当時のままのホテルがあらわれた。

建物物の中に入り、声をかけてから眼下に広がる景色を眺めて帰ってきた。当時の記憶では途中小さな沢に木の橋がかかっていた。それは、新しくできた道路の下に残されていた。ちょっとしたタイムトリップであった。

Posted by hajimet at 23:04 | Comments (0)