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2006年1月16日
大阪「鶴橋」物語

大阪「鶴橋」物語(藤田綾子 現代書館 1800円(税))を読んだ。

鶴橋は何度も行っているところだ、「日本の中の韓国」といわれ、焼き肉を食べに行ったり、キムチなどを買うこともあるのだが、市場を歩いたイメージは雑然としていて、迷路のようになっていて、昭和30年代の卸売市場を連想させるものだった。

むしろ日本の戦後の市場の雰囲気を残しているというイメージで、近くにある古い市場によくにた雰囲気だった。
 
その辺のことがこの本によって鮮やかに解決したのだ。
 
この市場が戦争終了直前の強制疎開のあとにできたもので、その区画を色濃く残していること。
後に市場として成立したが、闇市が姿を変えたもので(1 建物疎開が残した「傷跡」)、最も古い建物は昭和22年のもの。市場の中にいくつかの商店会があって、雰囲気や背景がそれぞれ違う(2 鶴橋闇市、3 商店街のあけぼの)。
 
最初のうちは卸売り中心で、その商圏は奈良や三重県まで及んでいた。近鉄や城東線(大阪環状線)が乗り入れていて、そちらへ交通が便利なことと、船場などの問屋街が戦災に遭ったためである。奈良には鮮魚を届けたり、万屋が物資を仕入れにきたりしていた。
三重からは尾鷲などであがった魚が届けられた。一方、四国などから石けんなどを仕入れに来る商店もあった(4 鶴橋へ行けばなんでも揃う)。
 
再開発計画もあったが、戦災にあったところではないので市がほとんど介入しなかった。同じ闇市から発達したところでも、上本町や大阪駅前は戦災にあったり、戦前から市街地開発が行われたところなので、市などによって再開発が行われたが、鶴橋はそうではなかった。そのために唯一といっても良いくらい戦後すぐの雰囲気を残すこととなった(5 幻の再開発計画)。

今の鶴橋高麗市場のあたりに店が増え始めたのは昭和32年頃からで、ちょうど近鉄の複々線化工事が終わったことと関係する。韓国のものを扱う店もこのころから集まりはじめたが、最初のうちは祭祀に必要なものを扱う店が集まってきた。もともと朝鮮の商店は桃谷のコリアンタウンに集まっていたが、ここは駅から離れている一方、鶴橋は交通の便がよかった。しかし、一部の店を除いて韓国の食材点が集まりはじめたのは昭和40年代からであった。
 
コリアンタウンとしてマスコミで大きく取り上げられるようになったのは、88ソウルオリンピックの頃からで、そのころから焼き肉屋やチジミ屋も増加しはじめた。このころから大阪のガイドブックで取り上げられるようになった。しかも、最初は「上六・鶴橋周辺」というものだったが、最近のものはほぼ単独で取り上げられるようになった(6 コリアンフードタウン)。
 
鶴橋の商店街そのものは勢いが落ちてきている。一つはターミナルでないこと。鉄道の客を中心に考えていたため、モータリゼーションに対向できない。奈良、大阪に卸売市場が出来た。スーパーマーケットが増えたなどで、人も集まらなくなった。そのために、廃業する店も多く、その多くにニューカマーが店を構えるようになった。その際は食材店ではなく、ブティックなどが多い(終章 衰退とのたたかい)。
 
というようなことが、豊富な資料を使って、鶴橋の歴史、背景、その時代時代の問題点を取り上げているが、インタビューなどを使い、それを実証的に検討していく手法は圧巻であった。あらためて、鶴橋の市場をゆっくり巡検したくなった。

Posted by hajimet at 21:46 | Comments (0)


2006年1月7日
関西・信州

1月4日、1月5日、大阪東京鈍行の旅を行った。
3日の夜に大阪で、4日の夜に名古屋で用事があったのだが、昼間特に予定がなかったので、ゆっくり移動しようと思ったこともある。
 
4日、大阪天満駅から大阪環状線に乗る。その前に交通新聞社の携帯全国時刻表を買った。関西圏の時刻表のため、新幹線の次に出ているのは東海道線(東京発)ではなく琵琶湖線であるし、私鉄なども西日本中心に書かれている。
 
さて、大阪で20分ほど待って、大阪10時4分発の大和路快速に乗り込む。途中生駒山地を越えるが、それまでの平野が突然高くなり、山間に入ったようにいくつかトンネルや橋梁を渡ると、もう奈良盆地だ。奈良を通過すると10分ほどで加茂駅に到着する。加茂の手前から山らしい景色にはいるが、まだ大阪からの住宅街が続き、近郊の様相を見せている。
 
加茂11時6分発の列車に乗り換える。ディーゼル2両連結のワンマンカーである。笠置山地を越えるために急に深い山の中を登っていく。川底はごろごろした石が堆積し、まわりには落石よけが作られ、砂の採取場がちらほら目につく。駅の間隔も急に広がる。しかし、昔のディーゼルカーに比べ、坂道をあえぎつつ登っているという感覚はない。
 
約1時間で伊賀上野に。急に視野が広がり、豊かな場所であることが分かる。列車は亀山駅へ。20分後に接続があるのだが、市内巡りをしたくて1本列車を送らせる。亀山の駅前は、静かな商店街が広がっているだけであるが、市街は20メートルほどの丘陵の上にあった。ここに旧東海道が通っている。東町の商店街はほとんど昔のものがなくなってしまい、アーケードの柱に本陣あとなどの位置が示されている。城下町でもあるため枡形に道が曲がっているが、その後を黄色い舗装で示している。西町にかけては古い町並みが続いていた。
 
ここから名古屋までも2両編成のワンマン列車だった。乗客の量と列車の輸送力が釣り合って折らず、途中から超満員に。四日市のコンビナートを眺め、長島付近で木曽三線を渡るとともに、はるか養老山地を眺める。揖斐川沿いが急崖になっていて、その裏斜面が緩斜面になっている様子、麓に集落が広がっている様子がよく分かる。うっすらと雪化粧をしていた。関ヶ原ほどの積雪はないが、名古屋から四日市にかけて良く雪が降るとのことで、この日も雨が降っていた。たしかに亀山から名古屋にかけては、鈴鹿山地の東麓の延長にあたる。
 
翌日、名古屋10時3分発の中央西線中津川行きに乗る。列車は高蔵寺、多治見で本数が減るが、なるほど高蔵寺までは市街地が広がり、その先は急に山が深まる。列車は多治見の手前で岐阜県に入る。徐々に雪が増え、遠くに木曽山脈の雪化粧した山々が見え始めた。王子特種製紙の看板を眺めつつ、11時14分に中津川着。中山道の要衝である。
 
約1時間の接続で、12時発の松本行きに連絡する。列車は急な勾配を登りはじめ、木曽谷を進んでいく。左右に山が迫り、深い谷底であることが分かる。左に右に流れていた木曽川が左に固定され、列車は進んでいく。谷底は白い花こう岩がで埋め尽くされているが、その範囲が何とも広い。よほど荒れる川なのだろう。それと浸食が活発に行われていることも伺わせられた。南木曾のあたりで長野県に入る。
 
谷沿いの少し広いところに集落が広がり、切り出した杉の幹がうずたかく積まれている。あちらこちらに製材所の文字が目に入り、杉林も広がる。手入れが行き届いていて、枝打ちも行われている林が多い。川にはところどころダムが作られ、発電所も多い。列車はさらに高度を上げ、上松の手前で寝覚めの床を通過し、木曽福島に入った。沿線で一番広いところのようで、建物も多い。その後も奈良井のあたりまで高度をあげて鳥居峠まで。
 
そこから、今度は下りになる。川の向きも反対に流れるようになった。この川は松本で梓川と一緒になり、信濃川に合流する。峠の反対側、諏訪湖から流れる川は天竜川だから、三つの大きな川の源の一つがここに集中していることになる。そんな様子を見ながら、列車は13時43分、塩尻着。すぐに茅野行きに乗り換えて14時16分。上諏訪に到着した。
 
上諏訪では1時間ほどの時間を利用して諏訪湖へ。12月に訪れたときはまだ湖は凍結していなかったが、この日はほぼ全面結氷していた。高さは高くないが、御神渡りを見ることが出来た。駅に戻り15時9分発高尾行きで東京へ向かう。左に八ヶ岳、右に甲斐駒ヶ岳。前方に富士山を眺めながら列車は進む。
 
小淵沢の先から、線路はやけにカーブが多い。釜無川に沿った高台の上を走っているためであるが、ここは韮崎火砕流のあとという、八ヶ岳が崩壊したあとのため、でこぼこが多いのだ。
 
甲府まで降りてきて、特急で帰ることとした。高尾からが遠いことと、少々疲れたからである。改めて乗り心地の違いを感じつつ、東京についた。
 
 

Posted by hajimet at 10:23 | Comments (0)