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2006年2月26日
東京大仏

板橋区の乗松寺へ行った。
 
池袋から東武東上線の各駅停車で14分、下赤塚で降りる。赤塚の商店街を抜け(洋品店の値段の安いこと。1000円以下がずらずらと…)、旧鎌倉街道を散策する。そこからバス通りをひたすら進む。まわりは古い集落だったようで、比較的大きな家だった痕跡や、屋敷にまつった稲荷などが多く見られる。
 
15分ほど歩き谷を越えたところで、寺が固まっているところに出た。乗松寺もそこにある。といっても昭和48年に移ってきた新しい寺だ。もともとの寺は別の場所にあり、徳川家康から朱印地をもらい、吉宗の時は鷹狩りのときの休憩所に指定された寺である。境内には様々な古いもののある。
 
天明の飢饉のときの供養塔や、江戸時代の年後の刻まれている無縁仏も多い。その中で東京大仏は昭和52年に作られたもので、黒光りしている。関東大震災や東京大空襲のような悲惨なことを二度と繰り返さないように願って作られたものである。
 
大仏のまわりには多くの石仏が置かれている。文殊菩薩、役の小角、鉄拐仙人像、がまん像などユニークな石像が置かれている。伝承によると藤堂影虎が文禄慶長の役のときに朝鮮から持ち帰ったものとされていて、藤堂家から寄付されたとのことである。
 
全体を見た感じでは、すべてが朝鮮から持ち帰ったとは言い切れないように思う。文殊菩薩や鉄拐仙人像は何となく朝鮮風の印象もうけるのであるが、役の小角の石仏は、朝鮮では使わない高足の下駄を履いているところから、日本で作られたものではないかと思われる。鉄拐仙人像の脇には文禄2年になくなった人の墓が祀られている。戒名を見るとかなり格の高いものであるが、特に表示がなかった。誰のものであろうか。
 
寺には探検家の植村直己の墓もあった。高校の時に講演に来てもらい、なぜか激しい寒さの中でトイレをどうするかという話をしていたことを覚えている。それから数年しないうちに亡くなってしまった。
 
寺は赤塚城の二の丸のあとである。赤塚城は戦国時代武蔵千葉氏の居城であった。これに続く本丸あとは公園となっていて、付近は森の中となっている。麓には溜池や「不動の滝」があった。しかし、バイパスを越えると、そこは以前徳丸が原と言われた平野となり、まったく景観が変わってしまった。高島平の団地に続く新興住宅街だったのだ。
 
住宅街をしばらく散策して、都営地下鉄の西高島平から帰宅した。
 
 

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2006年2月22日
東京・交通博物館

神田万世橋の交通博物館へ行った。2007年にさいたま市へ移転するため、この5月で閉鎖になると聞いたからだ。また、閉鎖の記念として、昭和18年に廃止になった万世橋駅を見ることが出来るとも聴いていた。今の交通博物館自体、万世橋駅と一体で作られている。
 
前回訪れたのは、一昨年のこと。しかし、そのときは資料調査のため図書館へいき、ついでに駆け足で回っただけなので、じっくりは見られなかった。考えてみれば、高校の時以来じっくり見ていない。
 
1時30分すぎに博物館に着く。10年くらい前まで駅に見られた自動券売機に310円入れて入場券を買う。さっそくツアーの申し込みを。3時の回なら開いていると言うことで登録する。入り口目の前では鉄道模型のジオラマがまさに運転中。中央線を走っている車両には小型テレビカメラがつんであって、車窓風景を目の前のモニターに映してくれている。
 
脇の部屋では、鉄道模型蔵出しをやっていた。電気記貨車や日比谷線の3000系など、確かに子供の時に見た車両が多く展示されている。その後書く展示を見ながら進む。蒸気機関車、「機関車やえもん」の題材となった1号機関車、カットされた修学旅行列車などが昔のママ置かれる。物によっては最新の車両となっているが、多くは昔のママである。なかには写真撮影が自由なことに気がついていたら、本の題材に使いたかったものも多くあった。人車鉄道の車両が展示されていたのだ。
 
二階に行くと、船舶、飛行機の部屋となる。船舶のコーナーの中には連絡船のコーナーがある。青函連絡船などがメインだが、関釜連絡船の関連のものも展示されている。関釜連絡船は1905年に山陽鉄道によって開通され、それによって初めて日韓間に定期船が出来た。その最初の船が壱岐丸であるが、その壱岐丸の号鐘が展示されているのだ。今は鉄道記念物となっている。その脇には壱岐丸のランプがある。船が揺れてもつねに垂直を向くように工夫されたランプだ。
 
関釜連絡線は最初は壱岐丸、対馬丸だったが、つづいて高麗丸・新羅丸、昌慶丸となり景福丸、徳寿丸、さらには金剛丸、興安丸、天山丸、崑崙丸などが就航する。日本の大陸進出に会わせて、その夢をも著しているせいか、名前がだんだん壮大になっていくのがわかる。だって、最初は日本の島だったものが、旧国名となり、さらに王宮、継いで朝鮮と中国の山々となるわけだから。このうち、興安丸と金剛丸の号鐘も合わせて展示されている。さらに別室には金剛丸は復元模型もあった。その勇壮さにしばらく見とれた。
 
いよいよ万世橋駅見学ツアーである。集合場所から模型展示室を抜け、細い扉を入る。建物のスキマの足場の悪いところを歩くと、左手にレンガ造りの入り口が見えた。そこから部屋へ入ると、レンガで作られたアーチ状の部屋となり、上に鉄橋が見えている。駅の入り口部分らしい。ここで「さようなら そして ありがとう」という5分ほどの映画を見る。その後アーチなどの記念撮影をしたのち、いよいよ昔のホームへ。曲がりくねった階段を登る。
 
万世橋駅は甲武鉄道から営業を引き継いだ鉄道院が作った駅で、中央線のターミナルとして作られた。駅のある神田須田町は東京一の繁華街だった。東京駅付近が寂しいところだったので一つ手前にターミナルを作ろうとしたのだ。ここに辰野金吾が駅舎を作ったが、関東大震災で焼けてしまった。
 
その後の万世橋駅は繁華街がうつったことや、ターミナルの機能がなくなり小さな駅となってしまった。そこに鉄道博物館ができたが、駅自体は太平洋戦争中不要不急となって廃止されてしまった。神田、お茶の水、秋葉原から至近距離過ぎたからだ。今、そのときのホームだけが残っている。そこを見たわけだ。見学が終わった後、万世橋のたもとの入り口あとを撮影して引き上げた。道路の向かいには肉の「万世」があった。ここの赤坂見附店のラーメンは高校の学校帰りによく食べたところだった。
 
 

Posted by hajimet at 21:08 | Comments (0)


2006年2月16日
京都大原

14日夜、大阪で用事があった。レセプションでは鶴橋で仕入れたキムチサンドが振る舞われた。不味くはない。
 
翌日京都大原へ向かった。京都駅からバスで1時間。大原に着く。三千院へ行くが、途中の道は呂川にそって土産物屋が並んでいた。柿染めや和紙の店もあったが、その多くが柴漬けの店であった。「ここは大原で一番と言われている店です。私どもが言っているのではありません」などという呼び込みを聴きながら山を登る。
 
三千院ではまず本堂に参拝。2月15日が釈迦の命日と言うことで、5色のマメをもらう。苔の庭を楽しみ、阿弥陀仏を拝む。脇侍は「大和座り」の最古のものというが、ようするに正座しているのだ。一瞬異様な感じがする。
 
三千院をでて、さらに裏山へ登る。音無の滝と書いてあったからだ。右手を流れていた呂川が離れていき、左から律川が近づく(あとで、誰かが「津川」だといって、間違いに気付いて恥ずかしがっていた)。川沿いに登っていくと、鉄道のレールを利用した橋を渡るようになる。そこに「音無の滝」の表示が…。矢印の向きは川の方向を指していて、そこにあるのは砂防ダムの「滝」なのである。みていた写真とあまりにも違う。そんなはずはないと気を取り直して、もう少し登っていったら、ありました、ありました。細い流れだが、途中で別れたり一緒になったりした立派な滝が。でも、きっと勘違いしていく人もいるのだろうな…。
 
滝から降りて三千院の裏の来迎院へ。寺は質素な作りで、本堂の中の薬師、阿弥陀、釈迦如来がすばらしい。庭には雪が残っている。そのなか、寺の裏手に回った。融通念仏宗をおこした良忍の寺で供養塔があるということだったからだ。融通念仏宗の供養塔を長野県小谷で見たことがある。ハングルが刻まれている。よくいわれる神代文字ではなくハングルであるが、読み解くと日本語をわざわざハングルで刻んだ物で、しかもハングルではありえない濁点までついている。
 
それを思い出しながら進んでいくと、石塔があらわれた。地震の多い日本では、奈良時代以来地震に倒れにくい塔が作られているが、ここの物はそれより前の形式である。鎌倉時代作となっているが、そうだとすればかなり珍しい。むしろ韓国で多く見られる形式である。
 
山を下りながら、三千院裏の勝手神社を参拝し、「大原問答」の行われた勝林院を見る。仏像の顔は柔らかい表情をしている。次に行ったところは宝泉院。伏見場から供養のために持ってきた血染めの天井などがあるが、それよりも本堂から見る庭がすばらしかった。格子窓から見る鶴亀の庭、本堂の縁側の柱を額縁に見立てて作られた庭もよい。入場料を払うともらえる抹茶券でお茶を点ててもらい、しばらく一服する。大きな五葉の松も立派だ。トイレでは真言を唱えてから使うようにと指示が貼ってあった。
 
土産物屋で柴漬けと、アイスダイコンを買う。ダイコン漬けに棒がさしてあって、アイスキャンデー風になっているものだ。囓りながら降りた(他の店からの勧誘の声がかからないというメリットも)。その後寂光院まで行こうと思ったが、雨が激しくなったことと、寂光院の本堂が焼けてしまい、最近復興したと言うことで次期をずらすこととした。
 
バスで八瀬まで行く。そこで叡山電鉄に乗り換えた。高校の時に乗って以来で、久しぶりだ。そのとくはグループ行動で貴船神社、鞍馬寺へいったのだ。車両は新しくなったが、スピードは出ない。出町柳駅についた。バスから見たときは新しい駅舎になったものだと思っていたが、外観が変わっただけで中は昔のままだった。
 
駅前の下賀茂神社へ行く。高校の修学旅行のとき参拝したつもりであったが、それは徒然草の石清水と同じだったことに気がついた。鴨長明ゆかりの河合神社などを見たのち、出町市場をぬけ、京都御所と同志社の脇を市営地下鉄今で川駅まで歩いていった。かなり距離がある。修学旅行の時、今出川から出町柳まで列車に間に合わせるために走り抜けたが、記憶ではもっと短い距離になっていたのだ。記憶の検証も必要だと思いながら、帰京した。
 
 

Posted by hajimet at 20:43 | Comments (0)