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2006年10月7日
中国東北紀行その6(最終)
最終日の朝。他のメンバーは飛行機の関係で6時過ぎに空港に向かう。こちらの飛行機は13時5分のため、午前中は町巡りをする。宿泊した大連グランドホテルは中山広場のすぐ裏である。

中山広場の中山は孫文のことで、大ロータリーである。戦前は大連大広場と呼ばれていた。大連に到着したときにも感じたが、どうも使いにくそうなロータリーである。戦前の写真を見ると左側通行であったことも関係するようだ。ロータリーの回りには戦前のヤマト旅館(大連賓館)、大連市役所(中国商工銀行)、横浜正金銀行(中国銀行)、朝鮮銀行(中国工商銀行)、大連警察(遼寧省対外貿易経済合作庁)、東洋拓殖大連支店(中国交通銀行)などの建物がそのまま残っている。建物の様式からしてアジアでない雰囲気がある。広場では羽根蹴りをしたり将棋をしたりしている。

ロータリーから上海路を進む。5分ほどで旧日本橋郵便局に到着。郵便局前に鉄道橋がある。勝利橋と呼ばれるが、戦前の日本橋である。橋の一方に大連駅のホームが見え、もう一方には大連港のクレーンが見える。橋を渡りきると俄露斯風情街にはいる。俄露斯とは「おろしあ」のことで、日本時代の露西亜町であるが、もとは露西亜の租界である。大連は三国干渉ののち、露西亜が作った町である。町の入り口には東清鉄道汽船本社の建物がある。大連を含む関東州は日露戦争後日本の租借地となり、終戦まで続く。ここは一時期の沖縄と同じで、主権はあくまでも中国にあるが、日本が借りているものであって、満州帝国とは別の扱いだった。戦後はソ連軍によって解放され、現在の中国が出来てから中国に返還された。

風情街には旧ダリーニ(大連の最初の名前)市役所や、多くの建物が残されていて、ロシアグッズをお土産に売る店が多い。なぜか韓国グッズを売る店もあるが、ここ以外でも、あちらこちらでその様な店や町を目にした。建物の横にはスターリンを描く店もあった。キレイに整備された風情街から一歩裏に回ると、そこは再開発予定の住宅街である。道ばたに人が集まり、将棋を指したりする生活の臭いに溢れたところであるが、建物は中国風のものではなく、ドイツ風の建物である。実は、東清鉄道の社宅あとである。整備すれば十分観光資源として使えそうである。

駅前の勝利百貨店へ行きお土産を買った後、今度は旧満州鉄道本社の方へ向かう。旧満州鉄道本社は大連鉄道有限公司として今でも使われ、マンホールにも満鉄のマークが入ったものが残されている。レールと「M」を組み合わせたものだが、今でも使われているマークである。その前は旧満鉄大連図書館(大連図書館日本文献資料館)、旧満鉄分館があり、さらにその向かいには旧満州日報(大連日報)があり、その間を戦前から走っている路面電車が走る。さらに旧満鉄大連病院(大連鉄路医院)が残るなど、満鉄関係の一角である。

東清鉄道といい、満鉄と言い、大連が交通の要衝として今につながっていることが分かるものだ。さて、空港に向かい、飛行機へ。チケットの裏には、航空路の混雑のため管制官から離陸許可が下りないことがあるため、早く搭乗するようにとの注意書きが書かれていた。案の定出発時間から40分近く出発しなかった。10分後に出発するはずのANA東京行きの方が先に行ってしまった。行くときは機内誌で着陸待ちの旋回の話を読んでいたら、本当に旋回をはじめてしまったし、あたりが良かった。機内食はカレーライス。やはり日韓線よりはるかに良い機内食であった。

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2006年10月6日
中国東北紀行その5
9月30日。朝5時起床。早めの朝食を済ませ、瀋陽北駅へ。駅はホテル(瀋陽グロリアプラザホテル)の目の前である。このホテルはPCをインターネットに接続できるので、溜まっていたメールを整理することが出来た。雑踏の中待合室に入る。軟座となっているので、ようするにグリーン車の待合室だ。30分ほど、時刻表を買ったりして時間を潰し、改札時間にホームへ移動する。列車は2階建て編成の2階。時間になると音もなく出発するが、一方で車内には音楽が流れ少々うるさい(しばらくすると静かになるが、大連手前で再開)。

ここから大連までは4時間かかる。かつては7時間かかったそうなので、そうとうのスピードアップだ。レールの継ぎ目音はほとんど聞こえず、乗り心地も良い。車内の隅にはポットがおかれ、自由にお湯がつげるようになっている。車内はキレイで静かだ。よくうるさくて汚れているという話が出てくるが、硬座を含めてそれは感じられない。車内の人々の服装もかなりなもので、地方とは経済状況が随分違うKと尾を改めて感ずる。出発してすぐ張作霖爆殺現場を通過する。その後、瀋陽、鉄鋼の街鞍山を通過して大連市内に入る。

大連では餃子店に食べに行く。蒸し餃子、水餃子、焼き餃子、その他の中華料理と出てくる。これまで入った店でもお茶がなくなると、すぐに継ぎ足しに来たが、ここは少し趣が違った。クコ、菊、茶葉、ライチなどが入ったカップに少年が長い注ぎ口のある薬缶を勢いつけて注ぐ。時にはカップを手に持って背中に薬缶を回してついだりして、まるでドラゴンボールの世界だ。やはりお茶がなくなった頃次に来る。しかもカメラ目線。撮影され馴れている。餃子はこの地域では主食代わりで、水餃子が中心である。どれも美味しかったが、焼き餃子に食べ慣れているせいか、焼き餃子が一番美味しく感じた。

食後、旅順に向けて出発。バスで30分位の距離だ。旅順は外国人に対して完全には解放されておらず、限定されたところにしかいけない。まずは東鶏冠山。日本軍との激戦があったところで、外からはなだらかな山であるが、一歩中にはいると露西亜軍の要塞が築かれていたという。日本軍の爆撃跡が生々しく残り、頂上には記念碑も残る。近くには「銘記歴史、勿忘国恥」という看板があった。日本は旅順の激戦地に多くの記念碑を建てたと言うが、注意してみると他の山にも記念碑らしきものが残されている。

続いて水師営の会談場あと。もう少しひなびたところと思っていたが、住宅街の中で、イメージとは随分異なる。もともと民家を借り上げて会談場としたと言うことだから、それでもよいのかもしれない。当時の建物が復元されている。戦前日本側が建てた記念碑がそのまま保存され、見ることが出来る。建物の中は当時の様子が復元され、机などが当時のままおかれていた。入り口のそばにはスッテッセルと乃木希典が記念写真をとり、ステッセルの白馬を乃木希典に渡すためにつないでおいたナツメの木の三代目が植えられている。実がたわわに?なっていた。

そして203高地。頂上の爾霊山と書かれた弾丸型の記念碑や、乃木希典の次男、乃木保典が殺された場所の記念碑が残る。露西亜側の塹壕も縦横に走っている。ここから旅順港には大砲をうっても弾は届かなかったが、状況を一望できたので、司令所としての意味があったと言われる。山は今でこそ木が茂っているが、もともとははげ山である。そこで日本軍兵士が多く殺された。もちろん露西亜兵も。両国が協力して一時停戦して遺体をかたづけたという話もきいている。しかし今は唯一の桜の名所として花見をするところになっているとか、篭屋がいて観光地化しているとかでかなり複雑な気持ちになった。

旅順は日本人が主に訪ねる街とのことである。戦跡としてそうなのかなとも思う。おかげで道路がキレイになったといわれたが、かなり複雑な気持ちだった。日露戦争だけでなく、日清戦争の時もここで大きな戦闘が行われ、中国人が多く殺されているので、地元の人にも厳しい感情があると聞いた。一方でロシア人でここを訪れる人は多くないとも聴いた。大連に来るロシア人は漁船員か、長期休暇で海水浴に来るリゾート型の人が多いとのことである。考えたら、ロシアで海水浴できる地域はほとんどない。

夕食は海鮮料理。大連は鮮魚が上がるため、海鮮料理が食べられる。まずはカレイの刺身。醤油は日本のものだった。続いてトコブシ、海老、海鼠、牡蠣の揚げ物(フライよりも天ぷらに近い)、蟹などが出てきて、最後にカレイのフライが出てきた。此までも桓仁の川魚、通化の鯉のあんかけなどのように魚が出るには出たが、海の鮮魚を食べられたことで、何となくほっとする。夕食後大連の町へ繰り出した。9時ころ勝利百貨店へいったが、9時が閉店時間のようだった。どの店も閉店準備に入り、9時の案内とともに、シャッターを下ろしたりバサッと売り場の台に布をかけてしまうところが多かった。見事であった。屋台で乾燥ライチを買った。11時30分就寝。
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2006年10月5日
中国東北紀行その4
9月29日。4日目になる。さすがに疲れが出てきて、肩や背中が張ってきた。考えてみたら、2日目の移動距離が500q。東京−大阪を見学を取り入れながら一気に走り抜けたようなものだ。昨日は移動距離こそ200qだが、内容は濃密だった。確かにガイドさんが言うように中国では短距離なのだろうが、絶対的な距離は相当である。しかしながら、「点と線」であることには違いない。数字の感覚は日本と中国でかなり違うようだ。人口にしても少ない街(郷、鎮クラス)で数万という数字が語られる。日本なら2万を超えたら市くらすだ。

朝食後、バスで桓任へ向かう。通化市内は太平洋戦争末期、ソ連軍の侵攻によって関東軍司令部を移した街である。今でもそのときの建物が残っている。軍事関係の施設なので撮影禁止だが、上から見ると航空機の形をしている。町中は市場が人でごった返していた。通化市を抜け出て、20分ほどで通化県の中心地に入る。通化市のベッドタウンとして発達していて、市内よりも活気がある。

さて、ここからが大変であった。バスは高級バスでエアサスが効いている。一方で道は狭く悪い。まるで気流がものすごく悪い中を行く飛行機のような感覚だ。こんな中を1時間以上進む。途中ですれ違う市内バスも100q以上進むような長距離のものだ。その道で中国の教育事情を聴いた。農村など貧しい所の人がよく勉強して、良い大学に入ること、大学を出れば職業も保障され、そうすれば農民の戸籍から都市の戸籍に変更できることなどが話のメインだった。また、通化からのガイドは文化大革命のときに日本語を学んだため、諺などが中心の勉強で、日本人と話しただけでも批判の対象になったと言うことを聴いた。中国の友人もいるのだが、文革の時の話を具体的に聞いたのはこのとき初めてであった。バスは農村を進む。

9時すぎ、桓仁についた。ここからバスを乗り換えて山を登る。高句麗の最初の山城、五女山城へ行くためだ。ここも世界遺産に指定されているが、交通が不便なため日本人は余り行かない。この旅行社が扱ったのも今年2例目で、しかも20名を越える大人数を扱ったのはおそらく初めてであろうとのことだ。集安を含めて大人数で訪問したケースはほとんど無いという。下から見ると山の上の方が崖で切り立っている。その崖の麓まで行くのだ。かなり急な上り坂を10分ほどで到着。しかし、中国の車はよく警笛を鳴らす。注意!、邪魔!のほかに、お礼など日本ならハザードかパッシングで表示することも警笛で表現しているようなのだ。

麓から階段を上がる。最初「段数は99段です。かなり険しいです。99段とはホンコンの返還を記念したものです。」という説明だった。ホンコンの租借期間99年をイメージしたものと思ったが、それにしては入り口にカゴ屋がいるし(最初の言い値は100元。それがどんどん下がる)、99段には見えない。慌てて「999段の言い違いでした」。ということは租借期間でなく、返還年である1999年のことだ。ともかく脇道なども上手く利用しながら登る。直りきっていない右足が痛み始めた。中には倉庫跡、泉あと、住居跡がある。住居跡はオンドルの煙道の痕跡が残されていて、今の朝鮮民族の文化に影響を与えたことがわかる。

城跡は平坦だが、すぐ脇は足下がすくわれるほどの大絶壁である。200b近くある。下を流れている川ダム湖となっていたが、そこには「遼寧第一の景色」と書かれた石碑が建てられている。湖は広々としていて、対馬の浅芽湾を眺めたときの感じを思い出した。この辺のカエデはすでに赤くなるが、階段を下りていった山下はまだであった。しかし…階段を下りてから「高所恐怖症、心臓病、高血圧、老齢者、弱者は登るな」という看板があっても…。絶壁を降りたところに南門跡があり、山上に向けて城壁が築かれていた。

城をあとにして市内に入る。食事は今までの中で一番脂っこい。というより油の中に食べ物があるような感じだ。今までもそうだが、食事は五月雨しきに出てきて、いつが終わりかはっきりしない。それどころかデザートの果物が先に出たりする。この辺は感覚の違いだろう。桓仁は満族自治区である。満族はの家は高床式であるというが、残念ながら気づかなかった。

バスで30分ほど、桓仁の郊外へ行く。10キロほど離れた米倉溝というところだ。桓仁は満族自治区であるが、米倉号はそのなかの朝鮮族の自治郷である。道にはヤギが群れを成し、馬車や牛車、ロバが動き回る。その間を鳥がかけずり回る。村にはいると子豚が追いかけっこをしている。その中を川端で女性が洗い物をし、家々はトウモロコシが干してあり、焚き付けようの藁束が積まれている。足下には肥料にする牛糞がおちていて、畑には大根、豆、黍などが植えられていた。その中を将軍墓へと進む。土を盛った貴族の墓であるが、高句麗初代王の朱蒙の陵だという伝説もある。古墳の時代と合わないが、そう考えても面白い。なお、後からわかったことだが、この村は満州帝国時代、関東軍によって焼き討ちされている。パルチザンとの接触を断ち、集団部落に移住させるためである。

再び桓仁に戻り、瀋陽へ。一般道を120qで快走??!する。途中から吉林と瀋陽を結ぶ高速道路に入った。直前まで快適だった道路が、なぜか入口直前の取り付け部分で未整備となった。高速道はその入り口から瀋陽側しか開通していないが、運転手もガイドもその道を知らなかった。路面はキレイで縁石はまだ揃っていない。ガードレールは光っている。道の脇をスコップを持った一団が歩いていく。それもそのはず、この日の10時に開通したのだ。中国では急速にインフラ整備が行われていて、今回の旅行中、同じようなことが何回かあった。日本人ではじめてかも知れない。などと思っているうちに日が落ちてきた。赤い夕焼けに向けて、バスは瀋陽へ向かう。ちなみに瀋陽は、中国の簡体字では「沈よう(こざとへん+日)」となる。ということは「沈陽で洛陽をみた?」。

トイレ休憩にサービスエリアに入るが、まだ未開業だった。トイレだけ借りる。ここも工事がほぼ終わったばかり…とういうことは…。途中通過した撫順は炭鉱の露天掘りで知られる。炭鉱こそ見えなかったが、燃料に石炭を使っているのだろう。黒い煙がでていて街は煤煙の底に沈んでいた。撫順の入り口には火力発電所があるが、これも石炭で発電しているとのことだった。

瀋陽で通化からのガイドと別れ、瀋陽のガイドに変わる。通化のガイドとバスはそのまま通化にもどるとのことで、ここから再び桓仁を通るルートしかないとのことだった。ということは6時間近くかかる計算だ。瀋陽は川の北にあるから、陰陽で「陽」の自我宛てられた等との説明を聞きつつ夕食会場へ。

夕食を食べた後、世界第2位の規模のコリアタウンへ行く。ちょっと危険な所もあるので、ガイドもついてくる。街はハングルが溢れている。その中でピョンヤン館へ行く。北朝鮮の直営店だ。中にいるウェートレスはとてもキレイだった。ショーの女性も。記念に北朝鮮の国旗をかたどったバッジを買った。ピョンヤン焼酎の4合瓶が80元なのに対し、このバッジも80元…。ちなみに朝鮮の焼酎は25度である。普段少しきついと思って飲むのだが、中国の白酒が50度近くあるので、やたら薄く感じた。瀋陽は清国皇帝が即位し、第2代皇帝まで生活した街である。世界遺産の宮殿跡と王陵跡がある。都が北京に移ってから満州時代までは奉天と呼ばれ、様々な見所があるが、次回の楽しみにとっておくこととする。
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2006年10月4日
中国東北紀行 その3

9月28日。5時半起床。グループの起床時間までまだ1時間あるので、身繕いをした後市内散策へ出かける。街には新聞を配る人、体操をするグループ、太極拳をするグループなど多くの人々が出ている。この町も自転車は少ないが、オートバイを改造したタクシーを結構目にする。その間をロバが荷車を引いて優雅に進んでいった。中心街の道を一歩小道に入ると、そこは朝鮮族の街で、「宝来朝族焼烤(=焼肉)」等という看板がハングルと一緒に書かれている。後で気がついたが、ここから国内城、中朝国境までは数百mの距離だった。行っておけばよかった。

食事は相変わらず脂っこいが、饅頭類やお粥はとても美味しかった。さすが中国東北地方は小麦などの産地だ。一方コーヒーは人によっては、戦前の「代用コーヒー」に似ていると言うくらい濃く、その上インスタントコーヒーを煮詰めたのではないかというような粉っぽさであった。ホテルの売店でガイドブックや地図の他に北朝鮮の紙幣も入手する。この後この町の多くの売店で共和国紙幣を売っていることを知る。

まずバスで集安博物館へ行く。乗車時間30秒。博物館の題字は郭抹若のもの。中は高句麗関係のものを展示していて、中央に好太王碑拓本、左右に遺物が展示される。ただし、いつの時代の物かははっきり書かれていない、実は高句麗の歴史については韓国と中国でどちらの歴史と見るか、政治問題となっている。どちらの歴史でもあるとも言えるし、独自の高句麗史や北アジア史というアプローチもできると思うが、ともかく両国で争いとなっている。この博物館では高句麗の説明は、「三国志」などの中国の歴史書をひいていて、韓国側の「三国史記」「三国遺事」は引かないことでさりげなくその立場を表している。

博物館見学後丸都山城へ行く。途中の集落は日本的な要素を持った家が目に入った。この町にも日本人はいたのだろう。丸都山城は非常時の山城で平地とは5-6mの崖で隔てられている。比較的広い平らな地の後ろは急峻な山に3方を囲まれる。ここには門、望楼が残っている。ガイドから王宮跡もあるが、少し離れているのでやめましょうと言われるが、道があるようなので行ってみた。回りは葡萄畑で、途中の作業小屋ではひまわりの花を干して種を取っていた。その先に白い礎石が点々とおかれていて、高句麗時代と思われる赤瓦がときおり目にはいる。入り口には川が流れているが、そこで女性が一人選択をしていた。

城門の下は高句麗の古墳群である。高句麗古墳の初期のものは積石塚で、4世紀くらいから土を盛った石室墳にかわる。そして食後に見に行くような壁画が描かれるようになる。ここのものは洞溝古墳群と言われ、前期の古墳が累々とならぶ。貴族の古墳と言われ、山城が使われなくなってから造られようになったと説明される。このような古墳が集安には1万基以上あるとのことだ。昔からの積石のままのものと、近年修復したように見えるものがある。古墳の上にはススキが穂を出し、光に輝き、足下の草村にはイヌタデが赤い花を咲かしていた。近くには土砂崩れのあとが方々に見える。今年の夏に大量に雨が降ったためという。この雨は、日本付近の梅雨前線が北上して、この辺が雨期に入ったためのものだ。

そこから山城にたいする平城の国内城を見る。城壁が残っている。足下には「緑草青青、足下留情」という標語が書かれた石盤がある。これを見てから、鴨緑江まで移動。比較的流れは速いが、100m程の向こうは北朝鮮満浦市である。中国側は川それ自体は中国のものと主張しているため、対岸間近まで行くことが出来る(時間の都合で行かず)。中国側の整備された護岸に対して朝鮮側は自然護岸である。その朝鮮側の川中島にはトウモロコシが植わっていたが、本土側は農業がうまくいっているようには見えない。山も山火事があったと言うが、それだけでなく頂上まで開墾した形跡が見えるのに、作物らしきものは何も無く、荒れはてている。麓の集落には人の気配がほとんど感じられない。収穫期のはずなのに。車も一台通り過ぎて行っただけだ。近くには銅の精錬工場があり、足尾銅山のように、その周辺の木は枯れていたがそれも小規模で、精錬所からもほとんど煙が出ていなかった。集安も豊かな集落とはいえないが、それでも青々とした木々が茂り、作物も実り、人が多く行き交っている。まったく別世界が広がっているのだが、朝鮮側からは中国の様子をどのように見ているのだろうか。

昼は朝鮮族の店で料理を食べる。辛味を控えてもらったようだが、漢族の料理に比べて脂っ気は少ない。それでも大分漢化しているようで、トラジのあえ物に、香草が使われたりもした。スンデは朝鮮風(×韓国風)に餅米が詰められたものだが、醤油の味が違う(ただし、朝鮮北部の味かも知れない)。餅菓子はでたが、キムチはなかった。また、中華料理と同じで机の真ん中には回転台があって、韓国の料理店の雰囲気とはかなり異なる。
 
店には朝鮮語の分かる人がほとんどいない。唯一人青年がいたが、中国語の方が得意のようだった。発音「r」が中国的な音に代わっていたし、話の最後に「了」がつく場面もあった。また、朝鮮語はごく親しい関係でしか使わないのであろう。訪問者の多くが60歳以上であったにもかかわらず、一切パンマルで話していた。店の一階には健康酒が。中を見たら…イモリ、タガメ、クコなどが一緒に…。店の前は朝鮮人参を売る商人が集まっていた。中国語で語りかけてきたり、韓国語でアンニョンハシムニカと言ってきたりだ。

五かい(灰かんむり+皿)墳5号墳で壁画を見た。以前はビデオなどでしか見られなかった、直接は入れるようになったのだ。高松塚と違い直接石室に描いたからかもしれないが、いずれにしても本物はすばらしい。周囲の古墳(4号墳、舞踊塚、角觝塚など)にも壁画があるが、いずれも非公開である。この付近の店は朝鮮族の土産物屋が多く、いずれも韓国語が通じた。そして、好太王(広開土王)碑へ。現在は覆堂がつくられ碑文は直接見られない…はずが、中に入れた。碑文は6センチ角の大きな文字で、読めなくなったものも多い。しかし「百残新羅旧之属民」の文字は目の高さより少し低いところにあってはっきりと読み取ることが出来た。倭が戦争に関係した部分は上の方になるので残念がら見えなかった。

近くの大王陵(広開土王陵と言われる)に行き、屋根型の石室をみたのち、将軍塚へ移る。石をピラミッド型に積み上げ、崩壊防止(といわれる)のために大きな石を各面に3つづつ立てかけてあるものだ。この陵は長寿王のものといわれる。長寿王は北朝鮮の平壌に都を移し、百済を一度滅ぼした王として知られる。90過ぎまで生きたとされ、それにあやかり春に漢族が長寿を祈りこの陵にお参りに来る習慣があるとのことである。ここも墓室に入れる。大王陵と違い一枚板の天井だ。屍床台にはなぜか札や硬貨がおかれていた。ほとんどが中国の人民元だが、なかには韓国の1000ウォン札もあった。

紅葉の中、通化にもどる。途中日本時代のトーチカを見る。集安は北朝鮮へ渡る鉄道のあるところだ。中朝国境で鉄道で渡れる場所は3か所しかない。そのため鉄道の要所として警備されていたのだ。夕食は通化の北京ダックの「店」。いっこうに出てこないなと思ったら、店であってそのものは出ないとのご宣託。しかし後になって出てきました。ただし皮だけでなく肉付き。皮を巻くものはかなり油こく、食べた後は手がテカテカ光った。味は絶品。
 
夜、超市(スーパーマーケット)に見学へ行く。酒類はワインか、焼酎の類がほとんどで、紹興酒はない。近くの店でスケトーダラの干物を焼いてもらった。韓国のものほど、カチンカチンにはなっていない。しかし、焼き方を見て驚いた。焼いている最中に上から油をかけているのだ。やはり油がベースになる国なのだ。

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2006年10月3日
中国東北紀行その2

2日目。5時半起床。日本時間の6時半だから普段起きる時間に自然に目が覚めたわけだ。目の前に長春駅が見え、足下には駅前広場のバス乗り場へ急ぐ人が見える。時間が立つにしたがい、人も増え、道ばたには露天もでた。朝食は、塩の固まりが入っているくらい塩辛いものが多い。

バスが出る前に駅前の地下街へ散策に出かける。土産物売り場や食堂、長距離電話がかけられる電話局などがあり、そのすきまを埋めるように本屋の棚が続く。地下街入り口ではドラム缶を改造した焼き芋売りが焼き芋を売っていた。バスで市内見物に出発。長春は文化の街、緑の街など4つの特徴を持っている。映画も盛んで、満州時代から撮影されていたという。ため息が出るほど満州時代のものが残る。泊まったところがヤマトホテルであったのもそうだが、その前には旧満鉄新京支店のビルがある。市内に進むと、旧デパート後や住宅が延々と続く。その中に新しいマンションも建つ。今長春は空前のマンションブームだそうだ。

中でも驚いたのは、旧関東軍司令部である。現在は共産党吉林省委員会が使っているが、その建物が日本の天守閣そのものなのである。日本の中で天守閣を見ても、当然不思議ではないのだが、異国の地でこの建物をみると非常に違和感がある。そのうえに日本と戦った共産党の委員会が入っているというと、象徴的なものが別の象徴的なものになったと言うことで、さらに違和感を感じるのだ。韓国では早いうちから立て替えられたものも多いのだが、おそらく感覚が違うのだろう。民族の興亡の歴史もあり、一か所をつねに同じ民族が支配したというわけでないこともあるのかも知れない。もちろん、当時の歴史の中での意図は否定しない。

さらに満州国皇帝溥儀がいた宮廷跡へ行く。溥儀が使った馬場後から始まり、当時の設備がそのまま公開されている。第1婦人の部屋もあったが、アヘン中毒になってしまい、中心の建物は第3婦人が主に使っていた。その寝室や、和室、ビリヤード部屋、会議室などが残されている。溥儀自身は盗聴を恐れて一度も使わなかったそうだ。中には先祖を祭った部屋もあり、清国を立てた最初の王、ヌルハチの位牌がおかれていた。その隣にはヌルハチを助けたとされる人の人形も飾られていた。一回に降りると、溥儀が使用した自動車がある。これは今でも走れるそうだ。

はなれの建物は実際に溥儀が使った。入り口には江沢民の筆で「918(満州事変)忽不忘」という銘板が入っている。こちらは執務室や日満議定書調印の部屋などがあり、宴会場も残されている。この裏に楽団が演奏したとされる部屋があるが、コントラバス、スーザホーン、トロンボーン、木管楽器、ワグナーテューバ、小太鼓がおかれていた。一体、何を演奏したのだろう。さらに溥儀の使ったトイレや、理髪室もそのまま残されている。溥儀はここでホルモン治療などを受けていたとのことだ。また溥儀の写真や第5婦人までの写真が飾られていて、その生涯が分かるようになっている。どの人との間にも溥儀の子供は生まれなかったとのことだが、婦人が再婚などをした先では子供が生まれている。

お茶の店で、お茶の入れ方を見てもらいお土産を買う。新茶のウーロン茶。茶色でなく緑の葉であった。そして「のした山査子」。この袋の日本語がすごい。「正しじべね滋味のすだぜへ体現友人享受すへ」…解読に挑戦してみて一部は原文の想像がついたが、徒労に終わった。昼食に出たビールは少し薄めの味だった。おそらく中国人から見るとこのように見えるのだろう。韓国でも「る」「ろ」などは混乱しているし、「スラックス」が「ズうつクス」などとなっていることを見たことがある。手書きで少し崩してあったらそう見えなくはないだろう。いずれにせよ違った言語の文字を見ても、その言語を使っている人の文字を見る感覚とまったく異なるという証明のようなものだ。

昼食後バスで集安へ向かう。道は比較的良い。途中の通化まで400Km、4時間ほどであるが、前半は見渡す限りのトウモロコシ畑、または水田の平原だった。土地は肥えているようには見えない。こんなところでも、日本から持っていった携帯のアンテナが普通に立っている。その間に農家が見える。切り妻の家が漢族の家、入母屋の家が朝鮮族の家だ。朝鮮族は稲作が得意と言うことだ。そういえば、一面稲を刈っているところと、稲穂の上の部分をいくつか束ねて稲穂だけを刈り取っているところがある。後者は韓国でも見る刈り方だ。
 
しかし、このような平原がずっと奥まで続いているわけで、そのような土地で突然終戦を迎え、ソ連軍の侵攻をうけたら、途方に暮れたというよりも「取り残された」という感覚を持つのではないか。そしてどうやって帰国するかと考えても答えは出なかったかもしれない。少なくとも、王道楽土、五族協和を夢見て渡った人たちなのだ。おそらく、朝鮮で終戦を迎えた人とはかなり違った意識を持ったのではないかと、両国を見ている経験から想像した。そんなことを想っているうち、長安を出発して1時間半ほどで伊通を通化する。地図で伊通火山帯という表記が見て、何だろうと想っていたが、たしかに溶岩地形と単発の小火山がほぼ同じ間隔でいくつか並んでいる。

後半2時間は山の中に入り徐々に高度を上げる。すでに紅葉が始まっている。この辺から地形が朝鮮半島と共通の地形になるのだ。犯罪事件が起きたということで検問を受けて、通化の街に入った。ここで夕食を食べた。通化のビールは少し苦みのあるビールで、滞在中飲んだものの中では一番口にあった。

通化はアイスワインが名産だという。満州時代から作っているそうだが、自然の状態で凍った葡萄をつけ込んでいると言うことだ。かなり甘く、ファンタグレープの炭酸を抜いてアルコールを加えたような味であった。男性陣には不評な一方、女性陣には好評であった。

さらに集安まで行く。60キロほどだが、道が余り良くないので、バスで2時間かかる。片道一車線の狭いカーブの多い山道であるが、そこをバスは平気で左側を走り、前方の車を抜いていく。ちなみに中国は右側通行である。もう目の前に対向車が迫っているのにである。怖い。

集安は鴨緑江沿いの街で、目の前は北朝鮮である。しかし、泊まった集安賓館では北朝鮮ではなく、韓国のテレビが見える。北朝鮮の放送が入るかと思ってラジオのスイッチを入れたが、AM,FMとも北朝鮮の地元局は入らない。海州の局は聞こえているから、近辺100キロ前後の場所に放送局はないと言うことだろう。その代わり韓国の放送や日本の放送はよく聞こえていた。よく聴いている韓国KBSの日本語放送もキレイに入っていて、何だか不思議な感覚に襲われた。ホテルの入り口には韓国語表記もあるが、韓国語は通じなかった。英語も日本語も、夜12時就寝。

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2006年10月2日
中国東北紀行その1
9月26日から10月1日まで中国東北地方をめぐった。目的は旧満州帝国の遺産と高句麗の遺跡を訪ねるというものだ。

高句麗は中国側で起こった民族で、それが朝鮮半島に拠点を移すため、最初の頃の遺跡は中国側に残されている。行きにくい場所であるが、今回機会に恵まれた。

9月26日、羽田6時50分発関空行きに乗り、関空から大連行きに乗る。発達した低気圧の影響で飛行機は揺れ気味。大連行きは途中まで機内サービスが行えない状態だった。釜山上空からななめに韓国を横切り、黄海を大回りして大連に着陸…のはずが、着陸態勢に入ってから一向に降りない。大連が強い雨で、しかも霧がでているため、旋回して待っていることだった。

空港は日本便、韓国便が多いのだが、どちらの言語もほとんど通じない。しかし簡体字とはいえ、普段使っている漢字表記なので(大分違うには違うが)、文字が自然に目に飛び込んでくる。空港はこぢんまりとした印象を受ける。市内見学に出かける。一番最初に目に飛び込んできたのは、朝鮮料理の店だった。表記からすると朝鮮族だろう。自転車は目にしない。坂が多く使いづらいという説明であった。車は、かなり自由に走り怖い。人もあちらこちらで渡ってくる。

まず大連港へ向かう。眼下に数本埠頭が広がり、ロシアの作った埠頭、日本の作った埠頭がならぶ。満鉄時代の設備も残っている。韓国の仁川への航路もこの埠頭からでる。その後市内中心地へ。中心地は最終日にゆっくり見るので、そこで説明したい。関東州時代の建物の多くが文化財に指定されたりして大事に使われているという印象を受けた。満鉄関係者が住んでいた自宅も残っているが、非常に豊かな生活をしていたことが伺われる。もちろん、あちらこちらに最新の高層ビルも建っている。

食事で青島ビールが出る。日本のビールより少し薄い感じがした。この後、各地で地元のビールが出て、味を楽しむ。

食後大連空港より長春空港へ向かう。手続き場では
  説普通話、迎四方賓客
  用文明話、送一片真心
という標語が電光掲示板に表示されていた。搭乗口待合所の売店ではお酒の他、干海老や干海鼠などを売っている。飛行機もどことなく干物系の臭いが漂う。

飛行時間は1時間。途中気流が悪く、ベルト着用サインが出たにもかかわらず、機内サービスは続く。コーヒーを注いでもらった途端、強い揺れが来て、こぼれてしまった。そういえば、戦前飛行士だった人が、この辺はかならず揺れる気流の悪い場所があって、操縦がイヤだったということを言っていたが、そこを通ったのだろう。長春で泊まった長春春誼賓館は満州時代の大和ホテル。ホテルの前はロータリー越しに長春駅である。23時半就寝。1時間の時差のため、体感時間と実時間がずれて、何だか変だ。
Posted by hajimet at 10:20 | Comments (0)