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2006年5月9日
三河島探検

近くで話には聞いていても、なかなか訪ねられないところがある。三河島もそんなところだ。自宅から見て山手線の反対側。しかも常磐線の快速しかないところで、むしろ二つ先の北千住や綾瀬の方が便利に感じる…そんな場所であった。三河島事故の記憶も(生まれる直前だが)、訪問をおっくうにした原因かもしれない。
 
この日、三河島巡検の誘いがあった。夕方4時駅に集合。その前にあたりの雰囲気を知りたくて、山手線の日暮里駅から歩くことにした。わずか1qほどの距離である。住宅と工場、倉庫が混在したところであるが、駅に近づくにしたがって韓国料理の店や食材店があらわれてきた。駅は古い鉄骨の橋脚の上を本線が走り、下を通る貨物線が本線に合流すべく勾配を登っていくところにある。その脇には民団の荒川会館があり、周囲には韓国料理と中華の店とか、ビデオなどを扱っている店が集中していた。駅の北側も線路に沿って焼き肉屋が続いている。
 
駅をでて三河島通りを北へ5分ほど。途中に韓国系の店などを見ながら歩く。在日の店だけでなく、ニューカマーが経営する食堂も多くある。その中、ハングルで書かれた宣伝看板が突然現れ、古びたマーケットが奥に続く。朝鮮マーケットである。
 昭和40年代までよくあちらこちらで見かけた、店の軒先にトタン板などで覆いを掛けただけのたたずまいだ。肉などの食材店、祭祀などのときなどにかかせない「そんぴょん(ソンピョン)」「ちゃると(チャル・トック)」などを扱っている店、チマチョゴリの店などが軒を寄せ合っている。このようなマーケットがもう一か所あるということだった。ちなみに三河島の焼き肉屋ももともとここの中に店を出し、のちに周囲に出ていったということだ。
 
一見突き当たりと思われる肉屋(こちらはキムチ、各種焼酎(韓国焼酎から平壌焼酎まで))のわきに人がやっとすれ違えるだけの路地があった。上には建物が覆い被さり、暗いトンネルのようなところだ。
 佐渡両津に行くと、2間ほどの間口で奥行きのある細長い家が多い。たいてい家族の空間は1間半程度部分でつくられ、残り半間は奥へ行くための通路となっている。まわりの人も小路がわりに通っていくが、その通路?と雰囲気がよく似ている。その中に、干した山菜やごま油、トウガラシの粉などを扱う店や、「韓国服扱います」と書かれたクリーニング店などがある。あたりは何故か「仁川」を店名につけたところが多い。
 
朝鮮マーケットを見た後仲町通り商店街を歩く。在日の多い地域で古くからの在日がやっていると思われる店も多い。その中にニューカマーの店も多くあった。それまでの店が出て行ったあとにニューカマーが入ってくるとのことであるが、商慣習の違いなどいろいろあるそうだ。三河島に住んでいる、ある在日がかつて、「ニューカマー・在日といっても、そのニューカマーが長くいれば在日になるんですよ」といっていたのをふと思い出した。またニューカマーだけでなく中国人も増えてきたとのことだ。新宿が、韓国人に限らず、ほぼニューカマーだけの町であるのに比べて町の取り巻く条件もかなり違うだろう。
 
仲町通り商店街を抜け、在日の経営するカバン工場を見学した後、第一朝鮮学校の脇を抜けて韓国キリスト教教会に行く。9割以上が韓国人で、説教も韓国語で行われるとのことだ。近くに韓国の禅宗系(曹渓宗)の東京布教所まである。朝鮮学校は1945年12月の国語教習所以来の学校である。かつては学校のまわりにスローガンなどが書かれていたが、さっと見た限りは見あたらなかった。肖像画も教室には飾ってないそうだ。このあたりは町工場と住宅が混在していて、表札も韓国系の名前の書かれた者が多い。
 
荒川にいる在日の多くが韓国済州島高内里(コネリ)にルーツを持つ。大正11年に最初の人が来たそうだが、そのときはここの地場産業であるカバン工場に来たとのことだ。その後高内里の人がここに集まり、現在では荒川だけで7000人になるという。大正12年の関東大震災の朝鮮人虐殺に巻き込まれた人もいたようだ。これだけ集まったのは、高内里の経済環境もあったのだろう。大阪にはあまりいないとのことなので、もしかすると大阪の在日とは歴史的、社会的背景に違った面があるかも知れない。そういえば、このとき会った在日はほとんど一世だったせいか、若い人に聞かれる「在日語」が全くといって良いほど耳に入ってこなかったことも印象的であった。
 
 

Posted by hajimet at 10:58 | Comments (0)