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2007年3月19日
武州渡来人紀行(3)

昨日の後半から、武蔵国を回っているので、上州から武州に名前を変える。
前日狭山茶を眺めながら飯能に泊まる。通勤圏なので、泊まることは珍しい町であるが、泊まったホテルも「今時?」というホテルだった。昔懐かしいというか何というか。インターネットは使えない。その上持って行った携帯とつなぐUSBコードをなぜかPCは認識しない。
 
翌日8時30分出発。高麗川の高麗家住宅へ。藁葺きの家で、様式は江戸時代前期以前のもの。昭和30年代まで使われたとのこと。あたりは梅の花が咲き乱れる。なぜか茶褐色のバッタが蜜を吸っていた(写真の真ん中・枝に着いている枯れ草みたいなもの)。
 
続いて高麗神社へ行く。この地域は高句麗系移民が開拓したところであるが、その辺の話を宮司から伺う。先代が昨冬に急逝されたとのことであるが、話はうまい。ここに高麗神社ができるまでの話と、それ以降の高麗氏の略歴、神社の効能?を端的に話していた。
 
先代には2001年にお目にかかった事がある。もうすでに体がかなり弱っていたようであったが、そのときに現職ともお目にかかっていたようである。そのときに系図を見せてもらいカメラに収めたが、本物と聞いていたが…今日、複製と判明。
 
続けて聖徳院に行く。山号が高麗山というように、本来は高麗神社と一緒だったものが、神仏分離令で別々になった。脇にこの辺の開拓の中心人物、高麗王若光の墓と言われるものがある。朝鮮式の三層石塔というがそれらしいと言われればそうだが、違うと言われれば違う。屋根の笠に当たる部分が風化していてなくなっているので、判断が付かないのだ、
 
山門をくぐり本堂へ。ここから入場料がいる。以前はそんなことはなかったのにと思いつつ、石段を登っていくと…。そこにはそれまでここで見たこともない立派な本堂が。さらに鐘突堂がある。その目の前に石像が。よく見ると「高麗王若光」となっている。その向かって左手、遠くには山越に富士山がよく見えていた。
 
境内の奥には無縁韓国人供養碑がある。在日韓国人のある人が中心となって寄進したとのことで、中央に石塔が建ち、その後ろに十二支像の彫り物がある。韓国の古墳の周りに彫られるものと違い、板に刻まれた「絵」である。その左手には東屋が。3.1独立宣言を発表したタプゴル公園の東屋を模したものと事である。入り口には石像が数体立つ。無名のもの(広開土王か壇君)、武烈王、鄭夢周などの像である。説明板には、高麗王若光が日本の中心で、風水のよいところであるここを開拓の土地と定めたという趣旨の説明があるが、これはおかしい。風水が入ってくるのは、若光が入植してからかなり後のことであるし、自発的にではなく、この地に政府によって住まわせられているからである。飯能駅で別れ、レッドアローで帰宅。池袋まで50分ほどの距離であった。

Posted by hajimet at 20:07 | Comments (0)


2007年3月18日
上州渡来人紀行(2)

第2日目。8時20分宿舎発。宿舎は東横イン高崎駅前。LANでインターネットには接続し放題。朝はおにぎり、味噌汁、スープ、パンのサービス。夜はカレーライスのサービスのあるホテルだった。カレーライスの魅力的な匂いは、14階のエレベーターホールまで充満していた。おなかのすいていた身でこれから飲み会の立場からは「何とかして〜」であった。それ以外は居心地はよい。
 
まず綿貫観音山古墳へ。しかし上州は大きな前方後円墳の多いところだ。ここもそうだ。石室を開けてもらい入る。榛名山の噴石を側面に、多胡石と同じ砂岩を天井石にしていて、崩壊していたものを復元したそうだ。入り口は西南を向いていて、その方向は百済だと言うが、この方向は太平洋である。あえて百済と考えるとすれば、遺体の頭の向きが北西を向いていれば、(つまり入り口の通路に直角方向)そちらが百済になる。なぜ、百済かというと、この古墳から百済公州武寧王から出てきた鏡と同じ型から鋳出した鏡が出ているからである。ここからは「泣き女」3人が一つにされた埴輪が出ている。まわりは妙義、浅間、榛名。妙高、穂高などの山が囲んでいる。その山からの出口で、しかも利根川などの大河が流れるのだから、いかに豊かな土地か想像できる。
 
その埴輪などを見に群馬県立歴史博物館へ行く。特別展で雛人形をやっていて、御殿雛に関心を持つ。旧石器時代の話、縄文期の海進の時の群馬、縄文、弥生の説明を受け改めて上野国の勢力の大きさを感じさせられる。また古墳や仏教伝来時の3国からの影響なども見られる。ちなみに昨日見た多胡碑をはじめとする上毛三碑は碑石を作る習慣のほとんどない日本では珍しいことで、文字の使い方などに新羅の影響が見られるとのことであった。ついでに多賀城碑のレプリカも今回何カ所かで見たが、これも渡来人の影響があるとのことだ。なぜか靺鞨という文字もあるのだが、これはのちの靺鞨と同じか分かっていないとのこと。庭にでる。馬のモニュメントがある。渡来系の「牧」の事かと思ったが、そうではなく、現代彫刻の「巨馬(おおうま)」であった。
 
群馬を後にして17号線を南下。行田行く。約1時間であるが、それにしても関東平野は広いと改めて思う。まわりはただ平野だけ。埼玉古墳群につく。5世紀に突然大古墳が出現するので有名で、武蔵の南部の政権との勢力争いの結果、上州と結んだ南武蔵が負け、大和政権と結んだ埼玉の勢力が勝ったためと言われる。雄略天皇の名前の入った鉄剣が出たことでも有名。これは埼玉の資料館に本物が展示される。丸山古墳に登った後、鉄剣の出た稲荷山に登るが「何だか変」だ。ここは3回目であるが、記憶の古墳と違う。後で分かった。2回目に来たときにトレンチを掘っていたのだが、それをもとに前方部を復元したのだった。将軍塚は日本ではわずかにしかない馬具が出たことで知られる。馬具は直感的に加羅を連想するのだが。資料館では稲荷山古墳の出土物と、横穴古墳の特別展をやっていた。
 
吉見百穴へ行く。いつ行っても異様な風景だ。旧軍時代の地下軍事工場もここにあって、途中までは行くことができる。古墳はいくつかの形に分けられるようだが、蒼ケが付き、棺台がある。上は粘土、下はグリーンタフの凝灰岩でいずれも掘りやすい土質である。だからこれだけ掘られたのだろう。渡来系との関係を想定することもあるが、たしかに須恵器は出てくるが、いかんせん横穴古墳はそもそも副葬品が少なすぎる。遠くからは訓練であろう。銃声が聞こえてくる。さらにバスで一時間。飯能に就く。地名については韓国語の「ハンナラ」(偉大な国)との関係を指摘する人もいる。ここで1泊。東京への通勤圏の中なので、こんな機会でもなければ泊まれないところである。

Posted by hajimet at 21:20 | Comments (0)


2007年3月16日
久々に・上州渡来人紀行(1)

久々の更新。あまり出かけていなかったもので。

高句麗紀行へ行った名古屋のメンバーと一緒に、上州から高麗川へ抜ける渡来人紀行にきている。やっと初雪の降った東京を9時半に出発。
 
親戚が新潟・佐渡にいる関係で群馬県はしょっちゅう通過するが、降りるのはほとんどない。高崎で降りたのは2回目。1回目は平成8年。父が亡くなった後、終戦直後に疎開した新潟五泉で父がお世話になった人に挨拶に行った帰りだった。新潟では油田を案内してもらった。その帰りに高崎で降りて多胡碑を見に行ったのだった。畑で採ってきたばかりのネギをロッカーに預けて(ロッカーの臭ったこと匂ったこと)。それからも高崎はしょっちゅう通過はしている…。
 
高崎駅でだるま弁当を買う。出かけるときからきめていた。東京のチキンライス、新潟の、ます寿司、横川の釜飯と同じくらい定番だ、普段の赤いプラスティックの入れ物に入ったものではなく、「復古だるま」。普通のが900円に対して1300円。素焼きの入れ物に入る。中身も素朴で。お品書きには牛肉のしぐれ煮(おいしい)、地鶏の付け焼き(そんなものかな?)、マイタケ委の含ませ煮、花豆のふっくら煮(食べであり)、マイタケのわさび和え(珍味)等々であった。
 
上信電鉄に乗り吉井へ。ワンマン運転。駅間距離が長いのと、レールが貧弱でよく揺れる。一部高規格のレールだがここだけは揺れない。以前乗ったときは西武の旧型車で、「弱め界磁」が自動的にできずに、手動スイッチで「弱め界磁」に切り替えていたのが印象的であったが、今回はさすがにそれはなかった。西武から来た車両には違いないが…。線路はしばらく河岸段丘と谷底平野の間を走るが、吉井の手前からは段丘面に乗る。
 
吉井駅で町歩きのパンフレットを探したが…なかった…やむを得ず持参したラフな地図で徒歩で辛科神社へ。駅前から国道254号線に出る。本当は古墳などを見ながら行きたかったが、名古屋のメンバーが「順調に」ついたとのことで神社へ直行。それでも少しコースを外れれば神保古墳群があるということで、そちらへ向かったが見つからなかった。
 
辛科神社も上神保という集落にあるが、河岸段丘の上にある。途中で畑越しに眺めた妙義、浅間は絶品。もともと韓郷と呼ばれていて、かなり早い時期から渡来人が生活していた。12時半に到着。「だるま弁当」を食べながら到着を待つ。神社は大宝年間に創建した神社で、この地域に古くから住んでいる渡来人が作ったと伝えられる。祭神はスサノオの命とその子、イソタケルの尊。ただし変遷があるようだが、いずれも渡来系の神であることはわかる。周りには神保氏が戦国時代に作った館跡の空堀が残る。
 
なお、神社が所有している古墳もあるが、そのようなところからは渡来人そのものの明確な遺物は出ない。そうとう土着化した渡来人がいたのだろうという。カラは加羅の事だとすれば、かなり早い時期の渡来人である。神社の入り口には「狛犬」らしきものが置かれている。少し雰囲気が違うが…実は「神獣」である。宮司さんの話によると、もともと仁王像があったが、神仏分離で別の寺に移されたとのこと。その後空いている場所に、先代が中国で買い求めたものだそうだ。由緒は…ない!
 
続いて多胡碑をみる。周りの風景は依然とずいぶん変わり、記念館ができていた。以前は碑の周りに回廊状に展示物があったが、それはなくなっていた。多胡碑は普段は覆堂の外から見るが、この日は特別に開けてもらい、間近でみることができた。但し碑にさわってはいけないとのこと。カビが出るそうだ。なぜここに碑があるかというと、ここに国衙があったからだとされるが、まだ発掘はされていないとのこと。記念館では文字の解析、付近から発掘されたもの、朝鮮、中国に渡った多胡碑の文字の話などが展示されていた。…しかし、胡が多いとは。ここに郡が作られた時期なら、そうとう土着した「胡」だったはずなのに。
 
続けてバスで30分ほどで保渡田古墳群へ行く。王家クラスの古墳で、石葺きの大前方後円墳が3つある。規模も大きいもので、一時期に3代分作られたことが分かっている。このうち八万塚古墳は作られた当時の姿に復元されている。関東にはほとんどない舟型石棺も出てきている。また、埴輪がすごい。群馬の古墳は堀に中島があったり、埴輪が多いのが特徴だが、墳丘に6千あったという。現在は3千復元されている。中には狩をする人と、その矢に射られて血が流れるイノシシが対になっているものもあった。近くから館あとや、渡来系の積石塚が見つかっている。2段の方墳で上段は完全な石積。埴輪も出ていて両方が混じっていることが分かる。ここからは「飾履」など渡来毛糸のものが出ている。
 
水田跡などもあるが、古墳時代の榛名山の噴火で一瞬にして埋まってしまったとのことである。そのため耕作したばかりの足跡も残っていた。たしかに目の前に榛名、赤城、妙義、その後ろに浅間が見えていて、火山災害の多いことが伺われる。たしか日本のポンペイといわれた遺跡もこの辺だっけ。そういえば、新幹線から眺めた土、熊谷あたりまでは白い砂であるが、高崎に近づくにつれて赤い火山灰の色が混じっていた。
 
…赤城おろしのひどい一日だった。あしたは埼玉方面へ。

Posted by hajimet at 18:02 | Comments (1)