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2007年5月20日
もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開 その2(ツアー)

2日目。
 
昨日は曇り空で、時間がたつにつれて蒸していた。夜は雨が降っていた。 早く起きて橿原神宮を参拝。畝傍山の麓である。この地域に神武、綏靖、安寧、懿徳などの天皇陵が散在する。前日の雨があがり、すがすがしい。ホテルに戻り茶がゆを食べる。天気予報では午前中は雨が降ることがあるが、午後は回復するという。しかし、これは裏切られた。
 
さっそく飛鳥資料館へ。キトラの玄武公開で混み合うため、真っ先に行く。8時50分頃バスが到着するが、すでに100人ほどが並んでいた。資料館の庭には飛鳥の石造物(人面石、酒船石、須弥山石、甕石など)のレプリカがおかれ、特別展示室では山田寺の回廊などが復元されていた。
 
 
 
 
30分ほど待って、キトラの玄武と対面。5ミリほどの均等な漆喰の上に繊細に描かれている。隣には高松塚古墳の玄武の模写が。こちらは中が削り取られている様子がよくわかる。特別展示室その2は玄武の由来。中国からの系譜を紹介していた。先日見学した高句麗五灰墳4号墳の壁画も紹介されていた。常設室も見る。飛鳥の軒がわら百済のものを並べていたが、本当によく似ている。まだ日本化していないのだ。
 
続けて飛鳥坐神社へ。神を呼ぶことと雷との関係(ちょうど鳴り始めていた)。雷が落ちることは神が降りてくることだそうだ。この神社には80万神が集まってくる。よい神も悪い神もいるが、よい神だけが集まってくるとのことだ。ここには男根石が多いのだが、そのことの説明なども受けた。続けて昼食。石舞台の脇の食堂である。休憩時間に石舞台を見学。そこからバスで飛鳥川に沿って奥飛鳥へ入っていく。
 
一面棚田の中をバスは峠を越える。ただし、この地域は6月に入ってからの田植えだそうで、棚田というよりは段々畑に見えた。そうこう言っているうちに飛鳥川に縄が張られているところに来た。
 
 
男綱とよばれ、道祖神などと同じ役割をするそうだ。下流側は神式で貼られ、上流側は仏式で貼られる。中央につり下げられている物は、下流側は男性を、上流側は女性を示している。ここから旧道に沿って谷をあがる。まず飛石。続いて南淵請安の墓。ここで滝のような雨に遭遇した。墓のある所は周囲に比べて高く、雷も鳴り始めたので、集落まで降りて雨宿り。雨は10分ほどで上がり、すぐに晴れ上がった。道路からはもうもうと湯気が上がっていた。後から分かったが、このそばに竹石王石塔もあった。
 
続けて飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社へ。手すりのない階段を270段ほど上がる。それほどきつくはないが、降りるときは怖い。続けて栢守集落へ。加羅との関係が指摘されている集落である。飛鳥川も細流となってしまい、音も聞こえない。ここの加夜奈留美命神社へ行く。
 
栢森集落から奥は芋峠となり、吉野へつながる。その吉野からの入り口を守る神社である。式内社であって、格もとても高かった。飛鳥は百済、高句麗の影響はあちらこちらで見られる。しかし、加羅、新羅に関係するものは少ない。加羅との関係も指摘されるこの集落も、飛鳥の中心地からすると、非常に山奥である。飛鳥中心地との関係であろうか、それとも吉野方面から進出してきたのであろうか。 このあとキトラ古墳を見学して、帰京した。

Posted by hajimet at 11:40 | Comments (0)


もっとも保存状態が良いキトラ古墳「玄武」公開1(ツアー)

久しぶりの更新。
 
キトラ古墳の玄武公開にあわせて行われたツアーに参加した。キトラだけでなく、普段行きにくいところが多くコースに入っている。朝7時台の「ひかり」に乗って東京を出発。京都で下車して奈良交通のバスに乗り換える。高速と一般道を組み合わせて110分の行程である。橿原から藤原宮あとを抜けて甘樫丘わきで飛鳥川をわたり向原寺へ。
 
バス停の前には小墾宮跡とも言われる土壇がある(今は蘇我氏の邸宅跡との説が強い)。向原寺は日本で最初にできた寺とされる。百済聖明王が欽明天皇に送った仏像を、蘇我稲目がここでまつったとされるからだ。後に推古天皇がここで即位して豊浦宮をおき(593-603)、その後蘇我馬子が譲り受けて豊浦寺とした。住職から発掘の様子などを聞く。江戸時代や鎌倉時代、飛鳥時代の寺跡の下から、宮跡が出てきて、さらにその下から邸宅が跡が出てきているという。
 
住職の案内で一部残されている宮跡を見た。軒先だそうで、ここの上をまさに推古天皇や聖徳太子が歩いたわけだ。それにしても3段の版築は立派だ。寺の横は蘇我稲目がまつった仏像を捨てたという難波池がある(ただし、物部氏の地盤は別のところで、そちらにも難波の津江あとがある)。裏手の甘樫坐神社には立石があり、その前でクガタチをしていた。
 
続いて於美阿志神社へ。檜前にある。なだらかな丘陵地帯である。東漢氏の始祖、阿知使主をまつるが、もともとは彼らの氏寺である檜隅寺があった場所だ。道を歩いていて、寺域に入った途端に布目瓦が散乱していた。
 
寺跡には講堂、塔、金堂の跡が残されていて、塔のあとには平安時代に建てられた13層石塔がある。この地域は渡来系の勢力が強かった場所で、高松塚もキトラもこの一帯にある。講堂跡からは高松塚の覆屋が一望できる。そういえば壁画は高句麗の強い影響が指摘されている。そもそも高市郡の7割が渡来系の姓だったそうだ。
 

 
続いてマルコ山古墳。近鉄の線路をバスがわたれないため真弓丘の丘陵を歩いていく。しばらく歩くと現れる集落が「地の窪」である。ガイド氏は「窪み」の意味で説明していたが、地形的には風水で言う「気」の吹き出す「穴」のことのように思えた。
 
古墳は地の窪集落の裏手にある。整備されていて墳丘に木などが生えていないので、慶州などで見る古墳のイメージに近い。高松塚やキトラと同じく終末期のもので、石室の構造もほぼ一緒である。発掘したところ、石室は漆喰で塗られていたが、石室はなかったとのことだった。たここからみる飛鳥の風景は絶景。山の稜線がほぼそろっているのも印象的だった。
 

 
一旦飛鳥を後にして今井寺内町へ行く。中世末に作られた環濠集落である。それまで条理集落や条理を元にして作られた池、地名を眺めていたのだが、まったく異なった世界に来たようだ。中世末に一向宗門徒によって作られた集落で、江戸時代いっぱい自治が認められていた。そのために裁判を行った家なども残されている。道筋は行き止まりや食い違いになっていて防御に優れている。土蔵作りで部屋の配置もすべて決められている。
 

 
明治10年2月10日に明治天皇が即位の報告をするために橿原へ来て、今井寺内町の中心の寺、称念寺に泊まった。その車列のために軒先を削られた家が、いまでも削られたまま残っていた。今井寺内町の人が明治天皇に拝謁するときの話が残っている。しかし、明治天皇はこのとき橿原へ参拝出来なかったそうだ。2月11日、西南戦争が始まったからだ。古い町並みもさることながら、風薬の看板も面白かった。「みみづ入」である。
 
ホテルに戻っておしまい。橿原ロイヤルホテル。炭にこだわった部屋で、あちらこちらにオブジェがある。部屋は静かで快適だった。

Posted by hajimet at 10:50 | Comments (0)