2014年6月29日 |
飛行場のように 20140629 「題名のな無い音楽会」より |
50周年記念(6)「若き“KING OF VIOLIN”ヴェンゲーロフ」の中で、「スーパーキッズ・オーケストラ」のヴァイオリンパートの人が質問をしていた。それに対して之答え。 歩くときのことを思いだそう。自然と力が抜けて歩いているはず。 バイオリンも同じ。指の関節を全部使って力を抜いて弾かなければならない。 弓が飛行機、弦が飛行場。ソフトに離着陸しなければいけない。 弓は腕の延長。バイオリンは魂の延長。腕の続きの弓、魂の続きの楽器。 それが分かれば上手くなる。 バイオリンをトロンボーンに置き換えて、弓を息に置き換えるとほぼ同じ。 飛行場の例え、とても分かりやすかった。 |
Posted by hajimet at 21:31
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2014年6月28日 |
日比谷高校ハングル 20140627 私は○○と申します。 |
1.導入 |
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日本史 20140627 四民平等、秩禄処分 |
四民平等 |
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倫理 20140627 自然哲学(3) |
Dパルメニデス(ca.BC540〜?) |
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2014年6月26日 |
「ひっくり返し」と「引っ張りだし」…道教を勉強しつつ |
ここのところ、道教の本を読んでいて思ったこと。 おみくじ、鍾馗様、地鎮祭などなど当たり前のことが、実は道教由来。 基本的には漢民族だけの宗教で、中国国内でも漢民族以外は信仰しない。 しかし、日本でも風俗習慣だけではない。 斉明天皇絡みの遺跡は道教の影響が強いという指摘があるし、 神仙思想なども道教からきている。 五斗米道などの道教教団は日本には入っていないから、 「道教」そのものというようりも。道教思想、文化が 日本に入ったと捉えてもいいかもしれない。 もともとが東洋的アニミズムだから、 日本の神道と親和性性のある部分もあるようだし、そうでもないところもある。 また、中国人の影響の強い長崎は媽祖信仰含め、土地神など直接の影響も感じる。 そんなことを調べている内に、ふと思いった。 「社会科の授業って、無意識の意識化」なんだろうなと。 言い換えれば無意識であったものを意識の世界に「引っ張り出す」こと。 英語は自分たちにない概念を定着させつつ、それを利用していく。 国語は全ての教科の基礎。古典、漢文を含めて。 数学は(実は、極めて実践的科目なのだが)生徒に実践のイメージがわきにくい。 それに対して、理社は、 漠然と自分の周りに広がっていた世界を、それぞれの科目の視点で意識化していく。 国数英の基礎の上に、本人の世界を広げていく作業なのだと思う。 目黒が目黒不動から来ている地名で、実は五行説から来ている(これも道教)。 目白も同じと気がつけば、 単に山手線の駅名としてしか意識していなかったことが、 それ以上のものだと、急速に広がっていくだろう。 そして、目赤、目黄、目青は?となる(江戸時代は目赤までだそうだ)。 そういう科目なのだなと、道教を勉強していて気がついた次第。 普段の授業で、こういう作業をしているのだが、 自分の中では明澄に意識化していなかった。 道教の本を読みながら、その点を強く感じた次第。 そして授業とパラレルに考えてしまった。 韓国関係で韓国の関係者と話をしていると「歴史問題」が話題になる。 だが、先輩教員が 「必ずしも歴史から入る必要は無い。どうやっても歴史にたどり着く。 それよりも色々な門を作れば良い」と言っていた。 このことはつねに意識している。 だが、無意識を意識化すると言うことからすると、 扉を作ると言うより、具体的イメージで「何」を引き出すのかが重要で、 それが、結果として「教える」という事なのだろうなと感じた。 同じような事を、これまで「ひっくり返し」という言葉で意識していた。 そうだと思っていたことについて、意識しなかった視点を与えて (ひっくり返して)、視野を転換していくと言うことである。 このことと、「引っ張りだし」は、結論的には同じことになる。 だが、本人の中に「きっかけ=無意識部分の知的・経験的蓄積」がないと、 「ひっくり返し」は成功しないことになるであろう。 何か「きっかけてき部分」があって、それをうまく引き出せることが 結果として「ひっくり返し」と言うことなのだろうと考えている。 |
Posted by hajimet at 20:57
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2014年6月24日 |
倫理 20140624 自然哲学(2) |
Aアナクシマンドロス(ca.BC 610-ca.BC 546)) 「万物は無限(ト、アベイロン)である」 アナクシマンドロスはタレスの弟子。師のいうとおり万物の根源が水だとすれば、星と我々大地の間は水で満たされなければならない。しかし、実際は空間である。大地は宙に浮かんでいると考えるべき。同時に、海岸線が存在し、海岸線の向こうは水で満たされているが、こちら側は水がない。即ち、水は有限である。また、水は熱くなったり冷たくなったり、性質が変わる。このようなものを根源とすべきでない。アルケーであるものは、有限でなく、性質の変わらないものでなければならない。そこで、万物の根源を形も分からず、見えない無限(無限定)のものとした。すべての物は、ここから発生し、ここに戻る。なお、アナクシマンドロスは「カオス」からこれを想定したとされる。 このような考えはアナクシマンドロス独特のものではない。東洋でもある。風水が流行していて、どういう色の服を着れば良いとか話が出ているが、実際は、それによって良い「気」を受けるためのこと。気は太極から発生し、陰陽に別れ、五行にふれて流れ出す。すべての物は気によって作られる。 ところで、Bアナクシメネスは、見えなく無限のものとして、空気をアルケーであるとした。空気が薄くなると火が起きるなど熱がでる。また、空気が濃くなると、風や雲ができ、さらに水、土、石など冷たいものが出来るとした。 Cピュタゴラス(ca.BC 582-ca.BC 497) 自然哲学の舞台は南イタリアに移る。これまでと視覚の異なる立場ができた。 ピュタゴラスは「万物は数である」とした。 A+B=Cは具体的に存在するが、A二乗+B二乗=C二乗が成り立てば直角三角形であるという二乗の世界は「真理」であっても、この世には存在しない。すなわち、三辺比が各3,4,5であっても、3+4≠5であるだけで、9+16=25の関係にならないのである。また、99,4900,4901が直角三角形になり得るのは、二乗をしてみないと分からない。すなわち、真実は見えない所にあるのである。 ピュタゴラスはピュタゴラス教団という新興宗教を信じていた。これはアジアの思想の影響を受けたオルフェウス教(アポロン、黄泉の世界の逸話)の色彩が濃厚。魂の再生を真寺、輪廻転生を信じる。輪廻転生するということは、生まれたこの世は「苦」である(自分たちが、生まれ変わったとして、再び受験勉強をするのは、きっと「苦」だろう)。輪廻転生から離脱するためには、魂を浄化して、天上界にいかなければならないと考える。 我々は深く寝ていても、浅く寝ていて夢を見ても、起きていても、死の瞬間も、それが自分であることは分かっている。即ち、「私は『私』である」。『私』は魂である。それが「肉体の牢獄」に閉じ込められている。生まれ変わるまでの「私」は感覚がないが、「牢獄」に閉じ込められて感覚が生ずる。即ち「苦」である。 どの肉体に生まれ変わるかは前世の状態によってきまる。だから、犬に生まれ変わることもある。ピュタゴラスは、殴られた犬を「かつて自分の友達だった」と言って助けたが、これもこのことを反映しているのだろう。 さて、魂を浄化するためには、魂を天上界と調和(harmonia:ハルモニア)させなければならない(cf. philen+harmoni(philharmony), philen+aderphos(Philadelphia:兄弟愛), philen+anthropos(ghilanthoropy人類愛=博愛)。 一つは体を調和させるために医学を重視し、もう一つは音楽を重視した。 音楽はオルフェウス信仰から来るが、それとともに音楽が数で表せるからである。 協和音の振動数は整数比の関係で表すことが出来る。 ここから、すべての物は数の関係に基づいて存在していると考えた。 たしかに、理系のことは一切のことを数の関係で表そうとしている。その点から、ピュタゴラスの考えはおかしいものではない。 さらにまとめるとタレスからアナクシメネスまでは、事物の根源をものに求めようとした。一方ピュタゴラスは事物の根源を原理や型に求めようとした。 我々の体が何から出来ているかということは「もの」に根源を求めることが出来るが、我々の意識が何から出来ているか、理想としているものについては、「もの」には求められない。これらは現実にものとして存在していないからである。ギリシア思想はこの二つの流れがある。それが重なるのはアリストテレスまで待たなければならない。 |
Posted by hajimet at 14:00
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2014年6月23日 |
日本史授業 20140623 廃藩置県、太政官制の改正、内政改革 |
廃藩置県 @版籍奉還 すでに五箇条の誓文でも方向がでていたが、 藩は明治政府の機関に組み込む必要があった。 1869年1月、大久保利通、木戸孝允等の建議によって、薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が版籍奉還を申し出る。 版=土地(ex.版図)、籍=人民(ex.人民) 原文を読むと、版籍を奉還すること共に、天皇に各藩に対して奉還を命ずるように 建議している。 これに合わせて、他の版でも版籍奉還を行い始めた。1869年6月には約200の藩が版籍を奉還した。そこで政府は 1869年6月、版籍奉還の詔勅を出した。 これにより、藩主は知藩事になった。 形式的に政府に任命された行政官の扱いであった。 ただし、これは行政のみで、徴税権と軍事権は藩に属した。 だが、これは新政府にも藩にも問題が残った。 新政府にとっては、年貢が入ってこないため、財政難に陥った。その影響で一揆が多発した。藩にとっては、徴税法法が旧来のままだったので、藩民に不満がたまった。 A廃藩置県 新政府は権力を強化し、税収を安定化させるために、藩の廃止を決意した。その前提として、1871年薩摩、長州、土佐の藩兵1万人を御親兵として、政府に属させた。その上で、1871年7月廃藩置県が行われた。 これにより知藩事は9月までに東京に移り、変わって県知事が中央より派遣されることになった。知藩事は大名だから地元と関係が強い。それが地元に居続けるのでは、不都合が生ずるということもあった。これで、政治的統一が完成した。 これにより、1使(開拓使)3府302県が出来た。旧藩をそのまま県としたからだが、細かすぎることと飛び地が多いため、県境が入り組んでしまった。そこで同年、1使3府72県に整理した。その後も整理し続けたが、今度は逆に1県辺りの大きさが大きくなりすぎたため、今度は分割を行い、1888年には、1道3府43県に整理された(現在の形)。 県名は旧官軍側は県庁所在地と同名、非官軍は別の名前にした。ただし、官軍側でも石川県は立場が曖昧であったため「金沢県」とはならず、福島県は奥羽列藩同盟で最も反発が強かったために、会津若松を県庁所在地とはせず、小さな町だった福島を県庁所在地として、県名も福島県とした。このときのことで、会津の中央に対する感覚 は厳しいものがいまでも続いている。 新体制 廃藩置県によって、日本全体が新政府の勢力化に入った。これに伴って、1869年6月、政体書に基づく太政官制を改正することとなった。政体書が藩の存在を前提としていることと、そしてなによりもアメリカの制度を見本にして適用しようとしたことがあった。 この太政官制は、 祭政一致=天皇親政のために、大宝令を元にして作られた。すなわち、 ・神祇官を太政官の上に置いたこと。神国日本を作るため。 ただし、国民を神国化することでは近代国家建設に合わないことが分かり、 1871年に神祇省に格下げ、さらに格下げが続く。一方で、祝祭日を決め、 それにより、神国のイメージを作ろうとした。 ・太政官の下に各省を置いたこと。 (二官六省制) 太政官は 正院:天皇親政=薩長中心 太政大臣 左、右大臣 参議 左院:立法=官選(門閥や家柄で選ばれる)土肥中心 議論は殆ど行われない。 右院:行政事務 この結果、下級武士が中心となる(改革をする観点からは、若手が活動できることになり、理想を求めやすいことになる)。特に薩長土肥中心となる一方で、誓文で書かれていた(公武合体以来の)公議世論は軽視される閣下になった。 この改編ののち、1871年岩倉遣欧使節団がヨーロッパに行く。留守政府を西郷隆盛等が守って内政改革を行った。 ところで、この岩倉使節団の成果が、その後の日本の流れを決定することになった。その一つが法制度を欧米式に変更したことである。これにより、欧米式の法律、制度を取り入れることが出来るようになり、欧米式の法律解釈が出来るようになった。これが欧米と対等と認められるようになった理由の一つである。中国、朝鮮は律令系の法体系から脱皮することが出来なかった。 ただ、律令系の法体系をとったことも日本としては大きな革命であった。律令系の法律は、藤原氏の時代以降崩れさり、鎌倉以来武家法になっていたからである。それを断絶して新しいものを作ろうとしたと言える(断絶させた経験を持っているから、新たに西欧系のものも受け入れやすかったと言えるかも知れない)。 @学制 1871年、文部省設置。 1872年、学制公布(フランスの制度:定着しにくい) 「自今一般ノ人民必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ家ナカラシメン事ヲ期ス」 小学校制度。男女平等 A軍事 御親兵→近衛兵 藩兵―→解散:一部は鎮台へ (鎮台=連隊の元。反乱を「鎮める」台=国内の反乱を抑えることが中心) 1869年、兵部省→1872年、陸軍省・海軍省 1872年11月27日、徴兵告諭:男子20歳以上徴兵。 1873年1月10日、徴兵令(ドイツの制度) 11月27日から1月10日まで15日間。明治政府は財政難のため、12月3日から太陽暦を採用することにして、1月1日として。これによって、12月の給料を日割り計算で払えば良くなっただけでなく、1873年の閏6月の給料まで払う必要がなくなった。 徴兵令 陸軍:徴兵、海軍:志願(海軍はイギリスの制度:セーラー服) 免除者が多かった。(長男、戸主、相続人ほか) 「徴兵免除の心得」がベストセラー 大部分は農家の二男、三男が徴兵(労働力が減る) 「血税」の誤解 仕事のなくなった武士の不満 ↳血税一揆 B警察 (72年より動きがあるが) 1873年、内務省設置(地方行政、殖産興業、警察など) 1874年、東京警視庁設置 |
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2014年6月22日 |
歌、歌、歌 |
20140620 レッスンでは、教則本(メロディアス)の3番を中心に、 曲の歌い方や、テンポの持って行き方を見てもらっている。 「ここは、少し前に」。「ここで転調するから、こういう吹き方」。 「ここは付け足しの部分だから、そのような雰囲気で」 「和音が解決している場所」 「ここはシンコペーション的部分」 基礎的な所も見てもらうが、同時に歌い方の練習である。 そんなとき、突然別の事と結びついた。 イタリアオペラのテンポの持って行き方にそっくり。 もちろん、いかに歌うかを練習しているわけで、この譜面も元は歌。 器楽的な部分も大事であるが、器楽曲であっても、 その歌い方は歌から来ているのだから、 楽器をやる立場からすれば、歌い方をどう楽器で表現するかと言うことになる。 しかし、これによって長く持っていた疑問が解決した。 「オペラ、特にイタリアオペラの歌手の歌い方は、どうして譜面通り でない部分があるのだろう、自由にテンポなどを動かしていいのだろうか?」 ということに対する答えが、まさにこれだったからだ。 譜面上インテンポの場所で、ここは、こうするとよいと言われた場所が、 イタリアオペラなどでも同じようにテンポを動かす場所だったからだ。 歌い方は、ドイツ、フランス、イタリアそれぞれ違うのだが (言語が違うことに由来するようだ) それぞれの国の人びと、自然と自分たちの歌い方を身につけている。 オペラを見に行くことも、なかば歌舞伎を見るような感覚。 言い換えると、ヨーロッパの国の人びとは、 歌(童謡レベルから)から入って(感覚的に持って)、器楽に進むのに対して、 こちらは、歌から入らず、器楽から入ることになる。 それだけに、かえって新鮮な「発見」だった。 |
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薄皮を剥いたニンニクの保存〔朝鮮日報記事より) |
薄皮を剥いたニンニクを保存するには。 |
Posted by hajimet at 09:50
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2014年6月21日 |
楽器の編成。テレマン(20140619) |
レッスンが終了して、いつもの「反省会」でのこと。 |
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日本史20140620 新政府の方向性 |
D新政府の課題 |
Posted by hajimet at 10:38
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倫理 20140620 自然哲学@ |
自然哲学 |
Posted by hajimet at 10:09
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杉並総合 20140618 |
今日はALTのいない日。有声音化、連音化をまとめる。 |
Posted by hajimet at 09:33
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2014年6月18日 |
日本史授業 20140616(2) 五カ条の誓文と政体書 |
五箇条の誓文と政体書 |
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日本史 20140616の(1)戊辰戦争(2) |
A江戸城開場 江戸に新政府軍が近づく中、 フランスは幕府に武器を与え、徹底抗戦することを勧めた。 だが、徳川慶喜は新政府に恭順の意を示し上野寛永寺に移った。 上野寛永寺は、現在の藝大、国立博物館裏だけではなく(籠もった部屋も残る)、 上野の山全体が寛永寺であった。 ここに移った慶喜側の眼目は、慶喜の助命嘆願であった。 慶喜側は新政府側と何回か交渉をしたが、埒があかなかった。 というのも、西郷隆盛等は慶喜の命を奪うことを主張していたからである。 慶喜が寛永寺に移った後、江戸城開場が焦点となる。 慶喜は勝海舟に交渉をさせた。 勝は交渉が成功しない場合は江戸を焼く計画であった。 勝は西郷隆盛と交渉した。場所は薩摩藩邸説と、先鋒隊がいた池上本門寺説がある。 結局、3つの条件で江戸城は開城された(68年5月)。その3つとは 1.無血開城 2.武器、艦船引渡 3.慶喜に対する寛大な処分(隠居―水戸謹慎〔最後は静岡で写真屋の主だった〕)。 実は、西郷等も慶喜に対する処分は妥協した方がよいと考えていた。というのも、 本格的に旧幕軍と争うことになれば、内戦となり、英仏につけ込まれる可能性が 出てきたからである。 一方、これに不満をもった旧幕臣の一部は彰義隊を結成して、寛永寺に籠もった。 これに対して、新政府軍は5月15日、彰義隊を攻撃して勝利した。 7時に黒門(国立博物館脇に現存、弾痕がすごい)を攻撃し、 完全に制圧したのは17時であった。 よほど怨みが強かったのだろう。新政府はこの戦いで死亡した彰義隊の遺体を 片付けることを認めなかった(後に認め、西郷像裏に慰霊碑がある)。 B奥羽列藩同盟 続いて、仙台藩、米澤藩を中心に奥羽列藩同盟が組織された。 だが、これも9月に平定された。特に、抵抗の激しかった所が会津であった。 8月に婦女子が鶴ヶ城に立てこもり、抵抗を始めた。最終的には9月22日、藩主 松平容保の降伏で終わった。だが、この時の戦いを見た、白虎隊の志士は、 会津城が焼け落ちて、主君が死亡したと勘違いして自刃してしまった。 ところで、白虎は四神の一つで、朱雀、青竜、白虎、玄武の一つである。 方向を表す神であり、中央は黄龍となる。 方向ごとに色があるのは五行説から来ている。 江戸でもこの色で場所を表している例がある。 目黒、目白、目黄、目赤、目青不動がそれ。 C箱館五稜郭の戦い ところで、榎本武揚等2000人の旧幕臣は、 江戸開城と共に、品川から船に乗り、函館五稜郭に移った。 五稜郭は「☆」型をした城で、攻めるのは難しいが、防禦には優れた形をしている。 ここに立てこもり、慶喜や旧幕臣を呼び、独立国を作る計画であった。 (実際に独立宣言をして、アメリカが承認する直前まで行っていた) これに対して、新政府軍が攻撃をして、69年5月に完了した。 こうして、戊辰戦争は終わったが、多くの使者が出た戦争であった。 このときの死者数は日清戦争の死者数に匹敵する数であった。 |
Posted by hajimet at 19:29
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倫理 20140617 ギリシア思想。神話と哲学 |
ギリシア思想 神話の世界から、思想が登場した。ギリシア、インド、中国など ほぼ同じ時期に登場。ギリシア思想は今でもヨーロッパの人に影響を与えている。 @ギリシアとは 気候:地中海性気候、 地質:石灰岩(大理石)→農耕に不利。 だが、半島であるため、様々な人が集まってくる。 もともと古くからエーゲ文明が広がっているところだが、 3波にわたりギリシア人が南下した。 最初はBC 2000年頃。クレタ文明:クノッソスの宮殿の話など。 次はBC 16世紀頃ミケーネ文明ができた。 さらにBC 12世紀頃ドーリア人が南下して、鉄器を使用した 鉄器は青銅器に比べて固いため、これを持つと言うことは、 周りの民族を支配することが出来ることに繋がる。 古代ヤマト政権も鉄を手に入れる事に苦労した。 その後、なぜか紀元前8世紀に完璧なギリシア世界が出来上がる。 考古学的に「暗黒の時代」といわれるほど、その間は何が起きたか分からない。 即ち、ポリス(都市国家)が出来る。 ポリスは、城壁(城壁の中が国)を有し、アクロポリスに神殿を建て、 ポリスごとの神を祀る。オリンポスの神である。オリンポスの神は 最高神ゼウスの下にあつまり、競技をする=オリンピアの競技。 今もオリンピック聖火の採火はアテネのパルテノン宮殿の前で行われる。 中央にはアゴラを有す。その周囲に人が住むが、特にアテネでは 「対等な成年男子が」アゴラで言葉を使って議論し、ポリスの運命を決めた。 ポリスの運命は民衆の力(demos+kratia)によって決められる(democracy)。 だからポリスの運命を決めること=政治(politic)である。 この中から神話が成立する(ヘシオドス、ホメロス)。 また、神と人(不死と可死)の関係も関心が持たれ、ギリシア悲劇が登場した。 アクロポリスの下の劇場で、仮面(ペルソナ:ラテン語)をかぶり上演した。 しかし、ギリシアは耕地が狭い。 余剰人員は地中海沿岸に移住して植民市を築き(BC 8-6C)、そこで哲学が始まった。 つまり、他の民族と接触したことで、それまで当たり前のこととして 存在していた神話の世界に疑問を持ったのだ。 彼らはギリシア人の神話を持っていなかったからだ。 A神話と哲学 神話(mythos)と哲学は、根源や秩序を追求する点は共通している。 だが、神話は具体的なイメージを、象徴として表し(ex.クロノス)、 比喩によって出来事を説明していく。それは、民族内では共有される。 一方、哲学は「言葉(logos(とりあえず、理性))」を用いる。 そして、個人の言葉の力で伝えようとする。 言葉で伝えるから、明晰でなければならず、曖昧であってはならない。 mythosは「ごちゃごちゃ話す」という意味である。 logosは「集めたもの」「はっきり話す」という意味。 「ことば」で相手に伝えるから、「論理」が必要となり、 論理によって考えようとするには、「合理的思考」が必要となる。 そして、人は、そのようなLogosという「理性」を持つ。 このロゴスの考え方は、現在の欧米でも大きく影響を受けている。 cf.dialogue, catalog, ecology, psychology アゴラで対話できるのも、 同じポリスの人間は、同じロゴスを共有する対等な存在だからであって、 だからこそ、徹底的に言葉で議論することになる。 これらのことから、哲学は議論を認めることになるため、「反証を許す」が、 神話は反証を許さないことになる。 「カオス」は「カオス」でしかない。そのまま認めるしかない。 「カオスは何か」と考え始めると、哲学になる。 B哲学という言葉 哲学はPhilein(愛する)とsophia(知、智)から来る。 知を愛するということ。いいかえれば、「知」そのものを「愛す」。 ギリシアの人は実用生活に関係することから離れて、考えることを好んだ。 cf.Sophia University。 「哲学」は西周が作ったもの。「希哲学」「希賢学」から来る。 「かしこきを、こいねがう」ということである。 |
Posted by hajimet at 16:57
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2014年6月16日 |
梅雨の中休み 20140615 |
千束流れにて。 |
Posted by hajimet at 20:03
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2014年6月14日 |
日本史授業 20140613 小御所会議〜戊辰戦争(1) |
小御所会議と公武合体派の動き |
Posted by hajimet at 09:57
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2014年6月13日 |
杉並総合 ハングルT 20140611 パッチム |
ALTの都合と、特別授業のため、カリキュラムの順番を入れ替えてパッチムの発音 |
Posted by hajimet at 22:00
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倫理 20140613 思想の源流(4) 神話の共通性、最高神 |
5.神話の共通性 |
Posted by hajimet at 21:17
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2014年6月10日 |
梅雨入り 20140605 |
駒場高校にて |
Posted by hajimet at 21:14
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日本史 20140609 「お蔭参り」と倒幕 |
Bお蔭参り |
Posted by hajimet at 20:34
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倫理 20140610 思想の源流(3) 日本神話、神話とは |
日本神話の続き。再び、混沌のあとの流れを話す。 とくに、イザナギが黄泉の国に行き、イザナミに会った後の顛末と、 穢れた所から戻ってきたために禊ぎをした話を、清明心に結びつけて話した。 その後北欧神話。トネリコの木を取り巻く世界は九つに分類される。 最高位はヴァナヘイム。ヘイムはハイム。人間世界は中間でミットガルト。 ミットはミドル、ガルトはガーデン。 原初は裂け目ギンヌンガガプしかなかった。 その南に炎の巨人、ムスペルスヘイムと、北に氷の巨人、ニヴルヘイムができて、 熱気と霜がぶつかって滴が垂れた所に、巨人ユミルが誕生した。 続けて、牝牛アウズフムラが誕生し、 その乳を飲んで成長したユミルが神々を産み出した。 インドからヨーロッパにかけて、神話に牝牛が出てくるものは多い。 ギリシア神話では原初は混沌(カオス)であった。そこからビッグバン的に一気に 大地の神、ガイア、それより深奥の神タルタロス、愛の神エロスなどが生まれる。 神は擬人化されていて、人や半人半魚として描かれる。ゼウスの父、クロノスは 時間を擬人化したもの。 このように神話を眺めてみると、何となく共通点があるように思われる。 黄泉の国の話は、日本神話だけでなくギリシア神話にもある。 ヒルコの話は、ノアの箱舟伝説の仲間とされるなどである。 そもそも神話とは何なのか。 4.神話とは 人間は、事物の原因とか起源を求めようとするものである(ホモサピエンス)。 そこで、あらゆるものの根源を想像力でもって擬人化された神に求め、 「ことば(myth)」で説明しようとしたものが神話である。 一時的娯楽である「昔話」や、歴史的事実を元にして作られた「伝説」とは異なり、 あくまでも、「起源」を説明しようとしたもの。 すなわち、「理屈」でもって、説明をしようとしているものある。 起源に関心があるから、いずれにせよ起源神話の性格を持つが、 その起源は3つのものに分けられるとされる。 1).宇宙の起源―創造神、最高神、そして神々の物語。 2).人類の起源 宇宙の起源について触れていなくとも、 人類の起源に触れないものは無い。 巨人のふくらはぎ(シャカは右脇っ腹から)、卵、植物(竹取、桃太郎)、 地中、天(天孫降臨、アマテラス=日本人全体が天孫降臨の神の子孫となる) 3).文化の起源。イザナミの黄泉の国の話(夜、灯りを点さない理由)。 しかし、本来は呪術の必要から作られたものである。 アッカドの「虫歯の神話」を読む。これは天地創造神話、虫歯の原因、治療の 3段階からなっているが、これを治療の時に唱える。すると、効果があるというもの。 呪術と神話の中間的なものだ。 これにより、虫歯が治るのは、それまでの虫歯であった自分が死に、 新たに生まれ変わると言うこと。すなわち擬死体験、再生からなる。 元服などの通過儀礼が同様の構造を取るが、実は儀式の多くにこれが見られる。 新年のお祝いは、それまでの神が死に、新しい神が生まれ、新しい秩序が 生じることを祝う儀式である。 ところで、なぜ、神話がよく似るのか。次の時間は別の面から光を当ててみたい。 |
Posted by hajimet at 20:29
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2014年6月7日 |
日本史 20140606(2) 幕末の文化(1) |
幕末の文化 幕末は開国の影響を受けて社会不安に陥っていた。そのため特異な状況が現れた。 @世直し一揆 開国後の経済変動と物価騰貴は農村を窮乏に陥れた。 一方で幕藩体制の動揺によって、一揆は政治的色彩を帯びるようになった。 すなわち、単なる年貢の減免ではなく、年貢自体の廃止を訴えたり、 村の役人の更迭を求めるようなものとなった。 これらは体制が安定したら、攻撃の対象とは出来ないことである。 このような『世直し一揆』が頻発した。ピークは1866年であった。 この年の物価上昇率が大きかったからで、 農村のみならず、江戸でも打ち壊しが起きた。 A民衆宗教(新興宗教ブーム) 一般に社会不安に陥ったとき、新興宗教ブームが起きる。 社会が安定しているときは、 自分の不安などを既存の宗教が吸収することができるが、 社会の変動が大きいと、既存の宗教では不安を吸収することが出来なくなる。 そこで、混乱後の希望、理想社会の修験を願って新興宗教が登場する。 鎌倉時代の新仏教もそうだが、幕末以来でも4回新興宗教ブームが起きている。 1回目は幕末、2回目は大正末から昭和初、3回目は終戦直後。「踊る宗教」など。 4回目は1980年代から現在まで。オウム真理教もこの一つ。 悲惨な事件をおこしているが、 そういう教団が一定の受け皿の役割をしてしまったということでもある。 幕末は、混乱状況を世界の終焉ととらえ、理想世界の出現を願う風潮が強かった。 こういうときに、教祖が神がかりによって起こした宗教が民衆宗教である。 すなわち、神の声を民に伝える役割をしているシャマン的要素を持っている。 (日本では、いたこ、ユタがこれにあたるし、神道も原形はこれ。 また、新興宗教にシャマン的要素が認められるものが多い。) 多くの教祖が、本来は勤勉実直なのだが、あるとき病気のような体験をする。 その後神秘体験をへて教祖となっている。 幕末は神道系の民衆宗教と共に、弥勒下生信仰が登場した。 (弥勒信仰は日本では殆ど登場しない) cf.弥勒下生信仰 弥勒はシャカの次にブッダになることを約束されている菩薩。 56億7千万年後に悟りを開くために、浄土で瞑想している。 その弥勒が悟りを開くと、 この世に下生して、その説法により衆生を悟らせるというもの。 その悟りを開くのがいつか…「今だ」として弥勒の下生を願う信仰。 では、このような思想の流れに基づいて誕生した宗教は何か。 @黒住教(備前 黒住宗忠)アマテラスと自分が一体となる神秘体験。 「病気直し」を行う。 信者が岡山から京都まで広がる。 アマテラスが皇祖神であることから、 宗忠を祀った京都宗忠神社は尊王攘夷運藤の拠点となる。 A天理教(大和 中山みき)世界を助ける「てんりんわう」が降りて吉良枯れる。 安産と病気直し/陽気ぐらし B金光教(備中 赤沢文治) C丸山教(武蔵橘樹郡 伊藤六兵衛) |
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日本史 20140605(1) 倒幕への動き |
倒幕への動き このようにイギリスと薩摩、フランスと幕府という接近構造が出来た段階で 新たな動きが長州で出てきた。 長州は第1次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件に敗北したことで、 攘夷が不可能だと言うことを悟っていた。一方、幕府は長州に対して、 貿易を禁じる処置を執った。 長州藩は保守派が権力を握り、幕府に恭順の意を示していた。 これに反発して高杉晋作は北九州に亡命して、桂小五郎と奇兵隊を組織した。 高杉晋作は松下村塾四天王と呼ばれた人物である。 松下村塾は長州の私塾で、吉田松陰が教鞭をとったこともある。 攘夷派や明治初期に活躍することを多く排出したことで知られる。 高杉は幕府の派遣で上海に行ったことがある。この頃の上海は太平天国の乱の 混乱と、英仏人が「我が物顔」に闊歩している時代だった。それを見た高杉は、 将来の日本も同じことになると「危機感」を感じていた。奇兵隊を作ったのも、 このような危機感が背景にある。 奇兵隊は64年12月馬関で挙兵し、長州の実権を握った。 この時、伊藤博文も一緒に活動している。 長州は急進派の支配するところとなった。 開国は避けられず、皇国を作ろうというもので、 そのために、藩政改革、身分制度廃止、西洋式軍隊の導入などが図られ、 イギリスに接近した。 だが、この時点ではまだ貿易が認められていない。 しかし、武器を入手する必要がある。 ところで、このとき薩摩はイギリスと接近して近代化の道を歩んでいた。 ただ、幕府を支える立場で、長州とは敵対していた。 しかし、イギリスと結んでいること、開国の必要性を感じていることなど、 幕府よりは、むしろ長州との理解関係の方が共通点が多かった。 そこで、土佐の仲介で両者が同盟を結ぶこととなった。薩長同盟である。 66年1月、薩摩から西郷、大久保。長州から木戸孝允、高杉が出席し、 それを土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介した。 その結果、幕府が長州を攻撃しても、薩摩は長州を支援すること、 武器は薩摩の名義で購入し、長州に回すことを決めた。 もちろん、公式には薩摩は幕府側であるから、密約である。 武器は「死の商人」グラバーの活躍が大きかった。 cf.1 グラバー園、蝶々夫人 cf.2 薩摩の兵制改革:吹奏楽、最初の君が代。 ところで、幕府は第一次長州征討の結果として、長州の領地割譲を要求した。 しかし、長州はその要求に従わなかった。 そこで、66年6月、第二次長州征討を指示した。 しかし、薩摩はじめ諸藩の不服従で幕府は劣勢に陥った。 結局66年7月、大坂に滞在していた家茂の死去を奇貨として、服喪、休戦となった。 幕府の敗因は旧式兵備と寄せ集めと言うことにあった。 長州は新式欧米的兵備と早い時期からの訓練、郷土愛による士気の高さがあった。 |
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日比谷ハングル 20140606 歌詞を読んでみよう |
I LOVE YOU(POSITION)の歌詞を読む。 |
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2014年6月5日 |
倫理 20140605 思想の源流(2) 神道と日本神話 |
前回、アニミズムからシャマニズムまで話をした。そこで |
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ハングル 杉並総合 201405604 濃音 |
ハングルT |
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2014年6月3日 |
倫理 20140603 思想導入。人類思想の起源 |
人類の思想の起源 地球のこれまでを365日にすると、人類の誕生は12月31日22時頃。 農耕生活開始は23時59分45秒になる。 この一瞬の中で思想が出来上がった (アメーバーの分裂周期やミジンコの一生と変わらないと言ったら、シミジミとそれよりも短いんだ…生徒は語る) 文明の発生はエジプト、メソポタミア。それぞれナイル川、 チグリス川、ユーフラテス川が流れていて、農耕が発達した。 (メソポタミアは潅漑のしすぎで塩害がおき、砂漠化した)。 ノアの箱舟、エデンの園伝説はメソポタミア起源。 こういうところで技術が発達した。 (エジプトはパピルス、石などに記録が残るのに対して、 メソポタミアは日干し煉瓦のため、記録が残りにくい) ナイル川は定期的に溢れるために(上流がAw気候)、 その後の処理などで測地術、算数(10進法、メソポタミアは60進法)暦法、 占星術が発達し、ついにはピラミッドができた。 しかし、これはあくまでも技術であって学問ではない (技術と学問が結びつくのは近代に入ってから)。 技術は漆職人の職人芸のように誰でも出来るものではないし、 真似は出来たとしても、職人のようなわけにはいかない。 要するに職人技の世界。 学問は普遍的な原則を言葉で説明し、だれにでも理解できるもの。 (○○細胞があるなら、誰でも書かれている方法で作り出せなければ行けない)。 ・信仰 このような技術と共に、信仰が発生した。 呪術 最初の段階は呪術であった。 事物の全てを霊に依存する (幽霊ではない。人の形をした幽霊はかなり後のもの…見たことはある…)。 学問のように観察と経験を通じて精緻に原則を突き止める藻のではなく、 漠然と「霊」のせいにしている。 (だから特に理系は大学院に行く必要がある。そこで論文の書き方も学ぶもの)。 今でも、キツネツキや死者の復活儀式は呪術の流れを汲む。 原始信仰(原始宗教) つづいて原始信仰の段階になる。 何となく霊がいるのではなく、精霊と多神教からなるアニミズムが成立し、 祀るようになる。そこでは ・自然崇拝:河川(ガンジス川)、山(富士山、神奈備)、 樹木(神木)、岩(磐座)、動物(奈良の鹿) 神社の後ろに形の良い山があることがある。 これは信仰の対象で神奈備という。本来山自体が神であったが、 のちに祀る場所が降りてきて、神社になっているケースが多い。 そのような場合、山の中に奥の院があり、磐座があったり、 ご神木、樹林があることがある。 ・生殖崇拝…神社や祠などに、その関係の物体が奉納されていることがある。 これらによって、現世利益(豊穣多産、病気平癒)を求める。 神社で「入学祈願」「病気平癒」を祈る人は多く見かけるが、 「死後の安息」を願っている人をみることはあまりない。 さらに、巫女が精霊と交流し、神託などをつたえるようなシャーマニズムがある。 イタコとかユタがこれ。(劇団四季のユタ。ひょっとして、このイメージも バックにあるのではないか?。特別な体験の後、霊との交流ができるようになり、 人格が変わっていく…シャーマンのパターンそのままなのだが)。 また、大分変化してしまったが、神道もこれ。 次回は、神道の神の原形から。 |
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日本史 20140602 |
・第一次長州征討 幕府は威厳を回復するために、朝敵となった長州の征討を行った。 一方英米仏蘭は5月10日の攘夷の反撃の機会を狙って、 この機会に下関を砲撃して、下関砲台を占領した。 長州に攘夷は無意味であると言うことを思い知らせようとしたのである。 ただ、幕府軍側と戦闘にならないように、四カ国側は幕府に事前に連絡している。 結局長州は一時的に保守派が勢力を握り、蛤御門の変の責任者を処罰して、 全面降伏した。 しかし、賠償金を支払うことはしなかった。 攘夷は幕府の命令によるという理屈である。幕府は300万ドル負担することになった。 同じ頃薩摩でも動きがあった。1863年、薩摩の島津久光が江戸を退去するとき、 生麦事件が起きた。イギリスは幕府と薩摩に対して首謀者の処罰と賠償を求めた。 これに幕府は応じたものの、薩摩は応じなかった。そこでイギリス艦隊7隻が 鹿児島湾を攻撃した。薩英戦争である。これに薩摩軍は激しく応じ、 イギリスは、目指した鹿児島上陸を果たせなかった。結局勝敗不明のまま、 講和条約を結んだが、これにより薩摩は攘夷が不可能なことを悟ることとなった。 cf.錦江湾沿いの薩摩軍の墓地 ・条約勅許、改税約書 その後、四カ国の公使はは兵庫沖に軍艦を派遣し、 幕府に対して、賠償金減免と共に、条約勅許と兵庫開港(1868年予定)を求めた。 ちょうど将軍も長州征討のために大坂にいたため、 朝廷と幕府双方に圧力を加えることが出来た。 四カ国は、井伊直弼が独断で条約を承認したときと情勢が変わって、 仮の統治者である「タイクン」でなく、 実質的統治者の「ミカド」の勅許がなければ、条約を安定して運用できないと 考えたのだ。 これについて、1866年(慶応元年)10月に御前会議が開かれた。 御前会議は、近代史では初めて登場するが、 それだけ朝廷の力が強くなったことを示している。 これによって、兵庫以外の開国、開市を許可した。 違約条約はここで正式な条約になったとも言える。 兵庫は大坂、京都に近く、 極度の外国人嫌いだった孝明天皇は開港させたくなかったのだ。 兵庫開港の勅許は1867年6月のことであったが、 このときは既に明治天皇と慶喜の時代になっていた。 続いて1866年改税約書の締結を迫られる。 日米修好通商条約は締結5年以降関税率の改定を認めているが、 条約の勅許とともに、ようやく改定が可能になったとも言える。 この改定は、イギリス公使、パークスが中心になって行われたが、 パークスは日本を下に見る傾向の強い人だった。 そこに兵庫不開港を認める代わりに、清国と同じ方式での改定を要求したのだ。 その内容は、輸入関税を一律5割(それまでは0〜35%)として、 従価税でなく従量税を採用した(現在、自動車重量税や酒税が従量税)。 これによって自由貿易が促進されたが、 資本主義は基本的に弱肉強食の世界である。 日本に安価な製品が大量に流入することに反して、産業界は大打撃を被った。 現在でも、TPP交渉が行われているが、同じような問題が起こりうる。 現在特に問題になっていものはブタであるが、ブタ産業が成り立たなくなる可能性がある。 かつては、牛、レモン、紅茶、バナナなどが問題となったが、 牛はブランド牛化することで対応した。 さらに従量税のため、高価な商品ほど利潤が大きかった。 これらを通じて外向の主導権は朝廷に移っていた(事実上の明治維新の始まり)。 ・英仏と薩摩、幕府 このような流れの中で、イギリスは幕府を見限り、 安定した市場を求め、条約を履行できる強固な新政権の成立を期待し始めた。 薩摩も文久改革後の薩摩と幕府の確執と (国学VS水戸学:大老の会議は64年に開かれなくなる)、 薩英戦争の結果、開国論に移り、イギリスと接触し始めた。 同時に西郷隆盛、大久保利通若手改革派の下級武士が藩の実権を握った。 薩摩はイギリスに留学生を送るなどするほか、近代工場を造るようになった。 パークスも薩摩を訪れている。 これに対抗した国がフランスである。 ナポレオン三世の時代で、イギリスに対抗して拡張政策をとっていた。 フランスは横須賀製鉄所の建設についての契約書を幕府と交わした。 仏蘭西公使ロッシュの働きかけで、 病気によって壊滅的打撃を受けているフランス養蚕界のために、 蚕卵紙や生糸をフランスに売り、その売り上げを製鉄所建築に回すこととした。 幕府からすれば、貿易を独占することが出来るので、利害関係が一致したのである。 こうして、 イギリス、フランスの対立を背景に、事態は急速に倒幕に向かうのである。 |
Posted by hajimet at 20:16
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2014年6月1日 |
講演「各地に残る日韓の歴史」 20140531 葛飾シンフォニックヒルズ(韓国大使館主催) |
5月31日、葛飾シンフォニックヒルズの会議室で2時30分より講演。 題は「各地に残る日韓交流の歴史」。内容は大きく5編に分けた。 資料はこちら 導入の後、 1.日韓は近い 釜山から対馬は見える。あまり当たり前に見えていて 「対馬が見えることが分かるけれども、あれは対馬でないね。韓国の島だね」 という人に会ったことがある。 対馬の人は、対馬に来るならパスポートを持って釜山経由で来た方が好いという。 戦前は急病には釜山に運んでいたし、対馬の最も人気のあった就職先は 朝鮮鉄道であった。壱岐、九州は互いに見える距離。 漂流民など流れ着く人も多く、江戸時代にハングルで書かれた掛け軸が残っている。 実は関東が、韓国からは最も遠い場所なのである(北海道を除く)。 2.韓国の倭系遺跡 韓国にも倭系古墳、前方後円墳がある。 ヤマト政権は鉄を求めて韓国と関係を持った。 その関係で、5世紀くらいのものが中心である。 また、倭系の横穴墓もある。東城王は王になるとき九州から筑紫の兵に守られて 現在の公州に入っている。そのような人たちの墓だと考えられている。 また、共通の漁具が出てきたり、弥生時代の交易センターとして、勒島がある。 ここは弥生土器だらけの島である。 3.北九州 交易の拠点であった。まずは糸島。 魏志倭人伝に対馬―壱岐―松浦―伊都―奴のルートがでているが、その伊都国。 伽耶山を目印に来たと考えられる。5世紀前後から博多湾全体で交易が始まり、 その拠点も西新町遺跡に移った。ここには韓国人居住の跡などがある。 一方でヤマト政権側も最前線として宗像大社を祀るし、 百済復興などにからんで朝倉の宮、それと前後して水城などが形成される。 元寇の防塁、名護屋城もあるが、三浦との縁から釜山会高徳寺という寺もある。 4.関西 古来伎人(広隆寺、八坂神社)、 今来伎人(伝王仁墓、オミアシ神社、辛科神社、穴太遺跡)、 百済王にからむもの(百済駅、杭全神社、石塔寺、百済王神社など)が残っている。 八坂神社はスサノオを祀るが、渡来系の神でソシモリに降りたとされる。 ところで、百済王神社の額には牛頭天王と書かれている。 牛=ソ、頭=モリ。牛頭天王信仰と習合したか。 それ以外にも栗東狛坂廃寺磨崖仏のように、新羅人に関係する遺跡もある。 敦賀方面から琵琶湖沿いに入ってきた可能性もある。 継体天皇との関係も議論としてはある。 百済王氏が最初に配された難波の津付近に、鶴橋がある。 5.関東 直接渡来人が来たと言うよりも、再配置された人びとの根拠地。 多胡郡、高麗郡、新羅郡(新座、志木)がそれ。 一方信濃、甲斐から静岡、愛知にかけて積石塚が分布する。 高句麗系の可能性が強い。 その後、江戸時代には通信使が来るなどで、 知識として韓国のことが入ってきている。 千葉にはハングルで彫られた石碑が残っている。 (初期のハングルで彫られた当時のものは、日韓含めててここにしかない) 平田篤胤の影響の神代文字もある。 これはハングルの知識があると、なぜか読めてしまうもの。 その後、明治の交流や、現在まで続く関係がある。 こういう関係がある中で、お互いにどう付き合っていくか。 エスノセントリズムではだめで、文科相対主義で行くべき。 ところで、「理解」しようというが、 「理解」するということは、何を「理解」するのか。 まず、「違う」ということを理解すること。古来日韓のつきあいを書いたものを 読んでも、どの時代も今と変わらない、双方の違いを指摘している。 結局、両方とも変わっていない。基礎の時代、古代まで遡っても 日韓は基本的思想、神に関する考え方がまったく違う。 人は社会の中で生きるから、違う発想を身につければ、それで行動する。 日韓は顔があまりにもよく似ているため、同じ発想をすると思い込む。 しかし、違うことを前提に付き合っていかないと、行き違いばかり起こる。 これで終わり。 |
Posted by hajimet at 19:49
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日比谷高校ハングル 20140530 連音化 |
導入 パッチムの発音の復習 展開 連音化の練習。 この部分は「チャレンジ韓国語」は弱いので、「好きやねんハングル」を主に使う。 韓国語は音が繋がっていく傾向がある。 フランス語でも似た現象があるし、英語でも意識していないがこの現象がある。 Get upはゲラップ、What time is it now?は「掘った芋いじるな」。 ローマ字と、ハングルの両方を用いて説明。 지짐이(chi・jim・i=chijimi、지짐이のㅇ部分(空き)にㅁが移っていき、 [지지미]となる。 練習問題を扱う。ついでㅇㅇどうしの連音化。「ng」にあたる発音記号で繋がる。 영어=yo[ng]o 남자 친구 있어요?(本当のことをい言う必要はない)などと聞いていく。 続いて、チャレンジ韓国語の食べ物の名前の所を読み、説明する。 불고기:牛丼の韓国風具 김치:何百種類もある。 냉면:물냉면, 비빔냉면, 회냉면 参鶏湯:生後1ヶ月の鶏を使い、餅米、ナツメ、ニンニク、栗、高麗人参などが 入る、一種の鶏のかゆ。三伏に食べる。伏から犬も食べる (嫌な顔をしていた)。 닭갈비(둘받침の読み方をここで学ぶ)。「ところで、カルビってどこだ?」 「医者に行ってカルビのレントゲンを撮ると韓国語では言うのだが」 (骨付きカルビって、本来誤用)。 미역국:産後の肥立ちと母乳の出が良くなるように、箸が立つほどわかめが入った スープを飲み続ける。その苦労を忍んで誕生日はわかめスープ。 삼겹살:三枚肉を三段バラということがあるが、これは完全な間違い。 소주:ビールより多く吞む。一人酒は基本的にしないので、2人以上で吞む。 ところで、専用の盃で7杯継げるように作られている。だから、必ず 二本以上注文ということになる。 팥빙수:かき氷だが、直訳すると「小豆氷り」。餡子、果物(トマトも果物)、 寒天を干したようなものが乗る。これをかき混ぜて食べる。 →韓国食は混ぜて食べることが多い。ものすごいものを混ぜ合わせたシーンを見たこともある。。 (まとめ) 次回の予告。 |
Posted by hajimet at 08:17
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