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2014年6月29日
飛行場のように 20140629 「題名のな無い音楽会」より
50周年記念(6)「若き“KING OF VIOLIN”ヴェンゲーロフ」の中で、「スーパーキッズ・オーケストラ」のヴァイオリンパートの人が質問をしていた。それに対して之答え。

歩くときのことを思いだそう。自然と力が抜けて歩いているはず。
バイオリンも同じ。指の関節を全部使って力を抜いて弾かなければならない。
弓が飛行機、弦が飛行場。ソフトに離着陸しなければいけない。
弓は腕の延長。バイオリンは魂の延長。腕の続きの弓、魂の続きの楽器。
それが分かれば上手くなる。

バイオリンをトロンボーンに置き換えて、弓を息に置き換えるとほぼ同じ。
飛行場の例え、とても分かりやすかった。
Posted by hajimet at 21:31 | Comments (0)


2014年6月28日
日比谷高校ハングル 20140627 私は○○と申します。

1.導入
 いつもの通り簡単な自己紹介から(今日の授業の伏線)。
 이름이 뭐예요?
  집이 어디예요?
 ○○가 어디예요?等々
 
2.教科書スキット
 第5課のスキットを読む
  男:저..한국 사람입니까?
    女:아뇨, 일본 사람입니다.
    男:아, 네. 반갑습니다. 제 이름은 김성민이라고 합니다. 유학생입니다
  女:안녕하시요?  저는 이노우에 아사코입니다. 이병헌씨 펜입니다.
 
a.一文ずつ読ませる。有声音化、連音がうまく出来るかに重点を置いて指導する。
 「ㅂ니다, ㅂ니까」は 「ㅁ니다, ㅁ니까」になると教えておく(板書)。理屈までは踏み込まない。
 読み間違いはかなり減ってきた。
b.コーラスリーディング(抑揚に注意)     
c.教科書を閉じて暗誦。一人一行ずつ暗誦。
 
文法事項(これまでやって来た自己紹介を文法的に整理する)
 ○○は:는/은
    パッチムなし+는
    パッチムあり+은:もれなく連音化。ㄱㄷㅂㅈは必ず濁る
  練習問題
 
 ○○でございます:입니다
(多くの教科書では「です」としているが、예요/이에요と対比するため、「でございます」と書き直させている。実際の使用場面でも(特にソウルでは)합니다体はかなり畏まった形でしかでてこないこともある)。
  練習問題
 
 ○○でございますか:입니까?
  練習問題…徐々に教科書から離れたものも扱っていく。
 
 ○○は○○と申します。 ○○는/은 ○○라고/이라고 합니다。
  라고/이라고の違いを聴いてみた。는/은から類推できるか確かめたかったから。しっかり出来ていた。
  저는 ○○예요でも自己紹介になるが、これはぶっきらぼうに感じる。丁寧に言うときにはこの表現を使う。
  제 이름은 ○○라고 합니다.(日本人の名前の場合、「ん」で終わらないかぎり、こちらでほぼ問題ない)
  チェー・イルムンと切らないように意識→チェイルムン
 
 練習問題
  이것은 일본말로 뭐라고 해요?
   答え:和菓子(八つ橋)、石突き、蚊取り線香、岡持、湯たんぽ
  「愛」는 한국말로 뭐라고 해요?
など、応用問題を含めつつ。
 
まとめ。
 夏休み前3回の授業で簡単な自己紹介が出来るようになる事が目標
 

Posted by hajimet at 10:24 | Comments (0)


日本史 20140627 四民平等、秩禄処分

四民平等
学制、徴兵を行うための前提としては、身分が平等である必要がある。つまり、これらの内政改革の背後で士農工商などの身分制度が崩れていなければならななった。一方で、フランス革命を見るまでもなく、近代国家として成立させるためには、身分制を無くすのは世界的趨勢でもあった。
 
69年の版籍奉還により、藩主は行政官としての知藩事となる。それゆえ、藩主と藩士の主従関係は断裂した。ここから明治政府は身分制の再編成を始めた。
  華族:公家、大名
  士族:幕臣
 (卒族:足軽以下 〜72年)
  平民:農工商
 
70年 平民の苗字使用許可。
 これは公的に使用できるようになったと言うことである。神社や寺に残されている江戸時代の寄進者名を見ると、多くのものに苗字が刻まれている。苗字そのものは明治になってから出来たと言うよりも、その前からあったが、名乗れなかっただけのことが多かった(とくに関東は)。
 
71年 散髪(断髪令:それまでは身分、職業によって細かく髪型=髷が決められていた)、
    廃刀(このときには廃刀するかは自由であった。廃刀令は76年)、
    身分を越えた通婚許可(実際は家の格などが意識され続けた〔少なくとも太平洋戦争終了前後まで)。 
    エタ、非人という身分を廃止し、平民とする。
72年  壬申戸籍(72年壬申年に実施、法の制定は71年)
 それまでの「戸籍管理」は寺院が行っていた。すなわち、寺請制が取られていて、各人はいずれかの寺の檀家とならなければならなかった。切支丹対策のためである。そこで宗門改めが行われ、人別帳に記載された。これに基づいて通行手形は発行される。個人が寺と強く結びつくことになるから、死亡した場合その寺で葬式をあげてもらう。また、寺に墓地を作るようになり、急速にいわゆる「葬式仏教化」した(寺は本来は修行の場)。
 
壬申戸籍によって国が戸籍管理をするようになった。壬申戸籍の特徴は
 ・身分別記載方式の廃止(四民平等ということ)
 ・住居地主義を取ったこと(住民票の役割も)
 ・檀那寺である寺院名、氏神
 
戸籍法は大きく4回(壬申戸籍、明治19年、大正3年、昭和22年)変わっているが、明治戸籍までは住居地主義。本人に関係するものは過去まで遡れるが、住居地主義の関係で壬申戸籍は閉鎖されて見ることが出来ない。江戸時代以来の差別が残っているための処置である。現在は本籍地で戸籍を管理している。本籍地は日本国内ならどこに定めてもよく、千代田区1-1(皇居)に定めている人もいる。
 
これによって四民平等となったが、実際は特権の無くなった武士(特に下級武士)が教員、巡査、官吏になったため、平民は官吏などになりにくかったことや、大名に家禄、士族に小禄が渡されていたために、格差は残った。したがって、明治政府としては経済的特権を無くす必要も感じていた。
 
秩禄処分
明治の初期政府にとって最も大きな事業は、江戸時代以来の封建的な制度であった秩禄を無くすことであった。明治初期の歳出の中で最大のものが秩禄であったことも廃止しようとした理由であった。
 
本来藩主と藩士の関係は、藩士が藩主に仕えることに対して、藩主が藩士に俸禄を与える関係で主従関係が成立していた。しかし、版籍奉還、廃藩置県によって両者の主従関係は終了してしまった。本来なら俸禄(秩禄)も入らなくなるはずである。
 
だが、それでは、貧困者が続出することになるし、明治維新の功労者にも報いる必要がある。そこで明治政府は藩主に代わって秩禄を渡し続けた。だが、収入の少ない明治政府にとって、これは大変な重荷であった。そこで、廃藩置県と共に知藩事の俸禄を10分の1に減らすなど、秩禄に対する対策を取り始めた。
 
73年 秩禄奉還の法 
     秩禄の返納を認める。その場合数年分の秩禄を一時支給する(効果はあまりない)
76年 金禄公債詔書発行(条例)
     秩禄、家禄の廃止。
     公債として5年から14年分の金額を記載した証書を渡し、
     5年据え置き(その間に財源を確保し)、30年償還とした(1906年終了)。
 
これにより、武士の特権は完全に無くなった。これ以降平民と士族の差は完全になくなった。士族と言っても、名前だけ、過去の名誉という扱いになった(士族という名称まで無くしてしまったら、収まりが付かなくなる)。一方で華族は特権階級として第二次世界大戦が終了するまで特別な扱いをされるようになる。
 
生活のため、商売を始めた士族もいたが、うまく行かないことが多かった。これを「士族の商法」という。また、政府も士族授産を行った。静岡の茶もその一つだし、北海道の開拓なども行った。また、藩士、幕臣の多くが帰郷した東京都心では空き地が広がり、桑畑が作られたりもした。だが、このような士族授産政策も概してうまくは行かなかった。
 
このようにして、特権を廃止した後、すべての国民から平等に徴税する制度を整えることとなった。そのために地租改正が行われることになる。  
 
 

Posted by hajimet at 09:20 | Comments (0)


倫理 20140627 自然哲学(3)

Dパルメニデス(ca.BC540〜?)
「あるものはある。ないものはない」…禅問答ではない。
準備:He is a student. is(Be)は「存在する」の意味。
   上記の文章は、本来「彼は一人の生徒として『存在する』」という意味である。
   『存在する』=「〜である」である。
   では、「Be(〜である)」とは何なのか。
たとえば、彼は「生徒である」。「詩人である」という状況を考える。
これは、時間が経てば状況が変わる。生徒は、予備校生、学生、院生、会社員など変わっていく。このような変化するものを対象としても、真実は追究できない。
 
感覚によって捉えられる運動や事象は「変化する」から、追究の対象とはならない。感覚を越えた「見えない世界」に真実はある。したがって、真実の追究、真実「それ自体」は永遠不変のものでなければならない。
では、変わらない「存在」とは?

@男である 女である(対称となるものがある)
          |
A   人である 犬物である(同様)
               |
B       動物である 植物である(同様)
                       |
C              生物である  無である(生物で無いものは、そもそも存在しないもの)

結局「である(Be)」のみが残る。その「Be(ドイツ語でSein(ザイン)そのもの」を追究する必要がある。存在しないものはそもそも存在しないのであって、追究することはできない。ピュタゴラスは見えない世界にあるものを「数の関係」であるとしたが、「数そのもの」についてまでは扱っていない。
 
このような考え方、見えない所に真実を追究するとらえ方は、後のプラトンの「イデア、中世の「神」、近世以降の「理性」の追究に繋がるものである。また、学問として真理を追究するかの態度を示すものとして重要である
 
Eヘラクレイトス(ca.BC540〜ca.BC475)…「暗き人」
万物は流転する(バンタ・レイ)
川の流れはどんどん変わっていく。しかし流れの様子は一定していて変わらないように見える。日本でも鴨長明の方丈記が「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の見ずにあらず」というように川の流れが変わっていくことを扱っているものは多い。ただし、これとヘラクレイトスの言うことは違う。方丈記は仏教の影響を受けていて「無常観」を扱うのに対して、ヘラクレイトスは一定の流れを作り出すもの、「背後に存在する真理」を扱っている。
 
Fエンペドクレス(ca.BC490〜BC430)…社会事業。神になるといってエトナ山火口に飛び込む。
万物は土、水、風、火の4元素の結合、分離からなり、それらを離合させるものは愛、憎である」。
アルケーを一つに求める必要はないこと。これを多元説という。一元説か多元説かもつねに対立する事項である。
 
Gデモクリトス(ca.BC460〜BC370)…笑う人
万物は原子である
ものは分けていくとそれ以上分けることが出来ないもの(atomon(atom) a:否定、tomon:分離)である原子になる。その原子が結合して事物は出来上がる。この考えは16,17世紀に再評価され、現在の理系の基礎となる。
 
まとめ
このように、自然哲学者がアルケーを追究した態度を「テオリア(Theoria:観想≒洞察)」という。本来の意味は、演劇の背後にある主題を洞察することである。演劇にしても、ドラマにしても、様々なエピソードから出来ている。しかし、その背後には結論に向かって様々な伏線が張り巡らされていて、それらを統合する軸がある。そこを洞察することがこの意味である。
 
自然哲学においては、千変万化する自然現象の背後にある不変のものを追究する態度がテオリアということになる。そのテオリアをまとめて体系化したものが「Theory(理論)」である。
 
ギリシア人は実際の生活とは関係ないところで、知ること「そのもの」を楽しむ傾向が強かった。知ることを愛した、すなわちそれがPhilen=Sophiaあのである。
 
 

Posted by hajimet at 08:43 | Comments (0)


2014年6月26日
「ひっくり返し」と「引っ張りだし」…道教を勉強しつつ
ここのところ、道教の本を読んでいて思ったこと。
おみくじ、鍾馗様、地鎮祭などなど当たり前のことが、実は道教由来。
基本的には漢民族だけの宗教で、中国国内でも漢民族以外は信仰しない。

しかし、日本でも風俗習慣だけではない。
斉明天皇絡みの遺跡は道教の影響が強いという指摘があるし、
神仙思想なども道教からきている。

五斗米道などの道教教団は日本には入っていないから、
「道教」そのものというようりも。道教思想、文化が
日本に入ったと捉えてもいいかもしれない。

もともとが東洋的アニミズムだから、
日本の神道と親和性性のある部分もあるようだし、そうでもないところもある。
また、中国人の影響の強い長崎は媽祖信仰含め、土地神など直接の影響も感じる。

そんなことを調べている内に、ふと思いった。
「社会科の授業って、無意識の意識化」なんだろうなと。
言い換えれば無意識であったものを意識の世界に「引っ張り出す」こと。

英語は自分たちにない概念を定着させつつ、それを利用していく。
国語は全ての教科の基礎。古典、漢文を含めて。
数学は(実は、極めて実践的科目なのだが)生徒に実践のイメージがわきにくい。

それに対して、理社は、
漠然と自分の周りに広がっていた世界を、それぞれの科目の視点で意識化していく。
国数英の基礎の上に、本人の世界を広げていく作業なのだと思う。

目黒が目黒不動から来ている地名で、実は五行説から来ている(これも道教)。
目白も同じと気がつけば、
単に山手線の駅名としてしか意識していなかったことが、
それ以上のものだと、急速に広がっていくだろう。
そして、目赤、目黄、目青は?となる(江戸時代は目赤までだそうだ)。

そういう科目なのだなと、道教を勉強していて気がついた次第。
普段の授業で、こういう作業をしているのだが、
自分の中では明澄に意識化していなかった。
道教の本を読みながら、その点を強く感じた次第。
そして授業とパラレルに考えてしまった。

韓国関係で韓国の関係者と話をしていると「歴史問題」が話題になる。
だが、先輩教員が
「必ずしも歴史から入る必要は無い。どうやっても歴史にたどり着く。
それよりも色々な門を作れば良い」と言っていた。

このことはつねに意識している。
だが、無意識を意識化すると言うことからすると、
扉を作ると言うより、具体的イメージで「何」を引き出すのかが重要で、
それが、結果として「教える」という事なのだろうなと感じた。

同じような事を、これまで「ひっくり返し」という言葉で意識していた。
そうだと思っていたことについて、意識しなかった視点を与えて
(ひっくり返して)、視野を転換していくと言うことである。

このことと、「引っ張りだし」は、結論的には同じことになる。
だが、本人の中に「きっかけ=無意識部分の知的・経験的蓄積」がないと、
「ひっくり返し」は成功しないことになるであろう。

何か「きっかけてき部分」があって、それをうまく引き出せることが
結果として「ひっくり返し」と言うことなのだろうと考えている。
Posted by hajimet at 20:57 | Comments (0)


2014年6月24日
倫理 20140624 自然哲学(2)
Aアナクシマンドロス(ca.BC 610-ca.BC 546))
 「万物は無限(ト、アベイロン)である
アナクシマンドロスはタレスの弟子。師のいうとおり万物の根源が水だとすれば、星と我々大地の間は水で満たされなければならない。しかし、実際は空間である。大地は宙に浮かんでいると考えるべき。同時に、海岸線が存在し、海岸線の向こうは水で満たされているが、こちら側は水がない。即ち、水は有限である。また、水は熱くなったり冷たくなったり、性質が変わる。このようなものを根源とすべきでない。アルケーであるものは、有限でなく、性質の変わらないものでなければならない。そこで、万物の根源を形も分からず、見えない無限(無限定)のものとした。すべての物は、ここから発生し、ここに戻る。なお、アナクシマンドロスは「カオス」からこれを想定したとされる。

このような考えはアナクシマンドロス独特のものではない。東洋でもある。風水が流行していて、どういう色の服を着れば良いとか話が出ているが、実際は、それによって良い「気」を受けるためのこと。気は太極から発生し、陰陽に別れ、五行にふれて流れ出す。すべての物は気によって作られる。

ところで、Bアナクシメネスは、見えなく無限のものとして、空気をアルケーであるとした。空気が薄くなると火が起きるなど熱がでる。また、空気が濃くなると、風や雲ができ、さらに水、土、石など冷たいものが出来るとした。

Cピュタゴラス(ca.BC 582-ca.BC 497)
自然哲学の舞台は南イタリアに移る。これまでと視覚の異なる立場ができた。
ピュタゴラスは「万物は数である」とした。

A+B=Cは具体的に存在するが、A二乗+B二乗=C二乗が成り立てば直角三角形であるという二乗の世界は「真理」であっても、この世には存在しない。すなわち、三辺比が各3,4,5であっても、3+4≠5であるだけで、9+16=25の関係にならないのである。また、99,4900,4901が直角三角形になり得るのは、二乗をしてみないと分からない。すなわち、真実は見えない所にあるのである。

ピュタゴラスはピュタゴラス教団という新興宗教を信じていた。これはアジアの思想の影響を受けたオルフェウス教(アポロン、黄泉の世界の逸話)の色彩が濃厚。魂の再生を真寺、輪廻転生を信じる。輪廻転生するということは、生まれたこの世は「苦」である(自分たちが、生まれ変わったとして、再び受験勉強をするのは、きっと「苦」だろう)。輪廻転生から離脱するためには、魂を浄化して、天上界にいかなければならないと考える。

我々は深く寝ていても、浅く寝ていて夢を見ても、起きていても、死の瞬間も、それが自分であることは分かっている。即ち、「私は『私』である」。『私』は魂である。それが「肉体の牢獄」に閉じ込められている。生まれ変わるまでの「私」は感覚がないが、「牢獄」に閉じ込められて感覚が生ずる。即ち「苦」である。

どの肉体に生まれ変わるかは前世の状態によってきまる。だから、犬に生まれ変わることもある。ピュタゴラスは、殴られた犬を「かつて自分の友達だった」と言って助けたが、これもこのことを反映しているのだろう。

さて、魂を浄化するためには、魂を天上界と調和(harmonia:ハルモニア)させなければならない(cf. philen+harmoni(philharmony), philen+aderphos(Philadelphia:兄弟愛), philen+anthropos(ghilanthoropy人類愛=博愛)。

一つは体を調和させるために医学を重視し、もう一つは音楽を重視した。
音楽はオルフェウス信仰から来るが、それとともに音楽が数で表せるからである。
協和音の振動数は整数比の関係で表すことが出来る。

ここから、すべての物は数の関係に基づいて存在していると考えた。

たしかに、理系のことは一切のことを数の関係で表そうとしている。その点から、ピュタゴラスの考えはおかしいものではない。

さらにまとめるとタレスからアナクシメネスまでは、事物の根源をものに求めようとした。一方ピュタゴラスは事物の根源を原理や型に求めようとした。

我々の体が何から出来ているかということは「もの」に根源を求めることが出来るが、我々の意識が何から出来ているか、理想としているものについては、「もの」には求められない。これらは現実にものとして存在していないからである。ギリシア思想はこの二つの流れがある。それが重なるのはアリストテレスまで待たなければならない。
Posted by hajimet at 14:00 | Comments (0)


2014年6月23日
日本史授業 20140623 廃藩置県、太政官制の改正、内政改革
廃藩置県
@版籍奉還
すでに五箇条の誓文でも方向がでていたが、
藩は明治政府の機関に組み込む必要があった。

1869年1月、大久保利通、木戸孝允等の建議によって、薩摩、長州、土佐、肥前の藩主が版籍奉還を申し出る。
 版=土地(ex.版図)、籍=人民(ex.人民)
原文を読むと、版籍を奉還すること共に、天皇に各藩に対して奉還を命ずるように
建議している


これに合わせて、他の版でも版籍奉還を行い始めた。1869年6月には約200の藩が版籍を奉還した。そこで政府は


1869年6月、版籍奉還の詔勅を出した。
これにより、藩主は知藩事になった。
形式的に政府に任命された行政官の扱いであった。
ただし、これは行政のみで、徴税権と軍事権は藩に属した。

だが、これは新政府にも藩にも問題が残った。
新政府にとっては、年貢が入ってこないため、財政難に陥った。その影響で一揆が多発した。にとっては、徴税法法が旧来のままだったので、藩民に不満がたまった。

A廃藩置県
新政府は権力を強化し、税収を安定化させるために、藩の廃止を決意した。その前提として、1871年薩摩、長州、土佐の藩兵1万人を御親兵として、政府に属させた。その上で、1871年7月廃藩置県が行われた。

これにより知藩事は9月までに東京に移り、変わって県知事が中央より派遣されることになった。知藩事は大名だから地元と関係が強い。それが地元に居続けるのでは、不都合が生ずるということもあった。これで、政治的統一が完成した

これにより、1使(開拓使)3府302県が出来た。旧藩をそのまま県としたからだが、細かすぎることと飛び地が多いため、県境が入り組んでしまった。そこで同年、1使3府72県に整理した。その後も整理し続けたが、今度は逆に1県辺りの大きさが大きくなりすぎたため、今度は分割を行い、1888年には、1道3府43県に整理された(現在の形)。

県名は旧官軍側は県庁所在地と同名、非官軍は別の名前にした。ただし、官軍側でも石川県は立場が曖昧であったため「金沢県」とはならず、福島県は奥羽列藩同盟で最も反発が強かったために、会津若松を県庁所在地とはせず、小さな町だった福島を県庁所在地として、県名も福島県とした。このときのことで、会津の中央に対する感覚
は厳しいものがいまでも続いている。

新体制
廃藩置県によって、日本全体が新政府の勢力化に入った。これに伴って、1869年6月、政体書に基づく太政官制を改正することとなった。政体書が藩の存在を前提としていることと、そしてなによりもアメリカの制度を見本にして適用しようとしたことがあった。

この太政官制は、
祭政一致=天皇親政のために、大宝令を元にして作られた。すなわち、

・神祇官を太政官の上に置いたこと。神国日本を作るため。
  ただし、国民を神国化することでは近代国家建設に合わないことが分かり、
  1871年に神祇省に格下げ、さらに格下げが続く。一方で、祝祭日を決め、
  それにより、神国のイメージを作ろうとした。
・太政官の下に各省を置いたこと。
 (二官六省制)

太政官は
 正院:天皇親政=薩長中心
  太政大臣
  左、右大臣
  参議
 左院:立法=官選(門閥や家柄で選ばれる)土肥中心
        議論は殆ど行われない。
 右院:行政事務

この結果、下級武士が中心となる(改革をする観点からは、若手が活動できることになり、理想を求めやすいことになる)。特に薩長土肥中心となる一方で、誓文で書かれていた(公武合体以来の)公議世論は軽視される閣下になった。

この改編ののち、1871年岩倉遣欧使節団がヨーロッパに行く。留守政府を西郷隆盛等が守って内政改革を行った。

ところで、この岩倉使節団の成果が、その後の日本の流れを決定することになった。その一つが法制度を欧米式に変更したことである。これにより、欧米式の法律、制度を取り入れることが出来るようになり、欧米式の法律解釈が出来るようになった。これが欧米と対等と認められるようになった理由の一つである。中国、朝鮮は律令系の法体系から脱皮することが出来なかった。

ただ、律令系の法体系をとったことも日本としては大きな革命であった。律令系の法律は、藤原氏の時代以降崩れさり、鎌倉以来武家法になっていたからである。それを断絶して新しいものを作ろうとしたと言える(断絶させた経験を持っているから、新たに西欧系のものも受け入れやすかったと言えるかも知れない)。

@学制
1871年、文部省設置。
1872年、学制公布(フランスの制度:定着しにくい)
 「自今一般ノ人民必ス邑ニ不学ノ戸ナク、家ニ不学ノ家ナカラシメン事ヲ期ス」
  小学校制度。男女平等

A軍事
 御親兵→近衛兵
 藩兵―→解散:一部は鎮台
  (鎮台=連隊の元。反乱を「鎮める」台=国内の反乱を抑えることが中心)

1869年、兵部省→1872年、陸軍省・海軍省
1872年11月27日、徴兵告諭:男子20歳以上徴兵。
1873年1月10日、徴兵令(ドイツの制度)
 11月27日から1月10日まで15日間。明治政府は財政難のため、12月3日から太陽暦を採用することにして、1月1日として。これによって、12月の給料を日割り計算で払えば良くなっただけでなく、1873年の閏6月の給料まで払う必要がなくなった

徴兵令 陸軍:徴兵、海軍:志願(海軍はイギリスの制度:セーラー服)
    免除者が多かった。(長男、戸主、相続人ほか)
    「徴兵免除の心得」がベストセラー
    
     大部分は農家の二男、三男が徴兵(労働力が減る)
      「血税」の誤解
      仕事のなくなった武士の不満
       ↳血税一揆

B警察
(72年より動きがあるが)
1873年、内務省設置(地方行政、殖産興業、警察など)
1874年、東京警視庁設置
 
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2014年6月22日
歌、歌、歌
20140620
レッスンでは、教則本(メロディアス)の3番を中心に、
曲の歌い方や、テンポの持って行き方を見てもらっている。

「ここは、少し前に」。「ここで転調するから、こういう吹き方」。
「ここは付け足しの部分だから、そのような雰囲気で」
「和音が解決している場所」
「ここはシンコペーション的部分」

基礎的な所も見てもらうが、同時に歌い方の練習である。

そんなとき、突然別の事と結びついた。
イタリアオペラのテンポの持って行き方にそっくり。
もちろん、いかに歌うかを練習しているわけで、この譜面も元は歌。

器楽的な部分も大事であるが、器楽曲であっても、
その歌い方は歌から来ているのだから、
楽器をやる立場からすれば、歌い方をどう楽器で表現するかと言うことになる。

しかし、これによって長く持っていた疑問が解決した。
「オペラ、特にイタリアオペラの歌手の歌い方は、どうして譜面通り
でない部分があるのだろう、自由にテンポなどを動かしていいのだろうか?」
ということに対する答えが、まさにこれだったからだ。

譜面上インテンポの場所で、ここは、こうするとよいと言われた場所が、
イタリアオペラなどでも同じようにテンポを動かす場所だったからだ。

歌い方は、ドイツ、フランス、イタリアそれぞれ違うのだが
(言語が違うことに由来するようだ)
それぞれの国の人びと、自然と自分たちの歌い方を身につけている。
オペラを見に行くことも、なかば歌舞伎を見るような感覚。

言い換えると、ヨーロッパの国の人びとは、
歌(童謡レベルから)から入って(感覚的に持って)、器楽に進むのに対して、
こちらは、歌から入らず、器楽から入ることになる。

それだけに、かえって新鮮な「発見」だった。
Posted by hajimet at 10:21 | Comments (0)


薄皮を剥いたニンニクの保存〔朝鮮日報記事より)

薄皮を剥いたニンニクを保存するには。
2014年6月21日の朝鮮日報の記事。
 
「密閉容器の底に砂糖を薄く広げ、キッチンタオルで覆ってから
皮をむいたニンニクを入れておくと、新鮮さを保つことができる」。
 
ニンニクの使用量は世界で1770万トン生産されるが、
1人あたりの消費量の世界一は韓国で、年間7sにもなる。
 
世界平均が0.8s、日本は0.3s。韓国の消費量は日本の20倍以上。
香り付けではなく、料理には大量のニンニクのミジン切りが入るし、
日本の七味的な感覚で料理に投入することも多い。
焼き肉や刺身では生のニンニクや、揚げニンニクを一緒に包んで食べたり、
突き出し風に生ニンニクや、ニンニクの醤油漬け、酢漬けが出てくる事もある。
 
食材としての使われ方がまったく異なるということだ。
日に何カケも使うから、事前に薄皮を剥いておくことも多い。
薄皮剥きは結構大変だからだ。
 
それだけに、保存方法も関心事になるのだろう。
使いかけのニンニクをどう保存するかと言うことと別次元の問題なのである。

 

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2014年6月21日
楽器の編成。テレマン(20140619)

レッスンが終了して、いつもの「反省会」でのこと。
楽器の編成の話になった。カラヤン、ベルリンフィルのモーツァルト「レクイエム」の録音をの
話題がきっかけに話題が広がっていった。
 
レクイエムは1961年にベルリン、イエス・キリスト教会で録音されたものなのだが、
「妙なるラッパの」のトロンボーンソロがすごいのだ。
ドムス先生のソロ(レコード時代はわざわざ「ソロ:ドムス」と書いてあったという)。
音がエコーとなり、3回くらい跳ね返ってくる。歌手の音も響き豊かに取られているのだが、
このように跳ね返ってくることはない。
 
この編成、上はアルトトロンボーン、下はテナーではないかという。
実はレッスン中にもモーツアルトは話題となっていた。
交響曲のように器楽的なものにはトロンボーンは使われていないが、
オペラや合唱曲にはトロンボーンが入っている。
モーツアルトは器楽としてではなく「歌の要素」としてトロンボーンを使っているというのだ。
 
そこから、歌に合うように楽器を選ぶ必要があると言うことに繋がったのだとも思う。
3rdが必ずしもB.trbである必要が無い。B.trbそのものが登場したのはずっと後の話。
作曲家がその響きを考えていない。
などという話になった。
 
そして、テレマンの四重奏について、もともとバイオリン4本のための協奏曲。
それを4番をバストロンボーンで吹くことはバランス上もおかしい。
原曲を聴いてみた。確かにバイオリン4本の響きがきれいに溶け合っている。
4番だけをチェロで弾いたら、響きとしてもおかしくなると思いながら聴いた次第である。

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日本史20140620 新政府の方向性

D新政府の課題
  このようにして成立した新政府の目的は、
   「政治、経済、文化などのあらゆる面で欧米に急速に追いつくこと」であった。すなわち、
        植民地化を防ぐこと。
        不平等条約を改正することが目的となった。
 
  そのために、急速に近代化を行い、旗頭に天皇をおき、
          天皇中心の中央集権国家を作る必要が出来た。
  一方で、これが福澤諭吉の「脱亜論」に繋がることになる〔資料紹介〕。
       脱亜論の発想は今でも強い。
 
さて、これに目標は成功したが、他国が同じような事をしても失敗して、植民地や半植民地に
なったことからすると、なぜ成功したかという理由を求めなければならない。
これには国内的要因と国外的要因があった。
 
 国内的要因
  ・ある程度産業が発達していて、欧米の産業を受け入れる素地があったこと
    経済的な地盤だけでなく、知的な面においての水準が高かったこともある。
    寺子屋など庶民に対する教育が広く行われていて、識字率が非常に高かった
    多くの国では、文字は官吏などのごく一部の層のものであったが、それとは大きく異なる。
  ・民族統一の経験があった
    律令時代の経験。
 
 国外的要因
 ・インド、中国の経験から武力外交政策をとらなかった
   市場を得るために、傭兵の乱、アヘン戦争を行ったが、かえって反発を呼び、
   自国製品が思ったようは売れなかった。そこで、武力外交政策をとらなかった。
   連合艦隊下関砲撃事件が下関だけで終わったことも同様の背景がある。
 ・関心が清国に向いていたこと。
 ・各国の国内事情。
   東方問題ナポレオン三世の動向とそれに対する対抗。ナポレオン三世の失脚。
   1870年以降、英仏はアフリカ分割に目が向けられるようになる。
 
E新政府の政治の方向
 1.古代天皇制の復活(神武創業之始ヲ源トシ(王政復古の大号令))
   明治初期、政府内には平田派の影響を受けた人が多く参加していた
   彼らにとっては「神国」が本来の姿であるから、その姿に純化しようとした。
  そのために
   ・神祇官を太政官の上におく(1869)
   ・神道、神社制度の整備(天皇=神)
     1868年閏四月、神仏分離令〔資料紹介〕
            神仏の混淆を禁止する。
 *本来の神道とは「祟る神」を、祟らないようにまつった。その基層文化の上に
   仏教が入ってきて習合した(習合は仏教に限らない)。cf.本地垂迹説
     1870年、大教宣布の詔
     1871年、太政官による神社制度の整備〔図表参照〕と祝祭日、
               紀元節(2月11日):日本書紀の記事から計算した上で、
                「伝説上初代天皇である神武天皇が即位したとされる日」
               天長節(11月3日):明治天皇誕生日
                cf.明治天皇=近代化の象徴→文化の日
 
 神仏分離の結果、信州など特に平田派の影響の強い地域を中心に廃仏毀釈が行われた。
  (純粋に理想を語る思想は、革命が起きる。cf.フランス革命:ルソー)
 廃仏毀釈とは、仏寺を廃止し、釈迦を捨てるという意味である。
 これにより仏教寺院だけでなく、修験道などが大きな打撃を受けた。
 それまでの文化の流れの中で断絶したものも多い。
 一方で、仏教と神道が別のものと意識されるようになった。
 
古代天皇制復活のほかに
 2.公議世論の尊重、
 3.開国和親が上げられる(すでに授業で扱っているので、項目のみ)。
 
これらの内容は、公武合体派が主張していたことである。
明治維新は尊攘派が中心に行われたが、
政策は文久の改革でとられた路線を継承しているのである。
 
このように見ると、幕末から明治維新までの流れは
尊攘派と公武合体派の勢力争いだったと言うことも出来る。
国際環境が変わっていないから、政策の方向を変えることは出来ないのである。

Posted by hajimet at 10:38 | Comments (0)


倫理 20140620 自然哲学@

自然哲学
 
ギリシア本土では紀元前8世紀にポリスが成立した。
そこでは、城壁に囲まれた中に、神々を祀るアクロポリスがあった。
アクロポリスの麓には円形劇場が置かれ、
舞台と客席の間の半円形の場所であるオルケストラで
楽器の演奏やコロス(コーラス)が行われた。
また、アゴラでは対等な立場で議論を行うなど、ロゴス(ことば)を分け合っていた。
 
しかし、ギリシアは土地が狭いため、植民市に多くの人が移動した。
その一つ、イオニア地方(現在のトルコ〔小アジア〕)で自然哲学が発生した。、
自然哲学が発生した条件は以下の通り。
 
 1.地中海交通の十字路
  そのため商業が発達した。貨幣経済であるため、抽象的思考が発達した。
 
 2.様々な民族の存在
  これまでギリシア本土ではギリシア人以外をバルバロイ(Barbarian)としてさげすんでいた。
  ギリシアの中だけでは自分たちの神話だけの世界で完結するが、
  イオニアではそうはいかなかった。自分たちの観念と異なる神話を持つ民族と会う。
  この中でそれまでの固定的な先入観や観念で物を見ることが出来なくなった。
 
 3.オリエントの文化との接触
   彼らの測地術や占星術は、イオニアの人びとの知的関心を大いに刺激した。
   もともと人は好奇心が強い。
 
 4.貧富の格差の拡大
    富者は銭湯で横になりながら、「思索のためのスコーレ(〔→school〕余暇)を
    楽しんだ(cf.マズロー、欲求の階層構造)。考える余裕があったと言うこと。
    ギリシア人は現実生活に関係ないことを考える性向を持っていた。
 
@タレス(ca.BC624-ca.547)=自然哲学の父
そのような中で自然哲学が発生した。自分たちの基礎となるものは何か。
神がいるとして、「その神」は何から出来ていくのか。人は死ぬし、自然は変化するが、
変わりゆく自然の中で変わらない物(根源、始原=アルケー、cf. architectural)は何かを
追究しようとした。
 
タレスは、商人、政治家で各地を旅行していた。日食を予言して当てたり、
哲学者は先のことが分かるべきだとして天気予報を行ったり、
オリーブオイルの搾り器を作って大もうけをしたり、逸話はたくさんある。
思索好きで、星を観察していて溝に落ちて、「足下も分からないのに、上のことが分かるの?」と
言われた逸話も残っている。
 
彼は、「万物は水である」とした。
もともとオリエントの地域は大地は水か出来ているという発想があった。地震があるからである。そこからヒントを得たのだろう。
 ・生きている物は水分を有す。
 ・食べ物は水分を有す。
 ・火も水分を有す(冷たいものを火の上にかざすと水滴がつくし、火が消えるとシモが降りる)。
 ・死んだ種は乾いている。
 
このように色々変化するが、水だけは変化しない。故に万物は水だとした。
 火、空気は水の蒸発物であり、土は水のオリ物である。
 
タレスは自己の見解を絶対視しなかった。議論しようとしつつ、アルケーを見付けようとした。
ロゴスを分け合う対等な人同士、議論をしようとした。批判を許したのだ。
 
タレスの見解に、弟子のアナクシマンドロスは疑問を持った。
すべてが水なら、我々の世界は水没してしまうし(現実には空間が広がり、星が一面に輝く)、
海岸線がある。ということは、水は有限だと言うことになる。そこで師匠と違う結論に至った
(以下、次回)

Posted by hajimet at 10:09 | Comments (0)


杉並総合 20140618

今日はALTのいない日。有声音化、連音化をまとめる。
@試験について
   6月25日、授業内で行う。
 
Aパッチムのある文字が他の文字と繋がる場合
 次の文字がㄱㄷㅂㅈのときに、それが濁る場合と濁らない場合がある。
 
 パッチムが
  響くパッチムの時→ㄱㄷㅂㅈは濁る(한국:ㄴが響くパッチムだから、ハングク)
  消えるパッチムの時→ㄱㄷㅂㅈは濁らない(既習生徒向け:濃音化)
                      (학교:ㄱが消えるパッチムだからハッギョでなく、ハッキョ)
  響くパッチムの後、濁らない場合もあるが、原則は濁る
   (教科書は、この後に비빔밥が出てくるのだが…밥は例外と教えるしかない)
  教科書と好きやねん韓国語の単語で練習。
   한국, 일본, 남자, 친구, 전공, 경제, 형제, 자전거(チャリンコ)
   학교, 잡지, 학생(生徒も), 옷장, 낯잠, 떡국, 숙제, 식당, 숟가락, 젓가락
 
Bパッチムの後が母音の時
  할아버지は、ハルアボジでなくハラボジ(発音してみせる)。
  韓国語は音を繋げて発音することが多い。
  三段階の説明
   ハル`アボジのルとアがつながり、ラとなる。
   hal・a・bo・jiがつながってhalabojiとなる。
   ハングルで書くと、ㄹがㅇの位置に移ったようになって、하라버지と発音される。
    ハルラボジとㄹの雰囲気を残すのではなく、思い切って繋げること。(休憩)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
C練習(「好きやねん韓国語」使用)
 음악, 발음, 목요일, 백원, 있어요, 없어요
コツ
 목요일:母音と繋がる場合ㄱㄷㅂㅈは必ず濁る。
 원:合成母音(初出)。とりあえず、書いてある順に一気に読むこと
    (違う場合は改めて指摘する)
 없어요:二重子音(初出)で母音と繋がる場合、左から順に子音を読む(オプソヨ)
  (있어요と並んで掲載されているので、ㅆが二重子音と誤解する生徒が出る可能性あり)
 
Dㅇとㅇが繋がる場合。
「ng」の発音となる。カ行に半濁点を付けるか(そういう辞書あり)、ンンと書くしかない。
 고양이, 생일, 붕어빵
붕어빵→(韓国の鯛焼き事情、餡子、醤油(日本の)事情。
      餡子、醤油は意外に口に合わないよう(醤油ラーメン、煎餅は喜ばれない)
E教科書25ページ、読んでみよう(文化学習をかねる)
  :こちらから話すだけでなく、質問、その場の反応で発展させる。
 
 불고기:韓国風すきやき
 김치:多くの種類がある。
 냉면:물냉면、비빔냉면、회냉면がある。회(サシミ)はエイを発酵させたもの。
           アンモニア臭がする。チーズ、くさやが食べられれば大丈夫。
     회:ホイではなく、フェと発音。
 삼계탕:韓国風の鶏の水炊き。鶏の中にナツメ、ニンニク、栗、高麗人参がはいる。
      土用にあたる三伏(삼복)に食べるスタミナ食。上中下の伏がある。
      伏の文字から犬も食べる。スープにはニンニク、生姜、エゴマなどを大量に入れる。
 지집이:南部地方の言い方。ソウルでは전(煎)という。
 떡볶이:韓国モチの辛味噌炒め。떡は粳米(上新粉)で作る。粘らない。
      日本のモチは粘るから嫌いという韓国人も多い。
 잡체:韓国風春雨炒め。
 감자탕:豚の背骨肉とジャガイモを煮込んだもの(豚骨風ですかという質問あり)
 미역국:出産後に箸が立つほどわかめの入ったスープを食べ続ける。
      産後の肥立ちと母乳の出が良くなるため、
      母の苦労を忍ぶため、誕生日にもわかめスープを食べる。
 삼겹살:ブタの三枚肉。その油で焼くから、かりっとして美味しい。
      なお、三段バラは誤訳。三枚肉(油身を挟んで三段構造になる)と、バラ肉が混同。
 닭갈비:鶏の肉を辛味噌で炒めたもの。
     鍋や炒め料理の後、シメの饂飩や雑炊のように、御飯を煎り焼きにしたものも美味しい。
     닭:二重子音。母音と繋がらないときは、どちらかだけを読む。カナダラ順で早いものを
       読めば、9割はOK。
     갈비:あばら骨。骨付きカルビは二重に訳している。
소주:一瓶でカップに7杯入るように作られている。
    日本のようにいろいろな種類があるのではなく、地域ごと。
    鏡月、Jinro(両方とも韓国のメーカー)
     Jinro=真露:訓読み風にすると真=참、露=이슬。だからチャミスル
막걸리:日本のマッコリブームで最近韓国でも注目されている。本来は農作業の合間とか、
     仕事が終わったときに、飲むもの。炭酸発酵で、ドンドン味が変わる。
팥빙수:かき氷。팥は小豆、빙수は氷水。
      かき氷の上に餡子(必須)、フロート、寒天状のもの、バナナ、トマト(果物)、
      など、色々なものが乗る。日本風にシャクシャク食べていると「技術指導」が
      はいることがある。全部混ぜて食べる(氷水だから)。
      →すでに混ぜる文化であることは비빔밥、자장면を例に話してある。

 
 

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2014年6月18日
日本史授業 20140616(2) 五カ条の誓文と政体書

五箇条の誓文と政体書

@五箇条の誓文
新政府は旧幕軍を破りながら支配範囲を広げていった。
1868年1月、鳥羽伏見の戦いに勝ち、西側各藩が帰順した新政府は、
諸外国に向けて、「王政復古、開国和親(原文読む)」を宣言した。

諸外国政府も新政府の状況を見て、新政府を国際法上の交戦団体と認めて、
局外中立を宣言した。

ほぼ関東以西を抑えた1868年3月14日、新政府は五カ条の誓文を出した。
その内容は(原文などを読みながら)
(1) 公議世論の尊重
(「広く会議を起こし」:福岡孝弟は「列侯会議を起こし」だったが、
 これでは公武合体になってしまう。そもそもこの文は「船中八策」以来
 公武合体の中で出てきた言葉。これを、新政府側が「尊王」の立場で
 組み込んだと言える)
(2)一君万民
「上下心を一にし」
…このことから、将来藩を廃止する方向が読み取れる。
(3)開国和親
「広く智識を…」

福岡は「会盟」としようとしたが、
これでは天皇と百官の関係が対等になるという公家の反対により、
天皇が百官を率いて、諸神に宣言する形式を取った。

A五榜の掲示
よく3月15日、それまでの高札に代わって五榜の掲示が出された(原文読む)。
その内容は幕府時代と変わらないものであった。

だが、新政府の支配地域では、幕府時代の高札を引き抜いて、
新政府の五榜の掲示に差し替えたのである。
すなわちこれにより、新政府が支配したことを宣揚しようとしたのである。

B政体書
閏4月、政体書が出された。

閏四月とは太陰暦の暦の進行(1月は29日か30日)と季節の進行がずれることを
防ぐために置かれるもので(19年間に7回)、同じ月を2回繰り返す。
(ちなみに、閏年はユリウス暦から来るもので、地球の公転の関係で、
4年に1度(ではない年もあるが)挿入される。
これは復活祭の時期がずれないようにするための挿入である。

政体書(原文読む)は五箇条の誓文の具体化である。
 太政官制を取ること(政令二途にならないように)
 三権分立で、互いの独立
 高級官吏は任期4年で公選制。
 中央と地方の関係などが定められている。

これはアメリカの制度を参考にして作られたもの。明治初期はこのようなものが
多いが、それまでの社会情勢に合わずすぐに形が変わってしまったものも多い。
政体書も同様。

ところで、藩、府、県が出てくるが、
 (江戸時代)   (新政府)  
  旧幕領(納地)===府(重要な所、9カ所)
   |       |
   |       |
   |       =県(それ以外)
   |
   藩========藩(廃藩置県前は藩はそのまま残る)

県(縣)は首をひっくり返した文字で、戦争で取ってきた首を村の入り口の
木に掛けておいたことをことに由来する。

中央から派遣した役人のいる役所のことで(郡県制)、
新政府では中央集権にすることを意味している(cf.道州制)。

江戸の場合、朱引き内の旧御符内は東京府、それ以外は武蔵県となったが、
武蔵県はのちに3つに分けられ品川県、小菅県、大宮県に分けられた
(このような県が最終的には200を越える)。

C明治改元
68年7月、江戸を東京(とうけい)と改称。
1868年9月8日、明治に改元。
 それまでは、凶事や瑞祥のときに元号を代えてきたが、天皇が中心となって
 支配するのだから、天皇の一代の間、改元しないことにした。一世一元という。
 天皇が王政復古を宣言し(68年12月)、1月に西国が帰順し、新政府の勝敗が
 ほぼ決まったと言うこともあるのであろう。改元は1月1日に遡って行われた。
 したがって、公式には慶応4年は存在しないことになる。
 
出典:「聖人南面而聴天下、嚮明而治(『易経』)」
古来、東アジアでは、君主が座る向きは南向きと決められていた。

その後、明治天皇が東京に行幸し、市民に酒をふるまった。
このときに、江戸城は皇居(東京城)と改名した。
さらに、1869年3月、正式に明治天皇は東京に遷った。

遷るとき、京都の公家から反発が出た。そこで、
「関東を抑えるためには、天皇が行く必要があるが、
 その必要が無くなったら京都に戻す」と理由を付けて東京に送り出した。

今でも、京都では「天皇をお貸しした」。だから首都は「京都」という
雰囲気が強く残っている。

Posted by hajimet at 19:58 | Comments (0)


日本史 20140616の(1)戊辰戦争(2)
A江戸城開場
江戸に新政府軍が近づく中、
フランスは幕府に武器を与え、徹底抗戦することを勧めた。
だが、徳川慶喜は新政府に恭順の意を示し上野寛永寺に移った。

上野寛永寺は、現在の藝大、国立博物館裏だけではなく(籠もった部屋も残る)、
上野の山全体が寛永寺であった。

ここに移った慶喜側の眼目は、慶喜の助命嘆願であった。
慶喜側は新政府側と何回か交渉をしたが、埒があかなかった。
というのも、西郷隆盛等は慶喜の命を奪うことを主張していたからである。

慶喜が寛永寺に移った後、江戸城開場が焦点となる。
慶喜は勝海舟に交渉をさせた。
勝は交渉が成功しない場合は江戸を焼く計画であった。

勝は西郷隆盛と交渉した。場所は薩摩藩邸説と、先鋒隊がいた池上本門寺説がある。
結局、3つの条件で江戸城は開城された(68年5月)。その3つとは
 1.無血開城
 2.武器、艦船引渡
 3.慶喜に対する寛大な処分(隠居―水戸謹慎〔最後は静岡で写真屋の主だった〕)。

実は、西郷等も慶喜に対する処分は妥協した方がよいと考えていた。というのも、
本格的に旧幕軍と争うことになれば、内戦となり、英仏につけ込まれる可能性が
出てきたからである。

一方、これに不満をもった旧幕臣の一部は彰義隊を結成して、寛永寺に籠もった。
これに対して、新政府軍は5月15日、彰義隊を攻撃して勝利した。
7時に黒門(国立博物館脇に現存、弾痕がすごい)を攻撃し、
完全に制圧したのは17時であった。

よほど怨みが強かったのだろう。新政府はこの戦いで死亡した彰義隊の遺体を
片付けることを認めなかった(後に認め、西郷像裏に慰霊碑がある)。

B奥羽列藩同盟
続いて、仙台藩、米澤藩を中心に奥羽列藩同盟が組織された。
だが、これも9月に平定された。特に、抵抗の激しかった所が会津であった。
8月に婦女子が鶴ヶ城に立てこもり、抵抗を始めた。最終的には9月22日、藩主
松平容保の降伏で終わった。だが、この時の戦いを見た、白虎隊の志士は、
会津城が焼け落ちて、主君が死亡したと勘違いして自刃してしまった。

ところで、白虎は四神の一つで、朱雀、青竜、白虎、玄武の一つである。
方向を表す神であり、中央は黄龍となる。
方向ごとに色があるのは五行説から来ている。
江戸でもこの色で場所を表している例がある。
目黒、目白、目黄、目赤、目青不動がそれ。

C箱館五稜郭の戦い
ところで、榎本武揚等2000人の旧幕臣は、
江戸開城と共に、品川から船に乗り、函館五稜郭に移った。
五稜郭は「☆」型をした城で、攻めるのは難しいが、防禦には優れた形をしている。

ここに立てこもり、慶喜や旧幕臣を呼び、独立国を作る計画であった。
(実際に独立宣言をして、アメリカが承認する直前まで行っていた)
これに対して、新政府軍が攻撃をして、69年5月に完了した。

こうして、戊辰戦争は終わったが、多くの使者が出た戦争であった。
このときの死者数は日清戦争の死者数に匹敵する数であった。

Posted by hajimet at 19:29 | Comments (0)


倫理 20140617 ギリシア思想。神話と哲学
ギリシア思想

神話の世界から、思想が登場した。ギリシア、インド、中国など
ほぼ同じ時期に登場。ギリシア思想は今でもヨーロッパの人に影響を与えている。

@ギリシアとは
 気候:地中海性気候、
 地質:石灰岩(大理石)→農耕に不利。

だが、半島であるため、様々な人が集まってくる。

もともと古くからエーゲ文明が広がっているところだが、
3波にわたりギリシア人が南下した。

最初はBC 2000年頃。クレタ文明:クノッソスの宮殿の話など。
次はBC 16世紀頃ミケーネ文明ができた。
さらにBC 12世紀頃ドーリア人が南下して、鉄器を使用した

鉄器は青銅器に比べて固いため、これを持つと言うことは、
周りの民族を支配することが出来ることに繋がる。
古代ヤマト政権も鉄を手に入れる事に苦労した。

その後、なぜか紀元前8世紀に完璧なギリシア世界が出来上がる。
考古学的に「暗黒の時代」といわれるほど、その間は何が起きたか分からない。
即ち、ポリス(都市国家)が出来る。

ポリスは、城壁(城壁の中が国)を有し、アクロポリスに神殿を建て、
ポリスごとの神を祀る。オリンポスの神である。オリンポスの神は
最高神ゼウスの下にあつまり、競技をする=オリンピアの競技。
今もオリンピック聖火の採火はアテネのパルテノン宮殿の前で行われる。

中央にはアゴラを有す。その周囲に人が住むが、特にアテネでは
「対等な成年男子が」アゴラで言葉を使って議論し、ポリスの運命を決めた。
ポリスの運命は民衆の力(demos+kratia)によって決められる(democracy)。
だからポリスの運命を決めること=政治(politic)である。

この中から神話が成立する(ヘシオドス、ホメロス)。
また、神と人(不死と可死)の関係も関心が持たれ、ギリシア悲劇が登場した。
アクロポリスの下の劇場で、仮面(ペルソナ:ラテン語)をかぶり上演した。

しかし、ギリシアは耕地が狭い。
余剰人員は地中海沿岸に移住して植民市を築き(BC 8-6C)、そこで哲学が始まった。
つまり、他の民族と接触したことで、それまで当たり前のこととして
存在していた神話の世界に疑問を持ったのだ。
彼らはギリシア人の神話を持っていなかったからだ。

A神話と哲学
神話(mythos)と哲学は、根源や秩序を追求する点は共通している。
だが、神話は具体的なイメージを、象徴として表し(ex.クロノス)、
比喩によって出来事を説明していく。それは、民族内では共有される。

一方、哲学は「言葉(logos(とりあえず、理性))」を用いる。
そして、個人の言葉の力で伝えようとする。
言葉で伝えるから、明晰でなければならず、曖昧であってはならない。

mythosは「ごちゃごちゃ話す」という意味である。
logosは「集めたもの」「はっきり話す」という意味。
「ことば」で相手に伝えるから、「論理」が必要となり、
論理によって考えようとするには、「合理的思考」が必要となる。
そして、人は、そのようなLogosという「理性」を持つ。
このロゴスの考え方は、現在の欧米でも大きく影響を受けている。
cf.dialogue, catalog, ecology, psychology

アゴラで対話できるのも、
同じポリスの人間は、同じロゴスを共有する対等な存在だからであって、
だからこそ、徹底的に言葉で議論することになる。

これらのことから、哲学は議論を認めることになるため、「反証を許す」が、
神話は反証を許さないことになる。

「カオス」は「カオス」でしかない。そのまま認めるしかない。
「カオスは何か」と考え始めると、哲学になる。

B哲学という言葉
哲学はPhilein(愛する)とsophia(知、智)から来る。
知を愛するということ。いいかえれば、「知」そのものを「愛す」
ギリシアの人は実用生活に関係することから離れて、考えることを好んだ。
cf.Sophia University。

「哲学」は西周が作ったもの。「希哲学」「希賢学」から来る。
かしこきを、こいねがう」ということである。
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2014年6月16日
梅雨の中休み 20140615

千束流れにて。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2014年6月14日
日本史授業 20140613 小御所会議〜戊辰戦争(1)

小御所会議と公武合体派の動き
12月9日、王政復古の大号令が発表された夜、宮中で小御所会議が開かれた。
ここで、慶喜の処分が検討され、辞官・納地が決定された。
 
これに対して慶喜と公武合体派は反発し、京都から大坂に移り拠点とした。
そして、「政権は依然徳川にあり」と宣言していた。
・現在のシリアもそうだが、国内に政府が複数出来る場合、
 どの政府と交渉するかは他の国にとっては重要な問題になる場合がある。
 この場合、公武合体側が政権能力があると宣言していることになる。

一方、江戸の会津、桑名を中心とする幕臣もこの処分に怒りを高めていた。
西郷隆盛は江戸の薩摩藩邸(三田)に浪士を集め、彼らに焼き討ちなどをさせて
旧幕府側を挑発していた。
 
これに対して、1867年12月25日、庄内藩士らが薩摩藩邸を焼き討ちした。
焼き討ちの場から逃れた薩摩藩士は、東海道を下り、品川、馬場付近の民家に火をつけた。
 
この情報を大坂で聞いた慶喜は、周囲の勧めもあり、薩摩(新政府)征討を決意した。
1月2日のことである。新政府側から見れば、この瞬間に朝敵になったといえる。
 
戊辰戦争
@鳥羽伏見の戦い
1868年1月3日。朝廷は慶喜を征討することに決めた。旧幕府軍は大坂から京都に向かったが、
鳥羽と伏見で薩摩軍と衝突した(鳥羽伏見の戦い)。薩摩は1月4日に「錦の御旗」を手に入れ、
士気が上がっていた。
 
錦の御旗とは、赤い糸で錦織りした地に、金糸で月、星、菊を刺繍した旗で、
承久の乱のときに初めて使われたという。これを持っている方が正統であり、
持っていない方が「朝敵」を意味する旗である。
(岩倉や薩摩は事前に旗を作って準備していた)
 
新政府側4000人、旧幕府軍15000人で、
新政府軍の方が人数ははるかに少なかったが、
兵器の違いや士気の違いによって、旧幕府軍が敗退した。
 
これにより、様子を見ていた近畿以西の諸藩が新政府に協力するようになった。
諸外国は、新政府と幕府のどちらも支援しない中立の姿勢を示すようになった。
(新政府を国際法上の交戦団体と認めたことになる)
 
敗退した旧幕府軍は大坂に戻るが、
慶喜は1月6日、密かに兵庫から船に乗り、江戸に脱出する。
新政府からすれば、徳川を倒す口実が出来たことになる。
 
A江戸城開場
新政府は2月に江戸への進軍を決め、有栖川宮熾仁親王を大将に東征を開始した。
東山道、東海道、北陸道の三隊に別れ東進した。
このとき、錦の御旗を掲げ「宮さん、宮さん」を歌いながら東征した。
こうして、彼らは、江戸に近づいていった。
 

Posted by hajimet at 09:57 | Comments (0)


2014年6月13日
杉並総合 ハングルT 20140611 パッチム

ALTの都合と、特別授業のため、カリキュラムの順番を入れ替えてパッチムの発音
 
1 自己紹介
   その間に小テストの準備をしてもらう。
2 小テスト
   読み方のページ。読み、意味、書き(ハングル)。15問。30点満点
3 パッチムの練習
   響くパッチムと消えるパッチムがある。
   ALTに発音してもらう。カン、カン、カン、カル(音がある)。カッ、カッ、カッ(音がない)
   パッチム無しとありで発音してもらう。カー、カッt(何だか違う)
   こちらが口を隠して、갑갇각と発音する。ALTは違うと言うが、生徒は分からない。
 
まず、響くパッチムから。
 黒板に「パンにバターを塗ったパンガ好きだが、アンパンもすき。ダン」と書き、
それぞれの「ん」の口の形が違うことを確認してもらう。
そして、わざと「ン」を全部「ㄴ」「ㅁ」「ㅇ」で話して、違和感があることを感じてもらう。
日本語は、それぞれの形は自動的に決まるが、韓国語は使い分けをしなければならない。
 
では감から。これは瞬間的に口を閉じれば良い。カを発音してからやおら口を閉めるのでなく、
一気に。
 
ワザとALTに対して、キムチと発音して聞こえたように黒板に書いてもらう=「기무지」 
そうではなく、一気に「김치」。韓国料理店でこう言うと「出来るな””!」と思われる。
 
간。下を上に付けるのだが、英語のthの発音のように軽く舌を噛んだ方が簡単。
강。口を開けて、一気にングと言うように。どらえもんの「アン、アン、アン」がこれ。
  なるべく口を開ける。アングのつもり。
  
使い分けられるように。ソンセンニム=선생님、チャンナンガン=장난감
→聞き分けられなくて良い。発音するときに注意。
 
갈。英語の「l」よりも少し奥に舌をにゅっと当てる。
  上あごにそって舌を後ろに持っていくと急に天井が深くなるように感じる所がある。
  その辺に当てるように。
       둘→ㄹと言ったつもりで舌を外すと두루になってしまう。
   호놀룰루(ㄹ続きがやたら多い)
   물 좀 주세요.
 
消えるパッチム。ALTの口を見せながら。
갑。口を一気に閉じる。pと息を出さない。
   비빔밥=ビビンバ(비빙바)ではない。→韓国の食事は思い切ってませて良い。
                             チャヂャンミョンの交ぜ方。
갇。tというつもりで止める。
각。kというつもりで止める(これが消えるぱっつむの中では難しい)。
 ♪「おじいさんと一緒にチックタックチックタック」これを早く発音すると
   직닥직닥に近い発音になる(感覚だけつかませる)。
次回は連音化法則

 
 

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Posted by hajimet at 22:00 | Comments (0)


倫理 20140613 思想の源流(4) 神話の共通性、最高神

5.神話の共通性
 各民族はそれぞれ神話を持つ=共通点が多い。その理由は、
  @伝播
   卵生神話=東北アジア、竜宮伝説=太平洋地域に共通。
   ノアの箱舟伝説、エデンの園→メソポタミア神話より

  A人の心 人の心にそうさせる仕組みがあるのでは?
   Aについてユング
   精神病者の心理を分析しているうちに、彼らが神話に似た話をすることに注目。
   その話を知らないはずなのに、それに近い話をする。そこから、

   人は生まれながらの心理的な力と無意識を共有する(集合的無意識)
     外界の事象→元型(パターン)→認識。
       「原像」がイメージとして、夢や神話の形で出現する。
 
  ユングは意識の構造を次のように理解した。
          意識…自我→内向、外向
           ↑
          個人的無意識
           ↑
          集合的無意識 
 
ユングがそのように考えたわけではないが、
脳科学的にもパターンで認識することは分かってきている。
マルの中に二つの点があると、顔と認識する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
顔を認識する細胞がある(サルも)。
だから、このようなパターンのものを心霊写真と見間違えることもある。
錯覚も同様。平面が突然立体に見える場合がある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 言語も頭の中に全ての言語が理解出来るようなものを言語中枢に持っていて、
それが各言語に合うように、いらないところは削がれたりしていく。
生まれたばかりの子供は全ての「音声」を区別できるが(r.l)、6ヶ月後には
母語の「音素」になってしまう。
 
いずれにしても、共通しているものを持っているから、同じような話が出来上がる。
 
6.最高神

  呪術
   ↓
  自然神 氏族の神、土地の神(氏神) 
   ↓
  人格神へ(多神教)
   ↓
  最高神 ゼウス(地上)、ハデス(地下)、ポセイドン(海)(ヘシオドス「神統記」)
      アマテラス(古事記)

なぜ最高神が必要か。
 @神々をまとめるものが必要
 A神話が歴史的事実を反映している場合があるから。
   トロイア征服 =トロイの木馬
             ホメロス 「イリアス」(アキレス)
                   「オデュッセイア」 トロイ攻撃以降   
        cf.シュリーマン (人生の夢、13カ国語)

アテネとトロイのように、征服民族の神話に被征服民属の神話は吸収される。
日本神話も同様
   アマテラス神話+(出雲神話、日向神話)
    =勝利は最高神の功績。
      最高神の意思により民族を征服出来る=最高神が事物一切の上にある。
 
7.祭政一致
  事業、戦闘の勝利=神々の意思による
  政治(王):神霊と交換/祭儀主宰者(シャマン)→現実政治に適応
 

Posted by hajimet at 21:17 | Comments (0)


2014年6月10日
梅雨入り 20140605

駒場高校にて

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 21:14 | Comments (0)


日本史 20140609 「お蔭参り」と倒幕

Bお蔭参り
幕末の社会のエネルギーは、世直し一揆をお蔭参りに変えた。
もともと、旅行が自由に出来なかった江戸時代、
「寺社参り」と「抜け参り」は大目に見られていた。江戸庶民の一大娯楽であった。
彼らをガイドする本も出され、十返舎一九『東海道中膝栗毛』は代表的なものである。

cf.五右衛門風呂、弥次喜多道中。

87年、突然伊勢神宮のお札が降り、それがきっかけに一斉に人びとが踊り狂った。
   「ええじゃないか、よいじゃないか…」
 cf.外宮、内宮。
この狂乱状態は江戸から安芸国まで太平洋側に広がった。
背景は、社会不安と民衆エネルギーの合わさったもので、
末世の後の理想郷の出現を願ったもの。

 五穀豊穣と幸福を願う→伊勢信仰
 弥勒の下生を願う。

・倒幕
さて、66年7月家茂が死亡し、慶喜が十五代将軍となる。
一方、66年12月25日に孝明天皇が急死する。
討幕派による毒殺説も出るほどの急な死に方であった。

孝明天皇は親政、倒幕を希望していたが、
実際はそれまでの皇室の伝統を守ることと、和宮が江戸にいることで、
急激な革命には消極的であった。それゆえ、公武合体派が利用しやすかった。

孝明天皇の死去で、公武合体派は凋落してしまった。

新しい将軍に就任した徳川慶喜は幕権の伸張を図ろうとした。
フランスの後ろ盾を考えていた。だが、フランスはナポレオン三世後期に入り、
積極的な対外進出が困難な状況になっていた。
しかも、まもなくロッシュも帰任する。

一方、1867年1月1日即位した明治天皇は、
追放された公卿らを赦免した。彼らは京都に戻ったが、ここに岩倉具視や
討幕派の公家が参集した。

これに影響を受けた薩摩と長州は、薩長同盟を薩長攻守同盟に切り替えた。
西郷、大久保、岩倉らは明治天皇に武力による倒幕を上奏した。
1867年10月14日、ついに討幕の密勅が出された(原文読む)。
だが、これはうまく行かなかった。

というのも、同日、幕府側も「大政奉還」を申し入れたからである。
そのバックは、公武合体派であった土佐であった。
すでに坂本竜馬、後藤象二郎は「船中八策(資料を読む)」で、
五カ条のご誓文の原形に当たる案を発表していた。
この中には「万機宜シク公議ニ決スベキ事」という言葉がある。
 
これを受けて、藩主山内容堂は慶喜に大政奉還を建白していた。

これで行くときは、政治は朝廷の戻すが、万機議会で扱うことになり、
慶喜も政界に残ることが出来ると判断したからである
そして、事前に情報の入っていた宮中の動きに合わせて、
10月14日に大政奉還を申し入れた(原文読む)。

ここにも「従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ尽シ」として、
「同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ…」として公武合体で行くことを申し出た。

これによって薩摩、長州は名目がなくなってしまったが、彼らは幕府を無くすことでなく、
幕府の権力一切を無くすことを考えた。そこで、幕府側を挑発することとした。

1867年12月9日(新暦1868年1月3日)、王政復古の大号令が出された(原文読む)。
薩摩、土佐、芸州、尾張、備前によるクーデターであった。
これにより実権は岩倉具視が握った。
 
その内容は、慶喜の大政返上と将軍辞退と認め、「至当之公議ヲ竭シ」とした。
すなわち、それまで公武合体派が主張した内容が、討幕側に移ったと言える。

これによって、摂政、関白、幕府は廃止された。
すなわち、公家政治、武家政治は終わりを告げたのである。
そして、臨時政府として総裁(皇族)、議定(公家、諸侯)、参与(藩士、庶人)が
置かれた。
 
参与には大久保、西郷らが入り、各藩士による雄藩連合が成立した。
これも、文久政変以来、公武合体派が取ろうとした形態が、新政府側に取り込まれたと言える。

Posted by hajimet at 20:34 | Comments (0)


倫理 20140610 思想の源流(3) 日本神話、神話とは
日本神話の続き。再び、混沌のあとの流れを話す。
とくに、イザナギが黄泉の国に行き、イザナミに会った後の顛末と、
穢れた所から戻ってきたために禊ぎをした話を、清明心に結びつけて話した。

その後北欧神話。トネリコの木を取り巻く世界は九つに分類される。
最高位はヴァナヘイム。ヘイムはハイム。人間世界は中間でミットガルト。
ミットはミドル、ガルトはガーデン。

原初は裂け目ギンヌンガガプしかなかった。
その南に炎の巨人、ムスペルスヘイムと、北に氷の巨人、ニヴルヘイムができて、
熱気と霜がぶつかって滴が垂れた所に、巨人ユミルが誕生した。
続けて、牝牛アウズフムラが誕生し、
その乳を飲んで成長したユミルが神々を産み出した。
インドからヨーロッパにかけて、神話に牝牛が出てくるものは多い。

ギリシア神話では原初は混沌(カオス)であった。そこからビッグバン的に一気に
大地の神、ガイア、それより深奥の神タルタロス、愛の神エロスなどが生まれる。
神は擬人化されていて、人や半人半魚として描かれる。ゼウスの父、クロノスは
時間を擬人化したもの。

このように神話を眺めてみると、何となく共通点があるように思われる。
黄泉の国の話は、日本神話だけでなくギリシア神話にもある。
ヒルコの話は、ノアの箱舟伝説の仲間とされるなどである。
そもそも神話とは何なのか。

4.神話とは
人間は、事物の原因とか起源を求めようとするものである(ホモサピエンス)。
そこで、あらゆるものの根源を想像力でもって擬人化された神に求め、
「ことば(myth)」で説明しようとしたものが神話である。

一時的娯楽である「昔話」や、歴史的事実を元にして作られた「伝説」とは異なり、
あくまでも、「起源」を説明しようとしたもの。

すなわち、「理屈」でもって、説明をしようとしているものある。
起源に関心があるから、いずれにせよ起源神話の性格を持つが、
その起源は3つのものに分けられるとされる。

1).宇宙の起源―創造神、最高神、そして神々の物語。
2).人類の起源 宇宙の起源について触れていなくとも、
  人類の起源に触れないものは無い。

  巨人のふくらはぎ(シャカは右脇っ腹から)、卵、植物(竹取、桃太郎)、
  地中、天(天孫降臨、アマテラス=日本人全体が天孫降臨の神の子孫となる)
3).文化の起源。イザナミの黄泉の国の話(夜、灯りを点さない理由)。

しかし、本来は呪術の必要から作られたものである。
 アッカドの「虫歯の神話」を読む。これは天地創造神話、虫歯の原因、治療の
3段階からなっているが、これを治療の時に唱える。すると、効果があるというもの。
呪術と神話の中間的なものだ。

これにより、虫歯が治るのは、それまでの虫歯であった自分が死に、
新たに生まれ変わると言うこと。すなわち擬死体験、再生からなる。
元服などの通過儀礼が同様の構造を取るが、実は儀式の多くにこれが見られる。

新年のお祝いは、それまでの神が死に、新しい神が生まれ、新しい秩序が
生じることを祝う儀式である。

ところで、なぜ、神話がよく似るのか。次の時間は別の面から光を当ててみたい。

Posted by hajimet at 20:29 | Comments (0)


2014年6月7日
日本史 20140606(2) 幕末の文化(1)
幕末の文化
幕末は開国の影響を受けて社会不安に陥っていた。そのため特異な状況が現れた。


@世直し一揆
開国後の経済変動と物価騰貴は農村を窮乏に陥れた。
一方で幕藩体制の動揺によって、一揆は政治的色彩を帯びるようになった。
すなわち、単なる年貢の減免ではなく、年貢自体の廃止を訴えたり、
村の役人の更迭を求めるようなものとなった。

これらは体制が安定したら、攻撃の対象とは出来ないことである。

このような『世直し一揆』が頻発した。ピークは1866年であった。
この年の物価上昇率が大きかったからで、
農村のみならず、江戸でも打ち壊しが起きた。

A民衆宗教(新興宗教ブーム)
一般に社会不安に陥ったとき、新興宗教ブームが起きる。
社会が安定しているときは、
自分の不安などを既存の宗教が吸収することができるが、
社会の変動が大きいと、既存の宗教では不安を吸収することが出来なくなる。
そこで、混乱後の希望、理想社会の修験を願って新興宗教が登場する。

鎌倉時代の新仏教もそうだが、幕末以来でも4回新興宗教ブームが起きている。
1回目は幕末、2回目は大正末から昭和初、3回目は終戦直後。「踊る宗教」など。
4回目は1980年代から現在まで。オウム真理教もこの一つ。
悲惨な事件をおこしているが、
そういう教団が一定の受け皿の役割をしてしまったということでもある。

幕末は、混乱状況を世界の終焉ととらえ、理想世界の出現を願う風潮が強かった。
こういうときに、教祖が神がかりによって起こした宗教が民衆宗教である。
すなわち、神の声を民に伝える役割をしているシャマン的要素を持っている。
(日本では、いたこ、ユタがこれにあたるし、神道も原形はこれ。
 また、新興宗教にシャマン的要素が認められるものが多い。)

多くの教祖が、本来は勤勉実直なのだが、あるとき病気のような体験をする。
その後神秘体験をへて教祖となっている。

幕末は神道系の民衆宗教と共に、弥勒下生信仰が登場した。
(弥勒信仰は日本では殆ど登場しない)

cf.弥勒下生信仰
弥勒はシャカの次にブッダになることを約束されている菩薩。
56億7千万年後に悟りを開くために、浄土で瞑想している。
その弥勒が悟りを開くと、
この世に下生して、その説法により衆生を悟らせるというもの。

その悟りを開くのがいつか…「今だ」として弥勒の下生を願う信仰。

では、このような思想の流れに基づいて誕生した宗教は何か。
@黒住教(備前 黒住宗忠)アマテラスと自分が一体となる神秘体験。
     「病気直し」を行う。
     信者が岡山から京都まで広がる。
     アマテラスが皇祖神であることから、
     宗忠を祀った京都宗忠神社は尊王攘夷運藤の拠点となる。
A天理教(大和 中山みき)世界を助ける「てんりんわう」が降りて吉良枯れる。
     安産と病気直し/陽気ぐらし
B金光教(備中 赤沢文治)
C丸山教(武蔵橘樹郡 伊藤六兵衛)
Posted by hajimet at 10:36 | Comments (0)


日本史 20140605(1) 倒幕への動き
倒幕への動き
このようにイギリスと薩摩、フランスと幕府という接近構造が出来た段階で
新たな動きが長州で出てきた。

長州は第1次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件に敗北したことで、
攘夷が不可能だと言うことを悟っていた。一方、幕府は長州に対して、
貿易を禁じる処置を執った。

長州藩は保守派が権力を握り、幕府に恭順の意を示していた。
これに反発して高杉晋作は北九州に亡命して、桂小五郎と奇兵隊を組織した。

高杉晋作は松下村塾四天王と呼ばれた人物である。
松下村塾は長州の私塾で、吉田松陰が教鞭をとったこともある。
攘夷派や明治初期に活躍することを多く排出したことで知られる。

高杉は幕府の派遣で上海に行ったことがある。この頃の上海は太平天国の乱の
混乱と、英仏人が「我が物顔」に闊歩している時代だった。それを見た高杉は、
将来の日本も同じことになると「危機感」を感じていた。奇兵隊を作ったのも、
このような危機感が背景にある。

奇兵隊は64年12月馬関で挙兵し、長州の実権を握った。
この時、伊藤博文も一緒に活動している。

長州は急進派の支配するところとなった。
開国は避けられず、皇国を作ろうというもので、
そのために、藩政改革、身分制度廃止、西洋式軍隊の導入などが図られ、
イギリスに接近した。

だが、この時点ではまだ貿易が認められていない。
しかし、武器を入手する必要がある。

ところで、このとき薩摩はイギリスと接近して近代化の道を歩んでいた。
ただ、幕府を支える立場で、長州とは敵対していた。
しかし、イギリスと結んでいること、開国の必要性を感じていることなど、
幕府よりは、むしろ長州との理解関係の方が共通点が多かった。

そこで、土佐の仲介で両者が同盟を結ぶこととなった。薩長同盟である。
66年1月、薩摩から西郷、大久保。長州から木戸孝允、高杉が出席し、
それを土佐の坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介した。

その結果、幕府が長州を攻撃しても、薩摩は長州を支援すること
武器は薩摩の名義で購入し、長州に回すことを決めた。

もちろん、公式には薩摩は幕府側であるから、密約である。

武器は「死の商人」グラバーの活躍が大きかった。
 cf.1 グラバー園、蝶々夫人
 cf.2 薩摩の兵制改革:吹奏楽、最初の君が代。

ところで、幕府は第一次長州征討の結果として、長州の領地割譲を要求した。
しかし、長州はその要求に従わなかった。

そこで、66年6月、第二次長州征討を指示した。
しかし、薩摩はじめ諸藩の不服従で幕府は劣勢に陥った。
結局66年7月、大坂に滞在していた家茂の死去を奇貨として、服喪、休戦となった。

幕府の敗因は旧式兵備と寄せ集めと言うことにあった。
長州は新式欧米的兵備と早い時期からの訓練、郷土愛による士気の高さがあった。
Posted by hajimet at 10:05 | Comments (0)


日比谷ハングル 20140606 歌詞を読んでみよう

I LOVE YOU(POSITION)の歌詞を読む。
ともかく、「読めてしまう」ということを実感してもらうことが表の目的。
 
教科書などを使って、読み方を調べてカタカナで記入させる。
それを、全体が見ることの出来る用紙に書き写し、
実際に歌を聞いて調べたものが合っているかを確認するというもの。
 
本来は黒板に書かせるのだが、改築中の仮校舎で、黒板が小さいため、
拡大コピーした紙を全員に見えるようにして、そこに書いてもらった。
 
担当は一人1行。3回ないし4回当たる。
全体像は、このようになる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大きく3つに区別されるが、1回目は間違えが多い。
多くはハングルの読み違いに起因するものだが、
鼻音化のように教えていないことに起因することもある。
定着までは目指さないが、「知識として」このような現象があることを知ってもらう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2回目。かなり読めるようになってきた。一部連音化の過剰に反応したケースがあったが、
ここで解決。ここで激音化が出てくる。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3回目。読み間違いもかなり減る。
오랜 후에서야のところで、ウとオが繋がってしまい、オが殆ど聞こえないという意見がでたので、日本語と韓国語の拍の感じ方の違い(モーラをと言う言葉を使わずに)を説明。
 
また、약속 하나만 해요は、実際の歌では[약소카나마네요]という発音になっているのだが、
単語ごとに切って読んでもOKとした。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最後。1行を3分割して、読んでもらった。間違いはまったくなし。

 
 
 
 
 
 
 
ともかく読めることは、分かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 09:23 | Comments (0)


2014年6月5日
倫理 20140605 思想の源流(2) 神道と日本神話

前回、アニミズムからシャマニズムまで話をした。そこで
 
2.日本の宗教観の原点。
            
稲作   渡来人
                              ↓   ↓
縄文(アニミズム)→弥生→|古代→仏教。
                   |      
             基層文化          |
 
古代に入る前までを基層文化という。

アニミズム+稲作(農耕)で神道の原形が出来る。
この中で自然現象を神として崇める。
弥生時代の祭祀遺跡、古墳時代の遺跡などが神社となっているケースが多い。
 
      例)伊勢神宮外宮(高倉山、高倉古墳)、
        宗像大社(沖ノ鳥島)、
        出雲大社(境内に弥生時代の祭祀遺跡)など。
 
「神」は「祟る神」であり、祟らないように祭り上げる。
 だから、御神輿を振ったり、ひっくり返したり、酷いものは壊したり、たたきつけたりする。
 神に思い知ってもらい、「祟らないように」お願いする。
そのために、
    ・神を依り代(磐座など)に呼び寄せ、
    ・まつり、
    ・帰す
 
このように祟らないように祭り上げることが、まつりごと(政治)であり、
その目的は民の幸せを祈ることになる。
 
このような神は周囲にいる。(だから磐座に「呼び寄せる」。下ろすのではない)
キリスト教の神のように天にいるものでも、
地獄のように地中にあるものでもない。
死んだら神となる人も(人が神になるのはかなり後のことではあるが…授業では割愛)、
周囲にいるから、家に仏壇をおいて祀るし、祀る対象もせいぜい自分の知っている範囲である。
 
古墳もそうで、本来は墳丘の上部に竪穴で埋葬する。
周囲の人からは「そばにいる者」として見えるし、
「死んだ者」も墳丘の上からクニを見渡すことが出来る
  (だから古墳は登るものである)。
 
このような祭り方は、現在の生活で祟られないことを願うから、
現世利益」を求めることとなる。
 
また、「たたられ」さえしなければ、幸せに暮らせるのだから、
楽観的」なことが日本の基層文化になる。
 
3.日本神話 
このような神のことを語ったものが日本神話。
古事記のことであるが、
これは天皇の正統性を基礎づけるために、色々な神話を再編成したもの。
 
神話の最初は混沌から始まり高天原と地上に別れる。
高天原と地上が離れて神が自由に行き来できなかった頃、
イザナギとイザナミが神の降りられるところを作ろうとした。
 
鵲の橋を降りてきて、戈を海に射してかき回し、引き上げた後の
滴がたまったところがオノコロ島。
 
その後イザナミから「アナニヤシエ」といって儀式をして子供を産んだら、
ヒルコだったので船に乗せて流してしまった。

イザナギが順番が違うといって、イザナギから「アナニヤシエ」と言って
正常な神が生まれた。これによって本州、四国、九州などの大八洲ができた。
壱岐、対馬は波のアワが固まったものである。
 
だが、イザナミは生まれきた火之神に焼かれて死んでしまった。
イザナミは黄泉の国に行く。イザナギは会いに行ったが、会ってくれない。
すでに死亡後か成り立った体の状態になっていた。
それをイザナギが見てしまい、イザナミがイザナギを追いかける事態となる。
最終的に黄泉の国と、現在の国の間に杭が打たれ、今の世界と黄泉の国が別れる。
 
会いに行ったイザナギは黄泉から帰り(甦り)、
イザナギは体が穢れたとして、禊ぎをした。
日本人は清明心が基層文化にあり、穢れを禊ぎですすぐ習慣がある。
(神社の手水鉢)。

イザナギもそうしたが、そのとき色々な神が生まれた。
そして、イザナギが左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、
鼻を洗うとスサノオが生まれた。
 
天岩戸の話(日本史最初の引きこもりの話???)。
スサノオが出雲に降りる。これは新羅に降りてから出雲に来たという説もあって、
渡来の神とされることもある。
 
渡来人が作った神社である京都祇園の八坂神社も祭神はスサノオ。
 
アマテラスの孫のニニギノミコトも高千穂のクジフルの峰に降りてくる。
これが神武天皇の先祖と言うことになっている。
ちなみに、スサノオの話は出雲神話から古事記に入ったものであった。
また、アマテラスも対馬、ツクヨミも壱岐の神が取り込まれたもの
(どっちも記紀でほのめかしている)である。
 
それでは、神話に共通したものは何か。
それは次回(日本神話の話の中で、かなり伏線を張ってあります)。
 
              |・イザナミ→黄泉
 混沌→高天原→|                   ↑          
       |     |         ×
       |    |イザナギ―――みそぎ(清明心)――
           |                |                        |・左目:アマテラス→ニニギ(高千穂)→神武天皇
             |                ↓                          |・右目:ツクヨミ
       大地 ―――オノコロ島―――    |・鼻:スサノオ(出雲 or 新羅) 
               大八州

Posted by hajimet at 20:16 | Comments (0)


ハングル 杉並総合 201405604 濃音

ハングルT
今回から、인어나, 자렷, 경례, 앉아を導入。
いつものようにALTとの挨拶から。前回のサバイバル挨拶からも聞いてもらう。
その後、。教科書14ページ、15ページの単語。本来ならじっくり読ませるが、
交流事業などで、遅れているので、ある程度読ませて、ALTに発音してもらう。
次回ここを使って単語テスト。
 
いくつかの単語については説明を加える。
고기→불 고기(火、肉だから焼き肉)。
누나:弟から姉に。妹から姉は언니。
ただし、血縁関係だけでなく、親しい年上の人を呼ぶときも使う。
다리:橋と脚。
나라:かなり高い確率で奈良の語源と考えられている。
    奈良を作った頃の韓国新羅の首都慶州と景観が似ている。
고추:고추장。장は「醤」。
커피:코피(鼻血)としないこと。비(Rain)は、かけ声聞いて気持ち悪いだろう。
    そして「釜山港へ帰れ」の出だし、「꽃피는 동백섬에」は、気持ち良く力入れて歌うと
    「코피는 동백섬에」となって、大変おぞましい事態になる(受ける)。
기타は織田裕二風に。코はエドはるみ風に。
 
2時間目は저고리 の説明と、수저の使い方(口はきれい、手は汚い=裏箸はしない),
♪나비야 니비야 이리날아 오노라の練習から。
 
ついで、民族衣装の話題から、韓国の氏に脱線。
 
同じ本貫同士の結婚はタブー。
始祖が一緒なら原則として結婚できない(2000年前に遡ることがある)。
何代目かは漢字を見ると分かる。20代先まで決まっている。そして族譜に乗っている。
(日本は3親等(3等親ではない)なら結婚できる。従兄から…ALTから、驚いた顔:たいていの
韓国人は息を吞む。結婚できないどころか、ものすごく近い関係に感じるから)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20分以上この話をした後、濃音の練習。
「濃音がきれいに出来ると、韓国語がきれいに聞こえる。コツがある」といって練習。
「うっかり」「まったり(やったー)」、「かっぱ(「やっぱり」よりやりやすいようだ)」「まっちゃ」
「あっさり」を使う。
 
それぞれ「っ」の時の舌の位置や口の形を確認させる。
「うっっっっっっっかり」のように促音の時間を長くして、十分意識させる。
そのときに、「止めている部分」に力を入れるように指示。
ある程度出来てきたら、「っっっっっかり」「っかり」「っか」のように促音の部分を
短くしていく。そして、「까」と言わせたら、ティッシュで確認させる。
 
かなりの確率できれいに音は出せるようになる。
また、「抹茶」からは、コツがつかめた生徒は、どんどん先に練習するようになった。
さっさ(これも、実際の発音は싸싸となることが多いですね)と練習してお終い。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ハングルUは韓国の結婚式場での話などがメイン。新郎新婦の座り位置が日本と逆とか、
終わった後でソルロンタンを食べる。ペベク。新郎の受難など。また、結納やトルジャンチも。
 
その後教科書第6課を駆け足で練習した。
 

Posted by hajimet at 19:41 | Comments (0)


2014年6月3日
倫理 20140603 思想導入。人類思想の起源
人類の思想の起源

地球のこれまでを365日にすると、人類の誕生は12月31日22時頃。
農耕生活開始は23時59分45秒になる。
この一瞬の中で思想が出来上がった
(アメーバーの分裂周期やミジンコの一生と変わらないと言ったら、シミジミとそれよりも短いんだ…生徒は語る)

文明の発生はエジプト、メソポタミア。それぞれナイル川、
チグリス川、ユーフラテス川が流れていて、農耕が発達した。
(メソポタミアは潅漑のしすぎで塩害がおき、砂漠化した)。

ノアの箱舟、エデンの園伝説はメソポタミア起源。

こういうところで技術が発達した。
(エジプトはパピルス、石などに記録が残るのに対して、
メソポタミアは日干し煉瓦のため、記録が残りにくい)

ナイル川は定期的に溢れるために(上流がAw気候)、
その後の処理などで測地術、算数(10進法、メソポタミアは60進法)暦法、
占星術が発達し、ついにはピラミッドができた。

しかし、これはあくまでも技術であって学問ではない
(技術と学問が結びつくのは近代に入ってから)

技術は漆職人の職人芸のように誰でも出来るものではないし、
真似は出来たとしても、職人のようなわけにはいかない。
要するに職人技の世界。

学問は普遍的な原則を言葉で説明し、だれにでも理解できるもの。
(○○細胞があるなら、誰でも書かれている方法で作り出せなければ行けない)。

・信仰
このような技術と共に、信仰が発生した。

  呪術
最初の段階は呪術であった。
事物の全てを霊に依存する
(幽霊ではない。人の形をした幽霊はかなり後のもの…見たことはある…)。
学問のように観察と経験を通じて精緻に原則を突き止める藻のではなく、
漠然と「霊」のせいにしている。
(だから特に理系は大学院に行く必要がある。そこで論文の書き方も学ぶもの)。

今でも、キツネツキや死者の復活儀式は呪術の流れを汲む。

   原始信仰(原始宗教)
つづいて原始信仰の段階になる。
何となく霊がいるのではなく、精霊と多神教からなるアニミズムが成立し、
祀るようになる。そこでは

 ・自然崇拝:河川(ガンジス川)、山(富士山、神奈備)、
       樹木(神木)、岩(磐座)、動物(奈良の鹿)
        神社の後ろに形の良い山があることがある。
        これは信仰の対象で神奈備という。本来山自体が神であったが、
        のちに祀る場所が降りてきて、神社になっているケースが多い。
        そのような場合、山の中に奥の院があり、磐座があったり、
        ご神木、樹林があることがある。

 ・生殖崇拝…神社や祠などに、その関係の物体が奉納されていることがある。

 これらによって、現世利益(豊穣多産、病気平癒)を求める。

神社で「入学祈願」「病気平癒」を祈る人は多く見かけるが、
「死後の安息」を願っている人をみることはあまりない。

さらに、巫女が精霊と交流し、神託などをつたえるようなシャーマニズムがある。
イタコとかユタがこれ。(劇団四季のユタ。ひょっとして、このイメージも
バックにあるのではないか?。特別な体験の後、霊との交流ができるようになり、
人格が変わっていく…シャーマンのパターンそのままなのだが)。

また、大分変化してしまったが、神道もこれ。
次回は、神道の神の原形から。
Posted by hajimet at 21:01 | Comments (0)


日本史 20140602
・第一次長州征討
幕府は威厳を回復するために、朝敵となった長州の征討を行った。
一方英米仏蘭は5月10日の攘夷の反撃の機会を狙って、
この機会に下関を砲撃して、下関砲台を占領した。
長州に攘夷は無意味であると言うことを思い知らせようとしたのである。
ただ、幕府軍側と戦闘にならないように、四カ国側は幕府に事前に連絡している。

結局長州は一時的に保守派が勢力を握り、蛤御門の変の責任者を処罰して、
全面降伏した。
しかし、賠償金を支払うことはしなかった。
攘夷は幕府の命令によるという理屈である。幕府は300万ドル負担することになった。

同じ頃薩摩でも動きがあった。1863年、薩摩の島津久光が江戸を退去するとき、
生麦事件が起きた。イギリスは幕府と薩摩に対して首謀者の処罰と賠償を求めた。
これに幕府は応じたものの、薩摩は応じなかった。そこでイギリス艦隊7隻が
鹿児島湾を攻撃した。薩英戦争である。これに薩摩軍は激しく応じ、
イギリスは、目指した鹿児島上陸を果たせなかった。結局勝敗不明のまま、
講和条約を結んだが、これにより薩摩は攘夷が不可能なことを悟ることとなった。
 cf.錦江湾沿いの薩摩軍の墓地

・条約勅許、改税約書
その後、四カ国の公使はは兵庫沖に軍艦を派遣し、
幕府に対して、賠償金減免と共に、条約勅許と兵庫開港(1868年予定)を求めた。
ちょうど将軍も長州征討のために大坂にいたため、
朝廷と幕府双方に圧力を加えることが出来た。

四カ国は、井伊直弼が独断で条約を承認したときと情勢が変わって、
仮の統治者である「タイクン」でなく、
実質的統治者の「ミカド」の勅許がなければ、条約を安定して運用できないと
考えたのだ。

これについて、1866年(慶応元年)10月に御前会議が開かれた。
御前会議は、近代史では初めて登場するが、
それだけ朝廷の力が強くなったことを示している。

これによって、兵庫以外の開国、開市を許可した。
違約条約はここで正式な条約になったとも言える。

兵庫は大坂、京都に近く、
極度の外国人嫌いだった孝明天皇は開港させたくなかったのだ。

兵庫開港の勅許は1867年6月のことであったが、
このときは既に明治天皇と慶喜の時代になっていた。

続いて1866年改税約書の締結を迫られる。
日米修好通商条約は締結5年以降関税率の改定を認めているが、
条約の勅許とともに、ようやく改定が可能になったとも言える。

この改定は、イギリス公使、パークスが中心になって行われたが、
パークスは日本を下に見る傾向の強い人だった。

そこに兵庫不開港を認める代わりに、清国と同じ方式での改定を要求したのだ。
その内容は、輸入関税を一律5割(それまでは0〜35%)として、
従価税でなく従量税を採用した(現在、自動車重量税や酒税が従量税)。


これによって自由貿易が促進されたが、
資本主義は基本的に弱肉強食の世界である。
日本に安価な製品が大量に流入することに反して、産業界は大打撃を被った。

現在でも、TPP交渉が行われているが、同じような問題が起こりうる。
現在特に問題になっていものはブタであるが、ブタ産業が成り立たなくなる可能性がある。

かつては、牛、レモン、紅茶、バナナなどが問題となったが、
牛はブランド牛化することで対応した。

さらに従量税のため、高価な商品ほど利潤が大きかった。
これらを通じて外向の主導権は朝廷に移っていた(事実上の明治維新の始まり)。

・英仏と薩摩、幕府

このような流れの中で、イギリスは幕府を見限り、
安定した市場を求め、条約を履行できる強固な新政権の成立を期待し始めた。

薩摩も文久改革後の薩摩と幕府の確執と
(国学VS水戸学:大老の会議は64年に開かれなくなる)、
薩英戦争の結果、開国論に移り、イギリスと接触し始めた。

同時に西郷隆盛、大久保利通若手改革派の下級武士が藩の実権を握った。
薩摩はイギリスに留学生を送るなどするほか、近代工場を造るようになった。
パークスも薩摩を訪れている。

これに対抗した国がフランスである。
ナポレオン三世の時代で、イギリスに対抗して拡張政策をとっていた。
フランスは横須賀製鉄所の建設についての契約書を幕府と交わした。
仏蘭西公使ロッシュの働きかけで、
病気によって壊滅的打撃を受けているフランス養蚕界のために、
蚕卵紙や生糸をフランスに売り、その売り上げを製鉄所建築に回すこととした。
幕府からすれば、貿易を独占することが出来るので、利害関係が一致したのである。

こうして、
イギリス、フランスの対立を背景に、事態は急速に倒幕に向かうのである。
Posted by hajimet at 20:16 | Comments (0)


2014年6月1日
講演「各地に残る日韓の歴史」 20140531 葛飾シンフォニックヒルズ(韓国大使館主催)
5月31日、葛飾シンフォニックヒルズの会議室で2時30分より講演。
題は「各地に残る日韓交流の歴史」。内容は大きく5編に分けた。

資料はこちら

導入の後、
1.日韓は近い
釜山から対馬は見える。あまり当たり前に見えていて
「対馬が見えることが分かるけれども、あれは対馬でないね。韓国の島だね」
という人に会ったことがある。

対馬の人は、対馬に来るならパスポートを持って釜山経由で来た方が好いという。
戦前は急病には釜山に運んでいたし、対馬の最も人気のあった就職先は
朝鮮鉄道であった。壱岐、九州は互いに見える距離。
漂流民など流れ着く人も多く、江戸時代にハングルで書かれた掛け軸が残っている。
実は関東が、韓国からは最も遠い場所なのである(北海道を除く)。

2.韓国の倭系遺跡
韓国にも倭系古墳、前方後円墳がある。
ヤマト政権は鉄を求めて韓国と関係を持った。
その関係で、5世紀くらいのものが中心である。

また、倭系の横穴墓もある。東城王は王になるとき九州から筑紫の兵に守られて
現在の公州に入っている。そのような人たちの墓だと考えられている。
また、共通の漁具が出てきたり、弥生時代の交易センターとして、勒島がある。
ここは弥生土器だらけの島である。

3.北九州
交易の拠点であった。まずは糸島。
魏志倭人伝に対馬―壱岐―松浦―伊都―奴のルートがでているが、その伊都国。
伽耶山を目印に来たと考えられる。5世紀前後から博多湾全体で交易が始まり、
その拠点も西新町遺跡に移った。ここには韓国人居住の跡などがある。

一方でヤマト政権側も最前線として宗像大社を祀るし、
百済復興などにからんで朝倉の宮、それと前後して水城などが形成される。
元寇の防塁、名護屋城もあるが、三浦との縁から釜山会高徳寺という寺もある。

4.関西
古来伎人(広隆寺、八坂神社)、
今来伎人(伝王仁墓、オミアシ神社、辛科神社、穴太遺跡)、
百済王にからむもの(百済駅、杭全神社、石塔寺、百済王神社など)が残っている。

八坂神社はスサノオを祀るが、渡来系の神でソシモリに降りたとされる。
ところで、百済王神社の額には牛頭天王と書かれている。
牛=ソ、頭=モリ。牛頭天王信仰と習合したか。

それ以外にも栗東狛坂廃寺磨崖仏のように、新羅人に関係する遺跡もある。
敦賀方面から琵琶湖沿いに入ってきた可能性もある。

継体天皇との関係も議論としてはある。
百済王氏が最初に配された難波の津付近に、鶴橋がある。

5.関東

直接渡来人が来たと言うよりも、再配置された人びとの根拠地。
多胡郡、高麗郡、新羅郡(新座、志木)がそれ。

一方信濃、甲斐から静岡、愛知にかけて積石塚が分布する。
高句麗系の可能性が強い。

その後、江戸時代には通信使が来るなどで、
知識として韓国のことが入ってきている。

千葉にはハングルで彫られた石碑が残っている。
(初期のハングルで彫られた当時のものは、日韓含めててここにしかない)

平田篤胤の影響の神代文字もある。
これはハングルの知識があると、なぜか読めてしまうもの。
その後、明治の交流や、現在まで続く関係がある。

こういう関係がある中で、お互いにどう付き合っていくか。
エスノセントリズムではだめで、文科相対主義で行くべき。

ところで、「理解」しようというが、
「理解」するということは、何を「理解」するのか。
まず、「違う」ということを理解すること。古来日韓のつきあいを書いたものを
読んでも、どの時代も今と変わらない、双方の違いを指摘している。

結局、両方とも変わっていない。基礎の時代、古代まで遡っても
日韓は基本的思想、神に関する考え方がまったく違う。

人は社会の中で生きるから、違う発想を身につければ、それで行動する。
日韓は顔があまりにもよく似ているため、同じ発想をすると思い込む。
しかし、違うことを前提に付き合っていかないと、行き違いばかり起こる。

これで終わり。
Posted by hajimet at 19:49 | Comments (0)


日比谷高校ハングル 20140530 連音化
導入
パッチムの発音の復習

展開
連音化の練習。
この部分は「チャレンジ韓国語」は弱いので、「好きやねんハングル」を主に使う。

韓国語は音が繋がっていく傾向がある。
フランス語でも似た現象があるし、英語でも意識していないがこの現象がある。
Get upはゲラップ、What time is it now?は「掘った芋いじるな」。

ローマ字と、ハングルの両方を用いて説明。

지짐이(chi・jim・i=chijimi、지짐이のㅇ部分(空き)にㅁが移っていき、
[지지미]となる。

練習問題を扱う。ついでㅇㅇどうしの連音化。「ng」にあたる発音記号で繋がる。
영어=yo[ng]o

남자 친구 있어요?(本当のことをい言う必要はない)などと聞いていく。

続いて、チャレンジ韓国語の食べ物の名前の所を読み、説明する。

 불고기:牛丼の韓国風具
 김치:何百種類もある。
 냉면:물냉면, 비빔냉면, 회냉면
 参鶏湯:生後1ヶ月の鶏を使い、餅米、ナツメ、ニンニク、栗、高麗人参などが
     入る、一種の鶏のかゆ。三伏に食べる。伏から犬も食べる
    (嫌な顔をしていた)。
 닭갈비(둘받침の読み方をここで学ぶ)。「ところで、カルビってどこだ?」
    「医者に行ってカルビのレントゲンを撮ると韓国語では言うのだが」
    (骨付きカルビって、本来誤用)。
 미역국:産後の肥立ちと母乳の出が良くなるように、箸が立つほどわかめが入った
     スープを飲み続ける。その苦労を忍んで誕生日はわかめスープ。
 삼겹살:三枚肉を三段バラということがあるが、これは完全な間違い。
 소주:ビールより多く吞む。一人酒は基本的にしないので、2人以上で吞む。
    ところで、専用の盃で7杯継げるように作られている。だから、必ず
    二本以上注文ということになる。
 팥빙수:かき氷だが、直訳すると「小豆氷り」。餡子、果物(トマトも果物)、
     寒天を干したようなものが乗る。これをかき混ぜて食べる。

→韓国食は混ぜて食べることが多い。ものすごいものを混ぜ合わせたシーンを見たこともある。。

(まとめ)
次回の予告。
Posted by hajimet at 08:17 | Comments (0)