2014年7月29日 |
ソウル・九州旅行 7日目 20140726 姫島-国東半島-大分空港 |
最終日。大帯八幡神社参拝。末社が多く独特な形をしている。また、中門があったり、本殿を塀で囲むことなど仏教寺院の影響が見られる。神社は八幡作り。 |
Posted by hajimet at 14:14
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ソウル・九州紀行 6日目(2) 20140725 宇佐-豊後高田-姫島 |
昼食後、県立歴史博物館を見学。その後風土記の丘に行き、福勝寺古墳、免ヶ平古墳を見る。 |
Posted by hajimet at 12:55
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ソウル・九州紀行 6日目(1) 20140725 宇佐神宮 |
まず、宇佐神宮の元宮、大元神社に行く。参拝用道路もあるが、ものすごい悪路。途中からは舗装もなくなる。補修が追いつかないとのことだ。 |
Posted by hajimet at 10:24
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ソウル・九州紀行 4日目(2) 20140724 英彦山-求菩提山-中津-宇佐 |
昼食後、まず高住神社に寄る。ここも豊前坊という僧坊の跡。天狗信仰のある神社で、本殿の後ろは切り立った崖である。本殿も崖の洞窟の中に築かれている。扁額は高住神社ではなく、「豊前坊」。 |
Posted by hajimet at 09:08
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ソウル・九州紀行 5日目(1) 20140724 英彦山 |
午前中は英彦山。古代からの山岳信仰と新羅仏教が習合し、修験の山になっていったところ。開基伝承も韓国の壇君神話によく似ている。新羅仏教は道教文化とも強く習合しているので、道教も流れ込んでいる。修験道の要素に道教的なものが多く見られ、修験道=日本の道教と指摘する人がいるくらいである。また、修験道は日本の中では珍しく弥勒信仰が行われる場所でもある。 |
Posted by hajimet at 07:12
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2014年7月28日 |
ソウル・九州紀行 4日目(2) 香春-英彦山 |
香春に入る。石灰岩のビュート地形。小倉-田川断層によって、同じ石灰岩地形の平尾台と切り離されてしまった。石灰岩の地域に花崗岩が陥入したことからスカルンと呼ばれる地質構造が出来、そこに銅をはじめとした、様々な鉱物が蓄積された。採銅をするために、技術を持った新羅系渡来人が多く住んだ地域で、3つ岳のある香春岳の一之岳は「新羅神」を祀ると書かれている。現在の神の名前は「辛国息長大姫大自命」。 |
Posted by hajimet at 21:04
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ソウル・九州旅行 4日目(1) 20140723 博多-飯塚 |
旅行4日目。職場の先輩と合流して新羅神の道をたどる旅を始める。 |
Posted by hajimet at 20:29
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ソウル・九州紀行 3日目 20140722 ソウル・福岡 |
3日目朝。韓国人の教え子と会い、明洞まで散策。その後、南大門市場、ロッテ百貨店にお土産を買いに行く。明洞を通ってホテルに戻る。 |
Posted by hajimet at 14:57
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ソウル・九州旅行 2日目 20140721 ソウル |
朝、F氏と合流。昼近くまで市内をぶらつく。 |
Posted by hajimet at 14:28
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ソウル・九州紀行 第1日目 20140720 ソウル |
朝8時30分のJAL便でソウルへ。 |
Posted by hajimet at 14:04
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2014年7月18日 |
日本史 20140714 殖産興業 |
殖産興業 政府は、産業育成策にも手を着けた。 時代は帝国主義の時代である。資本主義経済は、利潤を得る経済活動を行う中で、経済を発展させていく経済体制であるが、「カネ」だけで競争するために、競争に負けると這い上がれない弱肉強食の世界でもある。1870年代以降、列強諸国は自国製品の市場を海外に求めてアジア、アフリカを分割していた。 日本も国外から安価な製品が多く流入した。しかも一律低関税であるから、国内産業を保護することが出来なかった。通常は弱い産業については高関税にして産業を保護するのだが(現在のコメがその代表的なもの)、改税約書以来の税率のため、それが不可能であった。このままでは国内産業は列強に押しつぶされると言うことである。 一方で高額所得者は元藩主、公家、江戸時代以来の商人で、新たな産業を興すほどの才覚はなかった。 そのために政府が殖産興業を行った。これによって近代産業を導入するのだが、近代=西欧であるから、西欧の産業を入れなければならない。そのためにお雇い外国人の指導を受けることとした。 @政府による育成 政府は1870年に工部省を設置した(これは後に内務省に吸収される)。1872年イギリスの公債により新橋-横浜、京都-大阪に鉄道が敷かれた。新橋は汐留、開市上で居留地であった築地の手前である。横浜は桜木町で、その先は港と外人居留地である。すなわち、居留地、開港場と開市場を結びつけることが目的であった。東京-大坂は今の中山道ルートを考えていて、東海道線は構想になかった。また、レール幅はイギリスの植民地に敷くレール幅である。 続けて佐渡金山、石見銀山、高島炭鉱、三池炭鉱などの経営、兵庫や長崎の造船所、東京、大阪の砲兵工場の経営を行った(官営工場)。また輸出基盤を確立するために1872年にフランスの指導で富岡製糸場が設けられた。 A通信 郵便は前島密によって郵便制度が発足し、近代郵便制度が始まった。1877年には万国郵便連合に加入した。 電信(当時は電波は発見されておらず、音声も送れないため、電線を使ってモールス信号でやりとりした。・・・---・・・(SOS)のように)。電信線は1869年に東京横浜間が初めてであるが、1874年には東京-長崎、青森(北海道)と伸びた。とくに、長崎では上海との電信線と接続され、欧米と電信のやりとりをすることが可能になった。 船運会社の経営も行われた。それまで欧米の船によって貿易が行われていたが、これでは欧米に圧倒されるので、対抗のために日本側で会社を作った。72年に官営会社として日本国郵便蒸気船会社が設立され、のちに、三菱の岩崎弥太郎の経営する郵便汽船三菱会社に発展した。 B北海道開拓 日本は日露修好通商条約で南千島(北方領土)までの領有が決まった一方、樺太は日露共有であった。だが、北海道が十分開拓できていない中で、北方の領土に対する権利を十分なものにする必要があった。 そのために、1869年に開拓使を置き、士族授産で開拓を行わせた。同時に農業を行う為に札幌農学校を置き、お雇い外国人としてクラークが招かれた。さらに73年に屯田兵が設置され、開拓とロシアに備えることとした。 C通貨制度 通貨制度の近代化も急務であった。江戸時代までの貨幣制度は複雑なものだったからである。そこで、1870年、通貨の単位を十進法(円、銭、厘)とすることとし、1871年に新貨条例を定めた。建前上金本位制による。 貨幣に対する考え方は、現在の考え方と異なる。 現在の通貨制度は「管理通貨制度」といって、通貨の信頼を政府と中央銀行に置いている。中央銀行は銀行券を発行する。一方で政府は補助貨幣を発行する。1円銀行券しかないと不便だからである。補助貨幣は20枚までしか強制通用しない。 一方、明治期は本位貨幣制度をとっていた。金を本位貨幣とするものを金本位制という。この制度の下では金の保有量と通貨の流通量が等しくなる。金貨が本位貨幣である。一方紙幣は本位貨幣と交換できる兌換紙幣が基本である。不換紙幣は例外を除いて発行されない。 新貨条例は金本位制を採用したが、東アジア貿易は銀本位制で行われているため、政府は開港地に貿易銀を発行し、事実上、金銀本位制となった。しかも金が流出したために、実際は銀本位制となっていた。 また、1872年には政府紙幣が発行された。これは不換紙幣であって、太政官札を回収するためのものであった。 さらに1872年には渋沢栄一を中心に国立銀行条例を定め、翌73年に第一銀行が設立され、銀行券の発行が開始された。 このような中で、三井や岩崎などは政府から特権を与えられて、政商と呼ばれた。これが後に財閥へと発展していく。 |
Posted by hajimet at 21:40
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厳正寺 水止舞 20140714 |
京浜急行の大森海岸の近くに厳正寺がある。縁起では1272年海岸寺として創建。二世法密が密教に通じていた。15世紀初頭に浄土真宗となった。ここの水止舞を見た。毎年7月14日に行われるものである。 |
Posted by hajimet at 15:52
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倫理 20140717 ソクラテス(2) |
B善く生きる では、ソクラテスの言う「無知」とは何なのか。 まず、ソクラテスは人間にとっての徳を「知」と捉えた( 徳は知なり)。そして真の自分は魂(プシュケー)であって、名誉や金ではない。名誉や金は、死んだ後に自分とは関係ない。自分に附属するだけなのである。その魂が良くなるように配慮することが大切である(魂への配慮)。 人は誰しも善美正(ギリシア人が最高の価値と考えているもので、そのまま覚えること)を望む。悪くなろうと思う人はいない。 「善とは何か」。そのことに「無知」であることに気がつけば、魂は「知ろう」として、実現しようとする。そうなれば、 @知識と行為は不可分(知行合一) A徳が何かに気がつけば、徳についての知識で行動する(知徳合一) B幸福とは望んでいることの実現(福徳一致)となる。 Cソクラテスの死 だが、ソクラテスは「死んだ」…。ただ死んだだけではなく、その死の意味が未だに解決していない。ソクラテスは若者に「無知の知」を伝えようとして、多くの支持を受けた。しかし、ソフィストは自己の立場を否定されることになるので、ソクラテスを言いがかりを付けて逮捕し、死刑判決を出した。 ソクラテスは死刑になるまで幽閉されるが、弟子たちはソクラテスに脱獄を勧める。不正な判決に従う必要ないというのである(内容は不正)。 (なお、ソクラテスに自著はない。正しいことを言っているのなら、文章など残さなくとも、それは伝わると言ったからである。ここで扱っているソクラテスの内容はプラトンなどの弟子が書き残したことである) しかし、ソクラテスは脱獄を受け入れなかった。アテネ市民の自分は、そのアテネの判決によって死刑判決を出されたのだから、判決に従うべきであるというのだ(判決そのものは正)。 そしてその日が来た。弟子たちの見守る中、毒人参のエキスを飲んで死んでいった。最後の言葉は「アスクレピオスに鶏を一羽」だった。なお、最後にソクラテスが吐いた息の酸素分子を、我々は呼吸のたびに5個ずつ吸っているそうだ…)。ソクラテスは死んだが、その死は何を問いかけているか。整理すると、 @不正な判決を受けて死ぬか(無実) A不正な脱獄を行って生きるか(判決は法、正) @は判決の内容は不正。これによって死刑になる事は正しいことではない。一方でAの行動を採った場合、ソクラテスは「善く生きた」ことになるのか。法律学では「悪法もまた法なり」という法格言があって、法律がある以上、従わなければならないのだが、それが「悪法」であった場合、従わないということも考えられる。しかし、従わないことによって、制裁を受けることになる。それでよいのか。 あるいは、法改正に持ち込むことも出来る。「正しきを改む」にならないようにするにはどうしたらよいのか。きわめて現代的な問題でもあるのである。 ソクラテスは「栄光あるアテネ市民として『善く生きる』、国法に従って死ぬことが『正義』」とした。しかし、ソクラテス自身「アテネ市民」と限定してしか語っていない。「人」として死刑を受け入れるかについては語っていないのである。 あくまでも、この死によって「善く生きる」事を実践しようとしたのだ。そして、死刑の日は嬉しそうだったという。肉体から離れた魂は「善美」を見られるからだ。この世に「善美そのもの」はないからだ。 この死に衝撃を受けたソクラテスの弟子がいた。プラトンである。彼は一生かけて「ソクラテスの死」と向き合った。そして、ソクラテスが見ようとした「善美そのもの」が何かを追究した。 |
Posted by hajimet at 14:48
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倫理 20140715 ソクラテス(1) |
ソクラテス(BC470頃〜399) ソクラテスの死んだ年ははっきりしている。死刑になっているからである。ソクラテスの父は彫刻家。母は産婆、今で言う助産師だった(産婆という言葉を今使う事はないが、ソクラテスの議論では必要)。 ソクラテスは従軍以外はアテネを離れたことがない。しかし、体は頑健だったようで、戦場の氷上に裸足で立ち尽くしていたという話が残っている。しばしば神霊的なものに憑かれたようだ。このような人だから奥さんも大変だった。お蔭で世界三大悪妻の筆頭になって仕舞った。ソクラテスに文句を言い、終いには人の面前でも水をかけたというような話にはことかかない。ソクラテスも、哲学者になるには悪妻を持てば良いと行ったほどだった。三代悪妻の二人目はモーツァルトの妻、コンスタンスだが、三番目は色々な説がある。 @ソクラテスの背景 ソクラテスは、ソフィストの立場を批判して、別の視点から「人」を見ようとした。ソフィストの考え方からすると、絶対的な正、善ということがなくなってしまうからである。 ソフィスト 上手く生きる(実際的知識(相対的)、ノモス) ソクラテス 善く生きる(絶対的知識、ピシュス的) このようなソクラテスが登場する背景は、アテネの全盛期が過ぎたことにある。 BC431年から403年のペロポネソス戦争でアテネはスパルタに負けた。国内政治も衆愚政治に陥り、陶片追放などが行われるなど、社会が混乱状態になっていた。ソフィストの論法は、社会が安定しているときには有効に作用する。意識するとしないと関わらず、一定の理想が社会に存在するからである。 しかし、社会が混乱して、一定の理想が喪失すると、たんなる人気取りで政治が動くことになるのである。この中で、「理想」を取り戻そうとしたのがソクラテスであった。 A神託 ソクラテスがそのようなことに気づいたきっかけはデュルフォイ神殿の神託であった。そこには「汝自身を知れ」と標語が書かれている。友人が神託を受けにいった。神殿では巫女が硫黄性のガスを吸って神がかり状態となって神託を伝える。ところで、その神託とは… 「ソクラテスに勝る知者はいない」というものであった。 神託を受けたソクラテスは困惑した。自分はそうではない、知らない事も多いのに、なぜそんな神託を受けるのか。しかも、「汝自身を知れ」が標語の神殿である(本来は「自分の分を知って行動せよ」と言うくらいの意味である)。 そこでソクラテスは知者と言われる人と議論した。そのときに問答法(ディアレクティケー)、産婆術と言われる方法で議論した。議論を導きながら、真理の共同探究者として論理(ロゴス)を共有しようというのである。 たとえば ソ「徳とは何か」 知「男の徳は…、女の徳は…」 そ「それは男、女のことを言っているのであって、それらに共通する徳について 説明していない。徳それ自体はどういうものか」 知「…」 このようなことを繰り返して、知者は、なるほど専門知識については答えられる。しかし、最も大切な人の生き方や、ギリシア人が最高の価値の考える善、美、正(カロ・カガティア)については答えられない(現在でも、実際、専門家に最も根本的な問題、疑問を3つ質問すると答えられなくなることが多い)。しかも、答えられないと言うことに気がつかない。 しかし、自分は人生の根本問題について知らないということに気づいている。 それだけ自分は知者と言われる人より優れていることになる。 「無知の知」であって、知者と言われる人の「無知の不知」より優れていることになる。それだからこそ、デュルフォイ神殿の神託は正しいのである。 それに悟ったソクラテスは、アテネの市民に「無知」に気がつかせようとした。 すなわち、アテネ市民は「相対的な臆見(ドクサ)に満足して『善美なこと』を求めることを忘れている」。だから道徳的に混乱しているのである。それゆえ、「アテネという駿馬を無知の惰眠から目覚めさせるアブとなる」と言ったのである。 なお、アブは動物の血を吸う。吸うというより囓り採るため、痛がゆくなる。ひっくり返ると自力では起き上がれない。かつて、ひっくり返った事に気がつかず、その上に立った人がいたが(ちょうど土踏まずの所にアブがいた)、その人は足の裏を刺されてしまった。結果的に数日まともに歩けない状態になって仕舞った(余談) |
Posted by hajimet at 14:12
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2014年7月14日 |
新暦、月遅れ、旧暦(お盆を題材に) |
7月13日。東京はお盆の入り。 |
Posted by hajimet at 23:26
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2014年7月12日 |
日本史 20140711 地租改正 |
地租改正 |
Posted by hajimet at 10:49
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日比谷高校ハングル 20140711 |
1 夏休みの宿題について |
Posted by hajimet at 10:42
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杉並総合高校 ハングル 20140709 ハングルが読めるようになったかな? |
夏休み前最後の授業。 |
Posted by hajimet at 10:29
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2014年7月8日 |
箸休め |
散策帰り、道ばたで摘んできた野草。スベリヒユとアカザ。どちらもあちらこちらに生えているもの。今は雑草扱いだが、スベリヒユはヨーロッパでは野菜扱いで、サラダにして食べたりもするそうだ。アカザ、シロザも江戸時代までは野菜として栽培されていたもの。 |
Posted by hajimet at 21:40
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倫理 20140708 ソフィスト |
ソフィスト(知者) (1)ソフィストとは 自然哲学はイオニア地方から南イタリアに移った。それぞれ自然を創り出す根源を、水のような「物質(マテリアル)」や、数のような「型式(フォーム)」に求めた。 だが、その哲学の中心がアテネに移る。そのきっかけがソフィストであった。ソフィストは事物を ピュシス(自然)と ノモス(人為:norm, normal)に分けて考えた。ピシュスは普遍的なものを求められるが、法律、道徳のようなノモスは民族によっても、時代によっても異なる。従って、絶対不偏なものは存在しない。しかし、人はノモスの中に行き、ノモスに縛られるわけだから、絶対普遍でないノモスの中で、いかにして「 上手く生きるか」が課題となる。このようにソフィストはノモスの方に関心を持っていった。 なぜ、このようなことに関心を持っていったのか。しかもアテネだったのか。 アテネはペルシア戦争(BC492-479)のときに主導的な役割を果たし、隆盛を誇った。アテネでは成年男子が アゴラ(広場)で ロゴス(言葉)を交わし、それによって市民全体で ポリスのあり方を決めていく。スパルタと違い、まとめ役、意見の集約役たる王はいない。全員が対等に、対等のロゴスを有する市民として討論を繰り返す。討論をする時には、自分の意見を他の人に聴いてもらわなければならない。すなわち、説得が必要になると共に、相手に印象づけるために、それは 雄弁に行われなければならない。 当時のギリシアの人びとは、人として秀で、卓越したもの( 徳=アレテー(テクニカルタームはそのまま覚えること))を「雄弁」であるとした(犬の徳は吠えること、植物の徳は花を咲かせること(種を作ること?))。 雄弁に人を説得するためには、まず 知識が必要である(知識がなくて語ろうとしても相手に伝えるものがない。〔泣いて訴えたって…〕)。その上で伝える 内容(これが出来ないと、自分の意見をうまく出せない)と 形式(人は1分以上話が続くと話を理解出来なくなる。3分が限界。40分も結婚式でスピーチするのは論外)が必要になる。内容と形式は技術の問題でもある。 このように自分の意志を伝える技術は欧米では基礎教養となっている。自分の意志をいかに相手に伝えようとするか、欧米のドラマや映画を見ているとよく分かる。ディベートなども同じ流れ。 だが、これらは我流でなくて、技術として学ぶ必要がある。必要がある所には、それを扱う教師が登場する。弁論術を教授する人びとを「 徳の教師:ソフィスト」と呼ぶ。 (2) プロタゴラス(ca.BC 500〜ca.430) 「人間は万物の尺度である」 総ての価値の基準は個人それぞれの尺度で捉えるべき( 相対主義)。そうでないと、討論は成り立たない(全員が同じ尺度で価値判断をしたら、論議するまでもなく、価値判断は同じになってしまう)。 人は物を知覚するときに事物そのものを生のまま近くするのではなく、目、鼻、耳、舌、体などの感覚器官を通じて知覚する。 事物 → 感覚 →知覚 感覚を通じて知覚しているのだから、見ている物、感じている事物はそのままの形では認識されていない(参考:ユング、元型)。他の人が同じように見ているのかも分からない。だから、永久不変な事物の本質を追究しようとしてもそれは出来ないことになる。しかし、知覚そのものは自分自身だから、それは「真」のものである。したがって、各自の知覚、判断基準でものごとは捉えるべきであると言うことになる。 このように、プロタゴラスは考え、雄弁術を教授していったが、この相対主義の考え方を敷衍すると問題も起きる。たとえば「人を殺してはいけない」などのような、 普遍的な価値の存在が認められなくなる。善悪とか真偽は各個人の判断基準の中に存在すると言うことになるからである。また、何かを説明しよう、意見を通そうとするときに、弁論「術」に頼りすぎると 詭弁論に陥る可能性がある。 このような問題にメスを入れようとした人が、ソクラテスなのである。 |
Posted by hajimet at 20:31
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日比谷高校 ハングル 20140704 |
導入 前回のスキットの暗誦(一人ずつ)。 それから自己紹介〔すきっとの形を使って〕。 自分の名前、学校の名前、家の場所など。 展開 第6課。スキット。一行ずつ読ませる。暗誦させる。 이/가 있어요. 이/가 없어요. -에, 에 이/가 있어요. 練習問題と、応用問題で終わり。 |
Posted by hajimet at 20:20
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2014年7月5日 |
しおこうじ 20140705 |
塩麹初挑戦。 |
Posted by hajimet at 20:09
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2014年7月4日 |
再び歌 20140703 |
レッスン終了。 メロディアスの課題曲の録音をする。 最初の録音。旋律がブツブツ切れる。 スラータンギングで吹いているつもりでいたが、「なんちゃって…」だったようだ。 言われている「つもり」で吹いているのだが、同じ指摘を受ける。 音を聴いてみると、どの音も減衰する。 「n」より少し奥「l(むしろ韓国語のㄹ〔dark-lに近い〕)で 柔らかくタンギングすると、息も漏れてくるし、上手く繋がる」と指摘を受ける。 再度録音。吹きながら感じている以上に出ている音の流れが違った。 驚いた。 |
Posted by hajimet at 08:44
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