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2014年7月8日 |
倫理 20140708 ソフィスト |
ソフィスト(知者) (1)ソフィストとは 自然哲学はイオニア地方から南イタリアに移った。それぞれ自然を創り出す根源を、水のような「物質(マテリアル)」や、数のような「型式(フォーム)」に求めた。 だが、その哲学の中心がアテネに移る。そのきっかけがソフィストであった。ソフィストは事物を ピュシス(自然)と ノモス(人為:norm, normal)に分けて考えた。ピシュスは普遍的なものを求められるが、法律、道徳のようなノモスは民族によっても、時代によっても異なる。従って、絶対不偏なものは存在しない。しかし、人はノモスの中に行き、ノモスに縛られるわけだから、絶対普遍でないノモスの中で、いかにして「 上手く生きるか」が課題となる。このようにソフィストはノモスの方に関心を持っていった。 なぜ、このようなことに関心を持っていったのか。しかもアテネだったのか。 アテネはペルシア戦争(BC492-479)のときに主導的な役割を果たし、隆盛を誇った。アテネでは成年男子が アゴラ(広場)で ロゴス(言葉)を交わし、それによって市民全体で ポリスのあり方を決めていく。スパルタと違い、まとめ役、意見の集約役たる王はいない。全員が対等に、対等のロゴスを有する市民として討論を繰り返す。討論をする時には、自分の意見を他の人に聴いてもらわなければならない。すなわち、説得が必要になると共に、相手に印象づけるために、それは 雄弁に行われなければならない。 当時のギリシアの人びとは、人として秀で、卓越したもの( 徳=アレテー(テクニカルタームはそのまま覚えること))を「雄弁」であるとした(犬の徳は吠えること、植物の徳は花を咲かせること(種を作ること?))。 雄弁に人を説得するためには、まず 知識が必要である(知識がなくて語ろうとしても相手に伝えるものがない。〔泣いて訴えたって…〕)。その上で伝える 内容(これが出来ないと、自分の意見をうまく出せない)と 形式(人は1分以上話が続くと話を理解出来なくなる。3分が限界。40分も結婚式でスピーチするのは論外)が必要になる。内容と形式は技術の問題でもある。 このように自分の意志を伝える技術は欧米では基礎教養となっている。自分の意志をいかに相手に伝えようとするか、欧米のドラマや映画を見ているとよく分かる。ディベートなども同じ流れ。 だが、これらは我流でなくて、技術として学ぶ必要がある。必要がある所には、それを扱う教師が登場する。弁論術を教授する人びとを「 徳の教師:ソフィスト」と呼ぶ。 (2) プロタゴラス(ca.BC 500〜ca.430) 「人間は万物の尺度である」 総ての価値の基準は個人それぞれの尺度で捉えるべき( 相対主義)。そうでないと、討論は成り立たない(全員が同じ尺度で価値判断をしたら、論議するまでもなく、価値判断は同じになってしまう)。 人は物を知覚するときに事物そのものを生のまま近くするのではなく、目、鼻、耳、舌、体などの感覚器官を通じて知覚する。 事物 → 感覚 →知覚 感覚を通じて知覚しているのだから、見ている物、感じている事物はそのままの形では認識されていない(参考:ユング、元型)。他の人が同じように見ているのかも分からない。だから、永久不変な事物の本質を追究しようとしてもそれは出来ないことになる。しかし、知覚そのものは自分自身だから、それは「真」のものである。したがって、各自の知覚、判断基準でものごとは捉えるべきであると言うことになる。 このように、プロタゴラスは考え、雄弁術を教授していったが、この相対主義の考え方を敷衍すると問題も起きる。たとえば「人を殺してはいけない」などのような、 普遍的な価値の存在が認められなくなる。善悪とか真偽は各個人の判断基準の中に存在すると言うことになるからである。また、何かを説明しよう、意見を通そうとするときに、弁論「術」に頼りすぎると 詭弁論に陥る可能性がある。 このような問題にメスを入れようとした人が、ソクラテスなのである。 |
Posted by hajimet at 20:31
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