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2014年7月18日
倫理 20140715 ソクラテス(1)
ソクラテス(BC470頃〜399)
ソクラテスの死んだ年ははっきりしている。死刑になっているからである。ソクラテスの父は彫刻家。母は産婆、今で言う助産師だった(産婆という言葉を今使う事はないが、ソクラテスの議論では必要)。

ソクラテスは従軍以外はアテネを離れたことがない。しかし、体は頑健だったようで、戦場の氷上に裸足で立ち尽くしていたという話が残っている。しばしば神霊的なものに憑かれたようだ。このような人だから奥さんも大変だった。お蔭で世界三大悪妻の筆頭になって仕舞った。ソクラテスに文句を言い、終いには人の面前でも水をかけたというような話にはことかかない。ソクラテスも、哲学者になるには悪妻を持てば良いと行ったほどだった。三代悪妻の二人目はモーツァルトの妻、コンスタンスだが、三番目は色々な説がある。

@ソクラテスの背景
ソクラテスは、ソフィストの立場を批判して、別の視点から「人」を見ようとした。ソフィストの考え方からすると、絶対的な正、善ということがなくなってしまうからである。

 ソフィスト 上手く生きる(実際的知識(相対的)、ノモス)
 ソクラテス 善く生きる(絶対的知識、ピシュス的)

このようなソクラテスが登場する背景は、アテネの全盛期が過ぎたことにある。
BC431年から403年のペロポネソス戦争でアテネはスパルタに負けた。国内政治も衆愚政治に陥り、陶片追放などが行われるなど、社会が混乱状態になっていた。ソフィストの論法は、社会が安定しているときには有効に作用する。意識するとしないと関わらず、一定の理想が社会に存在するからである。

しかし、社会が混乱して、一定の理想が喪失すると、たんなる人気取りで政治が動くことになるのである。この中で、「理想」を取り戻そうとしたのがソクラテスであった。

A神託
ソクラテスがそのようなことに気づいたきっかけはデュルフォイ神殿の神託であった。そこには「汝自身を知れ」と標語が書かれている。友人が神託を受けにいった。神殿では巫女が硫黄性のガスを吸って神がかり状態となって神託を伝える。ところで、その神託とは…
「ソクラテスに勝る知者はいない」というものであった。

神託を受けたソクラテスは困惑した。自分はそうではない、知らない事も多いのに、なぜそんな神託を受けるのか。しかも、「汝自身を知れ」が標語の神殿である(本来は「自分の分を知って行動せよ」と言うくらいの意味である)。

そこでソクラテスは知者と言われる人と議論した。そのときに問答法(ディアレクティケー)、産婆術と言われる方法で議論した。議論を導きながら、真理の共同探究者として論理(ロゴス)を共有しようというのである。

たとえば
 ソ「徳とは何か」
 知「男の徳は…、女の徳は…」
 そ「それは男、女のことを言っているのであって、それらに共通する徳について
   説明していない。徳それ自体はどういうものか」
 知「…」


このようなことを繰り返して、知者は、なるほど専門知識については答えられる。しかし、最も大切な人の生き方や、ギリシア人が最高の価値の考える善、美、正(カロ・カガティア)については答えられない(現在でも、実際、専門家に最も根本的な問題、疑問を3つ質問すると答えられなくなることが多い)。しかも、答えられないと言うことに気がつかない

しかし、自分は人生の根本問題について知らないということに気づいている

それだけ自分は知者と言われる人より優れていることになる。
「無知の知」であって、知者と言われる人の「無知の不知」より優れていることになる。それだからこそ、デュルフォイ神殿の神託は正しいのである。

それに悟ったソクラテスは、アテネの市民に「無知」に気がつかせようとした。
すなわち、アテネ市民は「相対的な臆見(ドクサ)に満足して『善美なこと』を求めることを忘れている」。だから道徳的に混乱しているのである。それゆえ、「アテネという駿馬を無知の惰眠から目覚めさせるアブとなる」と言ったのである。

なお、アブは動物の血を吸う。吸うというより囓り採るため、痛がゆくなる。ひっくり返ると自力では起き上がれない。かつて、ひっくり返った事に気がつかず、その上に立った人がいたが(ちょうど土踏まずの所にアブがいた)、その人は足の裏を刺されてしまった。結果的に数日まともに歩けない状態になって仕舞った(余談)
Posted by hajimet at 14:12 | Comments (0)

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