« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment
2014年6月1日 |
講演「各地に残る日韓の歴史」 20140531 葛飾シンフォニックヒルズ(韓国大使館主催) |
5月31日、葛飾シンフォニックヒルズの会議室で2時30分より講演。 題は「各地に残る日韓交流の歴史」。内容は大きく5編に分けた。 資料はこちら 導入の後、 1.日韓は近い 釜山から対馬は見える。あまり当たり前に見えていて 「対馬が見えることが分かるけれども、あれは対馬でないね。韓国の島だね」 という人に会ったことがある。 対馬の人は、対馬に来るならパスポートを持って釜山経由で来た方が好いという。 戦前は急病には釜山に運んでいたし、対馬の最も人気のあった就職先は 朝鮮鉄道であった。壱岐、九州は互いに見える距離。 漂流民など流れ着く人も多く、江戸時代にハングルで書かれた掛け軸が残っている。 実は関東が、韓国からは最も遠い場所なのである(北海道を除く)。 2.韓国の倭系遺跡 韓国にも倭系古墳、前方後円墳がある。 ヤマト政権は鉄を求めて韓国と関係を持った。 その関係で、5世紀くらいのものが中心である。 また、倭系の横穴墓もある。東城王は王になるとき九州から筑紫の兵に守られて 現在の公州に入っている。そのような人たちの墓だと考えられている。 また、共通の漁具が出てきたり、弥生時代の交易センターとして、勒島がある。 ここは弥生土器だらけの島である。 3.北九州 交易の拠点であった。まずは糸島。 魏志倭人伝に対馬―壱岐―松浦―伊都―奴のルートがでているが、その伊都国。 伽耶山を目印に来たと考えられる。5世紀前後から博多湾全体で交易が始まり、 その拠点も西新町遺跡に移った。ここには韓国人居住の跡などがある。 一方でヤマト政権側も最前線として宗像大社を祀るし、 百済復興などにからんで朝倉の宮、それと前後して水城などが形成される。 元寇の防塁、名護屋城もあるが、三浦との縁から釜山会高徳寺という寺もある。 4.関西 古来伎人(広隆寺、八坂神社)、 今来伎人(伝王仁墓、オミアシ神社、辛科神社、穴太遺跡)、 百済王にからむもの(百済駅、杭全神社、石塔寺、百済王神社など)が残っている。 八坂神社はスサノオを祀るが、渡来系の神でソシモリに降りたとされる。 ところで、百済王神社の額には牛頭天王と書かれている。 牛=ソ、頭=モリ。牛頭天王信仰と習合したか。 それ以外にも栗東狛坂廃寺磨崖仏のように、新羅人に関係する遺跡もある。 敦賀方面から琵琶湖沿いに入ってきた可能性もある。 継体天皇との関係も議論としてはある。 百済王氏が最初に配された難波の津付近に、鶴橋がある。 5.関東 直接渡来人が来たと言うよりも、再配置された人びとの根拠地。 多胡郡、高麗郡、新羅郡(新座、志木)がそれ。 一方信濃、甲斐から静岡、愛知にかけて積石塚が分布する。 高句麗系の可能性が強い。 その後、江戸時代には通信使が来るなどで、 知識として韓国のことが入ってきている。 千葉にはハングルで彫られた石碑が残っている。 (初期のハングルで彫られた当時のものは、日韓含めててここにしかない) 平田篤胤の影響の神代文字もある。 これはハングルの知識があると、なぜか読めてしまうもの。 その後、明治の交流や、現在まで続く関係がある。 こういう関係がある中で、お互いにどう付き合っていくか。 エスノセントリズムではだめで、文科相対主義で行くべき。 ところで、「理解」しようというが、 「理解」するということは、何を「理解」するのか。 まず、「違う」ということを理解すること。古来日韓のつきあいを書いたものを 読んでも、どの時代も今と変わらない、双方の違いを指摘している。 結局、両方とも変わっていない。基礎の時代、古代まで遡っても 日韓は基本的思想、神に関する考え方がまったく違う。 人は社会の中で生きるから、違う発想を身につければ、それで行動する。 日韓は顔があまりにもよく似ているため、同じ発想をすると思い込む。 しかし、違うことを前提に付き合っていかないと、行き違いばかり起こる。 これで終わり。 |
Posted by hajimet at 19:49
| Comments (0)
|
Comments |
Post a comment |