前回、アニミズムからシャマニズムまで話をした。そこで 2.日本の宗教観の原点。 稲作 渡来人 ↓ ↓ 縄文(アニミズム)→弥生→|古代→仏教。 | 基層文化 | 古代に入る前までを基層文化という。
アニミズム+稲作(農耕)で神道の原形が出来る。 この中で自然現象を神として崇める。 弥生時代の祭祀遺跡、古墳時代の遺跡などが神社となっているケースが多い。 例)伊勢神宮外宮(高倉山、高倉古墳)、 宗像大社(沖ノ鳥島)、 出雲大社(境内に弥生時代の祭祀遺跡)など。 「神」は「祟る神」であり、祟らないように祭り上げる。 だから、御神輿を振ったり、ひっくり返したり、酷いものは壊したり、たたきつけたりする。 神に思い知ってもらい、「祟らないように」お願いする。 そのために、 ・神を依り代(磐座など)に呼び寄せ、 ・まつり、 ・帰す このように祟らないように祭り上げることが、まつりごと(政治)であり、 その目的は民の幸せを祈ることになる。 このような神は周囲にいる。(だから磐座に「呼び寄せる」。下ろすのではない) キリスト教の神のように天にいるものでも、 地獄のように地中にあるものでもない。 死んだら神となる人も(人が神になるのはかなり後のことではあるが…授業では割愛)、 周囲にいるから、家に仏壇をおいて祀るし、祀る対象もせいぜい自分の知っている範囲である。 古墳もそうで、本来は墳丘の上部に竪穴で埋葬する。 周囲の人からは「そばにいる者」として見えるし、 「死んだ者」も墳丘の上からクニを見渡すことが出来る (だから古墳は登るものである)。 このような祭り方は、現在の生活で祟られないことを願うから、 「現世利益」を求めることとなる。 また、「たたられ」さえしなければ、幸せに暮らせるのだから、 「楽観的」なことが日本の基層文化になる。 3.日本神話 このような神のことを語ったものが日本神話。 古事記のことであるが、 これは天皇の正統性を基礎づけるために、色々な神話を再編成したもの。 神話の最初は混沌から始まり高天原と地上に別れる。 高天原と地上が離れて神が自由に行き来できなかった頃、 イザナギとイザナミが神の降りられるところを作ろうとした。 鵲の橋を降りてきて、戈を海に射してかき回し、引き上げた後の 滴がたまったところがオノコロ島。 その後イザナミから「アナニヤシエ」といって儀式をして子供を産んだら、 ヒルコだったので船に乗せて流してしまった。 。 イザナギが順番が違うといって、イザナギから「アナニヤシエ」と言って 正常な神が生まれた。これによって本州、四国、九州などの大八洲ができた。 壱岐、対馬は波のアワが固まったものである。 だが、イザナミは生まれきた火之神に焼かれて死んでしまった。 イザナミは黄泉の国に行く。イザナギは会いに行ったが、会ってくれない。 すでに死亡後か成り立った体の状態になっていた。 それをイザナギが見てしまい、イザナミがイザナギを追いかける事態となる。 最終的に黄泉の国と、現在の国の間に杭が打たれ、今の世界と黄泉の国が別れる。 会いに行ったイザナギは黄泉から帰り(甦り)、 イザナギは体が穢れたとして、禊ぎをした。 日本人は清明心が基層文化にあり、穢れを禊ぎですすぐ習慣がある。 (神社の手水鉢)。
イザナギもそうしたが、そのとき色々な神が生まれた。 そして、イザナギが左目を洗うとアマテラスが、右目を洗うとツクヨミが、 鼻を洗うとスサノオが生まれた。 天岩戸の話(日本史最初の引きこもりの話???)。 スサノオが出雲に降りる。これは新羅に降りてから出雲に来たという説もあって、 渡来の神とされることもある。 渡来人が作った神社である京都祇園の八坂神社も祭神はスサノオ。 アマテラスの孫のニニギノミコトも高千穂のクジフルの峰に降りてくる。 これが神武天皇の先祖と言うことになっている。 ちなみに、スサノオの話は出雲神話から古事記に入ったものであった。 また、アマテラスも対馬、ツクヨミも壱岐の神が取り込まれたもの (どっちも記紀でほのめかしている)である。 それでは、神話に共通したものは何か。 それは次回(日本神話の話の中で、かなり伏線を張ってあります)。 |・イザナミ→黄泉 混沌→高天原→| ↑ | | × | |イザナギ―――みそぎ(清明心)―― | | |・左目:アマテラス→ニニギ(高千穂)→神武天皇 | ↓ |・右目:ツクヨミ 大地 ―――オノコロ島――― |・鼻:スサノオ(出雲 or 新羅) 大八州
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