平戸と生月島
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アジアの平戸(赤線:航海ルート…概念図) |
日本の中の平戸 |
平戸島と生月島 |
平戸、生月島は松浦藩の支配地であった。もともと倭寇などによる貿易体制の拠点であったが、それを利用して、1550年ポルトガル船が来た。その後、ポル
トガルと平戸藩の関係は悪化し、ポルトガル船は平戸を離れ、横瀬浦、福田、口
之津、長崎と寄港地を変えていった。一方で、平戸は、オランダ船、イギリス船が商館を設けるほどの貿易港となり、それにより松浦藩は大きな利益を得ることができた。だが、イギリスが日本との貿易から撤退したことと、幕府の貿易統制によって平戸の商館が長崎(1641)に移ると、平戸に貿易による利益が入ってくることは無くなった。その代わりを担ったものが陶芸や捕鯨であった。陶芸器は佐世保の三川内に藩窯が設けられていた。捕鯨は17世紀前半から始まり、18世紀には生月島でも捕鯨が行われるようになる。19世紀には生月島は日本で最大規模の捕組となった。
一方で、平戸、生月島はキリシタンの信仰地でもあっ
た。幕府が禁教令を出すよりも前に、平戸では藩主によって禁教令が出された。これにより平戸のキリシタンは激しく弾圧され、生月島とともに一斉改宗していた根獅子(ねしこ)には弾圧にまつわる厳しい話が残る。根獅子のキリシタンは潜伏していくが、それ以外の平戸のキリシタンは1630年頃に絶えたとされる。
平戸の対岸の生月島はからは禁教と同時に多くの者が島から長崎へと脱出した。残った者に対する弾圧も行われたが、平戸に較べてその勢いは弱かっ た。実質的な弾圧は1645年が最後だったとされる。生月島は捕鯨の基地だったため、弾圧=根絶やし=作業員の減少=松浦藩の収入減少となることも関係したと言われる。 それぞれの集落ごとに信仰が続けられ たが、宣教師がいない中での信仰だったので、新たな要素は入っておらず、変化もしているが、中世カトリック信仰の形態を色濃く残しているとされる。
これら潜伏していたキリシタンが宣教師に「発見」されてキリシタンに戻った人たちを復活キリシタンという。長崎、平戸、島原などでは復活キリシタが通う教会も多く残されている。