長崎
長崎港(左:湾口、中央:三菱重工業造船所、右:長崎駅、浦上方面)

長崎は長崎半島の付け根にある都市で、東シナ海に湾口をもつ長崎湾の湾奥に位置する。長崎湾はリアス式海岸の溺れ谷であって、山が港に迫るため町が山に登る景観となる。海岸沿いはわずかな低地しかなく、江戸時代以来、埋め立てを繰り返してきた歴史を持つ。地形的には韓国の釜山と類似していて、都市の立地や景観もよく似ている。

長崎が発達するきっかけになったのは、1571年にポルトガル船が来港してからであった。ポルトガル船は最初平戸に入港していたが、その後大村領横瀬浦、福田、有馬領口之津と変わった。しかし、使い勝手が良くなかったようで、領主大村純忠に長崎開港を要求した。これにより1570年に長崎港が開港され、同時に6つの町が開かれた。領主の大村純忠は日本最初のキリシタン大名で、1563年に受洗していたのだが、その主眼はポルトガル貿易による利益確保であった。そのため、大村は1580 年、長崎、茂木をイエズス会に寄進した。また、キリシタン大名で日野江城主の有馬晴信も領地の浦上を寄進した(大村純忠の甥)。 しかし、7年後の1587年、長崎は豊臣秀吉に没収されて直轄領となった。同時に伴天連追放令が出され、多くの宣教師らが殺された。その後、長崎はポルガル船だけではなく、朱印船貿易の拠点となった。

1612年に徳川家康は禁教令を出した。これにより浦上 のキリシタンの多くが潜伏することになった。キリシタン禁教政策もあって、1635年には日本人の海外渡航禁止令が出され、その翌年、ポルトガル人が出島に収容された。だが、ポルトガル人は1637年の島原の 乱をきっかけに、1639年に入国禁止となった。一方、平戸にあったオランダ商館は1641年に出島に移され、長崎奉行書のもとにおかれた。その後、唯一の西欧に対する窓口として出島貿易が続き、蘭学はじめ西洋の知識、文学が伝えられた。長崎は唐人貿易も許されていたが、彼らも唐人屋敷に集められていた。

幕末、欧米列強が東アジアに進出するようになると、長崎にも異国船が入るようになる。なかには、1808年のフェートン号事件のように、ナポレオン戦争ために来た船もあった。1854年、日米和親条約、1858年の安政の五カ国条約で長崎が開港場となると、各国の領事官が置かれ、居留地も作られた。居留地には教会が作られ、そこで潜伏したキリシタンが「発見」された。

江戸時代貿易を独占していた長崎港の地位は、開国後横浜港に奪われてい く。そのため、明治に入ると造船、石炭、水産業が育成されていき、長崎造船所は日露戦争の時には、東洋一の造船所に発展した。長崎は軍事関係の施設も多 かったが、1945年8月9日、原子爆弾の投下によって焦土となった。現在でも、この時に火災にあったところと、そうでなかったところでは、景観がはっき りと異なる。焼けなかったところは江戸時代以来の区画を残しているのに対して、焦土となったところは区画整理されて当時の面影はない。ただし、焼けなかっ たところも、爆風は吹き抜けたため、多くの被害が起きていて、現在でも痕跡が残っている。

長 崎 早岐
出島(1) 旧香港上海 銀行長崎支店 三川内皿山
出島(2) 大浦天主堂 陶祖神社(三川内)
唐人屋敷跡(1) グラバー園 (1 釜山神社(三川内)
唐人屋敷跡 (2 グラバー園 (2 中江ノ島
新地蔵所 東山手洋風 住宅群 中江ノ島
長崎奉行所 あと 東山手十二 番館 対馬と韓国
築町、対馬 藩邸 居留地境界石 対馬
孔子廟 オランダ坂
壱岐
おくんち 長崎駅前 (参考)釜山駅前
                  
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