大浦天主堂

大浦天主堂

長崎はイエズス会に寄進されていたこともあって、住民の殆どがキリシタンに改修していた。禁教前の長崎の町並みはさながら小ローマのようだったといわれる。禁教後も浦上を中心に潜伏キリシタンが続いた。

長 崎開港後、国内では1873年までキリシタが禁止されていたものの、外国人居留地では外国人のための教会が建てられていた。大浦天主堂もその一つで、 1865年、日本25聖殉教者天主堂として落成した。現在の天主堂は1879年にゴチック様式で作られたものである。1945年の原爆で大きな被害を受け たが、1952年から5年がかりで修復された。

大浦天主堂は、キリシタン「発見」の教会としても知られる。1865年、ここを訪れた浦上 の人びとが、「サンタマリア像はどこにあるか?」と訪ねて、キリシタンであることを告白した。キリシタンがいたことが欧米で大きな話題となった。天主堂正 面玄関前におかれている「日本之聖母」像は、1866年に宣教師を派遣しているフランスからお祝いとして送られたものである。聖堂の中にも様々なものが置 かれているが、正面右側に置かれているサンタマリア像が、信徒「発見」のきっかけとなったものである。

長崎近辺では大浦、外海に潜伏キリ シタンが多くいたが、その多くが「発見」以降、カトリックに復帰する「復活キリシタン」となっていった。一方で、平戸、生月島の潜伏キリシタンは「発見」 後も「復活キリシタン」とならず、潜伏時代の信仰を続ける「隠れキリシタン」が大多数であった。「発見後」の信仰形態に地域差がみられるのである。なお、 平戸に天主堂が多いのは、外海方面からの移住者が多いことと関係するようだ。

天主堂下の広場には、キリスト信者発見記念碑、そのときの司教であったプチジャン司教像、ヨハネ・パウロ二世像などがおかれる。また、天主堂横には1875年、日本人司祭養成のために立てられた旧羅典神学校が建っている。




日本之聖母(信徒発見記念) キリスト信者発見記念碑 旧羅典神学校

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