築町と対馬藩屋敷

築町駅と対馬藩屋敷跡(左)

出島付近は、今よりも海岸線がかなり奥まで入っていて、新地蔵所は海の中、唐人屋敷のすぐ手前でようやく陸に上がっていた。低地部は後に埋め立てられたと ころが多い。その中でも、最初の本格的な埋め立て工事が行われた場所が築町であった。1600年のことである。現在の中島川にあたる大川の河口部に造成さ れた。

大川は1886年に流路変更が行われ、その河口が埋め立てられた。築町駅はその河口部にあたる。その後、地名として築町は中島川北西岸の部分を指すようになり、築町駅一帯は築町ではなく銅座町となっている。

その築町駅の中島川側には俵物役所と対馬藩蔵屋敷があった。江戸時代後期に新たに埋め立てたところに作られたものである。朝鮮からの漂流民は、ここに留められ、長崎奉行所の取り調べを受けた。取り調べ終了後、対馬藩に引き渡され、対馬を経由して朝鮮東莱府に引き渡されていった。


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