南蛮船来航の 碑

記 念碑入口

口之津は1562年に有馬義貞が開いた貿易港である。1563年、義貞は実弟の大村純忠を通じて宣教師の派遣を依頼した。これにより大村領からルイス・アルメイダが派遣された。翌年には南蛮寺が建設され、布教を許した。そのため、ここは島原半島のキリスト教の中心 地となった。

ポルトガル船はそれまで、平戸、福田と寄港地を 変えていったが、これらに続いて、口之津にポルトガル船が来るようになった。1567年のことである。その後、1582年まで5回、ここに船が入港したと いう。しかし、天然の良港であった長崎が開港すると、ポルトガル船は拠点を長崎に移した。一方でポルトガル船が入港しなくなった後、義貞の息子の有馬晴信は朱印船貿易に力を入れ、1605年から13年の間に7隻以上の船をここから出している。

1579年、ローマから派遣されたヴァリニャーノがここに上陸した。その翌年、義貞の息子であった有馬晴信もヴァリニャーノから受洗し、キリシタン大名となった。晴信は仏教寺院の破壊を命じ、ヴァリニャーノが滞在 した3ヶ月の間に40の寺院が毀されたといわれる。

口 之津が再び脚光をあびたのは、明治であった。1878〔明治11〕年、ここが三井石炭海外輸出港に指定されたからである。「からゆきさん」も、ここから送 り出された。しかし、1909(明治42)年に三池築港が完成して、急速に衰退した。現在は下天草の鬼が池との間に頻繁に連絡船が出ている。



記 念碑ー 溜 池跡状態の公園。建物の向こうは海 口 之津港。はるか沖に天草が見える

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