原城



出 丸から本丸を見る 本 丸から、談合島、天草方面 天 草四郎の墓

日野江城主有馬貴純が1496年に日野江城の支城として築いた城。原之島という島状の岬に築かれた。日野江城と原城の間は堀状の低地となっているが、この 時代は海水が入ってくるところであった。原城は本丸、二の丸、三の丸、鳩山出丸、天草丸からなる周囲3キロの城で、戦国時代には日野江城より重視されてい たとされる。1614年にキリシタン大名有馬晴信の息子である有馬直純が転封するまで原城は続いた。その後松倉重政が入場したが、一国一城令により破却さ れ、石垣は島原城に持って行かれた。

有馬直純は徳川家康に仕えたが、そのために妻だった小西行長の姪マルタと離婚し、家康の養女を正室とした。キリシタンと縁を切ることを示すために、キリシ タンの弾圧を行った。次の松倉重政も激しい弾圧を加えた。

これに対して、1637 年、天草・島原の乱では天草四郎を盟主とした37,000人が籠城した。一揆軍はは富岡城に籠城した幕府軍を攻めたが、攻めきれなかった。そこで、原城を 拠点とすることとして、天草から島原まで13,000人が渡った。これと島原の24,000人が合流したのである。しかし、3方が海に面している城は、籠 城には向かなかった。ここで1万人あまりが餓死したという。

幕府は乱後1.5mの厚さの土で原城全体を覆い、徹底的に破壊した。石垣と土の間からは破壊された残骸や、骨、生活用具などが多く見つかり、手当たり次第 に投げ込まれた様子が分かる。

本 丸入口には「ほねかみ地蔵」がある。1766(明和3)年有馬村の住誉上人がこの地域に散在していた骨を拾い、供養した物とされる。「ほねかみ」とは、 「骨噛み」という意味である。また、本丸内には天草四郎の墓がある。西有家町の民家の石垣の中に埋もれていた物を、ここに移したとされる。




ほ ねかみ地蔵 破 壊された城壁 鉛 で作られた十字架(原城文化センター)

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