板倉重正供養碑

供養碑

i天草・島原の乱の幕府の初代の上使。三河の深溝藩主で、京都初代所 司代板倉勝重の次男であるが、一万石ほどの小大名であった。作戦を進めようとするが、松倉などが命令を聞かず、攻撃が成功することはなかった。幕府もより 石高の高い松平信綱を二代上使として送ることにしたが、その情報を得た板倉は、慌てて原城に乗り込んで戦ったが、討ち死にしてしまった。三の丸の中にある 供養碑は板倉が死亡した場所を示している。

ここから少し下ったところ、道路の右側に十字の紋章の入った石が置かれている。そのような性格のものかは不明。




建立者の名前 顕彰碑 すぐしたにあるキリシタンマーク入りの石。

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