オランダ商館あと(1)


オランダ商館(復元) オランダ塀

平戸に正式にオランダ船が入港したのは1609年のことだった。それ以前にも、1597年に寄港したこともあったようであるし、1605年には豊後に漂着 したオランダ船リーフデ号(1600)の船員が平戸から送還されている(ここに商館が出来たのは、リーフデ号に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の都力も大きい)。

オ ランダは1602年に東インド会社を設立した。1609年に寄港したときは土蔵付き家屋一棟をかりて商館にしたが、1611年には藩主より土地を借りて、 住宅、倉庫を建築し、さらに1618年には、倉庫2棟、門長屋、鳩小屋などを作り、石塀を巡らせた。この後1637年にも石造倉庫2棟が建築されている。

こ こに商館が建設された当初は、日本との貿易と言うよりも、「東インド」貿易の拠点としての機能が大きかったようだ。しかし、1628年、台湾の台南(タイ オワン)を明貿易の拠点としていたオランダと、明との直接の貿易が出来ず、中継貿易に頼らざるを得なかった、日本の貿易商の間で、オランダ側の関税をめぐ るタイオワン事件という紛争が起きた(オランダ領台湾行政長官ノイツ×長崎代官末次平蔵)。

こ の紛争処理と、幕府が強化しはじめたいわゆる鎖国政策との関係で、平戸商館は日本貿易に重点を置くようになった。江戸時代全体を通じて、オランダ貿易は平 戸時代の1630年代が最高である。しかし、鎖国政策の強化と共に1639年、1637年に建てられた倉庫の破壊が命ぜられ、さらに41年には貿易管理の 関係から、商館自体を長崎平戸に移すことになった

平 戸にはオランダ商館時代の遺物がいくつか残っている。まず、復元された商館の場所。ここは1637年の建物のあとが発掘されている。ただ、資料が少ないた め、復元はせずに、当時の建物の位置をブロックなどで示すことにしたとのことだ。商館裏手の白塀はオランダ塀である。商館の中を覗かれないように作られた ものである。さらに、商館あとの横にオランダ井戸がある。大小二つのものが残されている。大きい物は中が2つの構造物から出来ている井戸である。

なお、商館横の公園には道路に面したところに「コ」の字型をした石の構造物がある。「御船手石塀」である。オランダ商館が長崎に移ってから、その後日に住んだ下級武士の屋敷跡で、平戸独特の塀の構造だという。




建物跡 オランダ井戸 御船手屋敷石塀

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