高麗碑

高 麗碑

平戸の高麗町にある。文禄慶長の役(1592-)の前年、松浦鎮信は壱岐に勝本城を築き、翌年小西軍に属し、朝鮮へ行った。

こ の戦いの時に巨関をはじめとする約100人の陶工を連れ帰った(熊川から連れてきたとされる)。陶工は現在の高麗町一帯に住まわせられて、陶磁器の制作を 行わされた。巨関は日本人を娶り、息子今村三之丞が生まれた。三之丞はより陶芸に適した土地を探し、佐世保三川内に三川内焼きを起こす。それまで約50年 間、高麗町に滞在したという。彼らが平戸で陶器を制作した「中野窯」は、その窯址が残っている。

高麗碑はその集落の奥にひっそりと立っている。巨関一族を顕彰することと、この地で死亡した陶工を顕彰する内容である。碑の前には20基近い積石墓が残されている。これが陶工の墓だそうである。

な お、三之丞の息子、弥治兵は三川内焼の陶祖とされ、同所の陶祖神社(如猿大明神)に祀られている。また、巨関と一緒に連れてこられた高麗媼(コウライバ バ)も中野氏と一緒になり、三川内焼きの創始に関わった。106歳で死ぬまで「ニム子(ね)明神」という焼物釜の神を祀っていたという。高麗媼も釜山大明 神として、三川内の釜山神社に祀られている。




高麗碑前の墓碑群

前の頁     目次    HOME      次のページ