ガスパル様

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黒瀬の辻殉教碑 |
黒瀬の辻は、1563年、生月島で最初に教会が出来た場所とされる。場所柄十字架が海からよく見えたそうだ。彼
らはこの地をクルスの辻と名付けたが、それが黒瀬になったという。そこに黒瀬の辻殉教碑が建っている。その後ろには「ガスパル様」の墓とされるものがある。
生月島は1581年末、領主でキリシタンであった籠手田安経が急死した。息子もキリシタン
であったため、カトリックの信仰は続いた。だが、1599年、松浦鎮信が領主になったことにともなって、棄教を命ぜられたため、籠手田氏は領民800人とともに長崎に脱出した。一方生月は松浦氏の直轄領となり、脱キリシタン政策が行われた。
し
かし、籠手田氏の代官だっ
た西玄可(ガスパル)は、籠手田氏が生月島を去り、自分の役目が奪われた後もキリシタンの保護を行った。しかし、1609年に西一族がキリシタン信仰を捨
てないことが松浦鎮信にばれると、鎮信は棄教しない者を処刑するように命じた。そのための役人の船が生月島に来たが、本人は殉教を希望して逮捕され、妻、
子供とともに処刑された。それがこの場所だという。
こ
こには3基の積石基壇の墓がある。伝承から松を抱いている墓がガスパル様のものとされる(異説もある)。16世紀の終わり頃から、この地域の墓制は積石基
壇型をとるが、17世紀半ばに入ると基壇が小さくなり、家単位のものになるという。このような単体の墓はガスパル様の殺された時期特有のものだそうだ。一
方、このような石積みの殉教者の墓が、生月島の中には点々とあって、むやみに近づかないようにと教えられていたそうである。