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倫理授業(追記) 20150223 道教(思想) |
道教思想は早い時期から日本に流入した。 道教は中国人(漢民族)の民族信仰であるが、 気を取り込んで不老不死を求める宗教である。 不老不死が出来る人のことを仙人という。
もともとアニミズムに始まるもの(東アジア一体に広がる)であるが、 老荘思想、仏教思想、儒教思想などを取り込んで成立した。 一応の成立は7世紀頃、遣唐使船が盛んに往来していた頃である。 さらに13世紀頃に大きく変容し、海の神である媽祖信仰や関羽の信仰が取り込まれた。 13世紀頃、 日本では鎌倉時代、中国では宋が、朝鮮では高麗が成立した大きな変動期であった。
道教では多様なものを信仰するが、代表的なものは 1.神仙(蓬莱など)信仰 cf.徐福、 2.五山信仰、 3.気を取り込む→薬(仙薬)、 4.北斗七星信仰などがある。
このような道教文化が遣唐使船などによって日本に導入され、一時期流行する。 斉明天皇陵などは八角形に作られているが、 これも道教で最高の数である「八」から来ている。 八幡も八つの幡で道教に由来するものである。 道教、仏教、神道が習合しているものが八幡信仰になった。 その他に、陰陽道、五行、修験道(鏡、薬、九字)、神仙、 風水、庚申信仰などに道教文化の影響が見られる。 天皇という言葉も、天皇大帝に由来するという。 さらに、お札やおみくじ、三里の灸、中元、鍾馗様も道教由来である。(おわり)
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倫理授業 2月20日 道家の思想 |
儒家の思想を批判して登場したものが道家の思想である。老子と荘子を扱う。
1.老子(実在したかは不明) 老子は万物の根源を道(タオ)とした。 形のあるものではないので、仮に「道(始まりと終わりの意味)」とするが、「無」でもある。 すべてが道から出て道に帰る。 これに対して、儒家の人倫の道は、人間が都合に合わせて作った人為の「道」である。 それなのに、そんな人倫の道が説かれたのは、「大道廃れて仁義あり」だからである。 自然の道が廃れたから、仁義という次善が説かれたのである。
すべてが道から生まれ、道に帰るのだから、それに従えば良いはずである。 即ち、無為自然に生きれば良い。 無為とは何もしないことではなく、自然の秩序に帰り、 本来的に備わっている力を生かすことである。 文明や学問の奨励が、人間を不幸にし、社会に混乱をもたらすのである。 そのためには @本来の生命を損なう作為を捨てること、 すなわち天真爛漫(飾らず自然なこと)、 嬰児復興(赤ん坊のように無欲で、素朴で、無心になる事)が必要である。 A自然に逆らわず、私利私欲や知恵を捨てる、「無欲恬淡」。 B謙遜して敢えて争わない「柔弱謙下」が大切である。 謙遜することで、その人の芯の強さを秘め、最後には勝利を得ることになるのである。 そのようになれば、水が上から下に自然に流れるように タオの流れに従うことが出来る(上善如水)。
このような生き方ができれば、王も政治も学問も必要なく、 自給自足で満ち足りる規模で生活をすればよいということになる。 すなわち村落社会程度の規模が理想となる。これを「小国寡民」という。
2.荘子(前370−300頃) 老子を継いだ荘子は、孟子、荀子と同じ頃の人で、戦国時代末期に生きていた。 苦難を逃れようとしているのに、より大きな苦難に縛られていく人びとが 救済を求めていた時代である。
これを背景に、儒学は理想政治を追究したのに対して、 荘子は、政治を越えた宗教的な次元に、文明の根底的な救済を求めた。 そして次のようなことを説いた。
1.万物斉同 善悪、美醜、是非は人間が決めたもの。美のない醜は存在しないし、その逆もない。 しかし、どれも同じものである。 森の中で猛獣が美人か、そうでないかによって食べるか食べないかを決めることはない。 どれも同じだから、美醜の区別無しに食べるのである。 そのような作為にこだわるから苦なのである。
2.心斎坐忘 一切の対立・差別・偏見にとらわれず、世界と一体になり、
3.逍遙遊 おおらかな絶対自由の境地に遊ぶこと。そのような人が真人なのである。 タオを理論で理解しようとしてはいけない。 そうしようとすることは、すでにタオから外れているのである。 真人とは、タオの流れるままに生きられる人のことを言うのである。
老子、荘子の考え方は、中国に仏教が入るときの基礎となった。 本来、仏教は中国の人にとっては異質な宗教であった。 だが、「道」=「無」が仏教の「空」に準えることが出来、 万物斉同が一切皆苦、諸行無常、諸法無我にあたり、 逍遙遊が涅槃寂静に似ているように、 老荘思想と仏教が同じものであると理解されて、中国で広がった。 (後に別物と認識されるようになる)。 西方に旅立って行方不明になった老子は、 実はインドに渡り、釈迦に会って道を説いたとか、 インドで釈迦になったというような巷説が出来たほどであった。 老荘思想がなければ、日本に仏教が入ることはなかったとも言える。
また、漢詩の世界でも重要な思想である。 科挙が旨く行かなかったり、疲れた人が作詩する場合が多いからである。 李白、杜甫、白楽天、蘇東坡などが代表的である。
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日本史授業 20150223 協調外交の終焉 |
浜口内閣の外傷は幣原喜重郎であった。再び協調外交が始まった。 1930年、一時的に中国と友好ムードになっていた。 その中で、日中関税協定が締結され、条件付きで中国に関税自主権が認められた。 中国は北伐終了後、国権回復と不平等条約解消を求める国民の声が強くなっていた。 そこで、国民政府は一方的に不平等条約の無効を宣言していたのである。
また、ロンドン海軍軍縮会議に参加した(30年1月〜、4月、ロンドン海軍軍縮条約)。 1927年のジュネーヴ会議が決裂したことを受けて開かれたもので、 ワシントン会議で決められなかった補助艦の比率を話し合うものであった。 海軍は対米比率7割を主張した。 その結果、主力艦建造禁止を5年延長すること、 補助艦総トン数比を米:英:日=10:10:7、 大型巡洋艦の比率を10:8.2:6と決めた。
これに対して野党、政友会は海軍軍司令部、右翼と結託して条約に反対する態度を示した。 理由は統帥権干犯である。天皇は軍を統帥する権利を持っていた。 一方、軍は軍隊の編成、兵器の備用、給与など行政面を扱う軍政と、 国防計画、作戦計画、兵力の使用に関する統帥面の軍令に分けられる。 軍令は軍部大臣が天皇を補弼して行うもので、 天皇に直属する海軍司令部などが行うもので、 その司令部に相談せずに、勝手に比率を変えたのは、 統帥権を侵すものだと批判したのである。
結局、10月に、枢密院と宮中側近の支援を受けて、条約を批准したが、 11月、浜口は東京駅駅頭で狙撃された。 一度回復したように見えたものの、翌年死亡した。
浜口が、軍を排除して事故の方針を貫いた点では、政党政治の勝利と言える。 しかし、協調外交、緊縮財政に終止符を打つこともはっきりしてきた。 それゆえ、対英米協調も、満蒙の問題も行き詰まりを見せるようになった。 さらに、政友会が海軍や右翼と結託したことは、彼らに政治意識を持たせることとなり、 のちの軍部の独裁へとつながるきっかけとなったといえる。(おわり)
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Posted by hajimet at 16:02
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日本史授業 20150219 金解禁 |
金解禁 日本は1917年、アメリカにならって、金輸出を禁止した。 これによって金本位制は停止した。
金本位制は、自由兌換、自由鋳造、自由溶解、自由輸出ができることでなりたつ。 自由輸出によって金の保有量が調整されることによって、物価が安定するとされる。
金輸出が禁止されると、金の裏付けがなくなるから、銀行券が増刷されるようになり、 インフレーションが進んだ。そのため、財界では金輸出解禁を求めるようになった。 1925年頃から、各国で金解禁されていたからである。 だが、日本では恐慌が続いたため、金解禁が出来なかった。
1929年成立した浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相は、金解禁論者であった。 金解禁をするために、 緊縮財政によって物価を下落させ、 それにより為替相場を安定させてから、 金解禁をすることを目論だ。
1930年1月1日、金解禁が「旧平価」で行われた。1ドル=49.85ドルである。 だが、新平価論もあった。というのも、 金輸出を禁止してからレートが変わっていたからである。 1928年の平均為替相場は1ドル=46.5ドルだった。 井上は日本の体面も考えて円高時代の旧平価を採用したが、結 果として円高になったために、輸出はふるわなかった。輸 出が振るわなかった理由はもう一つある。世界恐慌が起きていたのである。
世界恐慌 1929年10月、アメリカニュー欲の株式が暴落して、世界恐慌が始まった。 ヨーロッパはアメリカの資金により再建されたが、 ヨーロッパが復興すると、生産設備が過剰となった。 同時にソ連が出現して市場も大きく欠落した。 そのような状態なのに、投機ブームで株式市場は騰貴をつづけた。 その過剰生産が表面化して、あっと言う間に恐慌となったのである。
日本では、恐慌によって再び金輸出が禁止になると考えて、財閥がドルを買い占めた。 その結果金が日本から流出して、デフレーションとなった。
1930年3月、4月に株式が立て続けに暴落した(昭和恐慌)。 特に4月は、東京株式取引所の立ち会いを停止し、株価が6割、物価も7割に減少した。 世界物価の低下も激しいため、貿易額が6割前後に落ち込み、輸入超過となった。 その結果、中小企業の減資、解散が相次ぎ、大企業も生産制限を行った。
政府は対策として、1931年、初の統制法である、重要産業統制法を定め、 指定産業の不況カルテル結成を認めた。 すなわち、生産、価格の制限ができるようになったのである。 この法律により、独占資本本位の重工業化が行われ、産業の合理化が行われた。 まもなく満州事変が始まる時期だが、結果として、戦時体制の下準備が行われたことになる。
農業恐慌 昭和恐慌は農村にも波及した。 農村の中心的副業は繭産業だが、米国への生糸の輸出量が低下したため、 繭価は4分の1に下がり、1930年の米価も、大豊作と植民地米移入により2分の1に下がった。 これによって農家は打撃を受けたが、 農産物の価格の下落は大きく、キャベツ50個でタバコ1箱と同じ15銭にしかならなかった。
その後も、1931年、東北地方の大凶作、32年、凶作、33年、三陸大地震、 34年、室戸台風と続き、32年の1軒あたりの農家の負債が平均837円という状態になった。 これは、平均所得とほぼ等しい額である。 農村では娘の身売り、欠食児童が増え、青田売りも増えた。
さらに、都市への出稼ぎや賃金労働の機会は閉ざされ、働き口がない上に、農村では 都市から帰農人口を多くかかえた為に、惨憺たる生活をおくらなければならなくなった。
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Posted by hajimet at 15:56
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日本史授業 20150219 外交政策の転換 |
田中義一は日露戦争で満州軍に参加したり、シベリア出兵に対して積極派であり、 武力による対中進出を主張していた。 (ただし、欧米に対しては巨超外交で、1928年に不戦条約を締結している)
1926年、中国では、国民党(蒋介石、25年孫文死亡のため)が北伐を開始して、 上海、南京などが占領されるに至った。 北伐が始まったことで、対中貿易は伸び悩み、幣原の外交政策は批判を浴びるようになった。 北伐軍が山東省に近づくと、 田中内閣は、3度にわたって山東省に軍を派遣した(山東出兵 27年5月、28年4月、5月)。 名目は居留民保護であるが、張作霖支援が本来の目的であった。 第一次山東出兵によって、北伐の動きは一時止まった。
この最中、27年6月、東京で東方会議が開かれた。 対中政策の確立が目的で、東京に在外公館の外交官はじめ、 関東軍司令官、陸軍次官らが集められた。 その結果、武力「現地保護」政策、満蒙分離政策、親日派の育成をはかることが決められた。 このことによって、ワシントン会議で後退した日本の対中政策を復活したのである。
28年、北伐が再開されたために、再度軍隊を山東半島に送り、済南に軍を進めた。 済南は山東半島からの鉄道や、北京から南下する鉄道が交叉するところで、 近くに黄河も流れる交通の要衝であって、外国人も多く居留していた。 ここに国民党軍も済南城に入城した。 5月3日、日本軍と国民党軍の間で小競り合いが起きたことをきっかけに、 本格的な衝突にまで至った。済南事件という。 これによって城内の軍民5000人が死傷した。日本側は、引き続き山東を制圧した。 その一方、国民軍は山東省を迂回して北京に向かっていた。
一方で、対中貿易の方針を巡り、2つの流れがあった。 それは、満州武力制圧派(関東軍)、 張作霖傀儡政権樹立促進派(田中)であった。
北京にいた張作霖が北伐軍に攻撃されると、 政府は張作霖に北伐軍との交戦をやめて、満州に「退去」し、 日本の「援助」の元に事実上独立することを勧めた。 張作霖は最初拒んだものの、北伐軍に敗退して日本の意見を飲んだ。 28年6月3日、北京発の特別列車で奉天に向かったが、 翌日朝、奉天駅手前で列車ごと爆破されて死亡した(張作霖爆殺事件、満州某重大事件)。
事件は関東軍の河本大作大佐らによるものであった。 軍の言いなりにならない張作霖を暗殺し、こ れをきっかけにして満州に武力紛争を起こさせようとしたものであった。 政府は高元を重罰に処するつもりであったが、陸軍の反対で停職処分だけで終わった。 田中義一は、天皇に対して、関東軍は無関係と説明していたが、 天皇に「偽装は明白」といわれた。天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職した。
一方で張作霖暗殺後、張学良が後をついだ。 そして、国民党に帰順したため、28年、北伐は終了した。
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Posted by hajimet at 15:51
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日本史授業 20150216 金融恐慌 社会主義運動の高揚 |
金融恐慌 (2)第2段階 取り付け騒ぎに続き、1927年4月に台湾の鈴木商店が破産した。 鈴木商店は砂糖や、防虫剤などに使われる樟脳を扱う会社で、 第一次世界大戦で、傍系会社を50近く持つ大商社となった。 その勢いは、三井や三菱にせまるほどであった。 しかし、戦後恐慌、震災恐慌で打撃を受け、 27年3月、台湾銀行が新規貸し出しを停止してしまった。 しかし、この結果、台湾銀行が資金を回収出来なくなり、経営の危機に陥った。
政府は緊急勅令で台湾銀行を救済しようとしたが、枢密院に拒否された。 表向きの理由は議会が開けるので、勅令は必要なと言うことであったが、 実際は一銀行、一商店のためでなく、 政策を失敗した中国にそのお金を向けるべきと言うことであった。 在華紡の権益を守れという三井の圧力によるものであった。
4月18日、台湾銀行は休業した。同日、若槻内閣が総辞職して、田中義一内閣となった。 預金者は一斉に取り付けにはしり、恐慌の第二段となった。
預金者は中小銀行に対して不安を持つことになり、 預金が大銀行に集中し、五大銀行が確立した。 一方中小銀行が取引している中小企業は経営に行きづまり、 大企業による整理統合が行われた。
(3)終息 田中内閣の蔵相、高橋是清は、4月22日から3週間、モラトリアム(支払い猶予)を実施した。 22日、23日は休業して、銀行はその間に資金を調達した。 日銀も紙幣印刷が間に合わず、裏面が白紙の200円紙幣が発行された。 5月に台湾銀行救済法が提出され、恐慌は終息した。
社会主義運動の高まり 普通選挙法の通過は、社会主義運動にも変化を生じさせた。 議会を通じての社会改革をめざすようになった。 1925年12月、労働農民党が結成された。共産党系を排除して成立したが、 26年3月に共産党系の勢力が伸び、 同年12月には 労働農民党(左派)、 日本労農党(中間派)、 社会民衆党(右派)に分裂した。
1928年2月、第1回普選が行われた。その結果、労働農民党が8議席をとった。 議席数は少ないのだが、得票率は5%の高さであった。 治安維持法などで運動を抑えていた政府は、この結果に衝撃を受けた。
1928年3月15日 共産党、労働農民党系を約1600名検挙する3.15事件がおき、 5月には治安維持法が改正された(緊急勅令)。最高刑が死刑に高められたことと、 特別高等警察が創設された。 10月には共産党議長が台湾キールン(基隆)で自殺、 29年3月には労農党山本宣治が殺されるなどの事件も続いた。 さらに、29年4月16日、共産党系の人物が800名検挙される4.16事件がおきた。 このように政府は、共産党再建の動きを徹底的におさえ、共産党活動は地下化した。
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Posted by hajimet at 22:11
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日本史授業 20150212 護憲三派内閣 恐慌の時代 |
護憲三派内閣
1924年清浦奎吾内閣が成立した。清浦は枢密院議長で、政友会の協力がなかったため、 完全な超然内閣として成立した。
普選運動が広がっている中でのことだったこと、3代続いて非政党内閣だったことから、 政党側の三派が連合した。すなわち、 政友会(高橋是清)、 憲政会(加藤高明)、 革新倶楽部(犬養毅)である。
政府は24年1月に政友本党(政友会から分裂した右派)を味方につけてて議会を解散した。 だが、5月の選挙は護憲三派の勝利に終り、加藤高明内閣が成立した(三派連合内閣)。 政党内閣はこの後1932年、犬養内閣が崩壊するときまで続く。
加藤内閣の外相は幣原喜重郎で、協調外交が行われた。 1925年、普通選挙法が成立し、25歳以上の男子に適応された。 有権者は4倍の1200万人に増えた。 だが、法案提出後、枢密院の諮問により、無産主義対策が求められた。 そのため、抱き合わせで治安維持法が成立し、 国体の変革と資本主義を否定するものを最高刑は10年の懲役、禁固とされた。
治安維持法は普選法の関係で制定されたのみならず、 同年、日ソ基本条約が締結されたことも関係する。
だが、1925年立憲政友会で田中義一が総裁となると、革新倶楽部が政友会に吸収され、 加藤内閣は単独内閣となった。その、加藤は25年に病死し、若槻礼次郎内閣となった。
1926年12月25日、大正天皇が死去して、昭和が始まった。 元号は「百世昭明、万邦共和」から来ていた。
恐慌の時代 1.戦後恐慌 1920 大戦景気の反動で。ヨーロッパの産業が復興して、アジア市場も再開された。 大戦景気では投機的性格もあわせもったが、 日本の生産水準は世界市場に対抗できるほどではない。 そのために、株価が急落して恐慌が起きた。
この恐慌は日銀の非常貸し出しで乗り切ったが、中小企業の倒産は避けられなかった。 一方、財閥は堅実な経営を行い、地位が向上した。同時に財閥系銀行の地位も向上した。
2.震災恐慌 1923年9月1日 戦後恐慌以来の慢性的不況が続く中、関東大地震が発生した。 これにより銀行手持ちの手形の決済が出来なくなった。 地震によって東京にある会社が被災し、払い込みが出なくなったケースが続出したからである。 そのような手形を日銀の特別融資によって解消しようとしたが、なかなか旨く行かなかった。
3.金融恐慌 1927.3.15 (1)その1 震災手形の処理は失敗した。財 界の動揺を防ぐために、企業の整理が行われなかったからである (諸外国では、このような場合、整理する)。
ところで、1925年に成立した若槻内閣は、正常な貿易関係を開こうとした。 そのために、 金輸出禁止の解除(1917年に禁止、30年解除)、財政整理、産業の合理化が必要と考え、 まずは銀行の建て直しが必要と考えた。
そのためには震災手形の処理を改めて行おうとした、 1927年、片岡直温蔵相は公債発行によって処理を行おうとした。 一方、野党は不良銀行の公表を迫った。 そんな中、蔵相が東京渡辺銀行とあかぢ銀行で支払いを停止したと失言してしまった。 実は、この日、資金融資ができず支払いを停止したのだが、 2時には融資が出来て支払いを再開していた。 その情報が蔵相に入っていなかったのである。
これをきっかけに二流銀行で取り付け騒ぎが起き、 東京で6行が閉店に追い込まれるという事態になった(金融恐慌)
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Posted by hajimet at 22:07
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日本史授業 20150212 社会運動の勃興と普選運動 |
第1次世界大戦は各国で普選の流れを加速させた。 欧米における第一次世界大戦は、 それまでの訓練された兵士による局地戦の戦争と異なり、 国力を総動員して戦う総力戦だったからである。 各国では戦時体制を組んだ。 すなわち、 ・軍事工業優先 ・女子、青少年の軍需工業への動員 ・食糧配給などを柱とする体制となった。 これに対して民衆は反戦ストライキを行った。 また、自分たちの生活が統制されるのに、 その政策を決定する政治に参加できないのはおかしいという理由から、 参政権=普通選挙権を求めるようになった。
一方、日本における大戦は局地戦であったが、 物価高騰、実質賃金下落による生活苦と、 ロシア革命、米騒動が刺激となって、社会運動が高揚した。 これが普通選挙運動につながるのである。
1.労働運動 1912年、鈴木文治が「友愛会」を結成。 鈴木はクリスチャンで、キリスト教精神に基づく相愛相扶による 労働者階級の地位向上、労働組合の育成を図ろうとした。 だが、全国組織化するうちに、次第に労働組合としての性格が強まり、階級闘争化した。 その結果、1919年、大日本労働総同盟友愛会となり、20年に第1回メーデーを主催した。 さらに21年には大日本労働総同盟となり、 21年の日本製鋼所や三菱長崎造船所の闘争に協調したりした。
2.農村 農村でも1919年以降、小作争議が頻発するようになった。 これに対して、1922年、賀川豊彦、杉山元治郎らが日本農民組合を結成した。 賀川はキリスト教社会運動、社会改良を志して労働運動を行ったが、 それに失敗して農村に拠点を移した。鈴木文治とも接している。 杉山は牧師で、賀川から協力を求められて運動に参加した。
3.社会主義運動の高揚 大逆事件以来、社会主義運動は下火になっていたが、 社会運動が盛んになるにつれて、その理論的背景となり得る社会主義運動も再開された。 1920年、運動家らが一同に会して日本社会主義同盟が結成されたが、 これは21年に禁止された。
学会で東大の森戸辰男が、近代社会の弊害を除く窮極の考え方は無政府主義であるとして ロシアの革命家であるクロポトキンを研究した。だが、これにより森戸は休職に追い込まれた。
無政府主義とは社会主義を純化して突き詰めていくと出てくる考え方で、 政府の存在自体を否定する立場である。
運動界では 大杉栄の無政府主義路線と堺利彦らによるマルクスレーニン主義路線が対立していた。 マルクスレーニン主義とは、ソ連政府がとった社会主義路線のことで、 資本主義を経なくとも社会主義革命が出来ることと、 現段階においては政府の存在を必要とする立場である。
だが、ロシア革命の影響から堺の路線の方が優位になり、 1922年、堺、山川均らによって「日本共産党」が創党された。 非合法であるが、正式にコミンテルン支部と認められた。
4.女性運動 1911年、青鞜社創設。平塚らいてうによる。青鞜の創刊後の出だしの文句は非常に有名。 1920年 新婦人協会 平塚、市川房枝
5.被差別部落 1932年 全国水平社
いずれも大衆の立場からの運動であって、参政権=普選を主張した。 1919年から20年の世界的デモクラシーも背景としている。 加藤友三郎内閣では普選について検討を始めた。 もはや原内閣のような立場はとれないほど、運動が盛り上がっていたのである。
第二次山本内閣も普選に賛成であったが、 内閣が成立した日に関東大地震が起こり、それに対応しなければならなかったことと、 皇太子(昭和天皇)が虎ノ門で狙撃されるという虎ノ門事件で引責辞任したため、 普選法が取り上げられることはなかった。
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Posted by hajimet at 21:33
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日本史授業 20150209 ワシントン会議(2) |
3.ワシントン会議(1921年11月から) ヴェルサイユ条約はドイツの賠償金を英仏伊に支払うことが内容の一つであったが、 英仏伊もアメリカに対して債務を負っていたため、 債務返済をドイツの賠償金で行うことが期待された。 しかし、ドイツは賠償金を返済できず、 結果的にアメリカに対する債務が返済されないという状況になった。
一方、極東においてはソヴィエトが連邦制をとる動きを見せ (22年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカスでソ連を構成)、 日本は中国進出を露骨に行い、 その中国では民族運動が活発化するなど、 新たに対応しなければならない事態が発生していた。
こういう状況の中で、アメリカのハーディング大統領がワシントン会議を提唱した。 ヴェルサイユ条約は、中国が未調印、 米国もモンロー主義が強まった影響で未批准だったため、 東アジア、太平洋地域における戦後体制は確立していなかった。
アメリカの目論見は、 @建艦競争を終了させ、各国の財政負担を軽減させることと、 A膨張する日本を押さえることであった。 このとき、日本はシベリア、満州、山東省、南洋群島に勢力を伸ばしていて、 直接アメリカの権益と衝突することになるからである。
日本は原内閣野路痔で、対米協調路線をとっていた。 その他絵、加藤とも三部労、幣原喜重郎らを全権大使としてワシントンに派遣した。
その結果、3つの条約が結ばれた。 @四か国条約(1921 日英米仏) 太平洋諸島における各国の領有権を尊重 A九カ国条約(1922 日英米仏中伯蘭葡伊) 中国の領土と主権尊重、門戸開放、機会均等(中国の政治的独立と列国の既得権の保護) Bワシントン海軍軍縮条約(1922年 日英米仏伊)。 今後10年間主力艦(戦艦、巡洋戦艦、空母)を建造しない。 主力艦の総トン数を米英:日:仏伊=5:3:1.67とする。 海軍は対米7割(3.5)を主張したが、海軍大臣だった加藤が海軍を抑えて妥結した。
しかし、四か国条約を結んだ結果、日英同盟が廃棄された。 日英同盟は日露戦争後両国の思惑がずれてきて、条約を改正を繰り返していた。 また、日本が日英同盟を利用して第一次世界大戦に参加した。 そのようなことから、英国が日本に対して同盟の廃棄を申し入れたのである。 これによって、日本の外交の基軸がなくなり、日本は孤立化の道を進むこととなった。
また、九カ国条約の締結によって、石井ランシング協定が廃棄された。 特殊権益が認められなくなる結果、日本の中国進出が阻止されたことになる。
このような3条約による体制をワシントン体制と言い、東アジア協調体制が完成した。
4.協調外交 ワシントン体制は加藤友三郎内閣、山本内閣と引き継がれた。 これは日米のの経済関係が良好だったためである。 1924年、護憲三派による加藤高明内閣が成立すると、 幣原喜重郎外相の下で、いわゆる幣原外交が始まった。
幣原は協調路線をとり、経済重視の外交姿勢をとった。 すなわち、 ヴェルサイユ・ワシントン体制の尊重、列国との協調、中国に対する不干渉政策をとった。 ただし、対中不干渉は表向きで、とくに経済関係には非妥協の体で臨んでいた。 というのも、中国への輸出は日本の総輸出の2割以上で、 なかでも繊維は5割以上の輸出割合を占めていたからである。 しかし、英米の対中輸出が復興したため、1921年から対中輸出は減少していたのである。
日本としては、経済面での輸出拡大と、満州権益維持を図らなければならなかった。 一方、中国では北伐の動きが強まり、 孫文率いる中国国民党と、1921年に創党した中国共産党が手を組む 第一次国共合作が行われていた。
そんな中、1825年、上海で日本人が経営する在華紡でストライキを行った。 ここで中国人労働者が死亡するという事件が起きた。 日本人監督とイギリス人警官の横暴に怒った民衆は、 5月30日に反帝国主義のストライキとデモ行進を行ったが、 イギリス警官の発砲によって13名が殺される事態となった。 この抗議は広東、香港にも広がった(5.30事件)。
これについて日本政府は中国に対して同条のポーズをとった。 中国市場を守るためのことで、怒りの矛先をイギリスに向けさせるためであった。 だが、実際は北方軍閥の張作霖に武力鎮圧を要請していたのである。
協調外交は軍縮の推進でも現れた。 海軍では老朽艦の廃棄、軍艦の建造中止を行い、 陸軍でも近代化を行うことで軍縮をした。 加藤友三郎内閣の山梨半造陸将の軍縮を山梨軍縮、 加藤高明内閣の宇垣一成陸将のそれを宇垣軍縮という。
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倫理授業 20150217 中国思想(3) 孟子、荀子 |
孔子は仁と礼についてといたが、両者の関係について、 特にどちらを重視するかは語っていない。 そこで孔子の弟子の間で仁を重視するか、礼を重視するかの立場が分かれていった。
孟子(前372?-289?) cf.孟母三遷
孟子の時代は戦国時代末期にあたるが、「仁」の教えを受け継いだ思想を打ち立てた。 すなわち、仁を重視した。 孟子は性善説に立つ。 人間の性は天から授かったもので、天は善であるから、 当然、人間は善き道徳性をもつことになる。 悪の原因は外から来ることである。 したがって、人には善悪を理知的に判断できる「良知」、 悪を退け、善を行う「良能」がある。 そのように生まれながらに「良心」を持つのである。
人は本性を開花させなければならないが、そのきっかけ(端緒)になる心が 4つあるとする(四端)。 惻隠の心 他人の不幸を見過ごすことの出来ない同情心(忍びざるの心)→仁 羞悪の心 自分や他者の悪を恥じ憎む→義 辞譲の心 他人にへりくだる→礼 是非の心 善意を見分ける→智
(仁義礼智:四徳)
この中で重んじるものは仁義である。 仁は他人を思いやる心で、 義は社会の人間関係における正しい道理だからである。
そして四端が身体に充実すると(徳が実現されるようになると)、 天とつながっている人は、それによって不動心、 伸びやかな心に満ちあふれる「浩然の気」が現れるようになる。 このような人を大丈夫という。これが孟子の理想像である。
一方、人のつきあい方を五倫とし、 父子に親を、君臣に義を、夫婦に別を、長幼に序を、朋友に信を求める。
この五倫と五常(四徳+信〔前漢、董仲舒によって追加〕)が儒教の基礎となっていく。
このような中で求められる政治は王道政治である。 すなわち、仁義に基づいて民衆の幸福をはかる政治が求められる。 民衆の幸福とは「恒産なければ恒心なし」という言葉に代表されるように、 収入が安定しなければ、安定した気持ちはできないということになる。
王道とは恒産を保護することになるが、これは国民を豊かにすることにつながる。 したがって、つねに耕地開発や資源開発を行い、 衣食住を充実させていかなければならないことになる。
開発を中心とすることは儒教の大きな特徴となる。 いかに「人」が豊かに暮らすかが焦点になるからである。 同時につねに大丈夫たろうとして自分を高めていく必要も出てくる。 それゆえ、儒教社会は、勉強をすることが重要な意味を持つ社会にもなるのである。
2.荀子(前329〜235) 諸子百家の学問を批判的に吸収し、古代思想を集大成した人で、 弟子に法家の韓非子、法家で秦の始皇帝の宰相だった李斯がいる。
荀子は人倫は、天から与えられたものでは無く、人間が決めていくものとして、性悪説をとった。 人間を放任すれば欲望に流され、混乱が生じるからである。 「人の性は悪にして、其の善なるは偽なり」。 「善なるは偽」とは善であると言うことが嘘だということともに、 人為的(偽)に、人の為に強制できるということを意味する。
本性を強制して善なるものに育て上げる努力が必要ということが先人の主張だとして、 「礼」を強調した。
したがって、政治も人々の行為を規制する社会規範としての 礼を用いて政治をすべきだという「礼治主義」を主張した。
ところで、儒教は内面(仁)とそこから生じる外面(礼)の問題を基本とする。 荀子の礼治主義も社会規範による規制を主張する点においては外 面的なものを対象にしているように見えるが、 やはり主軸は心の問題なのである。 したがって、現実の社会統制に効果は無い。 一方、外面的な規範を強調していけば法の問題にたどり着く。 そこが、儒家の荀子から法家の韓非子らが登場した理由なのである。
結局、法治よりも徳治を重視した孔子の立場が、孔子−荀子−韓非子の流れの中で、 再び法治を重視するように変わっていったことになる。
なお、孟子の立場は、朱子学に受け継がれ、近世の儒学になっていく。 一方で荀子の立場は儒学としては力を失ってしまった。
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倫理授業 20150210 中国思想(2) 孔子の思想 |
孔子は山東半島、魯の曲譜に生まれた、 魯国は周公旦に始まる国で、孔子の時代でも周の封建的要素が生きていた。
周はもともと封建制をとっていた。 君主が諸侯に土地などを分封して支配させる制度であるが、 諸侯(卿、大夫、臣)は血族か功臣であったために、 周王朝との間に本家、分家関係ができた。 それぞれが共通の神を祭司するが、 そのやり方(礼)は家の格によって決まっていた。 礼は本来は神に対する儀式の履行のことであるが、 その意味は、次第に人の身分関係の作法に変わってきた(礼儀)。
そのような周を理想とする孔子だが、 時代は春秋戦国時代となって、周の封建制は崩壊してしまった。 孔子は人間のあり方についての普遍的な原理を探り、社会生活の秩序を立て直そうとした。
この当時、多くの思想家はそれぞれの国に雇われてアドヴァイスをする仕事をしていた。 孔子もそのようなことを求めていたが、孔子の意見は受け入れられなかった。 そこで、生涯を弟子の教育に注ぐことになった。
孔子は人間の真実の生き方「道」を求めた。「朝に道を気かば、夕に死すとも可なり」。
その「道」は現実世界の合理的なものに求めた。 すなわち「怪力乱神を語らず」「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」である。
孔子は現実政治の混乱の原因を「礼」の形骸化に見いだした。 そのために礼の権威の回復が必要と考えた。 法はそれをくぐり抜けようとする者がでるから、民心がついてかない。 したがって、礼によって統治する必要があると考えたのだ。
そして、礼を支える精神、心のあり形を仁とした。 孔子は仁について、具体的なことは説明していない。 ただ、この文字は二人が出会うことを意味し、人が親しむことを意味するから、 「思いやり」のこと指していることになる。
そして、一番密接な人間関係である、家族の情を基本に考えることにした。 まず、自分の問題として、 自分を偽らない「忠」、 自分の如く他人を思う思いやりの「恕」(己の「欲せざる所は人に施すこととなかれ)、 他人を欺かない「信」、 欲を押さえる「克己」が必要であり、 家族に対しては、子の親に対する「孝」、 弟の兄に対する「悌」が必要だとする。
すなわち、家族は単に血縁という生物的な関係だけでなく、 「親子」という社会的関係も存在し、その中でどうつきあっていくかが大切になるのである。
その上で、孔子は「克己復礼」が大切で、 自我に打ち勝って社会規範である礼に従うことが必要だとする。 他人を尊重する態度や言動、社会規範に自覚的に従うことが必要だとする。 なぜ礼に従うかというと、鳥獣に礼はないからであり、 内面的な仁を実践するに当たっては礼にかなう必要があるからである。
仁の実現を志す者を「君子」という。君子は身分にかかわらず、 徳を備えた高い人格の持ち主のことを指し、これが人間の理想像だとした。 したがって、政治も人徳を備えた者が、その徳によって政治を行えば(修己治人)、 社会の秩序は安定するという徳治主義を主張した。
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倫理授業 20150206 日本仏教(4) 中国思想(1) |
(B)禅宗 禅とは禅那(dyahna)から来ている言葉で、 座禅による自力修行により、悟りにいたろうとすることである。 すでに、ウパニシャドで我欲を去るために座禅を行っていたが、 それがインドの達磨によって中国に伝えられた。 中国では老荘思想と結びつき、それが日本に流れ込んだ。
栄西は宋に渡り、禅をもたらして臨済宗を開いた。
一方、比叡山で修行をしていた道元は、 当時天台で流行していた本覚論(人はもともと佛である)に基づき、 どのように修行するのかを追求した。
その結果、それは、禅による自己修行であるとして、曹洞宗を開いた。 そのやり方は、ひたすら座禅をする只管打坐を行うこと。 身も心も一切の執着からはなれる境地になれば(身心落脱)悟れるとした。
すなわち、焼香、念仏、礼拝は必要なく、無念無我になればよいとした。 それゆえ、どこであっても場所さえあれば、座禅を組むことが出来る。 だから、武士に流行した。
(C)日蓮宗 日蓮は千葉県(安房)生まれ。比叡山で修行した。 法華経が最高の法典であり、法華経の考えを広めれば、人々と日本を救えるとした。 そして、法華経に帰依する「南無妙法蓮華経」を「唱題」すれば、 仏陀と一つになり成仏出来るとした。
(D)まとめ 鎌倉仏教の特徴は、信仰を広く民衆にまで普及させたことにある。 教えが、一つの行や信への単純化と実践しやすい易行を説いたことと関係している。 教理体系としての仏教よりも、 末法に生きる個人の精神のささえ、生活の指針、実践救済の原理として信仰されたのである。
中国思想 源流 すでに1万年ほど前から長江流域に稲作遺跡が出ているが、 紀元前5000年頃には黄河流域で黄河文明が発生した。 黄土大地での畑作文明である。紀元前16世紀頃には殷が出現し、 すでに甲骨文字を通じて、様々な信仰が起きていたことが分かっている。
紀元前11世紀頃、周が起きた。このあたりの文化が中国(漢民族)の基層文化となる。 特徴は大きく3つある。
1.天帝信仰 天は、宇宙万物の支配者であり(日本には天の思想はない)、 天帝は不徳を罰する道義的な神である。 天は民の幸福を願い、有徳の者を王とする(天命)。 だが、天は具体的に語ったり、行動を起こしたりすることはない。 王は天を祭るが、天の声を直接聞くことは出来ない。 だが、天は民の幸福を願っているのだから、民の願っていることが天の声なのである。
したがって、民の幸福を奪うような悪政を行うと天は怒り、 その王を徳が無いとして変えようとする。天誅を下し、新しい王統に変える。 これが姓を変え、命令を改める易姓革命なのである。
中国や朝鮮の歴史書を読むと、 王政末期に彗星が現れたり、流星が落ちる、飢饉が発生する等の天変地異が 記録されることが多い。これは、そのようなことを背景にしているのである。
また、天は徳のある王とその子孫に地の支配をゆだねる。 その王統の間なのる国の名前が国号である。 従って、王の姓が変わると、国号も変わることになる。
2.易占 3.気 気は万物の根源であり、無形の物質的流動体である。 陰陽五行などの気の作用、風水なの考え方の下である。
このうち、天の思想が元となって発展したものが儒教。 気の思想が元となって発展したものが道家の思想。 中国の基層文化に天や気が融合したものが、道教ということが出来る。
このようなことをバックに中国思想ができあがるのだが、 その特色は、現実主義的傾向が強いということにまとめられる。すなわち、
・天を尊ぶ ・祖先祭祀を重んじる ・この世の生を愛するということで、 儒教は祖先祭祀による再生を願い、仏 教も現世に解脱を見いだす禅宗や、浄土転生を願う浄土教が主流となった。 また、道教も「不死」を願い「長生」を求めている。
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日本史授業 201502025 ワシントン体制(1) |
1.パリ講和会議(19年1月〜)、ヴェルサイユ講和条約(19年6月)
1918年8月、第一次世界大戦は休戦し、パリで講和会議が開かれた。 戦争の関係を清算する会議である。
会議はウィルソン米国大統領による14カ条の原則に基づいて行われた。 まずは、ドイツとその同盟国の領土処分と賠償金であった。
ドイツには1320億マルクという多大な金額の賠償金が求めら、 払いきれずにルール工業地帯をフランスに占領されたり、 物価が1兆倍にあがる事態になった。
つぎに少数民族の独立である。 これは、ウィルソンの「民族自決」の原則に従って行われた。 ただし、独立が認められたのは東ヨーロッパだけである。 しかも民族の境界線に必ずしも合致していない。 ドイツとソ連の拡充を防ぐことが目的だったからである。 (でなければ、バスク問題などは解決されているはずである)
3つ目が国際連盟の創設。 初の国際平和維持期間で、スイス、ジュネーヴに本部が置かれた。 ただ、ソ連、米国が加入していないこと、全会一致の原則、 経済制裁しかなく、武力制裁ができないことで、 国際連合に比べて力の弱いものであった。
山東半島で第一次世界大戦に参加した日本は、 西園寺公望、牧野伸顕らを全権として送った。
日本の目的は山東半島の権益確保と、21カ条の要求による権利確保である。 一方、中国は21カ条の要求の撤回を要求していたが、 日本の強圧的態度と米国大統領の説得を受けた。
また、中国国内ではヴェルサイユ条約締結に反対する五.四運動が起きた。 その結果、中国は条約締結を拒否した。
講和会議で、日本は 山東半島の旧ドイツ権益を確保した。 また、南洋群島は国際連盟による委任統治領となった。 委任統治はこの時に開始されたものである。 領土を分割して、いきなり植民地を建設することは 19世紀末頃から違法だという考えが広まっていた。 それゆえ、保護国を迂回させて植民地建設をするようになった。 (チュニジアに対してフランスが行ったことが最初)
しかし20世紀に入ると、植民地建設自体が違法と考えられるようになった。 そこで、国際連盟から統治を委任されるという形式をとったのである。 (国連時代には信託統治領に変わる) 委託された国は、国際連盟の枠の中で統治することになる。
一方で、この地域が委任統治領になると言うことは、 日本が太平洋に権益を広げることを牽制するという意味もあった。
日本に対して、このような権益が認められたにせよ、 欧米諸国の日本に対する不信は強まり、 日本の孤立化が進むこととなった。
2.三.一独立運動
(1)民族自決 1910年、朝鮮が植民地になって以来、 朝鮮では武断政治が行われ、人びとの間に不満が蓄積されていった。
一方、民族自決は朝鮮にも適応されることが期待された。 朝鮮では何らかの形で民族の意思を示すことが必要と考えられるようになった。
1919年2月8日 東京で独立宣言(2.8独立宣言) 東京にある朝鮮基督教青年会(現韓国YMCA) で朝鮮人留学生によって行われた。 韓国併合前から、日本に朝鮮人留学生は多く来ていたが、 特に、保護国化されて以降は、YMCAが朝鮮留学生の拠り所となっていたのである。 宣言文は朝鮮にも伝えられた。
1919年3月1日 京城のパゴダ公園で独立宣言(3.1独立宣言) 天道教(東学が発展した民族宗教)、基督教、仏教指導者が連合して行った。 朝鮮中に広がる。 「大韓独立万歳」を叫び示威を行ったので、万歳事件ともいう。
(2)なぜ3月1日だったのか。 この年1月21日に高宗が急死した。小豆がゆを食べた直後であった。 侍医側は病死と診断したが、毒殺説も広まっていた(今でも耳にする)。 高宗の葬儀は3月3日に決められた。全国から京城に人が集まってくる。 3月2日が日曜日だったために、3月1日に決められた。
総督府は、独立運動を弾圧をしたが、構造的な問題があることにも気がついた。 統治はうまく行っていると思っていたからで、 この事件は総督府にとっても大きなショックだったのである。
そのため、総督の資格を文官にも拡充し(実際に文官が総督になったことはない)、 憲兵警察も廃止された。また、民族誌の発行や会社の設立も認められるようになった。
このような統治を文化政治という。
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日本史授業 20150205 政党内閣の成立(2) |
3.原内閣 寺内内閣が瓦解した後、元老は人々の力を押さえるために政党内閣が必要と考えた。 そのため、立憲政友会の総裁であった原敬が首相に選ばれた。
原敬は、これまでの首相と異なり、家族でも藩閥でもない人物であった。 それゆえ、「平民宰相」と呼ばれた(ただし、南部藩家老の出)。 また、全閣僚(除、軍部大臣)が政友会であった。 西園寺内閣のときに、閣僚の大半が藩閥系だったことと大きく異なる。
政友会は内政については保守的、外交については対米協調の自由主義路線をとった。 それゆえ、西原借款は中止となった。 彼らの、支持基盤は財界や農村の富裕層だった。
政権の柱は積極政策であった。 高等教育の拡充、産業の拡充、鉄道網の拡充、国防の拡充である。 このなかで、高等教育については、それまで専門学校扱いであった 早稲田、慶応などの私立大学が、正式に「旧制大学」として扱われることになった。
一方で支持基盤の関係もあって、普通選挙については消極的であった。 当時、国際的には普通選挙が広がってきていたのにも関わらすである。 それまでも普通選挙権を求める動きは、20世紀に入る頃からあったのだが、 吉野作造の影響もあり、国民の間には普通選挙権を求める流れが強まっていた。
1919年から20年にかけて示威運動が繰り広げられた。 これに刺激をうけた憲政会と国民党は1920年に野党連合を形成して 普通選挙法案を国会に提出した。
これに反対した原は議会を解散し、その結果、与党立憲政友会が第一党となった。 原の考えは漸進的改革であった。 階級闘争としての普選法運動を否定していたのである(資料読む)。
このような原政権であったが、 1920年の恐慌によって積極政策が行き詰まってしまった。 また汚職事件が発生して、国民の不満がたまった。 そんな中、1921年11月、原敬は東京駅で刺殺されてしまった。
この後、 21年11月 高橋是清内閣(政友会総裁、リーダーシップがとれず、内部対立が起きる) 22年 6月 加藤友三郎内閣(海軍大将:非政党内閣) 23年 山本権兵衛内閣(海軍大将:非政党内閣) 24年 清浦奎吾内閣(枢密院偽証:超然内閣 内閣も貴族院議員で構成)、と短期 政権が続いた。
政権が流動化した理由は、山県の影響力が落ちたことが上げられる。 山県は、皇太子妃選定にあたって、候補に挙がっていた良子妃以外の人を考えていた。 そこで、21年、良子妃決定に反対する運動を繰り広げた。 宮中某重大事件と呼ばれた、この運動で山県は次第に孤立化するようになった。
さらに22年には山県が死亡する。 このことと関係するのである。
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日本史授業 20150202 政党内閣の成立(1) |
@寺内内閣 大戦中、大隈内閣につづき寺内内閣が成立した。 寺内正毅は長州閥で陸軍大将であった。初代朝鮮総督でもある。
このころ、民間では政治の民主化を求める声が高まっていた。 吉野作造が「民本主義」を唱えたからである。民本主義はdemocracyの訳であるが、 そのまま訳すと、国民主権の意味になってしまうので、 どの政体であっても国民主体で政治を行うという意味で「民本主義」と訳した。 国民のために政治を行うこと、国民の意見をとらえた政治をすることが要点である。
そのような中で超然内閣が登場したのである。 議会では寺内に対抗して、立憲同志会を中心として「憲政会」が結成された。 これに対して寺内は、1917年に議会を解散した。その結果立憲政友会が第一党となった。
しかし、寺内は政党の動きも無視することができず、 外交関係を統一するために作った「臨時外交調査委員会」のメンバーに 政友会の原敬と、立憲国民党の犬養毅を加えた。
A米騒動 ところで、第一次世界大戦による経済発展は、工場労働者数を増加させることになった。 彼らは都市に集中するので、米の消費量が増大することとなった。 しかし、農村の生産は停滞していたため、米価は上昇し、都市生活者の生活は苦しくなった。
その上シベリア出兵で軍用米を備蓄する必要が出てきた。これにともない、 米価はさらに上がることになった。
14年に1升10銭だった米価は、18年に入ると急上昇し、8月には1升50銭にまで上がった。 これは平均日給に当たる額である。
このような物価上昇に対して、投機目的で米を買い占めたり、 売り惜しみをする者が出てきて、民衆の怒りが高まっていた。
7月23日、富山県魚津で米価が値上がりした。 これに対して、8月3日魚津からほど近い西水橋町の漁師の主婦が、 米の県外移出を行うことを拒否するとともに、安売りを求めて米屋を襲撃した。 これが「女一揆」という題目で新聞報道された。 全国的に不満がたまっていたとであったために、騒動は一挙に全国に広がった。 1道39県、70万人が騒動に加わったとされる。 彼らは新聞社、米屋などを襲撃し、暴動化した。
政府は軍によって鎮圧をはかり、8月20日までには沈静化した(完全終結は10月)。 これまで秩父事件、日比谷焼き討ち事件などでも軍による鎮圧をはかったが、 全国規模(120地点、9万2000人出動)で展開したのは、これが初めてのことであった。
この事件の責任をとって、寺内は辞任した。
騒動は自然発生的に始まったものであった。 だが、無産者中心で、民衆団結の効果を人々に認識させる結果となった。 これをうけて元老、特に山県は、人々の力を押さえるためには、 政党内閣が必要と判断するようになった。 官僚中心による超然内閣政権では、このような事態をうまく収拾できなかったからである。
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Posted by hajimet at 12:34
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日本史授業 20150129 大戦景気 |
第一次世界大戦はヨーロッパが戦場となった戦争である。 自国の戦争でアジアを顧みる余裕はなかった。 一方日本は戦争に参戦したものの、日本本土の損害はなかった。 そのため、欧州に代わって、 中国、インド、東南アジア、アフリカへ生糸、綿糸、綿布を輸出することができた。
さらに、欧米に物資を輸出することで好景気となったアメリカで 高級品の需要が増えたために、高級品の生糸の輸出が増えた。
この結果、日本は大幅な輸出超となった。 明治時代は一貫して輸入超による貿易赤字国であった。 実際、1914年に11億円の債務があった日本は、1920年に27億円の債権国になっていた。
さて、大戦中軍艦の需要が増えたこと、貿易が活発となったことで、船舶が不足した。 そのために、造船業が活発になるとともに、海運業も活発になった。 そして造船の原材料として使われる鉄鋼業も発展した。
さらに大戦によってドイツからの輸入が減少したため、 薬品、染料、肥料などの化学工業が勃興した。 当時、これらの産業はドイツが特に進んでいた (今でも、薬品の名前がドイツ風なのはこれに由来する)。
また化学工業では電気が必要なのだが、このころ長距離送電できる技術が開発された。 電気は単相交流で送電すると、減衰が激しく長距離送電は行いにくい。 三相交流の技術が開発されて減衰せずに長距離送電できる技術が開発され、 1914年会津猪苗代湖で発電された電気を東京まで送電するようになった。 その結果、工業原動力が蒸気機関から電力に移り始めた。
このように工業が発展したことで、工業生産量が農業生産量をこえた。 日本が農業国から工業国に代わったのである。会社数が1.7倍、資本額が3倍に増えた。 一挙に金を儲ける人もいて成金時代とも呼ばれた。西原借款もこのような背景で行われた。
一方で庶民の生活は苦しかった。一般に、景気がよくなるとインフレーションが起こるのだが、 物価の上がり方に給料の上がり方が追いつかず、実質賃金が目減りしてしまったからである。 このことが米騒動や普通選挙運動の伏線となる。
大戦景気は大戦の社会状況によって起きた好景気である。したがって、 大戦終了とともに終結に向かった。
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Posted by hajimet at 12:31
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日本史授業 20150129 第一次世界大戦(4) |
6.第一次世界大戦の終結 @アメリカの参戦 17年2月1日 ドイツは「無制限潜水艦作戦」を開始した。 中立国の商船も攻撃すると言うことである。本来、中立国の船を攻撃することは出来ない。
米国は第一次世界大戦に中立を宣言していた。 中立国の立場を利用してヨーロッパに武器を供給し、米国経済は潤っていた。 しかしドイツにとっては、アメリカの武器で戦争が行われている状態を断ちたかった。 特に、この作戦によって米国が商船を出さなくなれば、英国との団結を切ることができ、 英国を倒せると。ドイツは考えた。 だが、結果的にアメリカが参戦したために、ドイツのこの作戦は失敗に終わった。
Aロシア革命 日露戦争の前後から、ロシアでは革命の雰囲気が高まっていた。 16年、首都のペテルブルクで食糧難、燃料難がおこり、これがきっかけに 17年11月3日にペテルブルクでストライキが起きた。 これを鎮圧すべき軍隊は動かず、労働者はソヴィエト(評議会)を作った。 その結果、ニコライ二世は退位し、11月7日、レーニンが一党独裁体制を築いた。 そしてドイツに対して即時停戦した。
新ロシアからすれば、第一次世界大戦は資本家による戦争である。 資本家を否定する社会主義の立場からは、行うことのできない戦争である。 そこで、それまでの条約を破棄するとともに、戦争を即座に終結したのである。 その結果、1917年12月にブレスト・リトフクスク条約を締結して、 ドイツ、オーストリアと単独講和をしてしまった。 ドイツは西部戦線に軍を移そうとしたが、実際には移しきれなかった。 もはや戦車、自動車、ガソリン、ゴムがなかったからである。 第一次世界大戦は、18年8月休戦となった。 また、ドイツでも11月にドイツ革命が起こり、社会民主主義系の国家が成立した。
7.シベリア出兵(ロシア干渉戦争の一つ) 第一次世界大戦は終結に向かう一方で、資本主義国はロシア革命を圧殺しようとした。 フィンランド、シベリア、ウクライナから軍を進めた。 一方、日本はこの機会に北満州、沿海州に勢力圏を拡大しようとした。 満州の利権を分けた日露協約は、もはや存在しなかった。
18年1月、日米にシベリア出兵が要請された。 アメリカは日本のシベリア支配を恐れて慎重な態度をとった。 満州を門戸開放の場としようとしたアメリカにとって、 ここに日本の権益が伸びることは避けたかったのである。 しかし、シベリアに抑留されているチェコスロバキア兵を救済する必要が出てきた。 チェコをオーストリアから独立させるために、チェコ兵10数万がロシアに投降。 ロシア側は反革命勢力として武装解除された上、シベリアに送られたものだった。
7月、米国は「チェコ兵救援」を名目に共同出兵を提案した。 それによって8月、兵力と地域を限定して出兵することとした。 日本は12000の兵力であった。 9月にはシベリア鉄道とその短絡線に沿って、バイカル湖以東を占領した。 日本はシベリアに反革命政府を樹立しようとしていた。 ロシア革命に反対して亡命した「白系ロシア人」も多くいたのである。 そして、占領地域を足場にして中国全土、アジア大陸支配を目指した。 そのため、兵力を20000に増強したが、増兵は日米間の対立を増大することとなった。
20年1月、チェコ軍は引き上げ、アメリカはシベリアから撤退した。 しかし、日本は情勢不安を理由として駐留を続けた。 このような日本の行動はソビエト民衆の反感を高めることとなり、 1920年にはパルチザン(遊撃隊、ゲリラ)が日本人居留民を襲撃する尼港事件も起きている。 日本は22年にシベリアから撤退するが、戦費10億もかけながら、得るところは何もなかった。
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Posted by hajimet at 12:25
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日本史授業 20150122 第一次世界大戦(3) |
4.国交関係の調整 日本の参戦、山東省の権益確保、21カ条の要求は、欧米諸国、 特にアメリカの日本に対する警戒心を強めた。そのために国交関係の調整が必要となった。 ヨーロッパとは、ドイツ権益委譲の承認。アメリカとは満州の権益を調整が主題であった。
1519年9月 「ロンドン宣言」加入 英仏露が単独不講和を決めた宣言で、これに日本も加入することで、 日本も講和の条件について発言権を有することとなった。
1916年4月 第4次日露協約 極東における両国の特殊権益と、相互が攻撃された場合の協力(秘密条約) ただし、1917年、ロシア革命で、この条約は廃棄される。
1917年 イギリスと覚書を交換 ドイツ権益継承を承認→海軍地中海進出
1917年 石井・ランシング協定 日本の中国における特殊利益承認と、アメリカの門戸開放、機会均等の承認 ただし、特殊利益について、アメリカは経済分野だけと解し、 日本は政治、経済の両方と解したため、日米関係は好転はしなかった。
5.利権の拡大 中華民国は成立の背景などから、中央政府が弱く、各地に地方政府が出来ていた、 日本政府は、日本の政策に有利になる政権を支援した。大隈内閣は、北京政府ではなく、 南方政権を支援していた。
1917年孫文による広東政府が出来る(孫文は1913年に日本に亡命していた)。
寺内内閣は、それまでの武力による中国進出から 財政援助による支配権伸張に政策を変えた。
そこで、1917年、北京の段祺瑞政権に寺内の私設秘書の名前による「西原借款」を行った。 北京政府は袁世凱の死去に伴い、北方軍閥の段祺瑞が政権を取っていたのである。
日本は大戦景気でお金がだぶついていた。そこで、8借款、1億4500万円に及ぶ 巨額の借款をすることが出来たのである。
だが、この借款は、寺内内閣の瓦解ととも終わり、債権もほとんど回収出来なかったどころか、 中国の内戦激化の原因となってしまった。
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Posted by hajimet at 12:21
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倫理 20150130 日本仏教(4) |
(4) 平安時代後期 平安時代後期に入ると、武家が台頭し、平将門の乱などの乱が起きた。 一方で、1052年は末法元年とされた。 仏教では、釈迦の死後、釈迦の教えが弱くなるのだが、 それを正法、像法、末法の三段階にわけた。 末法とは、教えは残るが、修行する人も、悟る人もいなくなる時期である。
すなわち、戦乱の起きている社会の不安定期に、自分たちを救うものがないということになる。 そこで、そのような状態でも、自分たちを救うことの出来る経典を模索した。 その結果、浄土教が流行ったのである。
なお、この頃は唐も新羅も末期の混乱期に入っていて、同じように浄土教が流行している。
浄土教は阿弥陀仏のことを扱った経典である。 阿弥陀は菩薩行を行うとき、自分が悟りを得たときに衆生を慈悲によって救済する 「48の発願」をしているが、そのうち18番目が 「自分のことを10回でも念仏したら、自分の国に往生できるようにする」とする。
つまり、自分から悟らなくとも、阿弥陀(極楽)浄土に往生できるのである。 この考えが強く支持された。
なかでも、空也(903-972)は「阿弥陀聖」「市聖」ともわれ、 諸国を念仏しながら遊行し、社会事業を行った。
その教えは、ただひたすら、阿弥陀に帰依する= 「南無阿弥陀仏」(南無:帰依する)を唱えれば良い(称名念仏)というものである。
この教えは民間に浸透し、死者や盂蘭盆の時の念仏、農耕儀礼、虫除けや 念仏踊りとなっていった。なお念仏踊りは盂蘭盆と結びついて盆踊りとなる。
一方、源信(942-1017)は『往生要集』を現し、「厭離穢土、欣求浄土」を説いた。 そして、称名念仏ではなく、心で阿弥陀を念ずる「観想念仏」を説いた。
このように浄土教が流行すると、臨終とは往生することを意味するようになる。 そのため阿弥陀仏と自分の手をひもで結び、 鑼や太鼓が鳴り響く中、臨終を迎えるというような風景が見られた。
(5)鎌倉仏教 鎌倉時代に入り武家の時代に入り、それまでと支配層が変わった。 また、社会混乱は収まらず、庶民の生活不安も大きかった。 武士や庶民が求めるのは、一般的に理屈より実践である。 そこで、誰でもが信じることが出来て、わかりやすく、行いやすい仏教が求められた。 それに応じて説かれたものが、鎌倉仏教である。日本的仏教が出来たと言える。
新仏教を開いた人は比叡山を出た僧侶であった。 彼らは比叡山の教えでは足りずに、新たな教理を探したと言える。 そして、比叡山の密教的要素を否定した。
(A)浄土教 まずは、平安末から続く浄土教の流れを見たい。
・法然(1133-1212):浄土宗 法然はそれまでの教えは自力修行により悟りを求めるもので、それは困難なこととする。 そして、ただひたすら阿弥陀仏に帰依して、「南無阿弥陀仏」を念ずれば(専修念仏)、 阿弥陀の力によって極楽浄土に往生することが出来るとした(他力本願)。
これによって、悟りの仏教から救いの仏教に変わったと言える。
法然の教えは非常にわかりやすい教えであるため、多くの人の信仰を集めた。 一方で、天台、真言などの勢力から批判を浴び、念仏停止となり、法然は讃岐に流された。
・親鸞(1173-1262):浄土真宗 親鸞は法然に傾倒して自分の考えを深めたが、 念仏停止の断により越後に流され還俗させられた。 その後も僧侶になる事なく、教えを説いた。
親鸞は「悪人正機説」を説いた。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 善人は自力で悟れる人のことで、悪人は悟れない人である。 自分は煩悩にまみれて、どうすることも出来ず、仏の慈悲にすがろうとするので、 かえって救われやすいというのである。
親鸞は、阿弥陀は衆生を救おうとして仏となったのだから、 当然に阿弥陀の方から救ってくれる。 我々は一切阿弥陀に任せれば良いとした(絶対他力)。 「南無阿弥陀仏」も阿弥陀に帰依するのではなく、 「信じている」ということを告白しているに過ぎないのである。
これによって、行の仏教から、信の仏教に変わったと言える。
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Posted by hajimet at 15:40
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