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倫理 20150120 日本仏教(3) |
3.平安仏教 奈良から都を京都に移したことで、仏教もそれまでと異なったものが求められた。 中国で仏教が隆盛期に入る頃でもある。
それまでの鎮護国家仏教とともに、山岳仏教の要素が取り込まれた。 日本では、元々山は神聖なもので入山しなかったのであるが、 その山の信仰が仏教と習合し、修行の山となる。
また、仏教は出家して修行することが基本である。 そのようなことが相まって、山岳仏教が生まれた(比叡山、高野山)。
(1)最澄 最澄は遣唐使として唐に渡った。 公務で渡ったため、滞在期間は長くなかったが、 法華経を最高の経典と考える天台教学を学んだ。
仏教が西域から中国に流入したとき、 多くの経典が一気に訳されたため、 経典の前後関係が分からなくなっていた。
したがって、それぞれの宗派の観点から前後関係を決めていくしかなかった。 これを教相判釈という。天台教学は教相判釈によって法華経を最高のものとした。
最澄は、帰国後比叡山に延暦寺を開いた。
最澄の主張する所を要約すれば、 1.法華経を最高の経典とする。 (南無妙法蓮華経を唱えるようになったのは、鎌倉時代以降) 2.一切衆生悉有仏性 すべての人は仏性を持っているから、修行すれば仏陀になれる。 3.法華一乗思想 そうだとすれば、これまで能力などによって悟り方に違いがあるとした 小乗(上座部)の考えは何だったのだろうか。 大乗 菩薩乗 小乗 声聞乗(教団で悟る) 縁覚乗(個人で悟る)
悟り方に違いがあるといたのは、実は仏陀の方便であって、実体は菩薩乗一つなのである。 それを説いたものが法華経であるとする。この一乗の考え方に対して、 3つの「乗」は厳然とあると考える者もいて、当時大論争となった。 最澄は晩年その論争に相当の勢力をさいた。 だが、次第に一乗思想の方が有力になっていった。
さらに、最澄は大乗仏教による受戒を行おうとした。 すなわち鑑真の受戒制度は小乗の受戒であると考えた。 そのために、朝廷に大乗戒壇設置を申請し続けたが、許可が下りたのは死の直前だった。 いずれにせよ、比叡山で大乗受戒が行われるようになった。
このように教学的に理論を深めた最澄であったが、 当時の朝廷、貴族らが求めたものは、呪術による国家鎮護や現世利益に関することであった。
呪術的要素は密教的要素とも言い、 日本に仏教が入ったときにはある程度密教的なものが浸透していた。 その密教が完成の域になったのが、最澄の時期であった。 しかし、この面は天台教学では弱かった。
最澄は空海から密教を学ぼうとするが、弟子の問題が発端となり両者は絶縁してしまった。 (和解したのは、つい数年前である) そんなところから、最澄は自分の教理を完成させることなく死亡してしまった。 その後、弟子らが、最澄の立場を補完したり、発展させたりした。
そんなところから、比叡山は発展を続けることができ、 鎌倉仏教を生み出す基板となれたと考えられる。
(2)空海 空海は最澄とともに遣唐使船で唐に渡るが、国からの派遣ではなかった。 長期間唐に留まり、密教を学び、帰国後真言宗の高野山金剛峯寺を起こした。 真言とは短い呪文のことである。
空海は、宇宙の根本を大日如来として、一切を大日のあらわれと考えた。 人もまた大日の表れだから、修行によって大日と一体であることを悟れば、 仏になれるとする。修行は三密と言い、手に印契を結び、口に真言を唱え、 心に仏を念ずることである。 結果的に、密教の思想はバラモン教の梵我一如と同じような思想にたどり着いている。 このような思想を基礎に加持祈祷を行ったが、 それは国家鎮護、災害忌避、病気平癒のような現世利益を追究するものである。 したがって、皇族や貴族の信仰を得ることが出来た。
空海の思想はカントやヘーゲルを凌駕するともいわれるほど、壮大なもので、 ある意味で完璧なものであった。 それだけに、後世、その思想の発展はなかなかなかできなかったとされる。
(3)平安仏教の思想背景=神仏習合 飛鳥時代に蕃神として入ってきた仏教も、 神道と別のものであることが意識されるようになると、 神道の神との関係が問題になってきた(神道の理論化)。 一方で、日本の基層文化である神道との習合(融合)が起こり、 平安時代にはそれが顕著となった。
神道の神が悟りを得るために仏道が必要であるとして、 神社を守る神宮寺(神仏分離でほとんど消滅)が作られ、寺に鎮守の神が祀られる。 また神聖なの神を祀る儀式に仏教式の経典誦読が行われたり、 さらに融合が進み修験道が熊野などの山々で発生した。
また、教理の面では、神道の神は本来は仏教の仏であるという本地垂迹説が成立した。 そのままでインド以外の地に仏陀が現れても理解できないので、 「権(かり)」に、神の姿で「現」れた(権現)ものという。 即ち、中国では孔子に、日本では神として出現した。 このような考えから神仏習合などを説明していった。 インド-中国-日本という捉え方は日本の基本的な捉え方のようで、 『今昔物語』は「天竺、震旦、本朝」の三部からなるし、 「三国一」という言葉も日本、中国、印度を通じて一番という意味である。 その点からすると、日本人の意識構造から朝鮮は抜け落ちていることになる。
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Posted by hajimet at 21:28
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日本史授業 20150119 第一次世界大戦(2) |
(2)日本の参戦 第一次世界大戦はヨーロッパの戦争であり、日本が直接参戦する理由はない。 日英同盟は攻守同盟であるが、適用範囲はインド洋までである。 イギリスは8月1日、日本政府に対して参戦の可能性を伝えてきた。 開戦後、イギリスはアジアにおけるドイツ仮装巡洋艦の攻撃を依頼した。 ドイツは商船に仮装した巡洋艦を有していて、 商船だと思って近づいたイギリス軍艦を攻撃していたからである。 第一次世界大戦を日本にとっての天佑と考えていた政府は、 これをきっかけに、8月にドイツに宣戦布告した。 理由は、イギリスからの要請と、アジアにおけるドイツの拠点を一掃することであった。 この動きを見て、イギリスは仮装巡洋艦攻撃の以来を撤回したが、時已に遅かった。 9月以降、膠州湾、南洋群島のドイツ権益を奪取する。 だが、この動きは日本に対する列強の不信感を増加させた。 日本としては、ドイツ権益の接収を認めさせなければならない。 日本は1917年2月、イギリスの要請に従って、海軍の軍艦を地中海に派遣したが、 それはイギリスがドイツ権益の接収を認めたからであった。 (3)21カ条の要求 戦争によって列強は中国事情に目を向ける余裕がなかった。 一方で日本は中国問題を抱えていた。1922年に関東州、満鉄の租借期限が切れるからである。 そこで、この機会を狙って、租借問題を解決することと、日本の中国権益強化をはかろうとした。 1915年1月、日本は北京の袁世凱政権に21カ条の要求を突きつけた。 なお、中華民国成立後、中華民国政府の力が弱かったために、各地に様々な地方政権や 軍閥が出来た。日本政府は、自国の政策にとって有利な政府と、その時ごとに結びつく。 そのために、中国のどの政権と関係を持とうとしたかと言うことに留意しなければならない。 この時は袁世凱政権であった。孫文が中華民国を立てたあと、袁世凱が大総統となっていた。 袁世凱は自己が皇帝になって中華民国を帝国化しようと考えていた。 21カ条の要求の内容は 1.ドイツ権益の継承 2.関東州、満鉄の租借期限の延長(99年間) 3.漢冶萍公司の合弁 4.福建省沿岸の不割譲 5.政府に日本人顧問と、警察の日中合同 2については、同様に満州の利権に関心を持つ米国の抗議があった。 また、5は、秘密条項であったが、第1次日韓協約や第3次日韓協約後の警察日韓合同と 同じく、主権侵奪の意味がある。 日本は1から4までは英仏などに伝えていた。 一方、中国では青島占領に対する不満と、火事場泥棒的な行動に対する抗議行動が広がった。 (現在でも青島は反日運動の中心地の一つだが、それにはこのような背景がある)。 だが、日本政府は5月7日に5項を除いた4項目を最後通牒として突きつけた。 ついに5月9日、要求は中国の調印する所となった。 中国は、何かあったとき諸外国の助けを、当てにすることは出来ないと悟り、 5月9日(のちに5月7日)を国恥記念日と定めた。 租借期限が延びた関東州では、組織の変更が行われ、 それまでの関東都督府が関東庁(行政)と関東軍に分けられた。
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Posted by hajimet at 12:54
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日本史授業 20150116 大正政変(2) 第一次世界大戦(1) |
大正政変(2) 大正政変によって桂内閣は倒されたが、次の内閣も薩摩藩系の山本内閣だった。 民衆のエネルギーは倒閣に向かったが、そのエネルギーを、政党内閣結成の方向に まとめることが出来なかったのである。そのために、再び藩閥系と言うことになった。 しかし、完全にそれまでの流れを無視することは出来ない。山本は立憲政友会の協力を あおいだ。これによって政友会は分裂する。すなわち、政府に協力しようとする原敬を 中心とする人びとと、尾崎のように脱党する人が出た。 また、立憲国民党の犬養は政友会と断絶することになり、これにより憲政擁護運動は 終わってしまった。 山本は、文官任用令を改正し、政党系も高級官僚になれるようにし、 軍部大臣現役武官制も緩和して、予備役、後備役も大臣になれるようにした。 (軍部大臣の緩和は大隈内閣で元に戻される) また行政整理、財政整理も行ったが、 1914年、外国製の軍艦の輸入を巡る収賄事件が起きた(ジーメンス事件)。 これについて、国民、陸軍の反発が強まり、海軍関係の予算が議会で否決され、 退陣することとなった。 この次の内閣は第2次大隈内閣である(第1次は隈板内閣)。 大隈はすでに政界を引退していたが、国民人気が高いという理由で元老より指名された。 大隈が出ることで、立憲政友会に打撃を与えようとしたのである。 実際、1915年に行われた衆議院の選挙では、少数与党だった立憲同志会が、 立憲政友会を破って第一党になった。 これにより、大正政変のそもそもの原因であった、陸軍二個師団増強が議会で承認された。 時代はすでに第一次世界大戦に入っていたのである。 第一次世界大戦 (1)前提:三国同盟と三国協商=ヨーロッパにおける対立 ヨーロッパではドイツ、オーストリア、イタリアが三国同盟を組んでいた。 ドイツ、イタリアは新興国で、ヨーロッパにおける後進国。オーストリアはドイツ統一の中心に なれずに、国力が落ちてくる時期であった。 ドイツは1890年ヴィルヘルム2世により、植民地を獲得する「世界政策」を採用した。 その勢力を進める軸としてベルリン、ビザンチウム、バグダードを結ぶ鉄道を計画する 3B政策を採った。 ドイツの国力強化とフランスの孤立化を図ろうとしたのである。 ドイツは普仏戦争の結果成立した国で、ドイツ皇帝の戴冠式はベルサイユ宮殿で行われた。 (外国大統領や首相が、わざわざ日本に来て皇居で就任式を行ったらどう感じるか?) そのような経緯から、フランスはドイツに対して強い敵愾心を持っていた。 一方、1907年、露仏協商(日露戦争の対立軸だった)にイギリスが加わることによって、 三国協商が出来ていた(英仏協商 1904、英露協商 1907)。日本も三国協商側である。 イギリスは植民地の軸として、カイロ、ケープタウン、カルカッタを結ぶ3C政策を採った。 だが、カイロ-カルカッタ間は、ドイツの3B政策のラインと完全に平行することとなり、 英独が対立し始めた。 また、日露戦争によって極東での南下政策が失敗に終わったロシアは、 再びセルビアを拠点にバルカン半島に南下するようになっていた。これはドイツの軸と交叉する。 バルカン半島に勢力の交叉が起きると、これを「死の十字架」といい、 世界中を巻き込む戦争が起こる可能性がある。近代に入ってから少なくとも5回あった。 即ち、東方問題、第一次世界大戦、第二次世界大戦(本来はここでの対立ではないが、 結果的にここでの問題が火に油を注いだ)、 ユーゴスラビア危機、ウクライナ危機(クリミア半島)である。 というのもバルカン半島は民族関係が複雑で、いろいろな国が勢力を伸ばしてくる可能性が あるからである。「ヨーロッパの火薬庫、弾薬庫」と言われるくらい微妙な地域なのだ。 1914年、ボスニアのサライェヴォでオーストリア皇太子がセルビア青年に暗殺された。 ボスニアはオーストリア側の勢力圏の国、そこに訪問した三国同盟側の皇太子が、 三国協商側のロシアが拠点としたセルビアの青年によって殺害された。 両国は外交交渉で解決しようとした。周囲の国も外交交渉でまとまると考えて、 首脳も夏のヴァカンスを取るような雰囲気であった。 ところが、7月オーストリアがセルビアに宣戦布告した。 そうなると、同盟関係などによって多くの国が戦争に巻き込まれていった。 8月1日にはドイツとロシアが戦争状態になり、 8月4日にはイギリスとドイツが戦争状態になった。 なし崩し的に第一次世界大戦が始まったのである。 この戦争は、初めて飛行機、軍艦、毒ガスなどが使われる戦争になった。 戦争は短期戦で終わるとした大方の予想に反して、膠着状態に陥り、 3年間もの長期戦となってしまった。 このように、日本とは関係のない所で起きた戦争であったが、 日本もこの戦争に参加した。なぜ、参加したのかは次回に。
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Posted by hajimet at 21:03
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日本史授業 2015016 大正政変(1) |
大正政変 前提 20世紀末頃、日本は対外的にも対内的も問題を抱えていた。 対外的には、朝鮮の独立運動を押さえることと、 中華民国における日本資産と居留民保護の問題。 対内的には不況対策と、社会運動、労働運動に対する対策である。 対外問題に対応するには、軍拡(増税)を行う必要があるが、 対内問題に対しては、財政整理と緊縮が必要になる。 与党や軍部は軍拡、積極財政路線を要求するのに対して、 国民は軍拡に反対する路線を支持していた。 このような中、第2次西園寺内閣は緊縮路線をとった。一方で海軍増強をはかった。 これに対して陸軍や山県が反発した。陸軍は辛亥革命の時に、対外資産を確保の必要から、 辛亥革命への介入を要求していた。しかし、西園寺内閣は列強と足並みを揃えて不干渉政策を とった。このことを軍部は曖昧な外交とみていた。 1912年軍部は朝鮮対策のために 二個師団(独立した作戦行動のとれる最大の固定編成部隊)増強を要求した。 西園寺内閣は緊縮財政をとるために、これに反対した。 ところで、その最中、7月に明治天皇が死去して、大正時代になった。 また、美濃部達吉が『憲法講話』を出版するなど、新しい風潮が出てきて、 国民の間には新しい時代の始まりが期待されていた。 (新たに元号が変わると、新しい時代が来たように感じるものである) そのなか、12年末に陸軍大臣上原勇作が単独で大正天皇に辞表を出した(帷幄上奏)。 陸軍と山県、軍部大臣現役武官制をたてに、新たな陸軍大臣を送らなかったために、 第二次西園寺内閣は瓦解した。 現行憲法では内閣総理大臣は内閣の長とされ、国務大臣の任免権を握る。 しかし、大日本帝国憲法下では総理大臣は国務大臣のひとりであって、 内閣の代表としての立場でしかない。総理大臣に任免権はないので、 このような上原のようなことが可能になるのである。旧憲法か何回か同様の事態が起きている。 山県ら元老が指名した次の総理大事は桂太郎であった(第3次桂内閣) だが、藩閥に対する不満が国民の間にある上に、桂が大正天皇の内大臣兼侍従長に 就任していたために、藩閥が天皇の力を利用して政治を行うのではないかという反発がおきた。 これを背景に立憲国民党の犬養毅と、立憲政友会の尾崎行雄が中心となって、 12月17日、「閥族打破、憲政擁護」をスローガンとする国民大会を行った。 これが、各地に広がり、1913年に入ると、桂内閣は、国民党、政友会を切り崩すために 立憲同志会を結成した。これは第二党となったが、 かえって国民党と政友会の結束を強めてしまった。 1913年2月5日、尾崎は国会内で内閣不信任案を提出したが、 桂は国会を五日間休会とした。ほとぼりを冷ますという意味である。 不信任案が出されれば、辞職するか、衆議院を解散するしかないのだが、 時間をおこうと言うことである。 2月10日、国会は再開された。議事堂(日比谷)の周りを多くの国民、警官、憲兵が取り囲む中、 尾崎は胸に白バラの記章をつけて登院した。 だが、民衆の耳に聞こえてきたのは、再び休会と言うことであった。 これに失望、激怒した民衆は、派出所を襲撃し、 都新聞、国民新聞、報知新聞、読売新聞社などを襲撃した。 この暴動は広島、京都、大阪などにも飛び火した。 民衆の耳には休会しか聞こえてこなかったが、実は議会内では桂は辞職を決めていた。 衆議院議長から、「議会を解散すれば、国民の怒りは広がり内乱状態になる。それを どうするかは桂自身が決めれば済むことだ」と説得されていたのである。 桂は2月11日、正式に辞職を宣言した。 その次に選ばれた総理大臣は海軍大将山本権兵衛であった。
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Posted by hajimet at 20:27
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倫理授業 20150116 日本仏教(2) |
飛鳥仏教 仏教は538年、もしくは552年に百済より公伝した。 仏教は中国を中心とする東アジアの国々の中で、支配者に伝えられた。 したがって、北九州などは、公伝以前に仏教が入っていた可能性がある。 仏教は欽明天皇に対して伝えられたが、天皇はただちに仏教を採用することはなく、 臣下に信仰させた。それまでの神とは余りにも異質だったのである。 その図式は、崇仏派(蘇我氏)×廃仏派(物部氏)である。 結果的に蘇我氏の勢力が伸び、仏教が採用されていくこととなる。 蘇我氏は氏寺として飛鳥寺を建築する。建築工集団はペルシア人集団であった。 飛鳥仏教の中心人物は聖徳太子(厩戸王)である。日本仏教の基礎を作った。 伝承部分も多いが、聖徳太子は、 ・仏教興隆の詔 ・十七条の憲法(和をもって…、篤く三宝を…、凡夫なり)…儒教の影響も見られる。 ・三経義疏(法華経などの解説) 遺言「世間は虚仮(無常) 唯、仏のみ是れ真なり(絶対)」 法隆寺(聖徳太子を祀る)の西院、中宮寺の「天寿国曼荼羅繍帳」、東院の釈迦三尊像 奈良仏教 奈良時代に入ると、本格的に中国から仏教が流入する。 鎮護国家仏教(呪術的要素)…国を守る=民の平安を祈る。 国家仏教として律令と密接な関係を持つ。 仏教は、単に思想だけではなく、教団、儀礼、建築、工芸、医療などが付随するため、 国家が管理する必要もあった。 瓦などは寺院建築のためのものであったし(今でも古代の遺跡のある場所で、 古瓦が散乱している所は、寺院のあとか官衙の跡のことが多い) なお、茶道は栄西(平安末〜鎌倉初)が持ち込んだとされるが、茶は薬として持ち込まれた。 今でも、中国や韓国では寺に付随して茶畑が作られることが多い。 聖武天皇(仏教を保護) 752 東大寺大仏開眼(毘盧遮那仏) (それより前に)741 国分寺建立の詔(国分寺、国分尼寺) なお、このころ、アマテラスを中心とする神祇体制が出来上がった、 鑑真 僧侶になるための受戒制度を伝える。東大寺に戒壇を作る。 南都六宗 官寺で六宗を研究。 「宗」は、現在イメージする宗派(この寺院は○○宗)の意味ではなく、 研究の「学派」に意味。一つの寺にいくつもの宗が存在することもあった。 仏教は国が管理するから、個人的に僧侶になる事(私度僧)は禁止された。 しかし、山に籠もり個人的に修行する僧(山=神聖な山→仏教と習合し修行の山へ)や 私度僧も多くいた。とくに行基(cf.行基図)は民衆への布教や社会事業を行った。 行基は最初のうち僧尼令違反で布教を禁止されたが、のちに聖武天皇の帰依を受け 大仏建立に協力し、日本最初の大僧正となった。 このような行基らの民衆布教が、仏教を民衆に定着させる最大の力となった。 (中国や韓国と異なり、民間で広く信仰されるきっかけになったと考えられる)。
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Posted by hajimet at 10:34
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倫理 20150113 日本仏教(1) |
日本仏教 日本仏教の課題:中国仏教をいかに受容し、自分たちの納得いくように変容するか。 (参考)中国仏教 9世紀頃までの中国仏教を見る。中国仏教が9世紀を境に大きく変わること。 日本も894年遣唐使廃止(派遣の最後は838年)し、大陸文化の受用から国風文化に移るから。 1世紀 西域より仏教伝来。ガンダーラ(現:アフガニスタン)で盛行していた仏教が、 ソグド人とともに入ってきた。仏典はすぐに漢訳された。 入ってきた当初は儒教や道教との軋轢が大きかった。 道教は漢民族の民間信仰で、日本の神道にあたるもの。 儒教は政治理念であるが、親に孝であることが基本となる。 この儒教的感覚からすれば、衣鉢が整わない僧侶の服装は異様だし、 髪の毛を剃るのは、親からもらった体を傷つけることになる。 そもそも出家すれば、親に孝を行うことは出来ないから、儒教の教えに反する。 また、世の中を「苦」とみる仏教に対して、世の中を「楽」と見る中国では そもそもの考え方が合わない。 インドでは輪廻したくないために「解脱」が問題になるのに対して、 中国では長生きするために努力する。祖先祭祀を行うことで、 死んだ後も「死んでいない」のである。魂はつねに子孫と一緒にいるからである。 だが、仏教も受容されるようになる。それは老荘思想を通じてであった。 この中で中国的な習合も起きた。 たとえば、仏像に食物を備えること。これは道教で功徳を積む所から来ているし、 儒教の影響で祖先祭祀が仏教に取り入れられた(お盆の原形)。 インド仏教は個人の問題だから、祖先祭祀は関心外のはずだった。 仏教は、南北朝時代に大きく発達した。特に北朝で栄えた。 というのも、道教が漢民族の思想であって、北方異民族には受用しにくかったこと。 「護国仏教」として受容したこと、すなわち「呪術的性格」により国によって受容されたのだ。 なお、「護国」とは国自体を守ると言うことではなく、それによって国民の幸せを願うという ことである。 インドにおける仏教は時代を経るに従って、ヒンドゥー教の影響を受けて現世利益的、 呪術的要素を取り込んでいった。その力が道教より強いと判断されたのである。 さらに、隋が中国を統一する。皇帝が鮮卑出身と言うこともあるが、 多くの異民族を統治するために、仏教を指導理念とした。 さらに唐は政治権力によって仏教が統制されるようになった。 仏教は宗教のみならず、建築、医術など様々な技術が付随するからである。 すなわち、「国家仏教」として、律令とともに他国に渡される存在となった。 日本が受容した仏教はこの時期のものである。 国が自国を守るために、仏教を採用しているのだから、仏教以外のものがよければ、 そちらを採用する。唐の武帝の時(840-46)、「会昌の廃仏」によって、それが現実と なった。徹底的に仏教関係のものは破壊され、中国仏教再建のために、 日本や朝鮮に経典をもとめたほどであった。 これにより、中国仏教は廃れ、全く別の系統のものとして禅宗があらわれるようになった。 日本仏教の特徴 (1)現実的傾向 仏教を初めて受容したとき「蕃神」として、神道の神の一種として受容した。 そして、氏族繁栄祈願(飛鳥寺、法隆寺)や病気平癒(東大寺大仏)など、 きわめて現世利益的なものを求めている。 現在でもお寺に行って拝礼することは、仏教理論について学ぶためではなく、 大学合格祈願のような現世利益的なことを祈願しているし、正月のCMに出る、 「○○厄除け大師」の厄除けも「病気などにならないように」という意味である。 (2)神仏習合 神道と激しく集合した。これは日本に限らずどの国でも基本の宗教と習合する。 明治になって神仏分離令が出て、一応整理されたが、最近また習合現象が現れ始めている。 (3)生活に密着 これは、外の仏教にない特徴である。インドでは専門集団化してしまい、衰退したし、 中国でも民間信仰にはならなかった。 日本は古代こそ皇族、貴族の信仰であったが、中世以降、特に鎌倉時代に大きく仏教変革が あったため、武士や庶民が信仰するものとなった。 そのなかで、道徳観、芸術、芸能、文学、武道などに大きく影響を与えた。 たとえば、座禅は武士の作法に繋がり、礼儀作法を作り出した。 また、書院造りの床の間に花を飾るところから、華道が出来た。 さらに、茶道は宋に渡った栄西が抹茶法を導入したことがきっかけであった。 また、無常観、もののあはれの考えから、わび、さびが出きてきて様々な面に影響を与える。 ここから徒然草、方丈記、山家集などが書かれる。 仏教のことを意識するかどうかに拘わらず、 様々な面で生活の中に仏教が入り込んでいることが、 日本仏教の大きな特徴なのである。
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Posted by hajimet at 20:59
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