« 前のエントリー | Main | 次のエントリー » | Comments | Post a comment


2015年1月23日
倫理 20150120 日本仏教(3)

3.平安仏教
奈良から都を京都に移したことで、仏教もそれまでと異なったものが求められた。
中国で仏教が隆盛期に入る頃でもある。

それまでの鎮護国家仏教とともに、山岳仏教の要素が取り込まれた。
日本では、元々山は神聖なもので入山しなかったのであるが、
その山の信仰が仏教と習合し、修行の山となる。

また、仏教は出家して修行することが基本である。
そのようなことが相まって、山岳仏教が生まれた(比叡山、高野山)。

(1)最澄
最澄は遣唐使として唐に渡った。
公務で渡ったため、滞在期間は長くなかったが、
法華経を最高の経典と考える天台教学を学んだ。

仏教が西域から中国に流入したとき、
多くの経典が一気に訳されたため、
経典の前後関係が分からなくなっていた。

したがって、それぞれの宗派の観点から前後関係を決めていくしかなかった。
これを教相判釈という。天台教学は教相判釈によって法華経を最高のものとした。

最澄は、帰国後比叡山に延暦寺を開いた。

最澄の主張する所を要約すれば、
 1.法華経を最高の経典とする。
   (南無妙法蓮華経を唱えるようになったのは、鎌倉時代以降)
 2.一切衆生悉有仏性
   すべての人は仏性を持っているから、修行すれば仏陀になれる。
 3.法華一乗思想
  そうだとすれば、これまで能力などによって悟り方に違いがあるとした
  小乗(上座部)の考えは何だったのだろうか。
      
     大乗 菩薩乗
     小乗 声聞乗(教団で悟る)
        縁覚乗(個人で悟る)

 悟り方に違いがあるといたのは、実は仏陀の方便であって、実体は菩薩乗一つなのである。
それを説いたものが法華経であるとする。この一乗の考え方に対して、
3つの「乗」は厳然とあると考える者もいて、当時大論争となった。
 
最澄は晩年その論争に相当の勢力をさいた。
だが、次第に一乗思想の方が有力になっていった。

さらに、最澄は大乗仏教による受戒を行おうとした。
すなわち鑑真の受戒制度は小乗の受戒であると考えた。
そのために、朝廷に大乗戒壇設置を申請し続けたが、許可が下りたのは死の直前だった。
いずれにせよ、比叡山で大乗受戒が行われるようになった。

このように教学的に理論を深めた最澄であったが、
当時の朝廷、貴族らが求めたものは、呪術による国家鎮護や現世利益に関することであった。

呪術的要素は密教的要素とも言い、
日本に仏教が入ったときにはある程度密教的なものが浸透していた。
その密教が完成の域になったのが、最澄の時期であった
しかし、この面は天台教学では弱かった。

最澄は空海から密教を学ぼうとするが、弟子の問題が発端となり両者は絶縁してしまった。
(和解したのは、つい数年前である)
そんなところから、最澄は自分の教理を完成させることなく死亡してしまった。
その後、弟子らが、最澄の立場を補完したり、発展させたりした。

そんなところから、比叡山は発展を続けることができ、
鎌倉仏教を生み出す基板となれたと考えられる。

(2)空海
空海は最澄とともに遣唐使船で唐に渡るが、国からの派遣ではなかった。
長期間唐に留まり、密教を学び、帰国後真言宗の高野山金剛峯寺を起こした。
真言とは短い呪文のことである。

空海は、宇宙の根本を大日如来として、一切を大日のあらわれと考えた。
人もまた大日の表れだから、修行によって大日と一体であることを悟れば、
仏になれるとする。修行は三密と言い、手に印契を結び、口に真言を唱え、
心に仏を念ずることである。
 
結果的に、密教の思想はバラモン教の梵我一如と同じような思想にたどり着いている。
このような思想を基礎に加持祈祷を行ったが、
それは国家鎮護、災害忌避、病気平癒のような現世利益を追究するものである。
したがって、皇族や貴族の信仰を得ることが出来た。

空海の思想はカントやヘーゲルを凌駕するともいわれるほど、壮大なもので、
ある意味で完璧なものであった。
それだけに、後世、その思想の発展はなかなかなかできなかったとされる。

(3)平安仏教の思想背景=神仏習合
飛鳥時代に蕃神として入ってきた仏教も、
神道と別のものであることが意識されるようになると、
神道の神との関係が問題になってきた(神道の理論化)。
 
一方で、日本の基層文化である神道との習合(融合)が起こり、
平安時代にはそれが顕著となった。

神道の神が悟りを得るために仏道が必要であるとして、
神社を守る神宮寺(神仏分離でほとんど消滅)が作られ、寺に鎮守の神が祀られる。
また神聖なの神を祀る儀式に仏教式の経典誦読が行われたり、
さらに融合が進み修験道が熊野などの山々で発生した。

また、教理の面では、神道の神は本来は仏教の仏であるという本地垂迹説が成立した。
そのままでインド以外の地に仏陀が現れても理解できないので、
「権(かり)」に、神の姿で「現」れた(権現)ものという。
 
即ち、中国では孔子に、日本では神として出現した。
このような考えから神仏習合などを説明していった。
 
インド-中国-日本という捉え方は日本の基本的な捉え方のようで、
『今昔物語』は「天竺、震旦、本朝」の三部からなるし、
「三国一」という言葉も日本、中国、印度を通じて一番という意味である。
 
その点からすると、日本人の意識構造から朝鮮は抜け落ちていることになる。

Posted by hajimet at 21:28 | Comments (0)

Comments


Post a comment