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2015年2月5日 |
倫理 20150130 日本仏教(4) |
(4) 平安時代後期 平安時代後期に入ると、武家が台頭し、平将門の乱などの乱が起きた。 一方で、1052年は末法元年とされた。 仏教では、釈迦の死後、釈迦の教えが弱くなるのだが、 それを正法、像法、末法の三段階にわけた。 末法とは、教えは残るが、修行する人も、悟る人もいなくなる時期である。 すなわち、戦乱の起きている社会の不安定期に、自分たちを救うものがないということになる。 そこで、そのような状態でも、自分たちを救うことの出来る経典を模索した。 その結果、浄土教が流行ったのである。 なお、この頃は唐も新羅も末期の混乱期に入っていて、同じように浄土教が流行している。 浄土教は阿弥陀仏のことを扱った経典である。 阿弥陀は菩薩行を行うとき、自分が悟りを得たときに衆生を慈悲によって救済する 「48の発願」をしているが、そのうち18番目が 「自分のことを10回でも念仏したら、自分の国に往生できるようにする」とする。 つまり、自分から悟らなくとも、阿弥陀(極楽)浄土に往生できるのである。 この考えが強く支持された。 なかでも、空也(903-972)は「阿弥陀聖」「市聖」ともわれ、 諸国を念仏しながら遊行し、社会事業を行った。 その教えは、ただひたすら、阿弥陀に帰依する= 「南無阿弥陀仏」(南無:帰依する)を唱えれば良い(称名念仏)というものである。 この教えは民間に浸透し、死者や盂蘭盆の時の念仏、農耕儀礼、虫除けや 念仏踊りとなっていった。なお念仏踊りは盂蘭盆と結びついて盆踊りとなる。 一方、源信(942-1017)は『往生要集』を現し、「厭離穢土、欣求浄土」を説いた。 そして、称名念仏ではなく、心で阿弥陀を念ずる「観想念仏」を説いた。 このように浄土教が流行すると、臨終とは往生することを意味するようになる。 そのため阿弥陀仏と自分の手をひもで結び、 鑼や太鼓が鳴り響く中、臨終を迎えるというような風景が見られた。 (5)鎌倉仏教 鎌倉時代に入り武家の時代に入り、それまでと支配層が変わった。 また、社会混乱は収まらず、庶民の生活不安も大きかった。 武士や庶民が求めるのは、一般的に理屈より実践である。 そこで、誰でもが信じることが出来て、わかりやすく、行いやすい仏教が求められた。 それに応じて説かれたものが、鎌倉仏教である。日本的仏教が出来たと言える。 新仏教を開いた人は比叡山を出た僧侶であった。 彼らは比叡山の教えでは足りずに、新たな教理を探したと言える。 そして、比叡山の密教的要素を否定した。 (A)浄土教 まずは、平安末から続く浄土教の流れを見たい。 ・法然(1133-1212):浄土宗 法然はそれまでの教えは自力修行により悟りを求めるもので、それは困難なこととする。 そして、ただひたすら阿弥陀仏に帰依して、「南無阿弥陀仏」を念ずれば(専修念仏)、 阿弥陀の力によって極楽浄土に往生することが出来るとした(他力本願)。 これによって、悟りの仏教から救いの仏教に変わったと言える。 法然の教えは非常にわかりやすい教えであるため、多くの人の信仰を集めた。 一方で、天台、真言などの勢力から批判を浴び、念仏停止となり、法然は讃岐に流された。 ・親鸞(1173-1262):浄土真宗 親鸞は法然に傾倒して自分の考えを深めたが、 念仏停止の断により越後に流され還俗させられた。 その後も僧侶になる事なく、教えを説いた。 親鸞は「悪人正機説」を説いた。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 善人は自力で悟れる人のことで、悪人は悟れない人である。 自分は煩悩にまみれて、どうすることも出来ず、仏の慈悲にすがろうとするので、 かえって救われやすいというのである。 親鸞は、阿弥陀は衆生を救おうとして仏となったのだから、 当然に阿弥陀の方から救ってくれる。 我々は一切阿弥陀に任せれば良いとした(絶対他力)。 「南無阿弥陀仏」も阿弥陀に帰依するのではなく、 「信じている」ということを告白しているに過ぎないのである。 これによって、行の仏教から、信の仏教に変わったと言える。 |
Posted by hajimet at 15:40
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