孔子は山東半島、魯の曲譜に生まれた、 魯国は周公旦に始まる国で、孔子の時代でも周の封建的要素が生きていた。
周はもともと封建制をとっていた。 君主が諸侯に土地などを分封して支配させる制度であるが、 諸侯(卿、大夫、臣)は血族か功臣であったために、 周王朝との間に本家、分家関係ができた。 それぞれが共通の神を祭司するが、 そのやり方(礼)は家の格によって決まっていた。 礼は本来は神に対する儀式の履行のことであるが、 その意味は、次第に人の身分関係の作法に変わってきた(礼儀)。
そのような周を理想とする孔子だが、 時代は春秋戦国時代となって、周の封建制は崩壊してしまった。 孔子は人間のあり方についての普遍的な原理を探り、社会生活の秩序を立て直そうとした。
この当時、多くの思想家はそれぞれの国に雇われてアドヴァイスをする仕事をしていた。 孔子もそのようなことを求めていたが、孔子の意見は受け入れられなかった。 そこで、生涯を弟子の教育に注ぐことになった。
孔子は人間の真実の生き方「道」を求めた。「朝に道を気かば、夕に死すとも可なり」。
その「道」は現実世界の合理的なものに求めた。 すなわち「怪力乱神を語らず」「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」である。
孔子は現実政治の混乱の原因を「礼」の形骸化に見いだした。 そのために礼の権威の回復が必要と考えた。 法はそれをくぐり抜けようとする者がでるから、民心がついてかない。 したがって、礼によって統治する必要があると考えたのだ。
そして、礼を支える精神、心のあり形を仁とした。 孔子は仁について、具体的なことは説明していない。 ただ、この文字は二人が出会うことを意味し、人が親しむことを意味するから、 「思いやり」のこと指していることになる。
そして、一番密接な人間関係である、家族の情を基本に考えることにした。 まず、自分の問題として、 自分を偽らない「忠」、 自分の如く他人を思う思いやりの「恕」(己の「欲せざる所は人に施すこととなかれ)、 他人を欺かない「信」、 欲を押さえる「克己」が必要であり、 家族に対しては、子の親に対する「孝」、 弟の兄に対する「悌」が必要だとする。
すなわち、家族は単に血縁という生物的な関係だけでなく、 「親子」という社会的関係も存在し、その中でどうつきあっていくかが大切になるのである。
その上で、孔子は「克己復礼」が大切で、 自我に打ち勝って社会規範である礼に従うことが必要だとする。 他人を尊重する態度や言動、社会規範に自覚的に従うことが必要だとする。 なぜ礼に従うかというと、鳥獣に礼はないからであり、 内面的な仁を実践するに当たっては礼にかなう必要があるからである。
仁の実現を志す者を「君子」という。君子は身分にかかわらず、 徳を備えた高い人格の持ち主のことを指し、これが人間の理想像だとした。 したがって、政治も人徳を備えた者が、その徳によって政治を行えば(修己治人)、 社会の秩序は安定するという徳治主義を主張した。
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