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2014年11月28日
杉総韓服体験 20141126

東京韓国教育院のプログラムを利用して、韓服体験を行う。
韓国語を使いながら、韓服、韓国礼節を体験するというもの。
午前と午後のクラス、両方で行う。午前のクラスは2年生。
人数が多いので半分ずつ交替で着用。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
男子のクンジョルを練習。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子のクンジョルを練習。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
午後のクラスは3年生。基本的には同じことを行う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
女子のクンジョルは、座りながらあぐらをかき、起き上がりながら、あぐらをとく。
そのため、非常に大変な動作となる。そのために最近は結婚式などの時に介添人がつくという。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
はしゃいでいます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Posted by hajimet at 23:08 | Comments (0)


ハングル書堂 20141128

今年のハングル書道。
教材配布。ハングルの文字体系の中での位置づけ、歴史を話した後、
宮体、版本体の順で練習。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宮体か版本体で一つ作品提出。同時に創作ハングルも提出。
ハングルは記号の構造が変わらない限り、どう崩しても文字として認識できる。
カナはデフォルメすると、「せ」が「や、か、セ、ヤ、カ、ゆ」に化けてしまうの(今年から強調)。

Posted by hajimet at 22:49 | Comments (0)


2014年11月25日
日本史授業 20141121(2) 南満州経営

1.南満州経営
日露戦争に勝利した日本は、大連と旅順のロシア租借地を譲り受けることになり、
1906年清国より同地を租借して、関東州と名付けた。
 
関東州の統治機構は関東都督府で、南満州鉄道の管理、軍の管理などを行った。
一方、長春以南の東清鉄道の経営のために南満州鉄道株式会社が創設された。
満鉄は広大な付属地、撫順炭鉱などの鉱山経営権など莫大な権利を持っており、。
ここを警備する権利を持っていた。これは関東州に限らず、満州まで達していた。
 
さらに、関東州は租借地であるゆえ、日本人保護のため領事館も設けられていた。
この結果、関東州は関東都督府、満鉄、領事館の三頭体制で、それぞれの権力関係が
複雑に絡み合う状態であった。だが、これによって満州進出の足がかりが出来た

2.米国の門戸開放
米国にとって、門戸開放の狙いは満州であった。
外の地域の勢力圏が比較的確固としたものであったのに対して、
満州は日露の角逐など勢力が不安定だったことがあるのであろう。
 
米国は日本の満州権益の独占に反対した。
それゆえ、1905年に満鉄の日米共同経営を提案したが、日本側の拒否にあった。
これによって日米関係は悪化し、1906年、サンフランシスコなどのカリフォルニア州を中心に
日本人排斥運動が起きた。
 
移民の日本人が底辺層の職種に就業したため、米国民の職が奪われたということに対する
反発と、黄禍論が作用したものであった。
その後1909年にも満鉄中立化を列国に提案している。
 
このようなことで、日米が開戦するのではないかという憶測が流れたほどである。

3.日本の対応 
しかし、日本は第2次日英同盟第1次日露協約によって満州権益を国際的に承認させた。
第2次日英同盟は「清帝国ノ独立及領土保全」をうたうが、
紛争が起きたときは第1次日英同盟のときのような中立の態度をとるのではなく、
互いに闘に参加する攻守同盟が特徴であった
 
イギリスは米国の門戸開放政策を支持していたが、もし日米が衝突すれば英国は
日本側に立って参戦しなければならないことになるから、
結果的に日本の立場を支持するしかなくなるのである。
 
結局、日露戦争、満州経営をめぐって列国は対立の道を進み始めた。
日英、露仏が強調する一方で、
ロシアは南下政策の矛先をバルカン半島に向けドイツと対立
ドイツは資本主義が本格的に進展し始めて、近東に進出しようとしてイギリスと対立
日本アメリカと対立するようになった。

4.辛亥革命
ところで、1911年、中国で辛亥革命がおこり中華民国が成立し、
孫文が臨時総統に就任した。この国は三民主義民族、民権、民生)を国是とした。
満州権益の強化を主張する陸軍は、辛亥革命への干渉を主張したが、
政府は列国の意向と、財政問題を根拠に不感症主義の立場をとった。

Posted by hajimet at 22:38 | Comments (0)


倫理授業 20141125 仏教4 仏陀の思想と原始仏教

(6)慈悲
人が今あるのは、他人のとの縁の中であるのだから、他人のことを考える必要もある。
自分が(因縁の中で)生きると言うことは、他人も(因縁の中で)生かせることになる。
したがって、自分だけが生きていくという我執を棄てて(でないと、悟れない)、
他人に対しての慈悲の精神が必要と言うことになる。
 は他人に対する慈しみ(マイトリー 与楽)。
 は他人の痛みを自分の痛み同様に感じ、その苦痛を除くことを願う思いやりのここと
 (カルナー 抜苦)。

マイトリーはマイトレーヤ(弥勒)に通じる。弥勒は56億7千万年後に悟りを開くとき、
衆生に真理を説法をして解脱させるという慈悲の心を持っている。
ちなみに、目黒に羅漢寺があって、ここにバクが祀られている。
今は真言を唱えるようになっているが、40年前、ここでに唱える言葉は「バックヨラク」であった。
また、宮澤賢治は「雨にも負けず」で慈悲の精神を説いている。
彼の文は法華経を背景にしていることが多い。

3.原始仏教
ブッダの死後100年くらいまでの仏教を原始仏教という。
この後、仏教は分裂に向かう。ブッダの死後得t-間になったのは、
ブッダの言葉のどれが真理かをまとめることだった。
 
ブッダは人の状態によって、その人に合わせて様々な言葉で真理を説いた。
すなわち方便を使用したため(ウソも方便という意味で使うような悪い意味ではない)、
どれが正しい教えかまとめる必要があった。
すなわち法典編纂が行われた。これにより早い段階で阿含経が成立している。

信者は教団生活を行った。教団をサンガ僧伽)という。
共和制、組合という意味で平等な共同生活を意味する。
ちなみに、僧侶の僧はサンガから来ている。
 
また、仏教徒の集まる国のことをサンガラーマ(僧伽藍)という。
伽藍のことであるが、伽藍には7つの堂が必要とされた。これを七堂伽藍という。
寺は回廊に囲まれ、一段高い所に作られる。
仏国である須弥山の上にあって、囲まれた仏国を意味する
(だから本来は観光などで入る場所ではない)。
そこに、本堂(金堂)、講堂僧坊食堂(じきどう)、仏塔(釈迦の墓、ストゥーパから来る)、
経蔵鐘楼が設けられる。
「うちの寺は七堂伽藍があって」と言われたら「完璧な立派な寺」という意味である。

ここに修行僧が出家して生活をする。彼らは地位や名誉、生活など一切を棄てて
ひたすら涅槃を目的とする解脱を目指す。
男性を比丘、女性を比丘尼という。尼僧の尼はここから来ている。

ちなみに、比丘をconperative hillと訳さないように。
サンスクリット語の音に漢字を当てているだけで、漢字自体に意味は無い。
比丘もときどき日本語の会話の中表れる言葉であるが、このような言葉は結構存在する。
かさぶた、あばた、まだら、かわら等がそうであるし、閼伽桶の閼伽(アカ)もそう。
アカ」は英語のaquaと同じ言葉
 
ちなみに、現代語のカルピスもインドの乳酸飲料のサルピスとカルシウムが
合体した商品名である。

これに対して在家信者(在俗信者)は優婆塞(男)、優婆夷(女)という。
彼らは出家者を支える役割をした。そして、三宝(三帰)を信仰する。
すなわち、ブッダ、ダルマ、僧侶(仏法僧)を信仰する。
(コノハズクはブッポーソーと鳴く。ウグイスはホー法華経)
そして五戒を守る。五戒とは不殺生、不兪盗、不邪淫、不妄語、不飲酒である。

このように初期の仏教は涅槃を目的として信仰されてきたが、
次第に現世利益を求めるようになってくる。インド文化の基層になっている
輪廻の思想も入り込み、釈迦も何度も生まれ変わり、そのときから
解脱を求めて修行をしてきたから、現世で解脱できたとなった。
 
そして、インドのヒンドゥー教などで行われている呪術の要素が入ってくるようになっていった。
これは密教のことであるが、日本では真言宗として入ってきている。

そのような方向に向かって仏教が動き始めた。まずは大分裂、部派仏教へと変化していく。

Posted by hajimet at 21:44 | Comments (0)


日本史授業 20141121(1) 韓国併合(2)と南満州経営

c.韓国側の対応と韓国併合
1905年第2次日韓協約によって韓国は日本の保護国となり、植民地化への道を進み始めた。
これに対して自国の独立を守ろうとしたのが、皇帝高宗であった。
 
1907年7月、高宗はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に密使を送った。
日本側は派遣前から事態を把握していて偵察をしていた。
結局日本側にばれてしまい、失敗に終わった(ハーグ事件)。
 
高宗は世界に対して「日本の不当性」をアピールしようとしたことと、
ロシアの力を借りようとしたのであった。
 
朝鮮半島で日本を牽制するとすれば、ロシアしかないからである。
 
しかし、このときロシアも露仏同盟のフランスも朝鮮半島は関心外になっていた。
というのも1907年、日仏協商で両国はアジアでの利益を相互に承認していたし、
この事件の直後のに締結された第1次日露協約では両方の勢力圏を、
日本は韓国、南満州。ロシアは北満州、内蒙古(のちに外蒙古)としていたからである
(この部分は秘密協定)。

一方、伊藤博文は高宗に対して、条約違反をせまり、
同月高宗は退位して純宗に皇位を譲った。
結局高宗は国王になったときから、自国の独立に力を注いだ王だと言うことが出来る。
 
また、同月、第3次日韓協約。施政改善を指導するということで、日本が内政を掌握した。
さらに、韓国軍解体。これによって、外交、内政、軍事と国家の基本的権利が
自由にならなくなったことを意味する。
 
韓国軍の解体で武器が日本の勢力をはね除けようとする人びとに渡った。
これによって義兵運動が展開されたが、
実質は内戦であった(当時の新聞で朝鮮の動きは、戦時扱いで描かれていた)。

このような状況を見て、伊藤は韓国併合は時期尚早と考えた。
歴史が長いこと、しっかりした文化を持っていて、併合しても一筋縄でいかないことを
感じていたからである。
 
しかし陸軍は早期併合論であった。
また桂内閣が「適切な時期に韓国併合」を決めたことで、統監を辞職した。
だが、伊藤は1909年6月ロシアと会談するためにハルビンに行き、
安重根(アンジュングン)に暗殺された
 
結局、1910年8月28日、韓国は日本に併合され植民地になった
調印は寺内正毅李完用(イ・ワンヨン or イ・ワニョン)の間で行われた。
日本では韓国併合を見越した新聞記事が早くから出ていたが、
そのような記事を書いた新聞は、韓国では輸入禁止となった。
また、併合条約は8月23日に締結されたが、そのことは韓国内では一切秘密にされていた。

この様子は当時の韓国でどのように受け止められていたか、プリントを見て見たい。
http://www.bbweb-arena.com/users/hajimet/blog2220_115512.htm

d.併合後
韓国は植民地、「朝鮮」となった。
植民地とは外国から見たときには「その国」であるが、自国内では「外国」扱いになる。
法律も制度もまったく異なるからである。
首都、皇城、漢城から京城になった。
統治機関は天皇直属の朝鮮総督がつき、京城の朝鮮総督府が統治した。
初代の総督は寺内正毅で、以降、現役の軍人(陸軍中心)が総督となった。
また、警察も憲兵が上層部に入り、厳しい統治を行った。これを武断統治という。
 
統治の最初の段階で総督府は土地の所有権を確認する土地調査事業を行った。
所有権のはっきりしない土地は総督府の所有となった。
生産手段を失った農民は国外に移るしかなかった。南部は日本へ、北部は満州に移動した。
総督府に所有権の移った土地は、日本人地主や、朝鮮を開拓する東洋拓殖会社
払い下げられた。


Posted by hajimet at 21:37 | Comments (0)


2014年11月23日
これはひどい…

9月に宿泊した北京のホテルで。さすがに業者を通じてクレームをいれた。

Posted by hajimet at 21:03 | Comments (0)


ハングル 20141121 辞書を引こう(2)

辞書を引こう(2)

生徒からリクエストがあったので、歌詞を訳すことにする。
最近のK-popではなく、1990年代の流行歌を訳す。

歌謡界の様子の違いを知ってもらいたかったこと(現在と大違い)
連体形の多く入っている歌詞があったこと。
最近、医療が関係して急死したことで話題になったこと。
 
これらが選曲の理由だった。

まずは、1991念9月4週の「火曜トップ10」と、「여러분의 인기 가요」を眺める。
随分、様子が違うことに驚く。

曲を見た後「これを訳そう」と、いきなり歌詞カードを渡す。
曲名は、신해철の재즈 카페。
まず「재즈 카페(チェジュ カペ)って?」中々当たらない。
ヒントを出して「Jazz cafe」まで持ってくる。
 
まずは、最初2行を黒板に書く。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
最初に
까만 머리 까만 눈에の部分を訳させる。そのままでは無理なので、
까만は까맣다で辞書を引かせる。(「黒い」という意味を調べさせる)
「까만の『 ㄴ』は何? 形容詞と名詞をつないでいるけれど?」。
暫く考えて「連体形です」

そこで(ものすごい乱暴だが)、
「用言に는, ㄴが付いているものは連体形と考えて良い」と指示。

위스키 브랜디 블루진 하이힐 콜라 피자 발렌타인 데이

까만머리 까만눈에 사람들의 목마다 걸려있는 넥타이

어느 틈에 우리를 둘러싼 우리에게서 오지않은 것들~

ここまでは全員で訳す。最初の部分は
「ウィスキー ブランディー、ハイヒール、コーラ、ピザ、バレンタイデイ」
 
ここから2グループに分けて訳させる。

우리는 어떤 의미를 입고 먹고 마시는가 빨간 립스틱 하얀 담배연기
 
테이블 위엔 보석 색깔 칵테일 촛불 사이로 울리는 내 피아노

밤이 깊어도 많은 사람들

なんとか訳すことが出来た。この後の歌詞は意味を教え、改めてDVDを見た。
そして、連体形をまとめたプリントを配ってお終い。
 
この日の授業は、一筋縄でいかないことは最初から予想していた。
辞書を引くことに十分には慣れていないこと、
文法的に多少難しい処があること、
しかも詩的要素が入っているため、綺麗な文章にならない。
 
さらに、電子辞書を駆使できた生徒が休んだというおまけまで付いた。
それでも、半分近く訳せたことは、予想以上のスピードだった。
 
次回は、ハングル書道。

Posted by hajimet at 20:06 | Comments (0)


ハングル 20141113 辞書を使おう

辞書を使おう
今回は、辞書購入指定はしなかったが、図書館などで辞書を借りさせて持参させた。
最初に辞書引き方を手ほどきして、教科書を利用して引く練習をする。
 
つぎに、韓国の新聞を見せる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一面、写真の右側の囲み記事が面白いから読んでみたいと話、コピーを渡す。
訳して欲しい部分を指定して(2カ所)、2グループに分けて訳させる。
文法の既習事項の制約があるため、そのままでは読めない。
そこで、黒板に文章を書き写して、ヒントを与える。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
作業中。途中から修学能力試験の記事だと気がつき出す。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして完成。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「本当に、読めるんだ」。感想が漏れた。
頭の中では「文法は同じ、辞書で引いて順番に並べれば読める」ことは分かっていても、
この瞬間、知識が知恵に変わる。
 
その後、修学能力試験の話をしてお終い。
 
 

Posted by hajimet at 19:57 | Comments (0)


2014年11月20日
日本史授業 20141117 日露戦争後の影響、韓国併合と南満州問題(1)

(1)日露戦争後の影響

a.国際情勢の変化
日露戦争でロシアが敗北したことで、極東におけるイギリスの敵はいなくなった。
これによって国際関係は変わった。すでにアフリカにおける衝突を回避するために、
英仏は1904年に英仏協商を締結した。また、極東進出が挫折したロシアは、
もはやイギリスの敵ではなかった。むしろ、近東に進出するドイツを英露で牽制する必要
出てきた(3B政策と3C政策)。そのため1907年英露協商が締結され、さらに日本とフランスも
1907年日仏協商を締結した。これによって、イギリス側とドイツ側が対立する第一次世界大戦
の枠組みが出来上がった

b.極東における非ヨーロッパ人の勝利
日露戦争は近代史上初めて非白人が白人に勝利した戦争であった。このことがアジアの民族
運動に刺激を与えた。トルコ、インド、フィンランド(アジア系民族、フィンランディア)、中国など。

c.植民地獲得
日本が植民地を獲得して、本格的に帝国主義の道を取り始めた。すなわち勢力拡大を図った。
その方向は満州と台湾以南の地域である。しかし、フィリピンは米国が植民地としていたし、
満州はアメリカの門戸開放の目的地である。そのため日米が対立することとなり、
太平洋戦争へと繋がった。

(2)韓国併合


a.日露戦争中
韓国は日露戦争の始まる直前の1904年1月21日に局外中立を宣言した。しかし、すでに部
隊を駐屯させている日本はこれをみとめず、日露戦争開始後の2月に日韓議定書を締結した。
これは日韓の軍事同盟であって、日本側が戦争遂行に必要な施設を韓国から接収できる
というものであった。これによって、韓ロ間の条約は廃止された。この条約によって、日本は
韓国の通信網と航海権を接収し、軍事輸送用に京釜線、京義線を敷設した。
 
さらに7月に第1次日韓協約。これにより顧問政治が行われ、財政、外交に顧問が就くように
なった。外交顧問が外国人だが、日本政府が推薦するため日本の利益に適った人が就任する
ことになる。また、財務は国の運営に関わる費用を出す部門だから、純粋に財務だけでなく
関係するかなり広い範囲まで財務顧問が助言することとなった。なお、竹島の領有宣言は
1905年2月である。ロシアが島を測量したことも背景にあり(測量は軍事目的、当時の日本は
陸軍陸地測量部が測量していた)、日露戦争の帰趨がはっきりした時期でもあった。

b.日露戦争後
ポーツマス条約の会談を行っている最中の1905年7月29日、桂タフト協定(秘密協定)が
締結される。日露戦争後日本がフィリピンに進出することを恐れていたアメリカと、勢力圏を
調整したものであった。その内容は、日本が米国のフィリピン領有を認めるとともに、米国は日本の韓国に対する優越権を認めるというものであった。続く8月12日に第二次日英同盟
締結。第一次日英同盟はロシアに対抗するものであるから、ロシアが敗北すれば最早存在
意味を失う。そのために新たな内容とした。それは、日本がインド防衛を肩代わりする
代わりにイギリスは日本の韓国における特殊利益を認めるというものであった。
さらに9月5日にポーツマス条約。これによって、清国、ロシア、英国、米国の勢力が韓国から
排除された

これを受けて1905年11月 第2次日韓協約。この条約は、日韓併合時代についてどのような
立場から論ずるにしても、避けて通ることの出来ない条約である。条約締結時の伊藤博文の
行動や皇帝の印がないことをどのように評価するのか。日本側は国際法を遵守しているし、
印の不要な形式の条約だとする一方、現在の韓国側は国際法違反で、印がないため無効と
している。もし無効なら、その後の植民地支配は違法と言うことになるから、この条約を
どのように見るかは非常に重要な意味を持つことになる。
 
この条約によって韓国は外交権を喪失して、日本の外務省が韓国の外交を行うこととなった。
また天皇直属の統監を京城(ソウルの日本側の呼称。韓国側は漢城、皇城と呼んでいた)に
置き、韓国の政治を援助することとなった。このように外交権を失った国のことを(国際法上)
保護国」という。「保護国」はこの時期だけ存在した国家形態で、いきなり植民地支配を
するのは適切でないという風潮が出てきたために考え出された形態である。
フランスがチュニジアを保護国にしたのが、保護国の最初である。

Posted by hajimet at 21:50 | Comments (0)


倫理授業 20141120 仏教3

2.修行の目的
仏陀の修行の目的は、人生に於いてなぜ悩みがあるのかと言うことであった。
そして、一切皆苦であることを悟った。すなわち、人には逃れられない苦痛がある。
それは「生老病死」という四苦と、「怨憎会苦(会いたくない人に会う苦)」
愛別離苦(愛する者とも別れなければならない)」「求不得苦(欲しくとも得られない)」
五蘊盛苦(人間の存在を構成するもの)」の計八苦がある。

ちなみに五蘊とは(物質)、(体で受け取ること:感覚)、(表象)、(意志)、(識別)
のことを指す。物質は目で感じられるが、それだけでは物質と認識されず、いくつかの段階を
経て初めて「その物質」だと分かる(般若心経に色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是
という部分がある)。
 
…実はそういう手順で物事を認識しているのだから、本当に皆が同じように見ているのかは
他人には分からない。もしかすると、見ていると思っているだけかも知れない。
(大乗の話になるのだが)ドラえもんはのび太が意識不明の間に見ていた夢だという
都市伝説があるが、のび太にとっては「事実」。

ではなぜ苦痛に感じるのか。それは人が世界の真理(法:ダルマ)に無知(無明)であるためで、
それゆえに煩悩(除夜の鐘)、渇愛(砂漠で水を求めるように)にとらわれ、
我執(不変のアートマン)するからである。
 
物事は常に変わる。無常である。アートマンなどはない。すなわち無我なのに、常、我と
想うから苦しいのだ。歳取って、病気になるの当たり前のことなのだ。そして、成長している
ように見えていても、すでに衰え始めている部分もある。15歳の生徒が5歳の時が
懐かしいからと言って、5歳のままでいたいと思っても、それは「苦」以外の何物でもない。

3.四諦説と八正道
では、どのように解脱すればよいのか。ブッダは初転法輪で4段階に分けた。
  苦諦:人生は苦
  集諦:苦しむのは我執するから。
  滅諦:原因を無くせば、苦から解脱できる。
  道諦:そのために「正しい修行道(八正道)」を行う必要がある。
      正しいとは極端(快楽、厳格)を避け、中道をとること(中間。適切なこと)。
       cf.寺院の灯籠の基礎に八角形のものが多い。
       ※八正道は資料集で名前だけ確認した。

4.三法印
これをさらに三法印(四法印)で表した。
 a.(一切皆苦)

 b.諸行無常
すべてのこのは常に同じではない。常に変わっている。黒板も30分で(顕微鏡レベルだが)
すり減っている。生徒も色々変わっている。授業の初めに元気であっても、「睡眠学習」に移行し
ている者もいる。
   cf.平家物語、徒然草、方丈記、いろは歌(ブッダの前世の物語)

 c.諸法無我
ここでいう法は「存在」のこと。存在するものに永遠不滅のアートマンは存在しない(バラモン
教批判)。常に変わる。でも存在している。それはたまたま色々なものの関係によって存在
しているに過ぎない。たまたま今の学校に来て、今の友人と会って影響請け合っていて、
今の自分が出来ている。違う学校に行ったら違った人生、人格になっていたはずである。
そのことに気がつけば、

 d.涅槃寂静
涅槃はニルヴァーナの音訳。火を吹き消した静寂のこと。静寂な世界に解脱できると言うこと。

ここで分かるように、仏陀は輪廻転生については語っていない。生そのものが無常であり、無我
であるわけだから、仮に魂があって輪廻転生したとしても、それはその先の話であって、今とは
関係ない世界の話になる。むしろ、輪廻転生を否定することになる。輪廻転生後を視野に入れ
るウパニシャドと異なり、あくまでも現世の問題、現世の解脱をテーマにしているのである

5.縁起
仏陀によればこの世界に永遠不滅の実体は存在しない。事物は他者との相依相関の中で存在
するにすぎない。今存在することは様々な関係の中で存在しているに過ぎない。花は種()と
成長要因()によって咲く。種だけでは芽吹かないし、水だけではヒマワリは花までたどり着かない。料理は素材だけでなく、調味料などの調理を経て初めて作品となる。すべてのものは因縁によって起こる(縁起)のである。


Posted by hajimet at 21:39 | Comments (0)


倫理授業 20141117 仏教2

1.宗教改革運動
インドでは、紀元前500年頃から、都市国家が登場する。
これによって社会構造が変わりバラモンの権威が下がった。
王族からはバラモン至上主義批判が出て、バラモン教の改革に進む。
一方で、都市を中心に宗教改革運動が起きた。
このとき興った宗教で現在に繋がるものは二つである。

(1).ジャイナ教
開祖はヴァルダマーナ。厳格な不殺生主義をとっている。現在信徒数200万人。
白衣、マスクをつけ、裸足でほうきを持ちながら歩く。虫などを殺さないためと言われる。

(2).仏教
開祖はガウダマ・シッタールダ(ゴウダマ・シッタッダ)。
仏陀とも言われるが、これはサンスクリット語のBuddahに由来する言葉で、
覚者:悟りを開いた者」の意味。ちなみに菩薩は菩提薩陀から来ていて「修行をするもの」。
釈迦はシャーキア族の王子、釈迦牟尼はシャーキア族の聖者の意味である。
 
ブッダは紀元前500年頃に生まれるが、ソクラテス、孔子もほぼ同じ時期の生まれ。
地球全体が新しい時代に入ったからであるが、彼らが現在でも崇拝されているのは、
紀元前500年以来、基本的な社会構造が変わっていないからともいえる。

2.仏陀の生涯
ブッダは釈迦族の王とマヤ夫人の間に生まれた(西小山近辺に祀っている寺がある)。
イエスと異なり普通の人として生まれたが、誕生秘話に寄れば、マヤ夫人が
夢を見ているときに像が飛び込んできたと言われる。そして、マヤ夫人の脇っ腹から生まれ
(夫人は1週間後に死去)、七歩歩いて「天上天下唯我独尊」と唱えた。
このとき、空から妙なる音楽が流れ、花が舞い、地上からは甘露水と呼ばれる水が湧いたという。
その水で産湯を使わせた。このことを記念している行事が4月8日に行われる「花祭り」。
桜の季節のお祝いでなく、花が舞ってきたことをお祝いして、甘露水として甘茶をかける。

ブッダは何不自由なく城内で暮らし、16歳で結婚して、一子(男子)を儲けた。
だが、その後遊びに行こうと城を出たときに事件が起きた。
東西南門、それぞれの門を出たときに、老人、病人、死人を見た。
なぜそのように苦しまなければならないのか悩んだ仏陀は、北門から出家した(四門出遊)。
仏陀は2人の師について山中で修行をした。6年間断食を行い、その間、一日に一粒のゴマだけ
ですごした。しかし、頭が朦朧とするだけで、悟ることは出来ない。

そのことに気がついた仏陀は、修行仲間の止めるのも聴かず、山から下りてしまった。
そして、川沿いの村の村娘であるスジャータから乳粥をもらい、体力を回復させた。
厳しい修行でなく適切な修行が必要だと考えたようだ。
その後、35歳の時にガンジス川のほとりのブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、悟りを開いた
(インドの思想の原型がここで出ている)。法(ダルマ):真理を悟ったのである(cf.達磨)。
この瞑想の時は様々なものが悟るのを妨害しようとしたそうである。
だが、最後に地から魔物が出てくるときに、ブッダは地面に手をつけてそれを押さえ込んだ。
悟ったのはその日の朝であった。

周囲から(天女など)、ブッダが悟ったことを教えて欲しいと言われたが、
ブッダは最初は拒んでいた。深遠すぎて他の人は理解出来ないというのである。
だが、ついにサルナート鹿野苑で悟ったことを説いた(cf.鹿苑寺:足利尊氏の墓がある所)。
これを初転法輪という。法=真理は完璧だから凸凹のない輪のようなもので、
それが前へ前へと転がっていくという意味である(cf.仏教雑誌『大法輪』、仏教関係の旗の輪)。

その後仏陀は布教活動をしながら、信者を増やしていった。彼らは出家して教団生活を
送っていた。このような中で、教団に修行場所を寄進する者が現れた。マガタ国では
ビンビサーラ王が竹林精舎を、コーサラ国ではスダッタ祇園精舎を寄進した。
そこから鐘の音が聞こえていたのである。

だが、仏陀も老いてきて、80歳で入滅した。体調を崩してクシナガラで静養し、
一端は体調が回復した。しかし、食あたり(毒茸とも赤痢とも言われる)により、
激しい腹痛と下痢を起こした。二本のサラの木の下で、インドの習慣である北に枕を置いて
横たわっていた。師の死を嘆くアーナンダに対して、自分は死んで消えていくが、
「法」を守るようにという趣旨のことを伝えて死んでいった。死んだときにサラの花が咲いたという。

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2014年11月18日
倫理授業 20111114 仏教(1)

1.インド世界
(インド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ、ネパール、ブータン、モルディヴ)
仏教はインドで発生した。この地域の気候はモンスーン気候で、肥沃な土地で農業に有利
周囲を山、砂漠、海に囲まれているため、閉鎖空間である。
多くの民族が、周囲から肥沃なインドを目指して入ってくるため、独自の文化が醸造される。
そのため、言語数が非常に多く、4qごとに言葉が変わると言われている。

2.インド文化の原型
すでに紀元前2300年から1800年頃、モヘンジョダロを中心にインダス文明が起きている。
すでに、大地母神、生殖信仰、樹木(菩提樹)信仰、輪廻転生、静坐瞑想(ヨーガ)、
宗教的沐浴の習慣があった。

この地に紀元前1500年頃アーリア人が入ってきた。
白人でドイツ人、イギリス人などと祖先は一緒。同じインドヨーロッパ語族を話す遊牧民であった。
彼らは定住して、支配的な立場になっていった。

3.バラモン教
アーリア人社会はカースト制度とバラモン教によって特徴付けられる。
@カースト制度
彼らは人びとを4つの姓(ヴァルナ)に分けた。
 バラモン:祭祀階級
 クシャトリア:王族、武人
 ヴァイシャ:庶民
 シュードラ:奴隷階級
 
 ア・ヴァルナ(アーリア人でない人。アは英語のun):不可触民

ア・ヴァルナは自分たちではダリットと呼ぶ。その解放運動を行った人がガンジーである。

現在インドではカースト制は廃止されているが、社会的に消えているわけではない。
実際は非常に細かいカーストに別れていて、クリーニング屋のカーストに生まれてきたら
一生クリーニングに従事しなければならない。
カーストを越えて外の職業を選択したり、結婚したり、食事することは禁止される。
 
かつてインドに留学した日本人が粘りのある米を買おうとしたら、
これは下の階級の人が食べる物だから売れないと言われた話を読んだことがある。
 
このように一生がカーストの中に縛り付けられるから、
この世は基本的に「苦」であることになる(日本、中国は現世は「楽」)。

バラモン教
バラモン至上主義で、バラモンによる祭祀中心主義の宗教である。
経典はヴェーダ。知識と言う意味。神は自然とその威力を擬人化して信仰する多神教。
この中の雷霆(インドラ)は仏教に組み込まれて帝釈天となる。
また、天人はdyunusと呼ばれるが、印欧語族共通にこれに近い名前がつけられている。
ギリシアではゼウス。

紀元前600年頃から、主に王族からバラモン至上主義に対する批判が出てくる。
インドの社会構造が変わったためである。この中から仏教なども出てくるのであるが、
バラモン教も自己の教義などを深化させるようになった。
その中で出来上がった物がウパニシャド(奥義書)、バラモン教の哲学である。
紀元前7世紀頃の成立。それによると
 
(1)輪廻転生
宇宙は無限の循環で有り、人の魂も永遠に輪廻転生する。
人の霊魂は死ぬと月に行く。
しかし、月は半月ごとに広くなったり狭くなったりするから、狭くなったときに地上に落ちてくる。
それが植物と食事を通して男性の体に入り、そこから女性の体に移って、生まれてくる。
生まれてきた人はいずれかのカーストに属するが、それは前世の業(カルマ)によって決まる
すなわち自業自得なのであって、自分の行ったことに対する因果応報なのである。
 
このようにしてカーストを正当化する。
一方で人は自分の行った「何らかの」業で将来が決まるから、びくびくしていなければならない。
したがって、現世は「苦、苦悩」ということになる。

(2)梵我一如
この輪廻転生の苦悩から脱するためには解脱して、魂が月の向こうに行ければ良い。
そのためには宇宙の本質であるブラフマン(梵)と、個人の魂であるアートマン(我)が、
もともと一体のものであると言うことに気がつけば良い。
 
アートマンもブラフマンの一部であるからである
それに気がつかないから、月に行って、また落ちてきてしまうのである。
そのことに魂が気がつかなければならず、
そのために俗世間から離れて厳しい修行をしなければ行けないと説く。

仏教は、このような考え方を批判して登場してきた。

なお、バラモン教とインドの民俗信仰が融合して9世紀頃成立した宗教がヒンドゥー教である。

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日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(2)

(3)日英同盟
北清事変のとき、ロシア軍は満州を事実上占領した。
名目はシベリア鉄道を満州でショートカットする東清鉄道を保護するということである。
しかし、鉄道だけでなくその附属地なども含んでいる。

また、ロシアは朝鮮に圧力を加えてきた。
このような状況の中、日本はそれまでの対露政策を変更することになった。
それまでは協調外交をとっていた。冬にロシア艦船を長崎に係留していたりもした。

伊藤、井上は満韓交換論で日露の勢力範囲を分けることを考え、ペテルブルクへ行った。
しかし、何れは両者が再び衝突するであろうという懸念があった。
両国とも新興工業国であって、利害を求める場所が共通だったからである。
そのため、山県や小村寿太郎は日英同盟論を採った。
この方が日露で協商した後、イギリスと関係を再調整するよりも有利だったからである。
しかも、日本は工業立国のためにイギリス資本に多く依存していた。

イギリスもまた、中国弱体化に脅威を感じ、日本の軍事力を利用してロシアを牽制しようとした。
そこで両国は1902年2月に日英同盟(第一次)を締結した。
両国とも清韓それぞれに特殊権益を持っていること、
それを守るために軍隊を出す事は認められるが、その場合、一方は中立であることとした。
日露が衝突した場合に、英仏が衝突しないようにするためである。

これで、
日本は日露が衝突した場合にイギリスの援助が期待できるようになり、
イギリスにとってはロシアを牽制することが出来るようになった。
また、世界史的には露仏同盟に対する日英同盟という、対立軸が出来たことを意味する。

ロシア軍は一度撤退したが、1902年にシベリア鉄道が開通すると
再び、満州での兵力を増強するとともに、韓国の竜岩浦(ヨンアムポ)に軍を進めた。
これについて日本と露西亜は交渉を行った。勢力圏を分けようとしたのである。
北緯39度で勢力圏を分けるという考えもあった。しかし、交渉はうまく行かなかった。

日露戦争
日露戦争は日清戦争に比べて兵力の大きな戦争である。
100万の兵が送られ、22万名が死んだ。各村で数十名が死んだことになる。
各地の神社では日清戦争の慰霊碑よりも、日露戦争の慰霊碑を目にする。

また、石炭をめぐる戦争でもあった。東アジアで良質の石炭は主に日本から出ていた。
日露両国とも戦争に備えて、1902年頃から石炭の備蓄をはじめていたが、
ロシアはドイツ商人を通じて日本の石炭を手に入れいていた。
しかし、戦争が始まると、日本産石炭はイギリスが購入し、ロシアには回らなかった。
また、ロシアの艦隊はバルト海にいたが、これをウラジをストークまで移さなければならない。
しかし、途中の港で、イギリスの押さえている港には入港できない。
 
英国が中立を宣言しているためである。
中立は黙認義務、避止義務、防止義務があって、
いずれにしてもロシア軍艦はイギリス側の港に入れないのである。
そのため良質な石炭が手に入らなかった。

1904年2月8日国交を断絶。仁川、旅順を攻撃。翌日には黄海の制海権を押さえた。
宣戦布告は2月10日

日本は1903年頃から、キリスト教者の内村鑑三や、社会主義論者の幸徳秋水らによる
非戦論をおさえて、開戦論が強まっていた。対露同志会や七博士の影響が強かった。
 
一方でロシアも皇帝(ツァー)の専制政治に対して労働者や失業者の不満がたまっていて、
国民の視線を外国にそらす必要があったのである。しかし、両国とも資金がない。
そこで、日本は好況だったロンドンで外債を発行し、ロシアもパリで外債を発行して資金を得た。

1904年12月、日本は軍事拠点の旅順要塞を陥落させた。
日本は港口に船を沈めたり、周囲から旅順を攻撃しようとしたが、
ロシア側は旅順の周囲全体を要塞化していて、日本側はここを落とすことに苦労した。
あまりに遺体が多くなり、一時休戦して、
両国の兵が遺体をかたづけなければならないほどであった。

3月には奉天会戦(陸戦の最後)が行われ、5月には日本海沖海戦が行われた。
11月にバルト海を出発したバルチック艦隊は対馬海峡を通って日本海に入るルートをとった。
時速7ノットと20ノットの船が一緒にいて、性能も新旧交ぜこせの艦隊である。
しかも燃料が悪く、野菜不足で脚気にかかる兵士も多かった。
 
一方で日本軍は韓国の鎮海に拠点を置いていたため、戦場はすぐ目の前であった。
新型の船で性能も良い。バルチック艦隊と闘っても、勝敗は目に見えていた。

このころ、日露両国とも資金難に陥っていた。
一方で、国内では与謝野晶子「君しにたまうことなかれ」に代表される反戦論が唱えられ始めた。

戦争はアメリカのT.ルーズベルト大統領の仲介で終えることとなった。
アメリカは戦争によって日本の満州進出が進むことを恐れ、
血の日曜日事件のような革命の動きがヨーロッパに波及することを警戒した。

9月、小村寿太郎、高平小五郎、ヴィッテ、ローゼンの間でポーツマス条約が締結された。
 1.日本の韓国に対する特殊権益と指導権。
 2.旅順、大連の租借地を清の許可を取って日本へ。
 3.長春、寛城子以南の東清鉄道の支線を清の許可を取って日本へ。
 4.北緯50度以南の樺太を日本へ割譲。
 5.沿海州、カムチャツカの漁業権を日本へ。

条約には賠償金が入っていなかった。両国とも入れる余裕がなかったのだが、
国民は資金が尽きていることは知らされておらず、また戦争で物価が高くなっていたため、
これを不満に感じた。

そのため、日比谷公園で講和反対の国民大会を開いたが、
それが暴徒化し、日比谷焼打事件に繋がってしまった。

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日本史授業 20141112 中国分割と日英同盟(1)

(1)租借
日清戦争により中国の弱体化がはっきりしたため、列国が中国の分割と勢力圏を設定した。

98年 ドイツ:膠州湾(青島)
     ドイツはビスマルク失脚後「世界政策」に舵を切った。
     しかしそれまでのドイツの植民地は植民するには適切でなかった。
     そこで中国に目をつけ、イギリスが目をつけていなかった良港、膠州湾を租借した。
    ロシア:大連、旅順(南下政策)
    イギリス:威海衛(ロシア牽制のため)
        九竜半島(香港の隣。100年間租借。1999年香港返還) 
99年 フランス:広州湾

各国は鉄道の敷設権や鉱山の経営権を手に入れて影響圏を設定していった。
ところで、租借地は期限を決めて、その国から土地を借りることであるが、
実際は事実上の植民地である。ドイツが租借という方法をとったのは、
ドイツが三国干渉を行ったため、植民地を獲得するわけには行かなくなったからである。

一方アメリカは中国進出が遅れた。
 98年 ハワイ併合、フィリピン植民地化(米西戦争)。
フロンティアが太平洋西岸に達したときには、すでに中国は分割された後であった。
そのため、ジョン・ヘイ国務長官は「門戸開放」「機会均等」を主張し、
自由貿易体制を維持するように主張した。

 cf.自由貿易と保護貿易

(2)義和団の乱と北清事変
清国国内では内政改革の動きが出てきて、康有為、梁啓超らを中心に変法運動が起きた。
彼らは1898年、光緒帝の許可を取って実際に政治改革を行った。
だが、この改革は西太后によって止められてしまった(百日維新、戊戌政変)。

このような政界の動きは、
外国の圧力を強く感じている中国人にとっては不満のたまるものであった。
特にドイツの進出の著しい山東半島では、
義和拳という反キリスト教民俗信仰団体を中心にして、外国人を攻撃する動きが出てきた。
彼らは「扶清滅洋」をスローガンとして活動した(義和団の乱)。

同年、乱は北京にまで広がり、外国公使館を攻撃するに至った。
清国政府も義和団に同調して、各国の宣戦布告をした(北清事変)。
清国政府はこれによって外勢を追い返させると考えたのである。

公使館はその国を代表して相手国政府と交渉する公使の勤務する場所で、
その国の領域と同じように保護されなければならない所である。
それゆえ、その場所は警備されなければならない場所でもある。

各国(日英米露独伊墺)は連合軍を結成して義和団を制圧した。
このとき、日本軍の力は大きかったが、
第2次山県内閣は最初から連合軍に加わることには消極的であった。
中国に勢力を広げるためであった。
そこで、3回、出兵要請が来てから、軍を北京に出す事にしたのである。


結局1801年 北京議定書が締結された。これにより清国政府は
 ・賠償金
 ・公使館の地域を治外法権にすること
 ・公使館警備のため、守備隊を駐屯させることを認めることになった。

北清事変鎮圧に貢献した日本は「極東の憲兵」と目されるようになり、
中国に勢力を拡張し、ロシアを牽制し、朝鮮に進出する足がかりを作った。
 

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2014年11月17日
日本史授業 20141110 立憲政友会の成立

三国干渉
国民にとっては寝耳に水であったが、「臥薪嘗胆」のスローガンの下、軍備拡張を支持した。
戦争の結果、日本は多額の賠償金を得ることが出来た。これにより資本主義が進展した。
また、朝鮮の市場を確保したことにより、紡績が好調となり、第一次産業革命が進んだ。
さらに、銀2億両を金に換算して受け取ったため、金本位制が確立するなどの効果があった。
 
一方朝鮮ではロシアが進出してきて、日本の進出を押さえたい朝鮮政府は、ロシアの勢力を
引き込んだ。一方、これを不服に感じた日本の三浦梧楼は、1886年深夜王宮に忍び込んで、
閔妃を殺害し、大院君を担ぎ出そうとした。しかし、この事件は漏れてしまった(乙未事件)。
 
高宗はロシア公使館に避難したが、1887年ここから出て、国号を「大韓帝国」に変更した。
朝鮮という国号は、明、清国から冊封体制の下で、王に与えられたものであったからだ。
清国との関係が切れたことで、独立の国であることを占めそうとしたことと、
王が皇帝になる事によって、清国や日本と同格の国であることを示そうとした。
高宗は皇帝を象徴する色である「黄色」の服を着るようになった。
 
清国は国の弱体化が明かになり、列国に分割されるようになった。
一方で、民族的自覚が高まり、「滅満興漢」「扶清滅洋」の傾向が強く出るようになった。
 
立憲政友会の成立。
(1)隈板内閣
日清戦争は日本の国内の様子も変化させた。
資本主義化が飛躍的に発展して市民の発言力が伸びたこと、
政府も軍備拡張のために市民の協力が必要になったことなどがあげられる。
 
すでに第2次伊藤内閣の時、自由党と政府は提携していたが、
1896年、第2次伊藤内閣では自由党の板垣退助が内務大臣として入閣し、
同年、第2次松方内閣でも進歩党(旧立憲政友会)の大隈が外相として入閣した。
 
第2次松方内閣は、財政破綻による増税問題で衆議院を解散したが、
結果は自由党の敗北に終わって退陣し、続いて第3次伊藤内閣となった。
 
伊藤内閣は政党の支援を受けられなかったために、超然主義をとるしかなかった。
そのため、伊藤系と山県系官僚で内閣を構成した。
だが、これに反発して、自由党と進歩党は合同して憲政党を結成した。
憲政党は衆議院の90%近い議員で占められたため、
伊藤は議会運営の見通しを失って辞職し、
大隈首相、板垣内相によって構成される第1次隈板内閣が成立した(98年6月)。
この内閣は、陸海軍大臣以外はすべて憲政党で構成された。
日本で最初の政党内閣である。
 
だが、自由党系と進歩党系の内部対立と、藩閥系の圧力で内閣は思うように運営できなかった。
さらに尾ア行雄が自由党系を攻撃しようと、「共和演説」をしたが、これに対する反発から、
尾アは文部大臣を辞職することとなった。そして、憲政党は分裂し、旧自由党系が憲政党、
旧進歩党系が憲政本党を名乗った。
 
これによって、98年11月隈板内閣は辞任し、第2次山県内閣が成立した。
 
(2)立憲政友会の成立
第2次山県内閣は、自由党の協力を得て、地租増徴案を通過させた。
しかし、山県は
99年に文官任用令を改正し、政党の影響力が行政に及ぼさないようにし、
00年に軍部大臣現役武官制を定め、現役の大将、中将以外は大臣につけないようにした。
さらに、00年に治安警察法が公布された。
 
これは事実上超然主義の形が変わっただけだったので、
協力関係だった自由党は山県を批判し始めた。
一方、
伊藤は政治を行おうとすれば、自分が引っ張ることの出来る政党が必要と考えるようになった。
第3次伊藤内閣の失敗などが背景にある。
この利害が一致して、1900年立憲政友会が結党され、伊藤が総裁となった。
これにより、政府と政党の対立は妥協にいたり、政党政治の基礎が出来上がった。
 
そして、第4次伊藤内閣が成立したが、山県系の貴族院の反対にあい、退陣した。
 
次の内閣は桂太郎内閣である。山県の後継の長州閥であった。
一方で、立憲政友会は西園寺公望が、伊藤の後継として総裁となった。
 
この二人の間で政権がやりとりされる様になったために、この時代を桂園時代という。
一方で伊藤、山県は政界の表舞台から引退し、元老として政界を裏からリードするようになった。

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2014年11月12日
倫理 20141111 対抗宗教改革とその伝播

1.宗教改革
トマス・アキナスによって集大成されたスコラ哲学に見るように、
中世のカトリックは、宗教だけでなく、政治や学問に対しても絶対的権威を持っていた。
しかし、絶対的権威を持っているものは、平家物語を見るまでもなく腐敗する。
 
金銭的にも困窮に陥ったカトリック教会は、免罪符を発行して、
それによって神に罪を許してもらえるなどと主張した。
しかし、誰が救われるかは、神の恩寵によって決定されているのはないか?。
 
カトリックのあり方対して疑問を持ったマルティン・ルターは「95箇条の意見書」を発表した。
これにより、宗教改革が始まる。
カトリックを旧教というのに対して、宗教改革による新教をプロテスタントという。
(カトリックに)抵抗する人という意味で、英語のprotectと同じ意味である。
 
ルターは
 ・信仰のみ(信仰義認)
 ・聖書中心主義
 ・万人司祭主義をといた。
 
さらに、スイスのカルヴァンは従来の商業、特に儲けを得ることが認められない
(だから金融はユダヤ人が担当した)、カトリックの立場ではなく、
予定説を説くことによって商業活動の自由を認めた。
 
すなわち、誰が救済されるかは予め神によって決められている。
救済されると信じて信仰すれば良い。つまり、信仰に関しては免罪符で救われようとしても
ダメで、意思の自由は存在しないのである
 
2.対抗宗教改革
これに対抗してカトリックも改革を始めた。少し古い本では反宗教改革とも言う。
1534年、ザビエルを含む7人の宣教師が「イエズス会」を結成した。
彼らは教皇絶対主義を認め、カトリックを広く普及させようと海外布教を始めた。
キリスト教の広まっていないところである、アジアと中南米が目標地であり、
これによってカトリックの拡大が始まった。
 
また、教会勢力を背景に、経済的にも政治的にもヨーロッパの進出が始まり、
中南米はスペインやポルトガルの植民地になっていった。
アメリカ大陸からは世界中に梅毒が広がり、アメリカにはインフルエンザが広まった。
 
日本にはザビエルが来た。ザビエルはボランティア活動にも繋がる「自己犠牲の情熱」で
インドにやって来た。インドでヤジロウに出会ったザビエルは、日本での布教を考えて
鹿児島に上陸した。1549年、ルターからわずか32年後のことである。
 
ザビエルは平戸を拠点に布教活動を始めた。そして天皇に会おうと京都まで行ったが、
応仁の乱の後の混乱のため、天皇に会えずに、平戸に戻った。その後中国へ行こうとしたが、
上陸前に船中で死亡した。
 
サビエルは日本で神学、法学、医学を教える大学を造ることを夢見ていた。
それが実現するのは300年後のことで、それが上智大学である。
 
ザビエルは日本人のことを
異教徒の中で最も優れた国民で、名誉心があり、貧困も恥としない」と評価した。
また、偶像崇拝をしないこと(神道)、大日を信仰すること(これはザビエルの誤解)を評価した。
 
3.日本での普及
イエズス会は日本の伝統文化と生活様式を尊重する方針をとった。
ほかの宗派は必ずしもそうではなかったが、このイエズス会の方針は日本にとって幸運だった。
 
彼らは南蛮寺、コレジオ、セミナリオを作り教育をした。
賛美歌なども歌っていたという(聞かせる)。これにより、
 切支丹大名(宗教心、貿易などの理由)
 信者(カトリック墓の話をする。東京でも発見されている)も増えた。
またキリスト教の布教が成功したことをローマに伝えるため、天正遣欧使節も送った。
 (最近千々岩ミゲルの墓が発見されている)
 
4.禁教
しかし秀吉によりキリスト教は禁止される。その後江戸幕府に入り、西国大名の権力を削ぎ、
幕府が貿易を独占するためと、西欧諸国によって植民地化されることを防ぐために、
禁教政策は強くなる。そんな中で天草島原の乱が起きた。この乱は島原の住民が
殆ど殺されるほど激しいものであった(その後小豆島から移住させる…島原素麺)。
 
そのため、家光の時代に禁教は徹底された。この一連の動きで、人びとは寺に所属させられた。
(だから、寺に墓地ができ、寺が葬式、法事を行う)。転向しない人には容赦ない弾圧が
加えられた(丸の内線本郷三丁目付近の大量の白骨発見の話)
 
信仰を守るためには隠れるしかなかった。しかし、集団を越えて交流することはできない。
そのために、どんどん土着化し、神道や仏教の影響を受けることとなった。
 
その例の一つとして、生月島の隠れキリシタンの例がある。
葬式について、表向きは寺の檀家となっているため、人が死んだときには僧侶がお経を上げる。
しかし、その脇で「お経消し」のオラショ(Oratio)をあげるようなこともしている。
 
賛美歌も「おらしょ」に変わった(聞かせる)。口伝で行われるため大きく変化した。
しかし、随所に「さんたまりあ」などの言葉が入っている。変化していっても遺伝子は残るのだ
 
ただし、唱えている人は意味が分からない。日本は「有り難きもの」に神性を認めるから
意味が分かる必要は無いのだ(お寺のお経の文句も同様)。
 
また、箏曲の六段もクレド由来とされる。段数が偶数であること。箏曲に歌が付かないなど、
異質な要素を多く持っている曲である。
 
キリスト教が禁教となり、南蛮寺などからオルガンが消えた。しかし彼らは信仰を守りたい。
心の中で歌って、その伴奏を琴で弾いたことがきっかけとされる。時代がたって、
信仰していた人が絶えると、曲だけが残ったと言うことだ。
 
隠れキリシタンの信徒の中には、明治以降カトリックに改宗した人も多い。
一方で、この「キリシタン」を守った人たちを祀る仏壇を無くすことなどに抵抗して、
信仰をかえなかった人もいる。そのくらい変質しているのである。
 
ただし、元は、14、5世紀頃のカトリックの典礼を持ち込んだとされる。
その後カトリックも大きく変化しているので、現在のカトリックとは異なるが、
研究者によると、かなり当時の状況を遺伝子として強く残しているとのことであった。
 
これでキリスト教はお終い。
次回から仏教。

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2014年11月6日
日本史 20141104(2) 日清戦争

日清戦争
日清戦争は豊島沖の海戦によって始まった。
イギリスは当初日清間の衝突に難色を示していたが
日英通商航海条約の締結によって、日本支持に変わっていた。
 
日清戦争だが、宣戦布告は8月1日であった。
戦時国際法によって戦争を始めるためには、次の4段階を踏まなければならない。
1.交渉中止、2.国交断絶、3.宣戦布告、4.両国外交官の交換
この時代、日本は国際法を厳格に守れることを諸外国に示すため、
国際法を厳格に守っている。戦争にも国際法学者を同行させ、
戦後国際法を守ったことを示す本も出している。
 
日清戦争開戦の理由は
・朝鮮の独立
・東洋平和の維持であった。
 
戦争の帰趨は9月に決まった。
平壌(へいじょう、ピョンヤン)の戦闘で陸軍が勝ち、
黄海海戦で北洋艦隊に勝ったからだ。
(北洋艦隊は李鴻章が創設した、清国の近代式軍隊)
 
11月には旅順口を攻撃。遼東半島の先端で、湾口が狭く、水深が深い。
周囲は山に囲まれているため防禦に適している。戦略的に重要な拠点であるため、
日清、日露両戦争ともにここを巡って戦いが行われている。
北洋艦隊はここで船の修繕を行っていた。
 
そして、2月の威海衛の戦いで北洋艦隊は壊滅する。ここは北洋艦隊の拠点であった。
終戦交渉は始まっていたが、日本は威海衛の戦いまで交渉を伸ばしていた。
終戦の条件を日本に有利にするためである。
 
日清戦争に対して、日本国内は歓迎ムード一色であった。
それまで軍事費、条約改正をめぐって対立していた議会は、全会一致で臨時軍事予算を可決し、
民間では福澤が「文明と野蛮の闘い」、内村鑑三が「シナを覚醒させる」とした。
 
このような中で戦争に勝ち、下関条約を結ぶ(4月17日)。
 日本側全権 伊藤博文、陸奥宗光
 清国側全権 李鴻章
 
1.朝鮮の独立を認める。清国との宗属関係に関わるもの一切を廃止
  (これにより日本が朝鮮に進出しやすくなる)
2.遼東半島、台湾、澎湖列島の割譲
  (遼東半島ほぼ全部。のちの関東州よりはるかに広い範囲)
3.銀、2億両の支払い
  (日本の産業革命の進展)
4.揚子江沿い4港(沙市、蘇州、重慶、杭州)の開港。
 (日本が大陸に進出しやすくなる)
 
日本が戦争に勝った理由は、
 1.清国の弱体化と腐敗。
   西太后が権力をもつ時代で、皇帝との二重権力構造になっていた。
   統一的な政策がとれなかった。
 2.近代化のあり方。
   日本が西洋式の近代化路線を採った一方で、清国は中体西用路線をとった。
   清国もそれなりに近代化を進めていたが、限界があった。
 
   政治体制が変わっていないからである。日本は明治維新で新たな政治体制に
   なったため、近代化路線をとることができた。実は戦争が始まるまで、日清どちらが
   優位かははっきりしていなかった。しかし、この戦争で日本が勝ったことによって、
   歴史的には日本の近代化路線の方が優位だったことが確定した。
 
これにより、清国と朝鮮の宗属関係は断たれたのみならず、政治的に清国の影響は排除された。
 
三国干渉
ところが、これに対して、ロシア、フランス、ドイツが抗議をしてきた(1895年4月23日)。
ロシアはフランス、ドイツ、イギリスを誘ったが、イギリスは断った。そのために
三国干渉となった。
 
実は、清国の弱体化にともなって、列強は清に進出しようとして注目し始めていた。
それだけに、日清戦争の帰趨は列強の関心事であった。
 
清は「眠れる獅子」と言われていて、本格的に手を突っ込むことがためらわれていたからである。
しかし、「眠れる獅子」は「死んだ獅子」だった。そのようなことを背景に三国が干渉してきた。
 
遼東半島の返還を要求した。
表向きの理由は
・清国の都を危うくする
・朝鮮の独立を有名無実にするというものだった。
遼東半島から北京が至近距離であること。朝鮮を南北から日本とその勢力が挟むからである。
 
しかし実は、
ロシアは南下政策によってシベリア鉄道をウラジオストークに延ばしているところで、
不凍港を有する遼東半島に注目していた。
つまり、ロシアの進出の拠点を日本が押さえたことに反発した。
 
ドイツ、フランスはロシアの目をバルカン半島から極東に向けさせる目論みがあった。
対立軸を変えようと言うことである。さらに、イギリスと対抗関係にあるフランスは、
これによってイギリスを牽制できるとも考えた。
 
干渉を受けた日本は、5月5日に干渉を受け入れることとした。
 ・戦争をする余裕はないこと。
 ・交渉で妥結する可能性も少ないこと。
 ・これを口実に、清が下関条約の批准を遅らせようとする動きが見えてきたことがある。
 
しかし、国内にとっては「寝耳に水」の事態であった。(つづく)
 

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日本史 20141104 朝鮮問題(2)、

漢城条約
甲申事変ののち、日清間は天津条約を結んだ。
天津は北京のそばの町で、東京に対する横浜にあたる。
両方の軍隊が衝突しないように
 1.両軍の撤退 日本は済物浦条約で交換保護の目的で兵を送っていた。
 2.朝鮮に事件が起きて軍を出すときは、互いに相手国に知らるせこと
  事件が解決したら速やかに撤兵すること。が決められた。
 
しかし、朝鮮では清国の力が圧倒的となり、日本は政治的に後退した。
だが、清との対抗は必要である。そのために壬午軍乱後、軍備拡張を図った
  1878 参謀本部
  1882 軍人勅諭
  1888 鎮台を師団に改編。これによって、軍の性格は治安維持から対外戦争に変わった。
初期議会で軍事費が問題となった理由も、このことが背景となっている。
 
また、朝鮮、清に対する国民感情は悪化した。 
 福澤諭吉は「脱亜論」を発表して、朝鮮、清は切り捨てて、日本だけで
西欧化の道を進むべきと主張した。福澤は甲申事変まで朝鮮の「近代化」を考えていたが、
そのような「近代化」の道を清、朝鮮ともとらなかったからである。
 
一方で日本の経済的進出は進んだ。 
政治的進出と、経済的進出は必ずしも一致しない。
 
93年までの朝鮮からの輸出の9割が日本向けであった。
その多くが米、大豆で、松方財政の影響で工業化が進み、労働者が多く住む関西に送られた。
関西に労働者が集中したこと。交通ルートの関係で、朝鮮から船で関西に行きやすいことが
理由である。また、このころの朝鮮米は、等級の上のものが多かったとされる。
 
一方、朝鮮では米価が高騰し、窮乏状態になる人も増える。朝鮮は日本に比べて夏の気候が
安定しない。梅雨前線がどこで留まるかによって旱魃になったり、洪水になったりする。
そのため、飢饉が発生しやすい。そのため、たびたび、穀物の輸出を禁止する防穀令をだした。
 
しかし、日本に米を輸出する商人は、予め必要経費を農民に貸付け、
収穫、輸出で回収するようにしていた。防穀令が出されると、貸付が回収出来ない。
商人保護のため、日本側は朝鮮に損害賠償を求め、最後通牒を突きつける事態になった。
これを防穀令事件という(1889)
 
甲午農民戦争(東学の乱)
このような社会情勢を背景として、1894年2月、甲午農民戦争が起きた。
きっかけは、全羅道の郡守の圧政に対して、農民が蜂起したことである。
その蜂起を東学が指導した。
 
東学は迫り来る西洋、日本(西学)に抵抗することと、
平等思想から、朝鮮の両班(ヤンバン)体制に反対するという、朝鮮の民俗信仰である。
 
農民蜂起は、
あっと言う間に内乱状態となって全羅道一体に広がり、
朝鮮政府はこれを押さえることが出来なくなった。
そこで、1894年6月、宗主国である清に援軍を依頼し、清は朝鮮に軍を派兵した。
一方で、天津条約によって出兵の連絡を受けた日本政府も、
公館保護などを理由に朝鮮に派兵を行った。
 
この状況を受けて、内乱は停戦した。そのため政府は両国軍に撤退を申し入れたが、
日本軍は撤兵せず、朝鮮の内政改革を要求した。
最初の提案は日清両国で朝鮮の内政を改革するという提案であったが、
この改革案は清国の呑めるものでなかった。
 
宗属関係を否定するものだったからである。
当然のことながら、清はこれを拒否したため、日本は単独で内政改革することを目論んだ。
日本は王宮に軍隊を送り、大院君にクーデターを起こさせ、内政改革を断行した。
これによって清朝間の宗属関係は断たれた。1894年7月25日
 
同日、日本軍は豊島(ほうとう、プンド)沖で清国の北洋艦隊を奇襲攻撃した。
日清戦争の始まりである。
 
 

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2014年11月3日
日本史 20141031 朝鮮問題(1)

朝鮮問題
1876年、日本は朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮は開国した(日本側の立場)。
朝鮮では閔氏を中心として、日本式の開化政策を始めた。
 
朝鮮では大院君と閔氏政権が対抗関係となる。
大院君は国王の父親で、自己が王を経験していない人に与える称号で、
本名は李昰応(りかおう、イハウン)。
大院君の運動が功を奏して、高宗は幼くして王になり、実権を握っていた。
 
一方で、高宗も成長して、閔妃(びんひ、ミンピ)と結婚した。
そのために、閔氏一族の政治権力が伸びた(勢道政治)
そして大院君と対抗するようになる。
 
日朝修好条規が結ばれたのは、大院君から閔氏に政権が移った時期であった。
それまで大院君は鎖国政策をとっていたのである。
 
閔氏政権も大院君も、その後結びつく国が変わっていく。
朝鮮半島は様々な勢力が集まってくる場所で(この時代は日清露(英))、
その中のどの勢力と結べば、国が維持できるかが課題となっていたからである。
 
さて、朝鮮では開化政策が行われ、新式の軍隊が造られたが、
一方で従来の軍も残された。しかし、権力争いに敗れた方は令遇される
(現在の韓国でもそれははきりしている)。
 
旧軍は給料(米)が遅配となり、ついには石の混ざった米が配られた。
これがきっかけとなり、1882年、壬午軍乱が起き、大院君が権力を握ろうとしたが、
失敗し、閔氏政権は宗主国である清に接近し、朝鮮は清の影響力が強い国となった。
 
日本は公使館が襲撃されたり、館員が殺されたりしたため、
朝鮮との間で済物浦(さいもつほ、チェムルポ 仁川近くの港名)条約を結んだ。
 
日本側は朝鮮への進出を目論むために、朝鮮の現状を変えることを考えた。
1884年、甲申事変が起きた。中心人物は金玉均(きんぎょくきん、キムオッキュン)。
福澤諭吉が支援していた。福澤は清国、朝鮮を日本のように近代化させ、
共に西欧と対抗することを考えていたのである(脱亜論を発表する前である
 
しかし、事変は文字通り三日天下で終わった。宗主国の清が出てきたからである。
宗主国は藩属国が攻撃された場合に、藩属国を守る義務がある。
豊臣秀吉が朝鮮を侵攻したときに明が軍隊を送ったのもそのためである。
 
それとともに、清にとって、何が何でも朝鮮に軍を送らなければならない理由があった。
1884年、清仏戦争で清は藩属国だった越南を失った。
清国にとって最後の藩属国が朝鮮なのである。
 
冊封体制は、王が皇帝にその地域の支配を認めてもらうと言うこと共に、
皇帝と王が平和な関係を結んで皇帝を守るという意味もある
朝鮮を失えば、清は丸裸になってしまうのだ。
 
そのために清軍が朝鮮に送られた。福澤たちは金玉均のはしごを外してしまった。
結果的に金玉均は日本に亡命。その後、引渡をめぐって日朝間の政治問題になり続ける。
日本も金玉均を小笠原に移したりしたが、最後は上海で朝鮮側によって殺害された。
墓の一つが、青山墓地にある。
 
この結果、朝鮮では清国の力が圧倒的になった(大院君は一時清国に拉致される)。
そして、日清間で天津条約、日朝間で漢城条約が締結された。
 
実は、日本側も済物浦条約によって、公使館護衛の目的で、朝鮮に兵を駐在することを
認められていたのだ。そのままだと、日清軍が衝突しかねない。
そのために条約が締結された(つづく)。
 
 
 

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倫理授業 20141031 教父哲学とスコラ哲学

教父哲学
初期キリスト教成立後、キリスト教はローマ帝国内に広がった。
ローマでは、本来の宗教があったため、当初キリスト教は異教として弾圧された。
特に、ネロの時には大弾圧が行われた。
同時にマニ教もローマで流行していた。
このような中、キリスト教徒は地下墓地(カタコンベ)を作り、信仰の場としていた。
 
4世紀、キリスト教が広がり、ローマの国教となった。
その前後から、よりキリスト教を理論化する動きが出てきた。これを教父哲学という。
 
その代表的人物はアウグスティヌスである(354-430)。
北アフリカ、現在のチュニジアの生まれ。カルタゴに遊学して演劇に夢中になり、
19歳でキケロの哲学にめざめ、マニ教の信者となる。29歳のときにローマに移り、
「パウロの手紙」に新プラトン主義の真理を読む。その後キリスト教に入信した。
 
cf:マニ教。
マーニー創設。イランの宗教、ゾロアスター教(善神、悪神、最後の審判)を土台に
ヘレニズム文化が融合したもの。マーニーの両親はユダヤ教徒。ヘレニズム文化はギリシアの
文化を土台に各地の文化が融合したものだが、各地の文化、宗教を排斥することがなかった。
それゆえ、各地の文化が保存されると共に、各地の文化が融合。折衷的性格を持つ。
 
マニ教も折衷的な性格を持つもので、非常に複雑な教義を持つ。
それゆえ、一時爆発的に流行し、世界宗教的位置に立つも、衰退していった。
最後まで信仰された中国でも11世紀には消滅した。
 
マーニーは若いとき双子の精霊が訪問したとされるが、
その精霊は、聖霊、もしくはミトラ神とされる。ミトラ神は終末の時に救済する神として、
南アジアで信仰された神である。これはインドに入るとマイトレーヤとなり、仏教に入る。
漢訳は弥勒菩薩である。
 
アウグスティヌスは、パウロの「欲する善はなせず、欲しない悪を行う」ことを説明しようとする。
悪は善の欠如」であり、人間の自由意思が「悪しき」行為の原因とする。
 
つまり、神は神の似姿として人間を創造したから、人間は「善なるもの」として造られた。
しかし、土から造る、いわば土のチリだから、悪が入り込むことは可能である。
悪は蛇によってもたらされた。
 
したがって、「本来の善を回復」することは可能である。
しかし、原罪は取り除くことは出来ない(人間の存在意義がなくなってしまう)。
善を回復できるのは、神の恩寵によるのみで、恩寵が与えられるかは神によって決められる。
恩寵予定説
 
歴史は「地上の国」から「神の国」に向かって行く。最後の時には悪魔の都が消えて、
神の国が出来るとする。教会は神のアガペーで結ばれた「神の国」であるとして、
教会のを位置を確定させた。
 
この説は、ニケーアの公会議で決定された「三位一体説」が強く影響している。
イエスの信仰として始まったキリスト教では、当然のこととして神とイエスの関係が問題になる。
様々な考えが提示されたが、その中で「父なる神」「子なるイエス」、聖霊は別のものであるが、
神聖において同じであるという三位一体説が提示され、正統のされた。
現在のヨーロッパのキリスト教の基本的な立場である。
 
しかし、なぜアウグスティヌスは神の恩寵は予定されていると考えたのだろうか。
実は、このときローマは壊滅の危機に襲われていた。
東からゲルマンが侵入してきたからである。中国北部のフン(多分、匈奴)が東進し、
それに押し出されるようにゲルマンがローマの地域に入り込んできた。
(中国北部で興った民族は西進する特徴がある。トルコ、モンゴルもしかり)
彼らは森に対する信仰を持っている(赤頭巾ちゃん、ヘンゼルとグレーテルなど参照)
 
ローマに入っていった彼らは、キリスト教を否定した。
アウグスティヌスはさあ以後アフリカのヒッポで死亡するが、
ヴァンダル族が包囲する中で亡くなる。
 
そのような中で、いかにキリスト教を維持するか、理論づけるかが大切だったのである。
また、自分たちを攻撃するゲルマンは救われたくないと考えたこともあったのだろう。
 
スコラ哲学
ローマが亡びた後、ヨーロッパはゲルマンが支配する。フランクはキリスト教化するが、
ローマまで入っていたギリシア文化はゲルマンに受け継がれなかった。
ヨーロッパは世界史の中でも偉大な田舎になってしまった。
 
ところが、12世紀頃急にギリシア思想が復活する。
実はローマは東西に分裂し、東ローマが長く続いた。
そしてギリシア思想はイスラムに取り込まれていた。
実はイスラムは中国と並んで世界で最も繁栄した所だった。
 
11世紀、十字軍によりイスラムと接触したヨーロッパは、自己の元になるギリシア思想が
イスラムに生きていることを知り、忘れられていたヨーロッパの中に取り込むようになった。
それが、ギリシア思想の復活なのである(12世紀ルネサンス)
 
教会では修道士らによってキリスト教義が研究された。
それによって確立した哲学をスコラ哲学という。
 
ここでは理性の真理(哲学)と神の真理(神学)との関係が問題になった。
導き出される真理が異なる場合があるからだ。
 
スコラ哲学者の代表者、トマス・アクィナス(1225頃〜74)はこれについて、
哲学は神学の婢(侍女)」として、両者の関係を明快に位置づけた。
哲学は神学のためにあるというのである。
 
そして、「神の恩寵は自然を破壊するのでなく、自然を完成させる」とした。
自然は神を目的に運動する。すなわち、アリストテレス哲学を取り込んだのである。
 
また、神の真理を我々が理性で知覚したものを自然法として、後の法学などの考えに
大きな影響を与えることになる(法解釈の方法はスコラ哲学期限)
 
その後時代は、近世に入る。
近世は再び神学と哲学が別れていくことになるとともに、
アリストテレスをどのように乗り越えていくかが課題になる時代でもある。
 
 

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