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2014年10月18日
日本史 20141016(2) 条約改正

条約改正
憲法改正などの西欧の制度の導入は条約改正を睨んでの動きでもあった。
安政の五カ国条約以来、日本不平等条約(領事裁判権(治外法権)、関税自主権無し、
片面的最恵国待遇)の下にあった。それを対等にしようとした。、
 
1.岩倉使節団 72年
 改正予備交渉の失敗
 
2.井上馨外務卿(外務大臣)
 極端な欧化政策。欧化することで西欧と対等と言うことを示すため。
  鹿鳴館外交(管弦楽の伴奏、ダンスパーティー…しかし、管弦楽の水準はどうだったのだろう。
          今もその傾向があるが、当時の日本人にとってファとシは出せない音だったはず  
          かえって西欧と違うことを際立たせただけではないか(独り言))
 82年 東京で予備交渉。〜84年
 86年 本会議 87年一応の了解。
  領事裁判権:撤廃
  関税:輸入税を平均11%、輸出税を5%とする(自主権は、なし)
  
しかし、これを実現するために、
外国人の内地雑居各裁判所の半数以上の裁判官が外国人西欧の法律の制定施行
条件となっていた。 だが、これでは、経済力の弱い日本の産業は外国人産業に潰される
恐れがあるし、外国人が西欧法を使って裁判をするのでは、
質的に領事裁判権が撤回されていないことと同じである。
 
これに対する反発は国内で強まった。同時に井上の極端な欧化政策に対する不満も
重なった。さらに86年に起きたノルマントン号事件の裁判の結果も不満を加速させた。
イギリス船ノルマントン号が紀州沖で沈没したとき、船長は日本人乗客を助けなかったが、
イギリスの領事裁判所は「英語が通じなかった」という船長の主張を通して、
船長が無罪になったというものであった。
 
結局伊藤首相は条約改正交渉を中断し、井上は辞任した。
 
3.大隈重信(黒田内閣)
井上を受けて、大隈は交渉方式を変更した。個別に交渉することとして、日本に好意的な
国から条約を締結しようとした。
 
89年 アメリカ、ドイツ、ロシアと条約締結を行ったが、これも国内の反対を受けた。
大隈は秘密交渉を行っていたのだが、条約の内容が漏れたからである。
それは、大審院に外国人裁判官を置くこと、西欧法を作ることを宣言する(宣言のみ)と
なっていたからである。
  
大隈は玄洋社の来島恒喜に襲撃され、辞職。
政府は世論を読み誤っていたことがこの結果を招いた。
 
4.条約改正
(1)青木周蔵外務大臣
 91年、青木はイギリスと条約改正交渉を開始した。
この当時、ロシアがシベリア鉄道の工事を開始し、極東における勢力バランスが
変わったからである。イギリスからすれば、自国の利権が侵される危険があった。
そのために、立憲体制が整い、経済力などがつき始めた日本に接近して、
ロシアに対抗しようとしたのである。
 
だが、この交渉は91年の大津事件で一旦中断する。
 
ロシア皇太子ニコライがシベリア鉄道起工式出席する途中で日本に立ち寄ったのだが、
大津で津田三蔵に切りつけられる。政府は皇室に対する殺人罪未遂で起訴したが、
大審院院長児島惟謙の主張を受けた初審裁判所は、謀殺未遂で判決を下した。
(司法権の独立)
 
大津事件を受けて青木は辞任する。次の榎本武揚外相の時は交渉は進展しなかった。
 
(2)陸奥宗光
しかし、その間も、日本の法治国家としての体制、軍事力強化、経済力増強は続き、
イギリスとしては日本と手を組む必要性を強く感じることになった。ただし、清国と日本の
どちらに重点をおくかについては天秤に掛けていた。
 
陸奥宗光は青木にイギリスとの交渉をさせ、条約が調印された。
1894年7月 日英通商航海条約(99年施行)
これにより、領事裁判権は撤廃(外国人裁判官の件は、なし)、相互的最恵国待遇
認められた。関税自主権は触れていない。
 
というのも条約締結は日清戦争のわずか9日前だったからで、清国にも利権を持っている
イギリスの了解を得る必要があったからである。それまでに、条約締結をはかった。
 
各国も日清戦争終了後条約改正を行った。
 
(3)小村寿太郎
完全自主権の回復は1911年まで待たなければならなかった。だが、これによって、日本は
条約上も列国と対等の関係になる事が出来た。だが、すでに明治44年。改正交渉は
明治一代かけて行われ、晴れて解決したと言うことが出来る。

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日本史 20141016(1) 初期議会

初期議会
憲法制定により、帝国議会が開かれることとなった。
・第1回衆議院議員選挙
  選挙権:25歳以上男子で直接国税15円以上納入している者(制限選挙
       土地で平均1.8ha以上持っている者で、全人口の1.1%、41万人ほど。
  議席数:12万人に1議席の割合で、小選挙区制。300議席
  被選挙権:30歳以上男子
 
選挙には民権派が結集してきた(民権運動が議会活動に転換した)。
これに対して、黒田首相は超然主義を宣言した。
 
選挙の結果:立憲自由党+立憲改進党(民党⇔吏党)で171議席(過半数)
 
・第1議会 90年11月(山方T)
 …議会は予算審議を基本とするので、基本的に11月頃に開かれる(現在も)
 政府:軍拡のための増税案
      主権線(国境)と利益線(朝鮮)防衛のため
 民党:民力休養、政費削減を主張(民権運動で主張した地租軽減の流れ)
 結果:自由党の一部を切り崩して予算案通過。
 
・第2議会 91年11月(松方T)
政府:海軍費増税案
 海軍大臣樺山資紀は「日本があるのは薩長政府のおかげ」と「蛮勇演説」を行った。
民党:反対、予算を1割削減して通過させる
 
これに対して政府は予算決議を拒否して衆議院を解散した。
92年、第2回衆議院議員選挙、内務大臣品川弥二郎による大規模な選挙干渉がおこる。
しかし、民党が過半数を占めた。そのため、第3議会(92年5月)は選挙干渉が問題となり、
政府案は通らず、松方内閣は辞任する結果となった。
 
・第4議会 92年11月 (伊藤U 元勳内閣
松方内閣辞任を受けて、再び伊藤内閣が成立した。伊藤は内閣の力を強めるために、
元勳を集めた内閣を作った。
 
政府:海軍増税案(第2議会からの懸案)
     自由党の支持を取り付ける。
     和協の詔書:海軍増強のために、内廷費から6年で180万円、官費も10分の1拠出。
       →増税案通過。
◎このころから、自由党は政府に接近する。
 

Posted by hajimet at 09:04 | Comments (0)


2014年10月17日
倫理 20141017 キリスト教(4)

4.贖罪
イエスの死は贖罪と行ったが、なぜ人びとはイエスの死を贖罪と考えたのだろうか。
旧約段階では、人の罪を2つに分けていた(キリスト教も)
 
ア.原罪=アダムの罪
 人の始祖はアダムである。アダムは神の似姿として土から作られた。アダムはエデンで
自由に暮らすことを認められていたが、禁断の実(リンゴとされる)を食べたために、エデンを
追放される。そのときに、「一生苦しむ」ということ「死ななければならない」罰をあたえられた。
 
これが原罪である。総ての人は生まれながらに原罪を背負って生まれる。だが、これを
無くすことは出来ない。人間の存在意義でもあるから、これがなくなったら人間は存在しない。
 
イ.個々の罪
これを償うことは出来る。生け贄を神に捧げるのだ。神に捧げるときに流れる血を見て、
自分の罪の深さを考える。これによって悔い改めて神との関係を修復するとする。
 
一方新約ではイエスの死が贖罪であると考える。
すなわち、イエスの死によって全人類の罪があがなわれた。
イエスはそのために神によって使わされた一人子である。一人子が犠牲になったのである。
神に背いた人間に神から和解の手がさしのべられたと考える。
 
イエスの「十字架の死」は神の愛と考えられたのである。
 
5.パウロの伝道(?〜52?)
このような信仰の確立には、パウロの伝道が大きい。
パウロは厳格な律法主義者で、熱狂的なキリスト教迫害者であった。
「木に架けられる者は、すべて呪われる」と律法にあるからだ。
イエスがまさしくそれに当たる。
 
しかし、迫害をしても、自分は救われないことに悩んだ。律法を守り救済されるために
迫害をしているからだ。
 
そんなとき、パウロは雷に打たれ動けなくなった。そして
「サウロよ、サウロよ、なぜ私を苦しめるのか」という声が聞こえてきた。
パウロはイエスの声=啓示と感じた。イエスの死後2年目のことである。
 
これによりパウロは回心し、洗礼を受けた。
私は自分の欲する善(救済)は行わず、望まない悪(迫害)を行っている
「律法によっては罪の自覚しか生じない」
 
つまり、「律法では人は義とされず、救済できない」=罪の自覚のみ。
(だからユダヤ教の下では、神は罰する神、恐れる神と考えることになるのか
(授業をしながら生じた疑問))。
だから、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」(信仰義認
 
「キリストに会うバプテズマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである」
だから総ての人は平等である。なぜなら「キリスト=イエスにあって1つだからである」
 
パウロはこのように考えた。そして、
「死と復活による神の愛を信じ、神の恵みを受け入れる」としてキリスト教の三元徳を打ち立てた。
それは「信仰、希望、愛」であった。
 
このような考えを元に、パウロは伝道を行い、広く信仰活動に影響を与えていった。
 
この三元徳と、ローマにも引き継がれたギリシアの四元徳の関係をどう考えるかは
5世紀前後の教父哲学の登場まで待たなければならない(次回)。

Posted by hajimet at 21:53 | Comments (0)


倫理 20141014 キリスト教(3)

3.イエスの死
イエスは従兄のヨハネから洗礼を受けた。ヨハネは逮捕され殺される、イエスは伝道を行う。
それは、ヨハネの考えを受け継いだものであった。ただ、ヨハネよりは福音を強調する。
そして、「神の国」は「あなたの心の中にある」とした。
 
だが、このようなイエスの立場は、律法主義者の反発を買った。一方で、目の前に神の国が
出現することを願った人びとの失望を買った。
 
イエスは「ユダヤの王を僭称している」として掴まり、処刑される。
宣教開始後わずか3年後のことだった。
 
その直前香油を掛けられるという事件があった。弟子たちはかけた女を非難したが、
イエスはその女性を庇った。油を掛けられるというのは「油を掛けられし者」=メシアを意味する。
そのとき、ユダはイエスを裏切る決心をした。
 
掴まる前、最後の晩餐のとき、イエスはペテロにお前は朝までに三回自分を否認するという。
ユダの合図でイエスが掴まった後、ペテロはイエスの弟子であることを否認した。
そして、3回目の否認の時に、鶏が鳴き、イエスの預言が正しかったことに気づく。
また、ユダはもらった銀貨30枚を聖地に投げ入れ自殺した。
 
掴まったイエスは、十字架にくくりつけられ、ゴルゴダ(髑髏)の丘を登る。
丘の上にはイエスを含め、3人が十字架に掛けられている。
このうち一人は集まった民衆によって助けられるのだが、
助けられたのはイエスでなく、強盗であった。
 
イエスは「我が神よ、我が神よ、なぜ私を見捨てたもうたか(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と
言って絶命する。
 
その瞬間、聖書によれば、地震が起き、神殿の幕が上から裂け、死人が甦りと様々な
奇蹟が起きた。この様子を見て、「まことにイエスは神の子であった」とため息をつく。
この奇蹟の様子をとらえて、宗派によっては「神との新たな契約を結んだ」と考える
 
その後、マリアが墓に行ったところ、缶の蓋は開きイエスはいなくなっていた。
一方で逃げたペテロの前にイエスが現れ『あなたのそばにいる」と言って消えて行ってしまった。
ここから、「イエスこそキリスト(=メシア)である」という信仰が確立した(復活信仰)。
すなわち
 イエスの死=人類の罪をあがなう(贖罪
 昇天したイエスは夜の終わりに再びすがたをあらわす(再臨)の思想である。
 イエスが再臨し、最後の審判を行い、救済されるか、焼かれてしまうかが決まる。
 
 ※この考え方は、ゾロアスター教(拝火教)から入ったものである。火を信仰する。
  ちなみに、蝋燭に火をつけてお参りするのもゾロアスター教からの影響である。
 
また、最後の審判の時、死んだ人は起こされて審判を受けるということになってるから、
ヨーロッパでは土葬が行われる。一方、異端者は火あぶりになるが、
これは最後の審判を受ける権利すら奪われると言うことを意味している。
 
(昨年までは、マーラーの復活を扱ったが(ich sterbe, um zu leben)、
 むしろユダヤ教思想から来ていると考えられるので、今年度からは扱わない)
 
このようなことから、弟子たちが伝道活動を始めた。当時はローマ帝国のなかであったから、
伝道は広くローマ全体で行われた。パウロはローマまで行き、そこで死亡し埋葬された。
現在のバチカン市国に属するサンピエトロ寺院がそれだとされる(サン=聖なる)
 

Posted by hajimet at 20:28 | Comments (0)


2014年10月13日
倫理 20141009 キリスト教(2)

2.イエス(BC4?〜AD33)
ガリラヤ地方の大工ヨゼフと妻マリアから生まれる。妻は処女懐胎だったとされる。
ガリラヤ地方は「地の民」と呼ばれる被差別民の多い所で、
救済の必要な人が多数いた。そのような中でイエスが育った。
 
30歳頃、イエスは預言者ヨハネから、ヨルダン川につかって洗礼を受ける。
洗礼の時に「自分たちの父にはアブラハムがあるとは思ってもみるな」と指導される。
洗礼は、それまでの自己本位な生活を悔い改めて、神の国に向けて全面的に転換することで、
単に「入信宣言」をすることではない。
 
ヨハネの死後イエスは様々な奇跡を起こし、自分がメシアであることを自覚し始める。
「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音(神の知らせ)を信じよ」と唱える。
イエスは空くまでもユダヤ教の律法の精神をどう活かすかに注目しているのだが、
すでに、ここで「律法を実行せよ」ではなく「信じよ」と従来のユダヤ教の考え方にない
発想の転換を行っている(誰を救済したいのか…山上の垂訓を読む)。
 
そして、パリサイ派を批判する。あまりにも形式主義的すぎると言うことである。
「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」。
「自分の息子が井戸に落ちたから、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が
 いるのだろうか」と言っている。
 
イエスによれば、律法の本質は「神の愛(アガペー)」であるとする。
 神もまた契約によって人を救済しなければならない。
 神から一方的に与えられた律法を守れば、救済しなければならないのだ。
 
 人は律法を厳格に守れない。しかし、その罪で罰を受けることを恐れている。
 しかし、人はアダム以来罪を負っている。みな罪人である。その罪から救済されたいと
 考えている。そのような人を神は救済したいと考えるはずである。
 
救済するために、愛を降り注いでいるのである。したがって、神を信じて悔い改めれば、
神は必ず救済してくれる。
 
我々の行うことは、
 1.神の愛を信じること
 2.神が行うように、無報酬、無差別に隣人を愛すること(神に直接答える手段はないから)
   =米国でボランティアが盛んなわけ)
である(イエスの黄金律)。
 
このように律法の本質を行動などの外面ではなく、内面化することによって、
本来救済されるべき人を救済することが出来るようになったのである。
これが本来の律法のあるべき姿であり、ユダヤ教のあるべき姿であると提示しようとしたのだ。
だが、イエスの態度はパリサイ派らの反感を買うことになった。
そして、イエスの死へとつながる。
 
 

Posted by hajimet at 21:34 | Comments (0)


倫理 20141007 キリスト教(1) ユダヤ教

キリスト教
0.前提
宗教の分け方
 ア.信仰の広がりから
    ・アニミズム
    ・民族宗教(神道、道教、ヒンドゥー教、ユダヤ教など)
      =その民族、地域でしか信仰できない要素が入っている。
        神道の神は「大八洲」を作った神で、外の地域は作っていない。
    ・世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)
      =開祖、教義、経典がしっかり存在し、民族を離れて信仰できる要素がある。
        儒教は宗教扱い出ないから注意すること。
イ.神の数から
   ・一神教 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教
   ・多神教 その他の多くの宗教
 
1.ユダヤ教
 キリスト教の原型。
  経典:聖書(旧約)…新約はイエスの死により新たに神と契約を結んだと考えることから来た。
   :ヤハウェ(エホバ)。唯一神、人格神。
   始祖:アブラハム(イエスの言葉にアブラハムは出てくる)
  
元々遊牧の民。砂漠の民だから、少しでも勝手な行動をすると、それは死を意味する。
家父長の力が強くなる。また、砂漠と空しかない所で生活するから、自分たちは天に
支配されていると考えるように、一神教の素地があった。
  
紀元前20世紀ころ、イスラエル人はカナンの地に定住。
 (カナンは今のパレスチナ。ユダヤ人が分散してから2000年後にこの地にユダヤ人が集まり、
  そこに神の王国ができるという思想がある。それが、現在のことで、パレスチナ問題の
  元である(第一次世界大戦の問題は扱わない))
 
一部はエジプトに移る。
だが、エジプトで奴隷のような生活になり、
紀元前13世紀頃、預言者(×予言者)モーセに率いられて、エジプトを脱出した。
後ろからエジプト兵が追いかけてきたが、海が割れて、その底を通ってシナイ半島に
抜け出せるという奇蹟が起きたとされる。
 
その後、モーセはシナイ山で神と契約を結ぶ(シナイ契約)。
             恩恵(神の王国)
         −−−−−−−−→
       神              イスラエル人(選民思想)
         ←−−−−−−−−
          律法(トーラー)を守る
 
律法を守れば、神は救ってくれる一方、律法を守らなければ破滅があることになる。
 
その後、紀元前11世紀ころイスラエル王国建国。ソロモン、ダビデ王の頃最盛期を迎えた。
だが、イスラエル王国は南北に分裂し、ついに紀元前586年、バビロンに捕囚される(〜537)。
 
神に守られるはずだったユダヤ人がなぜ捕囚されるような事態になったのか。
すでに滅亡は預言者イザヤやエレミアによって預言されていた。彼らが言うには、
 偶像崇拝を行った。
 多神教を信仰したなどであった。
(アラブ地域は、多神教崇拝が広がっていた)
 
神の罰があったわけだ。
そこで、神を信仰してこそ、ユダヤ人は神に救済されると自覚するようになり、
宗教を軸に民族が結集することとなった(民族宗教としてのユダヤ教の成立
 
しかし、ユダヤ人はなお苦しみを受ける。ローマの支配下になったのだ。
人びとの間に、終末思想が急速に広がった。苦しみの先には「神の王国」が待っているが、
そのときに現れるとされる、救世主(メシア=油を注がれし者)を待望した。
(メシアを名乗った者はイエス以外に数人いた)
 
だが、この時のユダヤ教の指導層は大きく2つに別れていた。
 バリサイ派=律法主義者:律法を厳格に守ることで、神に救済される。
          →守ることが出来ない人(身体条件も含めて)は救済されない。「罪人(ツミビト)」
 サドカイ派=祭祀集団
 
困難に陥っている人を救済することはできないのである。そんなときに登場した人がイエスであった。

Posted by hajimet at 20:58 | Comments (0)


日本史授業 20141010(2) 法定の編纂

法典の編纂
憲法制定とともに、諸法典も編纂された。
条約改正のためである(西洋と同じ法典が作れることを示すため)。
 
日本は明治維新の時、それまでの武家法に代わって律令で法典を作ろうとした。
実際に律令系の法律が出来ている(新律綱領、改定律例などの刑事法典)。
 
しかし、遣欧使節団以来律令では近代化に対応出来ないことを認識して、
西洋法制をとることに転換した。
 
政府はフランスからボアソナードを招き法典編纂を行った。
したがって、最初のうちはフランス法の影響の強い法律が出来上がった。
 
1880年 刑法(1907年から現行刑法)、治罪法(刑事訴訟法)
1890年 民法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法。
  この時期、ロエスレルの指導などもあったため、民法以外はドイツ法系となった。
  民法はボアソナードの指導でフランス法系だったのだが、家族法においても、
  西欧的な要素が強すぎて、民法学者の穂積八束らの反発を招いた(法典論争)。
 
家族法の分野は、どうしても保守的な傾向が出る所で、現在でも夫婦別姓をめぐる
問題で、保守的な立場も強く存在していることを紹介した。
 
 この結果、民法は1896年と98年にドイツ法系風に修正して施行されることとなった。
 これによって、家族法は、家父長制をとり、戸主の権限の強い法律となった。
 
憲法がドイツ法系を採用したため、、憲法制定前後から、日本の法学界全体で
ドイツ法の影響が強まった。
 
これ以降、法律はドイツ法の圧倒的な影響の下で扱われることになっていった。

Posted by hajimet at 20:37 | Comments (0)


日本史授業 20141010 憲法制定

憲法制定
 
1881年、政府は国会開設の詔を出して、それまでに憲法を制定するとした。
すでにプロイセン流の憲法を採用することにして、天皇の力を強めようとした。
 
1882年、政府は憲法調査のため、伊藤博文、伊東巳代治、西園寺公望をヨーロッパに派遣した。
訪れた国は、イギリス、ベルギー、オーストリア、ドイツ。報告書には外の国名も見られる。
伊藤はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインから憲法学、行政学を学んだ。
 
帰国後、憲法草案作成に入る。お雇い外国人ロエスレルの指導。
作業は秘密に行われた。国民の権力を制限する方向で
作製される憲法だったので、内容が公になると民権派が収まらなくなるからである。
そのため、東京から離れた金沢文庫の旅館で作業をした。しかし、盗人が入り、
アタッシュケースが盗まれるという事件が起きた。
 
結果的に草案は紙くずと思われたのか、裏の竹藪から発見されたが、
再びこのような事件が起きないようにと言うことで、
伊藤の別荘のある夏島で作業が続けられた。
現在は埋め立てられて、日産の追浜工場になっている。
 
このように憲法草案を作っている一方で、憲法体制に合うように諸制度が整えられた。
1884年 華族令
 華族を「公侯伯子男(爵)」に分け、これまでの華族の外に「国家に功績のあった者」も
華族とした(そうでないと伊藤博文らが華族になれない)。華族は永世華族であった。
 
次に1885年 内閣制度
 太政官制度に代わる。行政の権限を強くするためで
  内閣総理大臣:天皇に対して責任(初代、伊藤博文)
  国務大臣:各省に対して責任。閣議を構成。天皇に対して責任
 内閣の外に
  宮内省、宮内大臣(宮中の行政職)。
  内大臣:天皇を常時補佐。天皇御璽、日本国事を保管(今も内と外は分けられている)。
  皇室財産の創設
 
そして地方制度の改革モッセの助言で山県有朋が中心となって作った。
 1888年 市制・町村制(市会の設置。東京、京都、大阪は有産者が少ないため特別市制)
 1890年 郡制・府県制
 
さらに、憲法が制定された。1889年2月11日公布(発布)
 2月11日は今なら「建国記念の日」。歴史が古すぎていつ国が出来たかは分からない。
(中国や朝鮮は、王系が代わると国号が代わるから、その「国」の成立年は分かる)
2月11日は「伝説上、初代(神武)天皇が即位したとされる日」。
神武以降、現在の天皇まで切れていないことになっている
 (天智、天武とか継体天皇の問題は置いておいて)。
 
神武の祖先はアマテラス、その祖先はイザナギ、イザナミ(ここで神話を語る)。
すなわち、「天皇=神」をイメージづけようとしたのである。
 
このような憲法であるが、アジア最初の憲法ということで国民は喜んだ。
しかし、内容は知らされていない。「絹布の法被」が貰えると喜んでいる人もいる。
そのような様子をドイツ人医師ベルツは「だが、滑稽なことに誰もその内容をご存じない」と
記した(ドイツ語を直訳すると「だれもその内容を知らないのだ!!!!」となっている。上手い訳だ)。
 
そのような憲法の内容だが、
 
                   ・帝国議会=天皇を協賛
欽定憲法       ・ 統治権を総覧 ・国務大臣=天皇を補弼。天皇に責任
         |                      ・司法権=天皇の名に於いて
  天皇−  ・統帥権
万世一系       |
神聖不可侵    ・天皇大権
元首 |
    |
  臣民(臣=誰かのためにある者=天皇のためにあるヒト)
        臣民の権利。法律で制限できた(法律の留保)=天皇の恩恵で与えた権利だから。
 
憲法の制定の意義は
  ・アジア最初の立憲体制
  ・条約改正に有利になる(日本が西洋法制を運用できることを明らかにしたから)
 
 
 
 
 

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2014年10月8日
倫理 20141007 アリストテレス(4) ヘレニズム思想概説

(5)正義と友愛
結果的にそれぞれが異なる個人が集まったポリスでは人びとは何をもって共同したら良いのか。
アリストテレスは習性的徳の中の正義であるとした。
 
正義は、まず「全体的正義」が重要とする。すなわち、法律を守ることである。
一方で、法律は、それは公平の実現であるとする。こちらを部分的正義とした。
部分的正義には、名誉や努力の結果に応じて公平に扱われる配分的正義と、
総ての人が平等に扱われる調整的正義に別れる。
 
中学校を卒業すれば、高校には入れる資格を貰えるのは、調整的正義の例、
入試を受けて、一定の結果を出して入学が認められるのは、配分的正義の例と言える。
 
また、所得税のように累進課税のある税制は配分的正義(垂直的平等)であり、
消費税のように総ての人から8%の税が課されるのは調整的正義(水平的平等)である。
 
しかし、正義以上に、人びとを内面的に繋ぐ「友愛(Philia>philos)」が一層必要である。
友達に正義は必要ではないが、正義の人たちにはさらに友愛が必要である。
 
友愛があれば、しぜんと公平は実現される(ソクラテスの知行合一にあたる)
友愛とは、相手の善を相手のものとして願うことで有り、
それゆえ相手の善を自分自身のこととして願うことである。
 
友愛は、均質的、類似的対象の間で成立するものであるから、「第二の自己」ということになる。
 
(6)国制
では、そのような人びとが集まるポリスで、どのような政治のあり方が良いのか。
ポリスの目的は、人びとの幸福を求めて共同することであるから、
それに合う政体を選べば良い。それには次のような文類が可能である。
 
  指導者数      よい形態         堕落した形態
    1人         王政            僭主制(独裁)
    数人        貴族制           寡頭政治
    多数        共和制           衆愚制
 
どの形も選択しうるが、この中で共和制がもっとも目的に合うとする。
 
●ヘレニズム(概略)
さて、アリストテレスの時代はまだポリスが完全には消失していない時代であった。
しかし、アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシアだけの世界は消失し、
オリエント文化と融合するヘレニズム(ヘレス化(ヘレス=ギリシア))文化が成立する。
そこに、世界国家(コスモポリス Cosmos+Polis)が成立した。
 
この時代は、個人の魂の安心立命がテーマとなる。これには大きく2つのながれがあった。
 
エピクロス派=快楽主義
開祖:エピクロス=デモクレイトスの原子論:唯物論の影響を受ける。
 
人は原子からなり立っている。生きている間は死ぬことはない。
死んでしまえば、原子はバラバラになるから、最早、考えることも出来ない
したがって、死ぬことを怖がることはない
 
人の魂は苦を避け、快を求める傾向がある。
名誉や地位を求めず、魂が快を求めることに従えば良い。
精神的、肉体的苦痛を取り除き、魂の平静(アタラクシア)が、理想。
そのために、まわりの動きに影響されないように「隠れて生きよ」ということになる。
 
ストア派=禁欲主義(ストア=ストイック)
開祖:ゼノン
 
人生の目的:「自然と一致して生きる」
        →「人間の自然はロゴス(理性)である」
自然に反した情念(パトス)を克服して、不動心(アパテイア)を実現することが大切。
 
自然=宇宙だから、人間は宇宙の下で同じ理性を与えられている存在と言うことになる。
    そこから、総ての人は平等であるという思想が出てくる。
    そのような宇宙に住んでいるコスモポリタンなのである。
 
一方で、自然全体は理性的な法が支配するポリスであって、そのような法の下で
平等に暮らす市民であると言うことにもなる。これは自然法思想の源流となる考えであった。

Posted by hajimet at 19:25 | Comments (0)


杉並総合 ハングル 20141008 固有数詞

1.가/이 있어요, 없어요
 教科書を使い、가/이の使い分けを覚える。
(숙제がでてきたので、ㄱの発音に注意させる)
2.에
 에の使い方を練習。知っている単語を使って会話練習。
3.固有数詞
教科書通りに進めると、数字に入る前に12月になる。
そのため、○○がいくつあります、います。が言えるようにする。
 
ALTに1個、1人と、1分、1階を発音してもらって、同じ1でも二種類あることに気づかせる。
韓国語は漢数詞と固有数詞の二種類があること、
日本語もそうだと話す(不思議な顔をしているので、いち、に、さんと、ひ、ふ、み→わかる)。
 
単位をつけた場合の数字、한 두 세 네から始める。まずはALTの発音を聞かせる。
次いで、黒板にパッチムの部分だけアルファベットで書いて意識させる。
5=t, 6=t, 7=p, 8=r, 9=p, 10=r
 
最初は1から順番に、途中からランダムに数字を言わせる。
定着しかけた所で、序数詞をつける。
 
個、回(修学旅行、何回行った?)、時(ここで12まで増やす)、
歳(ここで20まで導入。発音の変化を意識させる、数え年で言わせる)、
人(명)、数字のパッチム部分の変化を意識させる。
 
最後に、序数詞のつかない場合(한,두は韓国人にとっては、ものすご違和感があると伝え)を
扱う。
 
次回は、漢数詞。

Posted by hajimet at 19:10 | Comments (0)


2014年10月5日
自由民権運動(3) 20141002

自由民権運動の再編
 
1.激化事件
松方財政により、農村の生活は困窮に陥った。
これにより地主や多くの農民は自由民権運動から手を引いた。
一方で、同じ理由から急進的な運動に走る人たちも出てきた。
 
特に、急進的な性格を持っている自由党では、支持層から地主が抜けたことで、
一層、急進的な活動が出来る下地が出来上がっていた
 
このような状況に対して、政府は1882年、集会条例を改正した。
 ・政党支部の設置を認めない
 ・集会を解散させられた場合、情状によって1年間、演説した人に政治的演説を禁止。
  (講談師になって、実質上演説を続けた人もいた)
 
これによって、弾圧を強める一方で、アメを配ることも忘れなかった。それは、
1882年11月、板垣退助と後藤象二郎を洋行させたことである。
伊藤博文らが三井に資金を出させて洋行させた。
 
後藤象二郎は板垣と同じく土佐の出身で、明治六年の政変で下野。
以後、板垣と共に愛国公党や自由党の創設に参与していた。
板垣は、82年4月岐阜で遊説中に暴漢に襲われる事件も起きていた。
 
板垣らが、政府からの提案で洋行することが分かると、
立憲愛国党は自由党を攻撃した。
一方で、自由党も、大隈重信と三菱の関係を糾弾した。
 
このようにして、両党の対立が激しくなると、民権運動の統一的な指導部が機能しなくなった。
 
このような背景で、自由党左派が一揆的な事件を起こすようになった(激化事件
・福島事件(82) 福島県令三島通庸が道路開削のため15歳から60歳の県民全員に
          2年間の内1ヶ月の賦役を命じた所、会津喜多方の農民が放棄した。
          三島はこれを口実に自由党員を逮捕した。
 
・高田事件(83) 自由党員が政府高官を暗殺しようとしたとして逮捕
・群馬事件(84) 自由党員が妙義山麓で蜂起
・加波山事件(84) 自由党員が栃木県令三島通庸を暗殺しようとして発覚。蜂起。
・秩父事件(84年11〜12) 農家の8割が養蚕農家だった秩父で、農民が債務の軽減などを
            主張して、困民党(借金党)を結成して1万人の農民で蜂起。
            外の事件とは異なり、上手く鎮圧が出来なかったため、東京鎮台より
            軍を派遣して鎮圧。
 
・これらの事件によって、民衆蜂起を起こしても失敗することを民衆が学んだ。
また、
・84年10月に、自由党が解散(資金難、運動をコントロールする自身がなくなる)、
・立憲改進党も大隈重信が離党したために、事実上の解散状態。
などが重なって、自由民権運動は一度収まった。
 
このような衰退期には不思議な事件も起こる。
1885年の大阪事件がそうである。
自由党左派の大井憲太郎らが計画して未然に発覚したものだが、
 
朝鮮で政変を起こして、それを日本に及ぼすというものであった。
朝鮮は76年に開国して以来、日本の勢力を背景とした開化派が改革を行っていた。
しかし、開化派に不満を持つグループが、宗主国である清の勢力を背景として、
82年に壬午軍乱を起こした。これに対して、金玉均らが福澤の支援もあって、
84年に甲申政変を起こした。だが、これは3日天下に終わり、朝鮮では
かえって清の勢力が強まる状況になっていた。
 
そのような背景の中で起きた事件であった。
 
2.三大事件建白運動
一旦衰えた自由民権運動だが、
国会の開設が近づくにつれ、再び民権派を結集する動きが出てきた。
 
86年、旧自由党の星亨、後藤象二郎らが「大同団結」を唱え、
翌年大阪で有志懇談会を行った。
その後、東京の京橋を拠点に民権運動が行われた。
 
ちょうど、このころ政府の条約改正交渉が行われ、一段落しようとしていた。
しかし、領事裁判権を撤回するかわりに、外国人裁判官の登用を認めるという内容で、
反対が高まり、条約改正が失敗に終わるという状況になった。
 
これを受けて、民権派は三大事件建白運動を起こし、
87年10月に建白書を元老院に提出する事態になった。
その内容は
 ・地租軽減
 ・言論修会の自由
 ・外交失策の挽回であった。
 
このような動きに対して、政府は87年12月に保安条例を公布して弾圧した。すなわち
 ・秘密結社、集会の禁止。
 ・皇居、行在所から12q以内に居住、寄宿する人について、民権派を3年以内で追放。
これにより多くの人が追放された。
 
だが、国会開設が近づくとさらに運動が盛んになった。そこで政府は運動の分断を考えた。
88年 伊藤内閣に大隈が外務大臣で入閣。
89年 黒田内閣に黒田が逓信大臣で入閣。
 
大隈や黒田からすれば、自己の意見を国会内で実現することが必要と考えてのことであった。
これに対して、黒田の行動に反対する人びとは、大同協和会を結成し、
90年に立憲自由党を結党した。黒田に賛成するグループは大同倶楽部を結成した。
 
以後、自由民権運動は、国会内での議会活動に様相を転じることになる。

Posted by hajimet at 21:03 | Comments (0)