自由民権運動の再編 1.激化事件 松方財政により、農村の生活は困窮に陥った。 これにより地主や多くの農民は自由民権運動から手を引いた。 一方で、同じ理由から急進的な運動に走る人たちも出てきた。 特に、急進的な性格を持っている自由党では、支持層から地主が抜けたことで、 一層、急進的な活動が出来る下地が出来上がっていた。 このような状況に対して、政府は1882年、集会条例を改正した。 ・政党支部の設置を認めない ・集会を解散させられた場合、情状によって1年間、演説した人に政治的演説を禁止。 (講談師になって、実質上演説を続けた人もいた) これによって、弾圧を強める一方で、アメを配ることも忘れなかった。それは、 1882年11月、板垣退助と後藤象二郎を洋行させたことである。 伊藤博文らが三井に資金を出させて洋行させた。 後藤象二郎は板垣と同じく土佐の出身で、明治六年の政変で下野。 以後、板垣と共に愛国公党や自由党の創設に参与していた。 板垣は、82年4月岐阜で遊説中に暴漢に襲われる事件も起きていた。 板垣らが、政府からの提案で洋行することが分かると、 立憲愛国党は自由党を攻撃した。 一方で、自由党も、大隈重信と三菱の関係を糾弾した。 このようにして、両党の対立が激しくなると、民権運動の統一的な指導部が機能しなくなった。 このような背景で、自由党左派が一揆的な事件を起こすようになった(激化事件) ・福島事件(82) 福島県令三島通庸が道路開削のため15歳から60歳の県民全員に 2年間の内1ヶ月の賦役を命じた所、会津喜多方の農民が放棄した。 三島はこれを口実に自由党員を逮捕した。 ・高田事件(83) 自由党員が政府高官を暗殺しようとしたとして逮捕 ・群馬事件(84) 自由党員が妙義山麓で蜂起 ・加波山事件(84) 自由党員が栃木県令三島通庸を暗殺しようとして発覚。蜂起。 ・秩父事件(84年11〜12) 農家の8割が養蚕農家だった秩父で、農民が債務の軽減などを 主張して、困民党(借金党)を結成して1万人の農民で蜂起。 外の事件とは異なり、上手く鎮圧が出来なかったため、東京鎮台より 軍を派遣して鎮圧。 ・これらの事件によって、民衆蜂起を起こしても失敗することを民衆が学んだ。 また、 ・84年10月に、自由党が解散(資金難、運動をコントロールする自身がなくなる)、 ・立憲改進党も大隈重信が離党したために、事実上の解散状態。 などが重なって、自由民権運動は一度収まった。 このような衰退期には不思議な事件も起こる。 1885年の大阪事件がそうである。 自由党左派の大井憲太郎らが計画して未然に発覚したものだが、 朝鮮で政変を起こして、それを日本に及ぼすというものであった。 朝鮮は76年に開国して以来、日本の勢力を背景とした開化派が改革を行っていた。 しかし、開化派に不満を持つグループが、宗主国である清の勢力を背景として、 82年に壬午軍乱を起こした。これに対して、金玉均らが福澤の支援もあって、 84年に甲申政変を起こした。だが、これは3日天下に終わり、朝鮮では かえって清の勢力が強まる状況になっていた。 そのような背景の中で起きた事件であった。 2.三大事件建白運動 一旦衰えた自由民権運動だが、 国会の開設が近づくにつれ、再び民権派を結集する動きが出てきた。 86年、旧自由党の星亨、後藤象二郎らが「大同団結」を唱え、 翌年大阪で有志懇談会を行った。 その後、東京の京橋を拠点に民権運動が行われた。 ちょうど、このころ政府の条約改正交渉が行われ、一段落しようとしていた。 しかし、領事裁判権を撤回するかわりに、外国人裁判官の登用を認めるという内容で、 反対が高まり、条約改正が失敗に終わるという状況になった。 これを受けて、民権派は三大事件建白運動を起こし、 87年10月に建白書を元老院に提出する事態になった。 その内容は ・地租軽減 ・言論修会の自由 ・外交失策の挽回であった。 このような動きに対して、政府は87年12月に保安条例を公布して弾圧した。すなわち ・秘密結社、集会の禁止。 ・皇居、行在所から12q以内に居住、寄宿する人について、民権派を3年以内で追放。 これにより多くの人が追放された。 だが、国会開設が近づくとさらに運動が盛んになった。そこで政府は運動の分断を考えた。 88年 伊藤内閣に大隈が外務大臣で入閣。 89年 黒田内閣に黒田が逓信大臣で入閣。 大隈や黒田からすれば、自己の意見を国会内で実現することが必要と考えてのことであった。 これに対して、黒田の行動に反対する人びとは、大同協和会を結成し、 90年に立憲自由党を結党した。黒田に賛成するグループは大同倶楽部を結成した。 以後、自由民権運動は、国会内での議会活動に様相を転じることになる。
|