4.贖罪 イエスの死は贖罪と行ったが、なぜ人びとはイエスの死を贖罪と考えたのだろうか。 旧約段階では、人の罪を2つに分けていた(キリスト教も) ア.原罪=アダムの罪 人の始祖はアダムである。アダムは神の似姿として土から作られた。アダムはエデンで 自由に暮らすことを認められていたが、禁断の実(リンゴとされる)を食べたために、エデンを 追放される。そのときに、「一生苦しむ」ということ「死ななければならない」罰をあたえられた。 これが原罪である。総ての人は生まれながらに原罪を背負って生まれる。だが、これを 無くすことは出来ない。人間の存在意義でもあるから、これがなくなったら人間は存在しない。 イ.個々の罪 これを償うことは出来る。生け贄を神に捧げるのだ。神に捧げるときに流れる血を見て、 自分の罪の深さを考える。これによって悔い改めて神との関係を修復するとする。 一方新約ではイエスの死が贖罪であると考える。 すなわち、イエスの死によって全人類の罪があがなわれた。 イエスはそのために神によって使わされた一人子である。一人子が犠牲になったのである。 神に背いた人間に神から和解の手がさしのべられたと考える。 イエスの「十字架の死」は神の愛と考えられたのである。 5.パウロの伝道(?〜52?) このような信仰の確立には、パウロの伝道が大きい。 パウロは厳格な律法主義者で、熱狂的なキリスト教迫害者であった。 「木に架けられる者は、すべて呪われる」と律法にあるからだ。 イエスがまさしくそれに当たる。 しかし、迫害をしても、自分は救われないことに悩んだ。律法を守り救済されるために 迫害をしているからだ。 そんなとき、パウロは雷に打たれ動けなくなった。そして 「サウロよ、サウロよ、なぜ私を苦しめるのか」という声が聞こえてきた。 パウロはイエスの声=啓示と感じた。イエスの死後2年目のことである。 これによりパウロは回心し、洗礼を受けた。 「私は自分の欲する善(救済)は行わず、望まない悪(迫害)を行っている」 「律法によっては罪の自覚しか生じない」 つまり、「律法では人は義とされず、救済できない」=罪の自覚のみ。 (だからユダヤ教の下では、神は罰する神、恐れる神と考えることになるのか (授業をしながら生じた疑問))。 だから、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」(信仰義認) 「キリストに会うバプテズマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである」 だから総ての人は平等である。なぜなら「キリスト=イエスにあって1つだからである」 パウロはこのように考えた。そして、 「死と復活による神の愛を信じ、神の恵みを受け入れる」としてキリスト教の三元徳を打ち立てた。 それは「信仰、希望、愛」であった。 このような考えを元に、パウロは伝道を行い、広く信仰活動に影響を与えていった。 この三元徳と、ローマにも引き継がれたギリシアの四元徳の関係をどう考えるかは 5世紀前後の教父哲学の登場まで待たなければならない(次回)。
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