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2014年10月17日
倫理 20141017 キリスト教(4)

4.贖罪
イエスの死は贖罪と行ったが、なぜ人びとはイエスの死を贖罪と考えたのだろうか。
旧約段階では、人の罪を2つに分けていた(キリスト教も)
 
ア.原罪=アダムの罪
 人の始祖はアダムである。アダムは神の似姿として土から作られた。アダムはエデンで
自由に暮らすことを認められていたが、禁断の実(リンゴとされる)を食べたために、エデンを
追放される。そのときに、「一生苦しむ」ということ「死ななければならない」罰をあたえられた。
 
これが原罪である。総ての人は生まれながらに原罪を背負って生まれる。だが、これを
無くすことは出来ない。人間の存在意義でもあるから、これがなくなったら人間は存在しない。
 
イ.個々の罪
これを償うことは出来る。生け贄を神に捧げるのだ。神に捧げるときに流れる血を見て、
自分の罪の深さを考える。これによって悔い改めて神との関係を修復するとする。
 
一方新約ではイエスの死が贖罪であると考える。
すなわち、イエスの死によって全人類の罪があがなわれた。
イエスはそのために神によって使わされた一人子である。一人子が犠牲になったのである。
神に背いた人間に神から和解の手がさしのべられたと考える。
 
イエスの「十字架の死」は神の愛と考えられたのである。
 
5.パウロの伝道(?〜52?)
このような信仰の確立には、パウロの伝道が大きい。
パウロは厳格な律法主義者で、熱狂的なキリスト教迫害者であった。
「木に架けられる者は、すべて呪われる」と律法にあるからだ。
イエスがまさしくそれに当たる。
 
しかし、迫害をしても、自分は救われないことに悩んだ。律法を守り救済されるために
迫害をしているからだ。
 
そんなとき、パウロは雷に打たれ動けなくなった。そして
「サウロよ、サウロよ、なぜ私を苦しめるのか」という声が聞こえてきた。
パウロはイエスの声=啓示と感じた。イエスの死後2年目のことである。
 
これによりパウロは回心し、洗礼を受けた。
私は自分の欲する善(救済)は行わず、望まない悪(迫害)を行っている
「律法によっては罪の自覚しか生じない」
 
つまり、「律法では人は義とされず、救済できない」=罪の自覚のみ。
(だからユダヤ教の下では、神は罰する神、恐れる神と考えることになるのか
(授業をしながら生じた疑問))。
だから、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」(信仰義認
 
「キリストに会うバプテズマを受けたあなた方は、皆キリストを着たのである」
だから総ての人は平等である。なぜなら「キリスト=イエスにあって1つだからである」
 
パウロはこのように考えた。そして、
「死と復活による神の愛を信じ、神の恵みを受け入れる」としてキリスト教の三元徳を打ち立てた。
それは「信仰、希望、愛」であった。
 
このような考えを元に、パウロは伝道を行い、広く信仰活動に影響を与えていった。
 
この三元徳と、ローマにも引き継がれたギリシアの四元徳の関係をどう考えるかは
5世紀前後の教父哲学の登場まで待たなければならない(次回)。

Posted by hajimet at 21:53 | Comments (0)

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